13.終わりの日①
夏の終わりの夜だった。
寝台脇の獣脂ランプが、橙色の灯りをゆらゆらと揺らしている。
その灯りの中で、ミナトはサリヤとフィオに挟まれて、獣皮の上に寝そべっていた。
「ふふ……ミナト様、今夜はなんだか、ご機嫌ですね」
ミナトの胸に頬を乗せて、サリヤが笑った。
肩の上で切りそろえた栗色の髪が、汗でしっとりと首筋に張り付いている。ランプの灯りに照らされた白い肌は、薄く桜色に染まっていた。
「あたしの番、まだー? サリヤさんばっかり、ずるいよ」
ミナトの左の脇から、赤い髪がひょこりと覗いた。
フィオだった。
肩の下で切りそろえた赤毛が、汗でくるくると頬に跳ねている。鼻の頭から頬にかけて、星屑のように散ったそばかす。くりくりとよく動く栗色の目。
この初夏に女の子を産んでから、フィオは前よりも少しだけ、柔らかく大人びた顔をするようになった。
「ふふ、ごめんね、フィオちゃん。次は、ちゃんと譲るから」
「ほんとだよ? 約束だからねっ」
フィオがミナトの腕に頬ずりをし、サリヤがくすくすと笑う。
汗と、乳と、甘い香りの混じった匂い。二つの温もり。
――悪くない夜だった。
サリヤは、この世界で最初に抱いた女だ。フィオは、温み淵のあの日、ミナトに初めてを捧げた三人のうちの一人。
二人とも、ミナトの子を産み、ミナトの名を呼んで、ミナトを欲しがっている。
アーシャは――今夜も、来なかった。
ふと、そのことが頭をかすめた。ミナトはそれを振り払うように、サリヤの肩を抱き寄せた。
サリヤが目を閉じ、ミナトの唇に、自分の唇を寄せる。
――そのときだった。
「――きゃあああああああああっ!!」
悲鳴が、聞こえた。
***
遠い。
村の、ずっと奥のほうから。
女の声だった。引き裂かれるような、喉が千切れるような、長い悲鳴だった。
寝台の上で、二人の女が、一斉に動きを止めた。
「……え?」
サリヤが身を起こし、窓のほうを振り返った。
フィオが、ミナトの腕にしがみついたまま固まる。
「……い、今の、なに……?」
「誰か……転んだ、とか……?」
だが、その声の終わらないうちに、また、別の悲鳴が上がった。
男の声だった。
それから、何かが、めきめきと裂けるような、重たい音。
「ミ、ミナト様……っ、外、なにか……っ」
サリヤが、寝台から降りようとした。
ミナトは、その手首を掴んで引き止めた。
「……放っておけ」
「で、でも……っ」
「どうせ、酔っ払いが喧嘩でもしてるんだろう」
ミナトはサリヤの手首を掴んだまま、面倒くさそうに寝返りを打った。
サリヤは、寝台の縁に腰掛けたまま、不安げに窓の外を見つめていた。
フィオも、毛布を胸元に引き寄せて、身を固くしている。
――悲鳴は、止まなかった。
ひとつ、またひとつと、増えていく。
近づいてくる。
女の声。男の声。子どもの泣き声。
何かが、壊れる音。木が裂ける音。石が崩れる音。
犬が、狂ったように吠え立てている。それが、ぎゃん、と短く鳴いて、ぷつりと途切れた。
そして――。
ずしん。
寝台が、揺れた。
ランプの炎が、大きく傾いた。棚の上の陶器の碗が、かたかたと音を立てて震える。
地の底から突き上げてくるような、重たい振動だった。
ずしん。
ずしん。
――足音だった。
とてつもなく巨大な何かが、大地を踏みしめて歩く音だった。
「ミナト様っ……!」
サリヤが、悲鳴のような声を上げた。
ミナトは、ようやく身を起こした。
その瞬間。
ごおおおおおおおおおおおおっ――!!
