PV2,000記念 参謀長官、契約書を要求します。
私、天草七海は、大学に通いながら法律事務所でアルバイトをしていた。
仕事内容は書類整理、コピー、電話対応、お茶出し。
法学部で学んだ知識を生かせる場面など、ほとんどない。
その日も、弁護士の先生から頼まれた大量の資料を抱え、事務所の廊下を歩いていた。
相談室の前を通りかかると、中から中年男性の怒鳴り声が聞こえてくる。
「妻が浮気をしたんだ! 絶対に慰謝料を取ってやる!」
かなり興奮しているらしい。
浮気問題は珍しくない。
慰謝料を請求できるかどうかは、証拠や婚姻関係の状況による。本人が怒鳴ったところで、受け取れる金額が増えるわけでもない。
私は足を止めず、そのまま資料室へ向かった。
扉に手をかけた、その瞬間だった。
視界が真っ白になった。
「ご希望どおり、回収しました」
目を開けると、何もない白い空間に立っていた。
目の前には、白い服を着た金髪の少年がいる。
背中には小さな翼。
頭の上には輪っかまで浮かんでいた。
どう見ても天使だった。
「……何を回収したんですか?」
「あなたの命です」
「何故ですか?」
「慰謝料を取りたいと聞こえましたので」
「相談者は慰謝料を取りたいと言ったんです」
私は自分の胸元を指差した。
「何故、無関係の私の命が取られているんですか?」
天使は不思議そうに首をかしげた。
「慰謝料と命を取り違えました」
「どこに取り違える要素があるんですか?」
「『取る』という部分が共通しています」
「動詞だけで仕事をしないでください」
私は額を押さえた。
意味が分からない。
慰謝料を取りたいという相談を聞いただけで、何故アルバイトの大学生が死ななければならないのか。
「元に戻してください」
「それは無理です」
「即答ですか」
「一度回収した命を返却すると、始末書を書かなければならないので」
「私の命より始末書の方が重いんですか?」
「天界では書類仕事が大変なんです」
「法律事務所よりひどいですね」
天使は少し考えたあと、ぽんと手を叩いた。
「では、お詫びとして三つの願いを叶え、異世界へ転生させます」
「お詫びの規模が極端ですね」
「遠慮なくどうぞ」
死んだこと自体には、まったく納得できない。
しかし、元の世界に戻れないのなら、いつまでも抗議していても仕方がない。
こういう時こそ、条件を整理するべきだ。
私は腕を組んだ。
「では、一つ目の願いです」
「はい」
「これから大国を作る人物の下で働き、お手伝いさんがいる広い屋敷に住みたいです」
私は淡々と答えた。
「日本という国は、すでに一つの大国です。法律も行政機関も社会制度も存在しています。一人の人間が声を上げたところで、その根底を覆すことは難しいでしょう」
「革命を起こせばいいのでは?」
「逮捕されます」
「では、選挙に出るとか」
「供託金も人脈も知名度もありません。それに、当選したとしても一人で国の制度を変えられるわけではありません」
天使は黙った。
「完成された制度を少しずつ変えるより、何もない場所に最初から制度を作る方が早い。ですから、これから国を作る人物の下で働きたいです」
「なるほど。大国を作る可能性のある人物ですね」
「そうです。ただし、独裁者や戦争狂は除外してください。できれば、平和を好む人物の下で働きたいです」
「条件が細かいですね」
「願いを曖昧にすると、後で揉めますから」
法律事務所では、契約書の文言一つをめぐって争う人々を何度も見てきた。
言葉は正確に使うべきだ。
「二つ目は?」
「通勤時間を極力なくしてください」
大学から法律事務所へ向かい、仕事が終われば自宅へ帰る。
毎日、満員電車に揺られ、何度も乗り換えなければならなかった。
片道一時間。
仕事を始める前から疲れてしまう。
「徒歩五分以内が理想です」
「分かりました。職場と住居を可能な限り近くします」
「同じ建物でも構いません」
「承知しました」
天使は楽しそうに何かを書き留めている。
少し不安になった。
「三つ目は?」
