12.俺の女ども②
カイルが崖から落ちてから、季節が三つ巡った。
谷には、元通りの穏やかな日々が戻っていた。
崖から落ちた羊飼いのことも、焼け死んだ薬師の婆さんのことも、村人たちの口に上ることは、もうほとんどない。人は死ぬものだ。死んだ者を悼み、生きている者は暮らしを続ける。
そして、その暮らしの真ん中には、変わらず、勇者様がいた。
ミナトの毎日は、ますます満ち足りていた。
朝、目を覚ますと、寝台にはたいてい前の晩の輪番の女がいる。目を覚ました女を抱き寄せ、朝の光の中で、もう一度その温もりを味わう。
それから村長の家で朝飯を食い、リオとミラを膝に乗せて、少しだけあやす。
二歳を過ぎたリオは、もう「とーさま、きょう、どこいくの」と、三つも四つも言葉を繋げて喋るようになった。ミナトの膝によじ登ってきては、その日見つけた虫や石を、得意げに見せてくる。
ミナトは「そうか」「よかったな」と相槌を打ちながら、目は、たいてい窓の外を見ていた。井戸端に集まる女たちのほうを。
昼は、村の中を歩く。
歩けば、必ず誰かと目が合う。目が合えば、その女は頬を赤らめて俯き、ミナトが顎をしゃくれば、嬉しそうについてくる。
納屋へ。森の小屋へ。温み淵の岩陰へ。柳の木立の奥へ。
見ている者がいようといまいと、ミナトは、目についた女を、目についたときに連れていった。
そして夜は、輪番の女たちを相手に、夜が明けるまで。
日に何人の女と過ごしても、この身体は疲れを知らなかった。
いや――疲れないどころではなかった。
満たせば満たすほど、渇いていく。
朝に一人抱けば、昼には別の女の匂いが欲しくなる。昼に二人抱けば、夕暮れには、もう井戸端の女たちの腰つきを目で追っている。夜に三人、四人と抱いても、明け方には、隣で眠る女の寝顔を眺めながら、まだ見ぬ誰かのことを考えている。
女によって、何もかもが違う。肌の匂いも、髪の手触りも、声も、腕の中での震え方も。
ミナトは、それを一つ残らず知りたかった。この谷の女の、一人残らずを。
村人たちは、それを咎めなかった。
洗い場の一件は、その日のうちに村じゅうに広まった。だが、眉をひそめる者はいなかった。干し場の娘は「勇者様に、みんなの前で選んでいただいた」と、むしろ誇らしげだったし、見ていた女たちは、次は自分が、と頬を染めて噂し合った。
夫たちは、妻が勇者様に呼ばれたことを、酒の席で自慢した。
アーシャだけは、もう、ほとんどミナトの家に来なくなっていた。
ときおり井戸端で姿を見かける。カイを背負い紐で背中にくくりつけ、二つに結った髪を揺らして、桶を運んでいる。ミナトに気づくと、丁寧に頭を下げる。
昔のように、駆け寄ってきて喋り出すことは、もうなかった。
その背中で、黒い癖毛の赤子が、ミナトをじっと見ていた。
(……まあいい。時間は、いくらでもある)
ミナトは見送りながら、薄く笑った。
***
その夜、ミナトの寝室には、サリヤがいた。
夏の夜は、山の中でも蒸し暑い。
鎧戸を開け放った窓から、湿った夜気と、虫の声が流れ込んでくる。暖炉の火は入れず、寝台脇の小さな獣脂ランプだけが、橙色の灯りを揺らしていた。
一歳になったミラが乳離れを始め、夜は祖母のマルタに預けられるようになってから、サリヤはまた、以前のようにミナトのもとへ通ってくるようになっていた。
二人の子を産んだサリヤは、出会った頃の華奢な娘とは、もうまるで違っていた。柔らかく、ふっくらと実った、母親の身体。ランプの灯りに照らされた肌は、夏の夜気にしっとりと汗ばんで、甘い乳の匂いをさせていた。
「ミナト様。今夜は、三人目……お願い、しちゃおうかな……」
寝間着の紐をほどいたサリヤが、照れくさそうに笑って、ミナトの首に腕を回してくる。
ミナトはその身体を抱き寄せ、ランプの灯を、指先で小さく絞った。
***
この初夏、若妻のミレイは子を産んだ。
女の子だった。
