15.危険な奥様
(家令ロベルト視点)
結婚式から十日が過ぎた。
これまで、エミリオ様が若いというだけでどこか軽視されてきたのが嘘のように、事業の話がとんとん拍子に進んでいる。
「やはり、妻を持つと相手方の態度も変わるな」
「さようでございますね」
廊下を歩きながら、エミリオ様と言葉を交わす。
今日も朝から慌ただしく、書類や訪問客を捌き続け、ようやく工面できたのが、この午後のひとときだった。
私自身は先日、あのローズガーデンの奇跡的な変貌に立ち会って以来、どこか吹っ切れたような心持ちでいる。
だが、それは私の話だ。
エミリオ様は今日になってようやく、ご自身の意思で奥様に会いに行く気になられたのだ。
「その……あれから、どうだ?」
アマーリエは――と。
罪悪感からだろうか。言葉尻を濁しながら、そう尋ねられた。
「楽しくお過ごしのようですよ」
「そうか」
エミリオ様が馬車に乗り込むのを確認し、私は御者台に上がって手綱を取った。
別邸へと続く緩やかな坂道を下りながら考える。
私には、エミリオ様へご報告できていないことがたくさんある。
いつも奥様のそばにいる、あの白い犬のこと。
雇った覚えもないのに奥様付きとなっている、ビビという侍女のこと。
同じく、常に別邸を守り固めている、あの屈強な男のこと。
そして、これが最重要事項なのだが――奥様が、女神アウローラ様のように歌われること。
こうなったら、ご自身の目で確かめていただくのが一番だろう。
エミリオ様にも、あの女神のごとき歌声を聴いていただきたい。
ただ、あの美貌に、あの歌声は……。
危険だとも思う。
エミリオ様にとって、あまりにも――。
そもそも今回、形ばかりの妻として、生涯結婚できそうにない令嬢を探したのだ。
社交界で『鼻歌令嬢』と呼ばれ、訳ありとされていたアマーリエ様へ行き着くのに、そう時間はかからなかった。
それまで、私はご本人のお姿を拝見したことがなかった。
なにしろ十五歳でのデビュタント以来、年に一度の王室主催の夜会にしか姿を見せないご令嬢だったのだ。噂では、地味で時代遅れのドレスを身にまとった、残念なご令嬢だと聞いていた。
それがまさか、あれほど神々しい美貌と歌声を持ったお方だなどと、誰が想像できようか……。
やがて、馬車が別邸へ到着した。
馬車を降りたエミリオ様の第一声は、
「ここは、こんなに美しい場所だったか?」
というものだった。
「ええ。奥様をお迎えするにあたり、大幅に修繕いたしました。植栽にもこだわり、手を入れたのですよ」
おそらく的外れだろうと思いながらも、私はあえてそう答えた。
エミリオ様は胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出している。
「いや、そういうことではなくてだな……なんというか、そう。空気が澄んでいるというか……」
ええ、そうでしょうとも。
なにしろ、女神アウローラ様が降臨されたかのような美貌と美声を持つアマーリエ様が、毎日歌を捧げておられるのですから。
私は初日から、何度もアマーリエ様が歌う場面を目にしている。
あの歌声には、特別な力が宿っている。あれはもう、ただ人の業ではない。
先日など、私自身、しかと奇跡の瞬間を目の当たりにしたのだから。
別邸の正面玄関に立ち、呼び鈴を鳴らそうとしたところで、そばにいたはずのエミリオ様が裏庭へ向かわれていることに気づいた。
慌ててそのあとを追い、呼び止める。
「ちょっと、エミリオ様!」
「しーっ!」
人差し指を口元に立てるその仕草が、まるで幼いころのエミリオ様のようで、不覚にもお止めすることができなかった。
静かに裏庭へ続くほうへ目を向ける。
奥様が午後のティータイムを楽しまれているのだろう。楽しげな声が聞こえてきた。
「ふふっ。こうして一緒に食べると、余計に美味しく感じますね」
「あら、お口に欠片がついていますよ。ああ、もう。動かないで」
ここからでは、お姿までは見えない。
聞こえてくるのは、奥様の声だけだ。
誰か一緒にいるのだろうか……?
エミリオ様も動くに動けず、じっと様子をうかがっておられる。
「えっ。やだ、私にもついているの? 取れた?」
そこで少し、間が空いた。
「ねえ、待って。やっ……はぁん、くすぐったい」
奥様の声が、にわかに艶めかしいものへ変わった。
思わず赤面し、エミリオ様と顔を見合わせる。
浮気……?
いや、それにしては、相手の声がまったく聞こえない。
仮にお相手がいたとして、それは果たして浮気と言えるのか?
こちらが一方的に別邸へ追いやり、十日もの間、顔すら見せなかったというのに?
私がそんなことを考えている間にも、奥様の声はますます艶を帯びていく。
「あっ、ちょっ……はぁ……んんっ……」
「アマーリエ!」
気づけば、エミリオ様が裏庭へ飛び出しておられた。
私も慌ててそのあとを追う。
そして裏庭へ出てみれば――。
「「犬……?」」
二人揃って、間の抜けた声が出た。
奥様はガーデンチェアに腰かけたまま、ひどく驚いた顔でこちらを見ておられる。
そして、そのすぐ隣には――。
チェアの上に行儀よくお座りした、あの白い犬。
どうやら奥様の口元についた菓子の欠片を舐め取っていたらしい。
白い犬は奥様を庇うように身を乗り出し、私たちを警戒するように睨みつけていた。




