14.終わりの日②
――声が、出なかった。
ミナトの膝が、がくがくと震えていた。
止めようとしても、止まらなかった。
あの日、黒獣を斬ったときは、何も怖くなかった。
身体が勝手に動いて、気づいたら終わっていた。恐怖を感じる暇もなかった。
今は、違った。
怖かった。
どうしようもなく、怖かった。
喉の奥から、酸っぱいものがせり上がってくる。全身の血が、足元へ抜け落ちていくように冷たい。
内ももを、生温かいものが伝い落ちた。
それが何なのか、ミナトには、もう分からなかった。
「――ミラ……」
背後で、サリヤが、呟いた。
「ミラ……リオ……。おかあさん……おとうさん……」
サリヤは、寝間着の前をかき合わせたまま、村の奥を――村長の家のほうを、見ていた。
村長の家は、黒獣のいる広場の、すぐ向こうにあった。
その屋根から、炎が上がっていた。
「――カイ」
アーシャが、口元の汚れを拭いもせずに、柱から手を離した。
カイルの両親の家も、村の奥にあった。
「……あたしの、子……」
フィオが、へたり込んだまま、震える声で言った。
「あたしの、子が……っ、おかあさんの、ところに……っ」
三人の女が、一斉に、村の奥へ向かって、駆け出した。
「――待て!!」
ミナトは、叫んだ。
「行くな!! 戻れ!! あいつが――!!」
三人は、止まらなかった。
振り返りもしなかった。
前をかき合わせただけの寝間着をはためかせ、裸足のまま、燃える村の奥へ、黒獣のいるほうへ、まっすぐに。
――母親だった。
三人とも、ただ、子どもの名前だけを呼びながら、走っていた。
ミナトは、追いかけた。
追いかけようとした。
だが、脚が、言うことを聞かなかった。
震える膝が、一歩踏み出すたびに、がくりと折れそうになる。
(なんでだ)
(あの日は、勝手に動いたのに)
(なんで、今は、動かないんだ――!)
***
最初に追いつかれたのは、フィオだった。
燃える家と家の間の、細い路地に差しかかったとき――屋根の上から、一本の触手が、蛇のように垂れ下がってきた。
「フィオ――っ!!」
ミナトの叫びは、届かなかった。
触手の先端が、花が開くように裂けた。
その内側に、ぎっしりと、鋸の歯のような棘が並んでいた。
それが、フィオの身体を、頭から、腰まで、一息に咥え込んだ。
――そして、閉じた。
ぶつり、と。
太い縄を、鉈で断ち切るような音がした。
触手が、持ち上がる。
路地には、フィオの、腰から下だけが、残っていた。
寝間着の裾から伸びた、細い二本の脚。その付け根の、真っ平らに断たれた断面から、血が、噴水のように噴き上がっていた。脚は、まだ、走ろうとするかのように、二歩、三歩とよろめいて――それから、ぱたりと、横に倒れた。
触手の口から、赤い髪の束が、はみ出していた。
それが、ゆっくりと、内側へ、呑み込まれていった。
***
「あ……あ、あ……」
アーシャが、立ち止まった。
振り返って、フィオだったものを見た。
その顔から、表情というものが、すべて、抜け落ちていた。
あの日、カイルの亡骸の筵をめくったときと、同じ顔だった。
「アーシャ!! こっちへ来い!!」
ミナトは、叫んだ。
震える脚を引きずって、アーシャのほうへ、手を伸ばした。
アーシャが、ミナトを見た。
翠色の瞳が、炎を映して、揺れていた。
「……ミナト、さま……」
アーシャの唇が、動いた。
何かを、言おうとした。
その腰に、横から、太い触手が、叩きつけられた。
大人の胴ほどもある、肉の管だった。
それが、鞭のようにしなって、真横から、アーシャの細い身体を、薙いだ。
アーシャの身体が――ふたつに、なった。
腰から上が、宙を舞った。
金茶色の長い髪が、炎の中で、扇のように広がった。
腰から下は、その場に、膝から崩れ落ちた。
握りしめていた白い花の束が、ぱっと散って、血の泥濘に落ちた。
宙を舞ったアーシャの上半身が、燃える家の壁に、べしゃりと叩きつけられて、ずるずると滑り落ちていく。
裂けた腹から、赤黒いものが、とめどなく零れ落ちていった。
壁の根元に、くたりと座り込んだアーシャの上半身は、まだ、目を開けていた。
右の頬に、あの小さなえくぼの影が、浮かんでいた。
唇が、最後に、かすかに動いて――「カイ」と、言ったように見えた。
***
「あ……あああ……」
ミナトの喉から、声とも呼べない音が漏れた。
「ああああああああああああっ……!!」
ミナトは、走った。
膝が折れても、転んでも、這うようにして、走った。
「サリヤ――!! サリヤぁぁっ――!!」
サリヤは、広場の手前にいた。
村長の家の、燃える屋根が、すぐそこに見えた。
「ミラ――!! リオ――!! おかあさん――っ!!」
サリヤは、燃える家に向かって、泣き叫んでいた。
肩で切りそろえた栗色の髪が、炎の風に煽られていた。
いつも、ひまわりのように笑っていた顔が、涙と煤でぐしゃぐしゃに歪んでいた。
サリヤが、燃える戸口へ、飛び込もうとした。
その瞬間――足元の地面を割って、触手が、噴き上がった。
「――きゃあああっ!!」
サリヤの身体が、宙に吊り上げられた。
ぬめる赤黒い肉の管が、足首から腰へ、腰から胸へと、螺旋を描くように巻き付いていく。表面の無数の棘が、寝間着を引き裂き、白い肌に食い込んで、細い血の筋を幾本も走らせた。
「ミナトさま……っ!! ミナトさまぁっ……!!」
サリヤが、宙で、ミナトを見た。
手を、伸ばした。
ミナトも、手を伸ばした。
届かない。
サリヤは、もう、ミナトの背丈の倍以上の高さに吊り上げられていた。
(――助けろ)
ミナトは、心の中で、叫んでいた。
(助けろ、助けろ、助けろ――!! あのときみたいに、来い――!!)