夫のガルドとの間に何年も授からず、勇者のもとへ通い続けても授からず、苦しみ抜いて、ようやく産んだ子だった。
身籠もったのは、去年の刈り入れの夜――アーシャの懐妊を知ったミナトが、一言も喋らずにミレイを抱いた、あの夜だった。
少なくとも、ミレイはそう信じていた。
「あの夜、ミナト様に、めちゃくちゃにしていただいて……それで、やっと、授かったんです」
産後のひと月が過ぎて、初めて輪番が回ってきた夜、ミレイは寝室に入るなり、そう言った。
頬を染め、自分から寝間着の紐をほどきながら。
「優しくされても、だめだったの。……あのくらい激しくしてもらわないと、だめな身体なんだわ、わたし。だから……ミナト様。今夜も、あの夜みたいに、して、くださいます……?」
輪番の夜、ミレイは乳飲み子をガルドに預けてくる。
ガルドは毎回、娘を抱いて戸口まで見送り、「勇者様によろしくな」と、大きな手で妻の背中を押すのだという。
朝が来る頃、ミレイの白い肌には、ミナトの指の痕と歯の痕が、いくつも赤く残っていた。
ミレイはそれを、恍惚とした顔で指先でなぞりながら、言った。
「……ふふ。娘が、お腹を空かせて待ってるわ。……こんな痕だらけで帰ったら、ガルドに笑われちゃうかしら」
娘。
ミナトの子だ。ガルドは、その子を、自分の子として目に入れても痛くないほど可愛がっているという。
ミナトは、何も感じなかった。
――便利な女だ。
ただ、そう思った。
***
リンネは、居心地が悪かった。
輪番が回ってくるたびに、寝室の戸を叩く手が、ほんの少しだけ、重くなる。
前は、こんなことはなかった。
リンネは、この村でいちばん最初に勇者様の寝室に押しかけた娘たちの一人だった。
まだ言葉もろくに通じない頃から、勇者様の寝床に潜り込んでは、唇を奪って、困った顔をさせて笑っていた。勇者様はいつも少し照れくさそうで、言葉が通じなくても、リンネの髪を撫でて、目を見て笑ってくれた。
そういう人だった。
去年の夏の初め、リンネは勇者様の男の子を産んだ。
勇者様は、生まれたばかりの赤子を抱いて、「お前によく似て、可愛いな」と、照れくさそうに笑ってくれた。
リンネは、あの日が、人生でいちばん幸せだった。
リンネは、自分の右の手首を、左手でそっと握った。
あの夜、勇者様に握り潰されかけた手首。指の痕は、三日ほどで消えた。
でも、あのときの勇者様の目は、まだ、消えない。
何も映していない、真っ暗な穴のような目。床に倒れて泣いている女を、そこらの石ころでも見るような目。
カイルが崖から落ちた。アーシャのお婆ちゃんが火事で死んだ。
そのどちらでも、勇者様は誰よりも必死に探して、誰よりも手を血だらけにして、助けようとしていた。村のみんなはそう言っている。
でも――カイルの葬儀のとき、棺に土がかけられるのを見つめていた勇者様の横顔を、リンネは、たまたま見てしまった。
悲しそうな顔をしていたのに、ほんの一瞬だけ、口の端が、笑っていた。
見間違いだと思った。
そう思うことにした。
***
その夜の輪番は、リンネとミレイだった。
リンネは、一歳になったばかりの息子を母親に預けて、ミナトの家へ来た。
家を出るとき、寝ぼけた息子が「かーちゃ」と、覚えたての言葉で袖を掴んだ。その小さな手を、リンネはしばらく離せなかった。
「リンネ。来い」
寝台の上から、ミナトが呼んだ。
その横では、ミレイが、首筋に数日前の痕をいくつも残したまま、とろけた顔で寝そべっていた。
「は、はいっ……!」
リンネは、いつものように明るく笑って、寝台へ歩み寄ろうとした。
金色の波打つ髪が、ふわりと揺れる。前と同じように。何も変わっていないように。
――足が、止まった。
寝台まで、あと三歩。
その三歩が、どうしても踏み出せなかった。
右の手首が、ずきりと痛んだ気がした。もう、痕などとっくに消えているのに。
「あらあら、リンネちゃん」
ミレイが、甘ったるい声で笑った。
