19.ネーヴェのいない夜
「今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
マナーですからね。もちろん、笑顔でお伝えしましたよ?
でも本当は、今すぐにでも帰りたいのです……。
本邸へ足を踏み入れたのは、もちろん今夜が初めてです。
いかにも名門といった雰囲気のお屋敷には、玄関を入るなり、歴代のご当主様の肖像画がずらりと飾られていました。
至るところに重厚な調度品が置かれていて、さすが長く続くお家は違いますね。
「いや、こちらこそ。急な誘いにもかかわらず、来てもらえて嬉しいよ」
笑顔でそうおっしゃる侯爵様の隣には、あの大きなお胸の女性が腰掛けていらっしゃいました。
私は、とりあえず彼女にもぺこりと会釈しました。
結局、いまだにお名前を知らないままです。
「あのときは、ごめんなさいね。少し感じが悪かったかしらって、エミリオと二人で反省したのよ」
彼女は、侯爵様のお相手としての振る舞いが、すっかり堂に入っているようです。
きっと、お付き合いも長いのでしょうね。
そして今夜、彼女が身にまとっているのは、大人の色気を前面に押し出すような真っ赤なイブニングドレスです。
まあ、つまり――大きなお胸が、どーんと強調されています。
女性である私でさえ、思わず視線を奪われてしまいました。
「いえ。侯爵様にもお伝えしましたが、私は楽しく過ごしておりますので、お気になさらず」
家令のロベルトがやって来て、私を席へ案内してくれました。
今日は結婚式の日のように、周囲から突き刺さるような視線を感じることはありません。
どちらかというと、ちらちらとこちらを窺うような、興味本位の視線を感じてはいますけれど。
それでも表面上は、比較的和やかな雰囲気で晩餐が進みました。
◇
「それにしても、あなたって美人ね。あのときはベールに隠れていて、わからなかったじゃない? いやだ、美人なら美人だって、最初から隠さずに見せなさいよ」
お料理を食べ終え、今はコーヒーとデザートをいただいています。
先ほどから、侯爵様の彼女さんがしきりに私へ話しかけてくるのですが……。
「いえ、私は別に――」
「しかも、そんな髪の色、初めて見たわよ! 何? 銀色? あなた、本当に人間なの? それとも、貴族のご令嬢って、みんなそんな感じなの?」
「いえ、その……」
私は今夜、なるべく地味にまとめてもらえるよう、ビビにお願いしました。
装飾のない紺色のシンプルなワンピースに、同系色のストールを羽織っただけです。
もちろん、宝飾品の類も身につけていません。
それなのに彼女、微妙に絡んでくるといいますか、なんといいますか……。
まあ、要するに、だいぶ失礼です。
「あなた、どうして『鼻歌令嬢』なんて呼ばれているの? 本当に鼻歌ばっかり歌ってるの? そんなの、平民でもなかなかやらないわよ! あははは!」
はぁ……。
もう、答える気にもなれません。
「ねえ、地元ではどんな暮らしをしていたの? 好きな人はいた? 誰かと付き合ったことは?」
「いいえ」
「じゃあ、誰かを好きになったことは?」
「ありません」
「やだ! 恋もまだなの? それなのにエミリオと結婚? おっかしい! アハハハ!」
……侯爵様。
そろそろ、どうにかしていただけませんか?
ちらりと侯爵様へ視線を向けると、なぜか私の顔をじっと見つめていらっしゃいました。
しかも私と目が合うと、うっとりと微笑むだけなのです。
もう帰りたいです。
お料理はすべていただきました。
どれもきっと美味しかったのでしょうが、正直、ほとんど味がわかりませんでした。
私は振り返り、後ろに控えてくれているビビへ合図を送ります。
食事もいただきましたし、それなりの時間も過ごしました。
礼儀を欠いてはいないはずです。
「侯爵様。私はそろそろ、別邸へ戻らせていただきます」
「えっ、もう戻るのか?」
なぜ、そんなに残念そうなお顔をされるのでしょう?
「まあ、エミリオ。わがままを言って、引き留めては駄目よ」
そう言って、彼女は侯爵様の腕にすがりつきました。
大きなお胸がぷるんと揺れ、侯爵様の腕に当たっています。
ああ。
これは、結婚式の日と同じ仲良しアピールが始まるのかしら。
そう思ったのですが――。
「パメラ、いい加減にしないか!」
侯爵様が、きつい声で彼女をたしなめました。
なるほど。
彼女のお名前は『パメラ』さん。
ようやく知ることができましたね。間接的にですけれど。
「なによ! あの人が思っていたより美人だったからって、鼻の下を伸ばしてんじゃないわよ!」
あらら……。
何かが始まってしまいましたよ?
さすがに屋敷のメイドたちも困った様子でわたわたと慌て始め、ロベルトがお二人のもとへ近づいていきました。
「エミリオ様、パメラ。奥様の前ですから、おやめください」
「何が奥様よ! エミリオは私のものなのよ!」
「ロベルト、そもそもお前も悪いんだぞ? なぜアマーリエについて、何も報告しなかった!」
あらあら。
火に油を注いでしまったのでしょうか……。
「だいたいエミリオ、ずっと私だけだって言っていたくせに、結婚するってどういうことなのよ!」
「はぁ? それは何度も説明しただろう! 貴族っていうのは、そういうものなんだ!」
「ちょっと、お二人とも!」
「どうせ私は庶民の娘ですよ! 平凡で、美人でもない。着飾ったって、この程度よ!」
「パメラ! だいたいお前は――」
もう、私たちの声など耳に入らないでしょうね。
ロベルトまで巻き込まれ、三人でああだこうだと大変なことになっています。
「アマーリエ様、こちらへ」
ビビが小声で呼びかけてくれたので、私はそのどさくさに紛れて本邸をあとにしました。
正直、最初からあまり行きたくはありませんでした。
それでも、侯爵様の謝罪を受け入れると申し上げましたし、一度くらいお誘いに応じるのが礼儀だと思ったのです。
しかも私は、一応この侯爵家の奥様ということになっていますし……。
帰りの馬車で窓の外を見上げると、夜空には、まあるいお月様がぽっかりと浮かんでいました。
満月は、明日。
ネーヴェがいなくなってから、まだ一日しか経っていません。
それなのに、こんなにも退屈で。
何をしても面白くなくて。
こんなにも寂しい。
ネーヴェがいたら、あんなところには行かなかったかも……。
その夜は、お布団をかけてもひどく寒く感じられました。
どうしようもなく寂しくて、気づけば涙がこぼれていました。




