姫様、世界を動かします。
王都、オーボ城。
「ヒヨワス=ギール、ただいま帰還いたしました!」
玉座の間へ響く声に、国王はゆっくりと顔を上げた。
「……どうであった?」
王だけではない。
宰相をはじめ、重臣たちも固唾をのんで見守っている。
使者は一度深呼吸すると、静かに口を開いた。
「まず、ご報告がございます」
「申せ」
「悪魔姫は、オーボ城へ来ることを拒否されました」
会議室がざわつく。
「やはり断られたか……」
「当然でしょうな」
「国土を譲るなど、あまりにも突飛な話です」
重臣たちが次々とうつむく中、使者は首を横へ振った。
「違います」
「何?」
「理由は――」
使者は真顔で言った。
「トイレです」
「…………」
玉座の間が静まり返る。
「……今、何と言った?」
「トイレでございます」
「もう一度聞く」
「トイレです」
国王は額を押さえた。
「余は外交の話をしているのだが」
「私も外交の話をしております」
使者は一切表情を変えない。
「姫様は『この世界のトイレはどこもひどい。話がしたいなら、こちらへ来るよう伝えろ』と仰せでした」
「…………」
「最初は私も理解できませんでした」
使者はゆっくりと顔を上げる。
「あのトイレを見るまでは」
「何?」
その一言で、国王を含めた全員が息をのんだのだった。
オーボ港、姫様の館。
「姫様、もし本当に国を譲りたいと言ってきたら、どうなさるおつもりですか?」
七海が静かに尋ねる。
「どうもしないわよ。ホルンやテナーと同じように、姫様のしもべを派遣して統治を手伝うだけ」
私は書類から目を離さず答えた。
「それは危険でございます」
「なんで?」
「一国でも成功すれば、他国も必ず真似をいたします」
七海は地図を机の上へ広げた。
「王国だけでは終わりません。周辺諸国はもちろん、やがて大陸中の王が姫様へ助けを求めるでしょう」
「そんな大げさな……」
「大げさではございません」
七海は真っすぐ私を見る。
「今まで各国が競っていたのは、軍事力でした。しかし姫様は、それよりも強い”暮らし”を示してしまったのです」
「じゃあどうしろと?」
七海は少しだけ考える素振りを見せた。
「受け入れる条件を決めるべきです」
「条件?」
「はい。姫様の理念を受け入れる国だけを助けるのです」
「理念って?」
「週休二日。最低賃金。成果報酬。そして、誰もが安心して暮らせる住環境」
私は思わず苦笑する。
「ずいぶん注文が多いわね」
「逆です」
七海は首を横に振った。
「それだけ守れない国を受け入れてしまえば、姫様が築き上げた国まで崩れてしまいます」
「……」
「姫様は国を増やしたいのではなく、幸せな人を増やしたいのでしょう?」
私は少しだけ考えてから、
「私はスローライフを送りたいだけよ」
「島を出る前、飽きてませんでした?」
「慣れないことをしたからよ」
七海は静かにため息をついた。
「姫様は慣れたら世界を取れそうですね」
「取りたくないわよ」
その頃――
王都では、一人の国王が静かに立ち上がっていた。
「……余自ら、オーボ港へ向かう」
その一言に、玉座の間は騒然となるのだった。
一方、世界会議では悪魔姫への対策が連日議論されていた。
「オーボ王国まで悪魔姫へ頭を下げたそうです」
「このままでは各国が次々と寝返るぞ」
「外交では止められん……」
重苦しい空気の中、一人の老人が静かに口を開いた。
「……ならば、もはや禁忌に手を染めるしかありますまい」
「禁忌だと?」
「古の悪魔姫を倒すには、魔神をこの世に召喚するしかありません」
「魔神だと! まさに神話級の存在ではないか!」
「成功すれば悪魔姫は倒せるでしょう」
「失敗すれば?」
「世界が滅びます」
「ならば魔神については、そなたらに一任しよう」
老王は立ち上がると、他の王が、
「どちらに行かれるので?」
「悪魔姫が独自の文明を発展させていると聞いたのでな。ちょっとした伝説を頼ってみようと思ったのだ」
「伝説、ですか?」
「六百年前の大戦を覚えておるか?」
「人間と魔王が争った時代ですな」
「あの戦場の境で、人と魔族の文明を結び付けた神がおった」
「……神?」
「……もし、まだこの世界のどこかにいるのなら、解決策を導いてくれるかもしれん」
「その神の名は?」
「戦場の神と呼ばれておったが、詳しくはわからん」
老王はそう呟くと、静かに会議室を後にした。
まだ誰も知らない。
その伝説の神が、この世界のどこかで静かに暮らしていることを――。
そのどこか。
「シロ、クロ、最近外が騒がしいわね」
共に本を読んでいた人間の少女と魔族の少年に話しかけた神がいた。
「悪魔姫という者が現れ、人間たちが慌ただしく動いているようです」
クロと呼ばれた少年は自分のことのように嬉しそうに答える。
「悪魔姫?」
神に眉間のしわがはいる。
「……また面倒ごとじゃなければいいんだけど」




