16.『間奏曲』
何でしょう、この空気は……。
今朝、ロベルトから伝言があり、午後に侯爵様が会いに来られることは知っていました。
でも、なぜいきなり裏庭へ飛び込んで来られたのでしょう?
今、侯爵様と私は、ガーデンテーブルを挟んで向かい合って座っています。
ですが、私の隣にはネーヴェがぴったりと寄り添い、侯爵様に睨みを利かせているのです。
『こいつか、横取り野郎は……』
ネーヴェが、ちょっと怖いです。
横取りも何も、私も侯爵様も、何も知らなかったのですよ?
それに、あの実家の離れを出て、このような素敵なお家で暮らせているのも、侯爵様と結婚したおかげなのですから。
『はぁ? そんなの、誕生日の夜に僕がアミィを迎えに行けていれば、そこでハッピーエンドだったんだよ?』
えっ、そうなのですか?
『そうだよ!』
ネーヴェは大層ご立腹です。
あ、そうそう。
安心してください、ネーヴェ。侯爵様には、心に決めた愛しい人がいらっしゃるのです!
『……ふん。こいつのそんな想いなんか、アミィの魅力にやられて風前の灯火だよ』
まあ、そんなはずありませんよ?
私を前にして、お二人とも大変仲睦まじくていらっしゃいましたもの。
心の中でネーヴェとそんな会話を繰り広げていると、
「あ、あの……君が元気そうで安心したよ」
侯爵様が、ようやく声をかけてくださいました。
「ええ、おかげさまで、自由で気ままな暮らしをさせていただいております」
私はネーヴェの心を落ち着かせるように、ずっとその背中を撫でています。
「そうか」
「はい」
「……」
「……」
せっかく会話が始まったと思ったのですが、残念ながらお話は続きませんでした。
侯爵様、一体何をしに来られたのかしら?
『本当にね!』
あらあら。
ネーヴェのご機嫌は、ますます下り坂です。
「あの、よろしければ侯爵様もお召し上がりください」
私は、ビビが用意してくれたチョコとアーモンドのクッキーを勧めました。
「あ、ああ……」
返事はしてくださっても、口にされることはなく……。
かといって、お話しになる様子もありません。
『アミィ、こいつ、もう追い出そう』
ネーヴェが椅子から降りようと腰を上げたので、私はぎゅっと抱きしめて、それを止めました。
「ダメ!」
そんな私の動きに、侯爵様は驚いて目を見開いています。
「ど、どうしたんだ、急に?」
「あ、いえ。この子が逃げてしまいそうだったので……」
私はネーヴェを、そのまま腕の中に閉じ込めました。
狼姿のネーヴェを後ろからぎゅっと抱きしめると、まるで大きなぬいぐるみを抱いているようで、ほっとします。
癒やしです。モフモフは何よりの癒やしなのです。
私自身、この微妙な空気に落ち着かなくなっていたので、どさくさに紛れて首元へ鼻を埋め、お日様のような匂いをこっそり嗅いでいました。
「ずいぶん、君に懐いているんだな」
ネーヴェの首元に顔を埋める私を見つめながら、侯爵様がおっしゃいました。
何か言いたげな表情にも見えましたが、そこは気にしません。
「はい。とても可愛らしいです」
「その犬は一体……。ラコスタから連れてきたわけでは、ないよな?」
侯爵様は斜め上へ視線を向け、何かを思い出そうとするように考えておられます。
「はい。私は身ひとつで、こちらへ参りましたから」
「そう、だよな……」
それから、また黙り込んでしまいました。
お菓子を食べるわけでもなく、会話を続ける気もない……。
何のためにいらしたのかわかりませんが、そろそろ帰ってほしいです。
『ぷっ……くくっ』
あら、ネーヴェ。お話しする気になったの?