谷じゅうの空気を震わせるような、凄まじい咆哮が、轟き渡った。
***
ミナトの全身の毛が、逆立った。
知っている。
この声を、知っている。
この世界で目を覚ました、あの日。
(――まさか)
ミナトは、寝台から跳ね起きた。
床に脱ぎ捨ててあった上着を掴んで、羽織る。
下穿きを穿く間すら、惜しかった。
二人の女たちも、慌てて床の寝間着を拾い上げ、肩から羽織った。
帯を締める余裕もなく、前をかき合わせただけの姿で、三人は戸口へ駆けた。
ミナトが、戸を開けた。
***
――赤かった。
最初に目に飛び込んできたのは、それだった。
谷が、燃えていた。
村のあちこちで、家々の屋根から炎が噴き上がり、夜空を赤く焦がしている。崩れた竈から火が回ったのか、倒れたランプから燃え移ったのか。炎は、乾いた夏の終わりの茅葺きを舐めるように駆け上がり、次々と隣の家へと燃え移っていく。
その炎に照らし出された村の中を――人が、逃げ惑っていた。
寝間着姿の女たち。子どもを抱えた母親。腰の曲がった年寄り。
悲鳴を上げ、泣き叫び、転び、這いずりながら、谷の下手のほうへと、必死に逃げていく。
「――勇者様っ……! 勇者様ぁっ……!」
坂の下から、息を切らした小さな影が、駆け上がってきた。
アーシャだった。
ほどけかけた二つ結いの髪を振り乱し、裸足の足を泥だらけにして、手に摘みかけの白い花の束を握りしめている。
「勇者様っ、村が……村が……っ!」
アーシャは、ミナトの顔を見るなり、膝から崩れ落ちそうになって、戸口の柱にしがみついた。
そして、その背後。
村の奥、広場のあたりに。
――それは、いた。
山だった。
黒い、山だった。
燃える家々の屋根よりも、遥かに高い。村でいちばん大きな集会所が、その足元で、まるで子どもの積み木のように小さく見えた。
炎の照り返しを浴びて、ぬらぬらと濡れ光る、漆黒の毛皮。
その巨体の、頭と思しきあたりに――無数の、紅い目が、ぎらぎらと輝いていた。
黒獣だった。
「……う、そ……」
背後で、サリヤが、掠れた声を漏らした。
「なん、で……っ、だって……っ、勇者様が、斬った、のに……っ」
アーシャが、柱にしがみついたまま、声も出せずに、その巨体を見上げていた。
フィオは、両手で口を覆っていた。
ミナトは、動けなかった。
(……別の、個体か?)
最初に、そう思った。
黒獣が一匹だけだと、誰が言った。三百年も山の奥に棲んでいたのなら、番いがいても、子がいても、おかしくはない。
だが――。
炎が、ひときわ高く燃え上がり、黒獣の頭を、真正面から照らし出した。
その額から、鼻面にかけて。
まっすぐに、一本の線が走っていた。
毛皮の上に、白く、太く、盛り上がった、古い傷痕。
まるで、一度真っ二つに断ち割られたものを、無理やり縫い合わせたような。
――ミナトが、あの日、大剣で断ち割った場所だった。
(同じ……やつだ)
ミナトの喉が、からからに渇いた。
(蘇った……のか……?)
あのとき、黒獣は再生することなく、黒い灰となって崩れ去ったと、村人たちは言った。
三百年の悪夢は、終わったのだと。
終わって、いなかった。
しかも――大きい。
あの日、ミナトが見上げた黒獣よりも、明らかに、一回り以上も大きかった。
そして、あの日には、なかったものがあった。
黒獣の背中から、脇腹から、首の付け根から。
漆黒の毛皮を突き破るように、何十本もの――触手のようなものが、生えていた。
太いもので、大人の胴回りほど。細いもので、腕ほど。
ぬめぬめと濡れ光る、赤黒い肉の管。その表面には、無数の小さな棘のような突起がびっしりと生え、先端は、花が開くように、いくつにも裂けていた。
それが、まるでそれぞれが別の生き物であるかのように、うねり、のたうち、四方八方へと伸びていく。
――家の中へ。
ミナトの目の前で、一本の触手が、燃えていない家の窓へ、ずるりと潜り込んだ。
次の瞬間。
「いやあああああっ!! やだ、やだやだやだぁっ!! たすけてっ、だれかぁっ――!!」
窓の中から、女の悲鳴が上がった。
触手が、引き抜かれる。
その先端に、若い女が、巻き取られていた。
腰から胸にかけてを、ぬめる肉の管にぐるぐると締め上げられて、宙に吊り上げられていく。窓枠に必死にしがみついた指が、一本、また一本と剥がれ、最後に、爪が剥がれる音がした。
女は、宙で、手足をばたつかせていた。
――そして、触手が、締まった。
ごきり、と。
薪を膝で折るような、乾いた音が、炎の轟きの中でも、はっきりと聞こえた。
女の身体が、腰のところで、あり得ない角度に折れ曲がった。
悲鳴が、途切れた。
触手は、さらに締め上げた。ぐしゃり、と湿った音がして、女の腹が、巻き付いた肉の管の隙間から、内側から弾けるように裂けた。
赤黒いものが、どろりと溢れ出して、地面に、ぼたぼたと落ちた。
