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聖女様の約束

物心ついた頃には、既に寂れた孤児院の中で生活をしていた。

修道院が運営していたそこでは、最低限の食事と最低限の寝床を提供する代わりに、実に様々な労働を子供達に強いていた。

とは言っても、この孤児院の外では同じような労働をしたところで同じ生活は絶対に送れなかっただろうから、それ程悲観するような話でもない。

ただ、安寧を約束された異国で生きてきた心優しき女性には、地獄のような環境に見えただけ。

そして、旅の中で多くの悲惨な状況にある人々に出会ったであろう彼女が私を選んだのはーー単にそんな場所で私が約束を守り抜いた事に喜んだだけ。

彼女はとても多くの約束をいろんな人と交わしたけれど、その殆どは守られる事はなかったから。


私は世界にとって(選ばれた)特別な存在ではない。

ただ、彼女との約束を守った人間なだけだ。



* * * * *




その日、孤児院の視察に訪れた招かれざる客人に孤児院は騒然となった。

通常、貴人が訪れる際には数日前に前触れがあり、見られても何ら問題のない恰好を仕立て上げ、傷病人や見目の悪い者達は隠すか処分するーーそんな猶予期間を貰える。

それがこの地方における貴族と教会の付き合い方だった。

けれど今回訪れた女性はそんな慣例を強行突破し、突如孤児院に現れたらしい。

余程高貴な女性だったのだろう、見たことも無いほどに美しく装飾された竜車から降り立った彼女の前に、高慢ちきな修道女達が突然の訪問に抗議するよりも早く、その姿を認めると慌てて神に祈るように膝を付いたのである。