再び聞こえてきた心の声に、私はネーヴェをぎゅっと抱き寄せ、その愛くるしいお顔を覗き込みました。
『アミィ、もう大丈夫。落ち着いたから、離していいよ』
ネーヴェがそう言うので、少し残念ではありましたが、私はそっと手を離しました。
彼は再び、隣の椅子にお行儀よくお座りをします。
「あ、あの……。実は、君に伝えたいことがあってだな」
侯爵様は深い緑色の瞳をあちこちへ向けたあと、ようやく私の目を見てくださいました。
じっと見つめられ、なんだか急に落ち着かない気持ちになった、そのとき――。
「アマーリエ」
「うわおおおおーん!」
あらまあ。
侯爵様が私の名前を呼ばれたのと同時に、ネーヴェが遠吠えをしてしまいました。
ちなみに、ネーヴェが吠えるところを見たのは初めてです!
侯爵様はコホンと軽く咳払いをして、仕切り直しました。
それから、もう一度口を開かれたのですが――。
「アマ――」
「うわぉおおおおおん!」
と、こんな調子です。
ネーヴェ……。
『だって、アミィの名前なんか呼ばれたらムカつくから』
また、そんなことを言って……。
あっ! そうでした!
そういえばこの方、私には名前で呼ぶなとおっしゃったのですよ?
だったら、私の名前を呼んでもらっては困りますね。
「侯爵様、御用は何でしょう?」
埒が明かないので、私のほうから聞いて差し上げました。
「あ、そう、そうだな。あの、とにかく君には、一度きちんと話をしたいというか……。つまり、その……」
椅子の上で、侯爵様はもじもじしておられます。
――ゴホンッ。
今度は、少し離れたところに立っていたロベルトが咳払いをしました。
侯爵様は、なぜか何かに納得されたご様子で、
「あ、ああ。そうだな」
と呟きながら姿勢を正されました。
そして、もう一度私のほうへ向き直ると、勢いよく頭を下げられました。
「すまなかった!」
え?
それは……何に対する謝罪でしょう?
この結婚について、でしょうか?
それとも、他に愛する人がいることについてでしょうか?
それとも……。
「誠意がなかったと、あとになって気づいた」
ああ、まあ。
感じがよかったかと聞かれれば、否定するしかありませんけれど。
「あの、侯爵様。どうかお顔を上げてくださいませ。お気になさらずとも、私はこのとおり、楽しく過ごしておりますから……」
だって、私はもう一人ではありません。
ネーヴェの背中をひと撫でしてから立ち上がると、私はいつものように湖のほとりまで歩いていきました。
実は先ほどから、美歌の記憶がしきりに勧めてくる旋律があるのです。
「侯爵様、謝罪は受け入れます。それから、せっかくですので、私の歌を聴いてからお帰りください」
私がにっこり微笑むと、侯爵様は、なぜだか少し頬を染めていらっしゃいました。
その横をだだっと駆け抜け、ネーヴェが私の足元までやってきます。
『あいつ、まじでムカつく』
ネーヴェのご機嫌は、まだ斜めのままですね。
この美しい旋律を聴いて、ネーヴェの心も落ち着きますように――。
湖に向かって立ち、私はいつものように大きく深呼吸をします。
それから、湖の向こうにそびえる高い山の稜線を見つめ、歌詞のない美しい旋律を「ラ」の音に乗せて歌い始めました。
La la la lah~
La la la la lah la lah~
…………
ゆったりとした壮大な旋律が、目の前に広がる景色に重なっていきます。
圧倒されるほどの大自然と、豊かに流れる美しい調べ。
その二つがぴたりとはまって、歌っている私自身も、最高に気持ちがよかったです。
侯爵様は、私が歌い終えたあとも、しばらく口を開けたまま固まっていました。
そしてそのまま、ロベルトに促されるようにして本邸へ戻っていかれました。
『ほらね』
ネーヴェが、面白くなさそうに呟きます。
何がですか?
『今ので、風前の灯火も消し飛んだよ』
そう言うと、ネーヴェはふてくされたように、ぷいっとそっぽを向いてしまいました。
なぜ、まだ不機嫌なのでしょう?
理由がわからないまま、私はしばらく、ネーヴェの銀色の頭を撫で続けました。
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カヴァレリア・ルスティカーナより『間奏曲』
ちなみにこのオペラ、男女の愛憎にまみれたドロドロの悲劇よ。
だけど、この旋律はほんっとに美しいわね。
――美歌の記憶より
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