触手は、それを、まるで果実の汁を絞り終えた皮でも捨てるように、無造作に放り投げた。
原形を留めない肉の塊が、ミナトたちの足元から数歩先の地面に、べちゃり、と落ちた。
寝間着の切れ端が、こびりついていた。
そこから覗く腕に、見覚えのある刺繍の腕輪が、巻かれていた。
――ひと月ほど前の昼、洗い場から柳の木立の奥へ連れていった、あの娘だった。
「ひ……っ、ひぃ、い、いやあああああっ……!!」
フィオが、悲鳴を上げて、その場にへたり込んだ。
アーシャが、口を両手で押さえて、身体を二つに折り、その場で嘔吐した。
***
ミナトは、ようやく、周りを見た。
見てしまった。
ミナトの家の前の坂道。いつも朝、村長の家へ朝飯を食いに下りていく、あの坂道。
そこに――人が、落ちていた。
いや。人だったものが。
坂の途中に、腰から下だけが転がっていた。
上半身は、どこにもなかった。断ち切られた腰の断面から、千切れた腸が、ずるずると長く地面に伸びて、まだ、ひくひくと痙攣していた。履き古した革の靴に、見覚えがあった。毎朝、坂の上で「勇者様、今日もお早いですな」と腰を折ってくれた、山羊飼いの老人だった。
坂の脇の柵には――。
ミナトは、目を逸らそうとした。
逸らせなかった。
坂の脇の、山羊を囲う木の柵。先を尖らせた杭を、何本も並べた柵。
その杭の先に、人が、刺さっていた。
三人。四人。まるで、百舌の早贄のように。
腹を、胸を、喉を、尖った杭に貫かれ、手足をだらりと垂らして。杭を伝って流れ落ちた血が、柵の根元に、黒い水溜まりを作っていた。
その中の一人の、黒い髪が、炎の風に揺れていた。
高い位置で、一本に結った黒髪。
陽に焼けた、小麦色の、しなやかな腕。
「……カ……ヤ……」
フィオの喉から、ひゅう、と細い息が漏れた。
カヤだった。
温み淵で、ミナトの首筋に痕を刻んだ娘。
泣いてミナトの子を欲しがった娘。この夏、ようやく授かった子を産んだばかりの、狩人の娘。
その胸の真ん中を、太い杭が、背中まで貫いていた。
見開かれたままの目が、炎に照らされて、こちらを見ていた。
「いや……いや、いや、いやいやいやいやぁっ……!! カヤっ、カヤぁっ……!!」
フィオが、這うように柵へ駆け寄ろうとした。
ミナトは、その腕を掴んで、引き戻した。
「――行くな!」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
ネルは、どこだ。
この春に子を産んだばかりのネルは。
リンネは。リンネの、あの一歳の息子は。
ガルドは。ベン爺さんは。マルタは。村長は。
――リオは。ミラは。
頭の中で、名前が、ぐるぐると回る。
答えは、どこにもなかった。
炎と、悲鳴と、あの咆哮だけが、谷を埋め尽くしていた。
***
「勇者様ぁっ……!! 勇者様ぁぁっ……!!」
坂の下から、聞き覚えのある声が、駆け上がってきた。
ミレイだった。
寝間着ははだけ、裸足の足は血まみれで、長い髪は振り乱され、顔は涙と煤で真っ黒だった。
その腕に、赤子を抱いていた。
この初夏に産んだ、ミナトの娘を。
「勇者様っ、助けてっ……! ガルドが、ガルドがぁっ……! あいつに、つかまって……っ、わたしと、この子を、逃がして……っ、それで……っ!」
ミレイは、坂を這うように駆け上がりながら、泣き叫んでいた。
ミナトのほうへ、赤子を抱いた腕を、必死に差し伸べて。
「勇者様っ、勇者様なら、あいつを、また……っ、斬って……っ! おねがい、この子だけでもたすけ――」
ミレイの言葉が、途切れた。
ミレイの頭上に、影が差していた。
ミナトは、見上げた。
炎に照らされた夜空を背にして、黒獣の、巨大な前脚が――ゆっくりと、持ち上がっていた。
「ミレイ――っ!!」
ミナトは、叫んだ。
ミレイが、振り返った。
自分の頭上に降りてくる、漆黒の、家ほどもある脚の裏を見上げた。
その顔に、何かを理解するような表情が浮かんで――。
ミレイは、赤子を、胸に抱きしめた。
背中を丸めて。覆いかぶさるように。
――ずしん。
黒獣の前脚が、坂道に、振り下ろされた。
地面が、揺れた。
ミナトの足元まで、土と石の破片が跳ね飛んできた。
ぶしゃっ、と、熟れきった果実を踏み潰したような音がした。
黒獣が、ゆっくりと、脚を持ち上げる。
そこには、何も残っていなかった。
いや、残っていた。
踏み固められた地面の上に、赤黒い、平たい染みが、大きく広がっていた。その染みの中に、白い骨の欠片と、長い髪の束と、寝間着の切れ端が、べったりと、押し花のように貼り付いていた。
赤子の、小さな手の形をしたものが、その染みの端に、ほんの少しだけ、見えた。
黒獣の脚の裏から、赤い肉の糸が、何本も、ねっとりと垂れ下がっていた。
***