片肘をついて身を起こし、立ち尽くすリンネを、楽しそうに眺めている。
「どうしたの、そんなところで突っ立って。……勇者様に、失礼よ?」
「ち、ちがうんです……っ。あの、ちょっと、今夜は……お腹の、具合が……」
嘘だった。
声が、震えていた。
ミナトが、寝台の上から、リンネを見た。
整った、美しい顔。村じゅうの女が、うっとりと見惚れる顔。
その目は――あの夜と、同じだった。
何も映していない、真っ暗な穴のような目。
「リンネ。こっちへ来て、俺を見ろ」
リンネの喉が、ひくりと鳴った。
逆らえなかった。
震える脚で寝台の縁まで歩み寄り、膝をついて、ミナトの顔を見上げる。
「俺のことが、好きか」
――怖い。
この人が、怖い。
「……す、すき、です……っ。ゆうしゃさま、だいすき、です……っ」
声が、勝手に、そう答えていた。
背後で、ミレイがくすくすと笑った。
ミナトは、しばらく、リンネの目を覗き込んでいた。
それから、ふ、と口の端だけで笑った。
「そうか」
それだけ言って、ミナトはリンネから目を逸らした。
「……なら、今夜はいい。そこで寝てろ」
ミナトはミレイの腰を引き寄せ、そちらに覆いかぶさっていった。
ミレイの甘い笑い声が、すぐに、別の声に変わり始める。
リンネは、寝台の端の獣皮の上で、毛布を頭までかぶって、身体を小さく丸めた。
耳を塞いでも、何も変わらなかった。
胸の奥が、冷たかった。
前は、勇者様のそばにいるだけで、胸の奥がふわっと温かくなった。この人が好きだ、と思えた。
今は、ただ、冷たい。
(……もう、この人の子どもは、産みたくない)
思ってしまってから、リンネは、ぞっとした。
家で待っている、勇者様によく似た小さな息子の顔が、瞼の裏に浮かんだ。
あの子のことは、大好きだ。命よりも大事だ。
なのに――。
リンネは、その考えを、必死に胸の奥に押し込めた。
毛布の中で、自分の右の手首を、ぎゅっと握りしめながら。
***
夜明け前。
リンネは、そっと寝台を抜け出した。
ミナトとミレイの寝息を確かめ、肩掛けを手早く羽織って、音を立てないように寝室の戸を開ける。
戸口で、一度だけ、振り返った。
寝台の上で、ミナトが眠っている。
満ち足りた顔で、安らかに眠っている。
その寝顔は、子どものように無邪気だった。
そして、部屋の隅の暗がりで――。
リンネは、息を呑んだ。
壁に立てかけられた、あの大きな剣。
その刀身が、ほんのかすかに、青く光っていた。
勇者様の寝息に合わせるように、ゆっくりと、静かに、明滅していた。
それが何なのか、リンネには分からなかった。
ただ、ひどく、怖かった。
理由も分からないまま、背中じゅうに鳥肌が立った。
リンネは音を立てずに戸を閉め、夜明け前の冷たい空気の中へ、逃げるように駆け出した。
家で眠っている、息子のもとへ。
***
朝。
ミナトは大きく伸びをして、窓の鎧戸を押し開けた。
夏の朝の光が、谷いっぱいに降り注いでいる。
段々畑の青い麦。草地の山羊の群れ。家々の屋根から立ちのぼる、朝餉の煙。
洗い場では、もう女たちが集まり始めていた。その中の何人かが、窓辺のミナトに気づいて、頬を赤らめて手を振った。
ミナトは、軽く手を挙げて応えた。
――全部、俺のものだ。
この谷の、すべてが。
畑も、家も、山羊も、女も、子どもも。
俺がいなければ、とうに黒獣に喰われていたものだ。俺が救い、俺が与え、俺が満たしてやった。だから、全部、俺のものだ。
一晩じゅう女と過ごして、もう何人と夜を明かしたのか、覚えてもいない。
それなのに、窓辺に立つミナトの身体の奥では、もう、新しい渇きが疼き始めていた。
ミナトは窓辺に頬杖をついたまま、洗い場の女たちを眺めた。
あの若妻は、胸の形がいい。あっちの娘は、この春に成人の儀を済ませたばかりで、まだ輪番には入っていないが――勇者様が望むなら……。
今日は、誰にしようか。
朝の光の中で、ミナトは、ゆっくりと舌なめずりをした。