物陰から盗み見ていた子供達はその光景に驚き、互いに顔を見合わせた。

領主様のご令嬢がいらっしゃった際にだって修道女達はここまでの敬意は見せはしなかったのだから。

護衛と思われる騎士達と修道女が会話を始めた途端、今回の訪問者の代表だと思われる女性が子供達を見つけ、駆け寄ってきた。

びっくりして逃げ出そうとしたのは今の恰好を見られてはいけないという防衛本能だったのだろう。

ただし、逃げられたのは足を負傷していなくて栄養状態の良い子供だけで、私はそのどちらでもなかった。



「貴女、ここの子供ね?」

「…っいた」



女性は焦っているかのように早口で質問し、私の前に跪いて目線を合わせると肩を掴んだ。

特段強く掴まれた訳でもないのだけれど、私の肩には出来たばかりの傷があって、それが運悪く酷く痛んでしまった。

まずい、と思った時には既に遅く、女性はすぐに肩の傷に気が付いた。



「……ごめんね、ちょっと見せてくれる?」

「や、だめっ」

「大丈夫、絶対に悪いようにはしないから」



何なのだこの女性はと思う暇もなく、汚れた襟を開けさせられてーー。



「どうしてこんな」



そう呟いたきり絶句し、白くて傷一つ見当たらない手を口元に当てた彼女は、泣き出す直前の幼子のような表情をしていた。

のろのろと襟元を直しながら彼女を窺うと、なんだかとても悪いことをしたかのような気分に陥った。

見た目はアレだけれど別にそこまで酷い怪我ではない。

少し放置しているだけであって、死に至るようなものでもない。


そんな表情をされるほど私の置かれた環境は悪い訳ではないのだと伝えたくて、孤児院の中でも年長の部類にあった私は、ふらつく身体に鞭を打ってどうにか立ち上がる。

私達はちょっと怪我をすることもあるけれど、不自由なく楽しく暮らしている。

それを伝えなければ後でこってり絞られるのは私達なのだから。



「ようこそいらっしゃいました、おねえさま」



ぺこり、とお辞儀をすると女性は唇を噛んで私を睨みつけた。

ぼんやりとそれを見つめながら、いつもの台詞を諳んじる。



「わたしたちはせいなるかみさまにあいされ、まいにちのごはんにもめぐまれ、きょうもげんきにいきています」

「………」

「あなたにも、かみさまのごかごがありますように」



ご寄付を恵んでくださる貴人にこの言葉を唱えると、後で修道女から貰えるパンの量がほんの少しだけ増える。

私にとってはただそれだけの言葉なのだけれど、女性は眉間に皺を寄せて小さく何かを呟いた。

何を言ったのか聞き取れなくて首を傾げていると、女性の肩越しに護衛の騎士達と修道女が近寄ってきているのが見える。


「おねえさん、なにかいった?」


女性には、甘えた行為を見せればお菓子をくれる事も多い。

修道女達に見咎められる前にと思って焦ったのがいけなかった。

今日の恰好がよそ行き(物乞い用)ではなく、薄汚れている普段の恰好だという事を忘れ、純白の衣を引っ張ってしまった。

美しい布地に、私の手に付いた汚れがべったりと付着する。

血とか、泥とか、そんな感じのどす黒くて饐えた匂いのする汚れだ。

しまったと思うよりも早く、その行為に血相を変えた騎士達はすぐさま私の腹を警棒で突き飛ばした。


その状況で大声で抗議をしたのはかの女性だった。

早口でまくし立てている内容はとても私にとって優しい内容だったけれど、修道女達に後で怒られるのは私だ。

気紛れな優しさはその場を救ってはくれるけど、その後の責任を取ってくれる訳ではない。

無駄に問題を起こしてしまったーー少しだけ気落ちしながらもゆっくりと起き上がる私に気が付いたのか、言い争いを終えた女性が私に手を差し伸べた。

その手を借りるかどうか迷っているうちに女性は有無を言わさぬように私の脇に手を差し込み、ゆっくりと抱き上げてくれた。



「ごめんね、痛かったよね」

「……べつに、なれてるもん。いたくなんかないよ。だからもういいの」



実際それは嘘ではなく、栄養失調気味な当時の私は痛覚というものが鈍っていたのだと思う。

警棒で突かれ、引き倒される程度では打ち身程度なものだったのだし。

私の言葉に目を見開いた女性は、自身の周囲にいる騎士達や修道女を見回して。

彼らの感情を読み取ったように眉根を寄せると、少しだけ俯いた。

ごめんね。

そう言って、彼女は純白の衣服が汚れる事も構わずに私を抱きしめた。



その後、修道女達との間でどんな話し合いがされたのかは分からないが、その女性はその日から数日程度、孤児院に宿泊した。

高貴な人間をお迎えするのだから粗相のないようにしなさいと修道女達は面倒そうに、よそ行き(物乞い用)の服を用意し、水浴びを指示した。

冬が近づき始めた気配もあって水浴びは苦行にも等しいものだったけれど、代わりに温かいスープが食事に添えられたものだから、子供達は喜びに喜んだ。



「このように子供達に満足に食べさせることも出来ないのが一番苦しいのです…ああ、可哀そうな子!」

「私達も必死に食事を切り詰め、神に祈りを捧げているのですが…心優しい子供達も心配して、少しでも手伝えることはないのかと聞いてくるんです」



女性の前に連れていかれるのは決まって体のどこかに大きな傷があるか、後遺症を抱えている子供だった。

私もそれに同行していたし、修道女達の芝居に付き合って時折鼻をすすってみたりもした。

痩せた私達とは対照的に修道女達はふくよかな体型で、こんな時ばかり抱きしめてくるのだけれど、それでもその柔らかな体にほんの少しだけ癒されるのも確かだった。

私達はいつだって人肌のぬくもりにに飢えていたのだ。

だから、どうしてもこの高慢ちきな修道女達を憎み切れなかった。


女性はそんな私達をどのように感じていたのだろうか。

最初に声を掛けられた時とは違って、ただ静かに神に祈りを捧げる言葉を唱えながら、私達の小芝居を眺めていた。

部外者で旅人である彼女にとっては、救いの手を差し伸べてもそれが時に凶器になると知っていたのだろう。

私達も気まぐれな救いなんて求めていなかった。




その人が聖女様なのだと知ったのは、彼女が旅立つ日の朝だった。

聖女様のお気に入りの孤児院として箔が付いた、と喜ぶ修道女達が廊下で話しているのを立ち聞きして、そこで初めて彼女が救国の聖女と呼ばれるお方なのだと知った。



「もういっちゃうの?」

「貴女は…あの時の子ね」



もっと居てくれれば良いのに、と唇を尖らせ俯いた。

別に情がわいた訳ではなく、ただの打算から出た言葉だった。

聖女様であるこの人さえこの孤児院に居てくれれば、修道女達はずっと優しいままだし、労働もしなくて済む。

友達もいつの間にか孤児院から居なくなってしまう事もないし、柔らかいパンだって食べられる。

彼女の役割はこの国をーーひいては世界を救う事だとは分かっていたけれども、まだまだ幼い私にとって世界とはこの孤児院の中だけだった。



「この孤児院で私に声をかけてくれたのは、この三日間で貴女だけよ」

「だって、はなしかけたらおこられるもの」

「…そうなの?だったら貴女はどうして私のところに来てくれたのかしら」



悲しげに微笑みながら聖女様は首を傾げた。

もちろん、旅立つ彼女に声をかけているのがバレたら私は酷く折檻されるだろう。

でも、もしもこの聖女様が私のお願いを聞いてこの孤児院に残ってくれるのであればーー。



「だってせいじょさまがいると、やわらかいパンをたべられるんだもの」

「……あら、まあ。そうなの?」



呆気に取られたかのように目を丸くし、次に小さく吹き出したように聖女様は笑った。



「私を求める理由がパンだったのは初めて。貴女の願いはとても慎ましくて…素敵ね」

「たくさんたべたいし、まいにちだべたいのよ?でも、それはぜいたくなんだって」

「それを貴女に言った人間が贅沢者」



そんなものだろうかと疑問を覚える私を、聖女様は優しく撫でてくれた。

白くて傷一つない美しい指。

生きる事の苦労を感じさせないそれが、とても羨ましいと幼心に感じた。

修道女の言葉を贅沢だと切り捨てられるこの人は、きっと毎日飢えることなく生きていけるのだ。

いいなあ、とぽつりと呟いてしまったその言葉の意味が分かったのだろう。

聖女様は苦笑を浮かべ、貴女はいい子ね、と言ってくれた。



「そうねえ……旅が終わったら必ず貴女に会いに来るわ。そして沢山のパンを食べさせてあげる。ね、約束しましょ?」

「やくそく」

「私は貴女に会いに来る。貴女はそれまで何があっても生きて私を待つ」



何を思ってそんな事を言い出したのかは分からない。

けれども力強く、約束よ、と笑った彼女の双眸には固い決意が見えたからーー私はうっかりと約束してしまった。

約束の証と言って交わされた指切りは、彼女の故郷の古い誓約の言葉で結ばれた。



「いつか、絶対に貴女を救ってみせる」



* * * * *



この時に交わした約束は、私が全てを諦めかけた時に漸く果たされる事となった。

それからの日々には幸せな記憶しかないけれど、いつだって私はあの頃の彼女を思い出しては後悔した。

あまりに多くの重荷を背負っていた彼女に、更に【私】という荷を背負わせてしまったあの日の約束を。


あの約束の日より十年経ちーー救国の聖女は死んだ。


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