5.『私を泣かせてください』
太陽が沈み、それでもまだ陽の名残が紅く西の空を染めています。
ふう……
ようやく人心地つきました。
この別邸には今、私しかいません。
もういい?
もう、歌ってもいいかしら?
前世の知識、つまり美歌の記憶を受け取った今ならば、ずっと頭の中にあったこの曲を正しく歌い上げることが出来ると思うのです。
いつも鼻歌でしか歌えなかった、このお気に入りの一曲を……
すぅぅぅ。
胸いっぱいに息を吸い込み、それから細く長く吐き出していきます。
この深呼吸で、私はいつも気持ちを切り替えるのです。
目の前に広がるのは、空を映す美しい湖と山を背にした深い森。
私はバルコニーの手すりを軽くにぎり、遠くにそびえる高い山の端を見つめながら歌い始めました。
Lascia ch'io pianga
mia cruda sorte――
幼い頃から何度も何度も、頭の中で繰り返されてきたこのメロディ。
美歌の記憶を受け継ぎ、初めて知った歌詞の意味とその背景に、私は今、どうしようもなく感動しています。
不思議です。
悲しい運命を嘆く歌なのに、どうしてこんなにも清々しく、美しいのでしょう。
涙が、とめどなくあふれてきます。
Il duolo infranga
queste ritorte――
テンポはラルゴ。
ただ、ゆるやかに時が過ぎていきます。
日が落ちて、夜に染まり始める空の色。
薄紫から藍色のグラデーションになって……目の前の景色が、どうしようもなく美しいのです。
歌いながら、私は思わず空に向かって両手を広げました。
女神アウローラ像もこうして、祈りの歌をお歌いになっていらっしゃいました。
私などが真似をして、不敬かもしれません。
けれど。
願わくはどうか、このロンバルディ侯爵領に住まう全ての人々に幸多からんことを……
願わくはどうか、このロンバルディ侯爵家がますます発展しますように……
そして許されるならば私にも……
どうか、愛し愛される喜びを教えてください。
しばらくバルコニーに佇んで、ただ目の前の景色をじっと見つめていました。
そこにあるのは、静寂だけ。
そういえば、今日は私の十七歳の誕生日でした。
この国では男女ともに十七歳から成人となるのですが、お父様もお義母様も一刻も早く私をお嫁に出したかったのですね。
だから十七歳になった今日、さっそく結婚式が挙げられたのでしょう。
結婚式の日の夜は、初夜といって特別な意味があるそうです。
それくらい、世間に疎い私でも知っています。
けれど。
『男女の仲になるつもりはない』
侯爵様はそうおっしゃいました。
つまり、そういうことなのです。
私は今日から《《また》》、一人で食事を頂いて、一人で眠る日々を送ります。
……これまでと同じです。
いえ、違いました!
今日からは、こんなに素敵な場所で好きなだけ歌を歌えるのです。
おまけに美歌の記憶を手に入れて、これからの生活を思うと私、心が躍り出しそう!
だから、やっぱり結婚して良かったのです。
たとえこの広い別邸で、ひとり寂しく暮らすのだとしても……
オペラ『リナルド』(ヘンデル作曲)より
敵国に囚われ、愛しい人と引き離された娘が、失われた自由を願うアリア。
もう一度、愛しい人のもとへ帰るため――切なる思いを込めて歌われる祈りの歌。
悲しいのに、不思議なくらい美しい。
――美歌の記憶から