――右手に、ずしり、と重いものが、あった。
革巻きの柄。
冷たく、硬く、手のひらに吸い付くように馴染む。
見下ろすまでもなかった。
家の寝室の隅に置いてきたはずの、あの大剣が、ミナトの手の中にあった。
だが――。
刀身は、光っていなかった。
あの日のような青い輝きも、薬師の家で見たような、燃えるような光も、なかった。
ただの、鉄の塊だった。
ずしりと重く、冷たく、何も語らない、ただの鉄の塊だった。
(なんで――)
それでも、ミナトは、剣を振り上げた。
両手で柄を握りしめ、震える腕で、頭上高く。
涙が、止まらなかった。視界が、滲んで、揺れていた。
「サリヤを――離せぇぇぇっ――!!」
身体は、勝手に動かなかった。
あの日のように、筋肉に刻まれた何かに突き動かされることも、なかった。
ただ、元の世界で、剣など握ったことのない、ひとりの男として――ミナトは、泣きながら、震えながら、大剣を、触手に向かって振り下ろした。
刃が、触手に食い込んだ。
浅かった。
ぬめる肉の表面に、ほんのわずかな切れ目が入っただけで、刃は、まるで分厚い革に弾かれるように、跳ね返された。
手が、痺れた。
大剣が、ミナトの手から、すっぽ抜けそうになった。
触手が、ゆっくりと、持ち上がっていく。
サリヤを巻き付けたまま、黒獣の頭のほうへ。
無数の紅い目の、すぐ前へ。
「ミナトさま……っ」
サリヤが、ミナトを見下ろした。
――目が、合った。
炎の照り返しの中で、サリヤの栗色の瞳が、まっすぐに、ミナトを見ていた。
涙で濡れていた。
怯えていた。
それでも、その目は、ミナトを見ていた。
出会った日の、あの目だった。
炭で木の板に文字を書いて、「これは、パン。言ってみてください、ミナト様」と笑っていた、あの目だった。
「"すき"、です」と、震える手でミナトの手を自分の胸に導いた、あの夜の目だった。
サリヤの唇が、動いた。
「――ミナト、さま。……すき――」
ぐしゃり、と。
サリヤの顔が、潰れた。
頭に巻き付いた細い触手が、一息に、締まったのだ。
栗色の髪ごと。
ミナトを見ていた、あの目ごと。
ひまわりのように笑っていた、あの顔ごと。
熟れた果実を握り潰したように、赤いものが、触手の隙間から、四方に弾け飛んだ。
温かいものが、雨のように、ミナトの顔に、降りかかった。
サリヤの身体が、びくん、と一度だけ、大きく痙攣した。
伸ばされていた白い手が、宙で、ゆっくりと、力を失って、垂れ下がった。
***
――音が、消えた。
炎の轟きも。悲鳴も。黒獣の咆哮も。
何もかもが、遠くなった。
ミナトは、大剣を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
顔を、生温かいものが、伝い落ちていく。
それが、涙なのか、サリヤの血なのか、分からなかった。
黒獣の触手が、サリヤだったものを、ゆっくりと持ち上げて――黒獣の、裂けた口の中へ、運んでいった。
巨大な顎が、閉じた。
ばきり、ばきり、と、骨の砕ける音が、谷に響いた。
そして、黒獣の、無数の紅い目が――。
一斉に、ミナトを見下ろした。
ミナトは、見上げた。
炎に照らされた、漆黒の巨体を。
額から鼻面にかけて走る、白く盛り上がった、古い傷痕を。
あの日、自分が刻んだ、その傷を。
黒獣の口の端が、ゆっくりと、吊り上がった。
――笑った、ように見えた。
ミナトの手の中で、大剣は、冷たく、黙ったままだった。