「お腹いっぱい食べても崩れない体型が欲しいです」
「どういうことです?」
「私、太りやすい体質なんです。食事のたびに体型を気にする生活は、正直面倒でした」
私は肩をすくめる。
「それに、転生先でどんな食生活になるかも分かりません。せっかくなら、好きなだけ食べても健康的な体型を維持できる身体が欲しいです」
天使は何度か頷いた。
「なるほど。それなら一つの願いとして成立します」
そう言って、書類らしきものを閉じた。
「以上でよろしいですか?」
「待ってください」
私は手を上げた。
「今の願いについて、契約書はありますか?」
「ありません」
「説明書は?」
「ありません」
「転生先の資料は?」
「ありません」
「担当者の連絡先は?」
「ありません」
「異議申し立て制度は?」
「ありません」
私は深く息を吐いた。
「よくこれで業務が成り立っていますね」
「神の力がありますので」
「権力に依存した組織は、いずれ内部から崩壊しますよ」
「縁起でもないことを言わないでください」
「事実です」
天使は露骨に嫌そうな顔をした。
「それでは、願いを登録します」
手元の書類を見ながら、天使が読み上げる。
「一つ目、広いお屋敷に住みたい」
「違います。お手伝いさんが抜けてます」
「二つ目、勤務地を近くしてほしい」
「そこはおおむね合っています」
「三つ目、お腹いっぱい食べたい」
「崩れない体型も忘れないでください」
「要約です」
「要約の精度が壊滅的です」
私は天使の手から書類を奪おうとした。
しかし、指先は書類をすり抜ける。
「訂正してください」
「もう登録しました」
「早いですね!?」
「仕事は迅速に行う主義です」
「命を回収する前に、その迅速さを発揮してください!」
天使は聞こえなかったふりをして、書類をどこかへ消した。
「それでは、転生させます」
「少なくとも、転生先の国名くらい教えてください」
「まだ国ではありません」
「では、街の名前を」
「街もありません」
「村は?」
「できる予定です」
私はしばらく黙ったあと、聞いた。
「確認します」
「はい」
「これから大国を作る人物の下で働きたい、と願いました」
「はい」
「すでに何らかの集落を運営している人物ではなく?」
「これから作る人物です」
確かに条件には合っている。
言葉の上では。
「通勤時間は?」
「ほぼゼロになります」
「法学部で学んだ知識は生かせますか?」
「あなたが必要とされれば」
「必要とされなかった場合は?」
「頑張って売り込んでください」
「妙なところだけ現実的ですね」
「知識があっても、採用されるかどうかは別問題です」
それについては反論できなかった。
天使が笑顔で手を振る。
「それでは、素敵な異世界生活を」
足元に魔法陣が広がった。
身体が光に包まれていく。
「最後に一つだけ聞かせてください」
「何でしょう?」
「あなた、今まで何人くらい間違えて死なせました?」
「たまにしか間違えませんよ」
「人数を聞いています」
「天界は現在、人手不足でして……今、僕一人で担当しているんです」
「つまりワンオペですか」
「はい」
「それ、改善した方がいいですよ」
返事を聞く前に、私の意識は途切れてしまった。
目を覚ますと、薄暗い部屋だった。
冷たい石の床。
湿った空気。
目の前には頑丈な鉄格子がある。
私はしばらく周囲を見回した。
ベッドはない。
机もない。
窓すらない。
「……牢屋ですね」
広い屋敷の地下にある牢屋。
住居と職場は同じ場所。
通勤時間は、ほぼゼロ。
これから国を作る人物が、いずれ現れるかもしれない場所。
条件だけなら、確かに満たしている。
私は鉄格子を掴んだ。
「契約書がないから、こうなるんですよ!」
声は誰もいない牢屋に空しく響いた。
それから数日後。
「お腹いっぱい食べさせてくれるんじゃなかったんですか......」
空腹で死にかけていた私は、赤い髪をした姫に救い出されることになる。
そして、その姫が本当に大国を作り始めるとは、この時の私はまだ知らなかった。




