第8話『討伐したはずのもの』
五十二年前、エルノア東方森林地帯で十二人の調査隊が消息を絶った。
正確には全員が行方不明になったわけではない。
十二人のうち一人だけが生還し、残された記録を基に後続の討伐隊が編成されている。
そして討伐隊は異変の原因と考えられる一体の生物を発見しこれを討伐した。
事件そのものはそれで終息したとされていた。
ところが五十二年後、同じ森で同じような異変が起きた。
エルノア冒険者ギルドの会議室では古い記録帳をめくる音が続いている。
昨夜から始まった資料の照合作業は朝になっても終わっていなかった。
卓上には五十二年前の調査報告、
討伐隊の行動記録、
研究機関へ送られた標本の受領書などが広げられ、窓際には昨晩のうちに追加で運び込まれた資料箱が積まれている。
ヴェルトはそのうち一冊を手に取っていた。
「……あれ?」
何かが気になったらしくページを戻す。
もう一度文章を読み直してから向かいに座るガルドへ顔を向けた。
「ガルドさん。五十二年前のこれ、討伐したのは調査隊じゃないんだね」
「ああ。最初に入った十二人はまともに戦うこともできなかったらしい。討伐したのはその後に編成された別の部隊だ」
「そっか。じゃあ最初の十一人がどうして死んだのかは?」
「生き残った爺さんの証言が中心だ。詳しい戦闘経過までは残ってねえ」
ガルドは記録帳の端を押さえながら当時の状況を説明した。
調査隊が最初に見つけたのは樹木や地面から魔力が失われる奇妙な現象だった。
原因を探して森の奥へ進んだところ、同行していた魔術師たちが相次いで不調を訴え、その後、何かに襲われたという。
混乱の中で十一人が死亡し、唯一生き残った者が情報を持ち帰った。
「問題はその後だな」
ガルドが指で示したページには別の筆跡による討伐報告があった。
発見されたのは四本の短い脚と硬質の外殻を持つ、頭部の不明瞭な生物。
腹部には多数の管状器官がありそれらを地中へ伸ばして周囲の魔力を吸収していたと記されている。
姿形だけであれば昨日ヴェルトたちが遭遇した《吸脈殻虫》とほとんど同じだった。
「討伐した後はちゃんと死体を持ち帰ってるんだよね?」
「ああ。そこは間違いねえ」
ガルドが別の記録を差し出した。
標本は研究機関へ搬送され、解剖も行われていた。
内部には通常の動物に見られるような消化器官がほとんどなく、代わりに管状器官が腹部の特殊な組織へ集まっていたらしい。
研究者はそこから魔力を取り込んで生命活動に利用していたのではないかと推測している。
「……昔の人も、結構調べてたんだね」
ヴェルトは素直に感心した。
「そりゃそうだろ。十一人も死んでるんだ。正体も分からず放っておけるかよ」
「うん、そうだね」
彼女はページをめくり標本の処分記録を見つけた。
解剖された死体は約二年間保存され、その間に残留魔力の測定や組織の経過観察が行われていた。
しかし再生や活動再開は確認されず、最後には内部の魔力もほぼ失われている。
その後、正式な手続きを経て処分された。
「……じゃあ、五十二年前の個体がそのまま生きてた、ってことはなさそう」
「少なくとも、記録を信用するならな」
ガルドは腕を組んだ。
「俺も最初は死んだふりでもしてたんじゃねえかと思ったんだが」
「うん。でも二年間も解剖された状態で保存されてたなら、そう考える理由は薄いよね」
「だろうな」
そこで資料を整理していた調査員が別の地図を持ってきた。
「ヴェルトさん。地下器官の分布図がありました」
「ありがとう!」
ヴェルトは椅子を少し引き、地図を広げる場所を作った。
五十二年前の地図には当時確認された魔力減少地点と、地中から発見された管状器官の位置が書き込まれていた。
現在の地図と重ねると両者の差は一目で分かる。
「……あれ、随分狭いね」
「はい。当時確認された範囲は現在の十分の一にも満たないようです。ただし、当時の調査がどこまで徹底していたかは不明です」
「うん。調べてない場所にもあったかもしれないもんね」
ヴェルトは二枚の地図を見比べた。
仮に五十二年前のものと現在のものが同種の生物だとしても、同一個体である必要はない。
別の個体が現れた可能性もあれば複数の個体が地中で繋がっている可能性もある。
昨日見つけた個体がまだ十分に成長していないものだったという考え方もできた。
ただ、どれも現時点では推測にすぎない。
「……もう一つ気になるな」
ヴェルトは昨日の測定記録を手元へ引き寄せた。
「この子、吸った魔力を全部自分で使ってるのかな?」
ガルドが眉を上げる。
「どういう意味だ?」
「昨日、切れた器官から魔力が流れていくのを見たでしょ。そのときは、谷にいた個体へ送ってると思ったんだけど……」
彼女は地図に描かれた谷の位置へ指を置いた。
「測定した流れ、途中で終わってないんだよね」
調査員が記録を確かめる。
「……確かに。谷の地点からさらに地下へ続く反応があります」
「そう。それが気になる」
ヴェルトは笑った。
昨日の撤退判断を後悔しているわけではない。
仲間たちを無事に帰す必要があったし、あの場で深入りすべきではなかった。
それでも知らないことが増えたのは嬉しかった。
「もしかしたら、あの子は集めた魔力を別の何かへ渡してるのかもしれないね」
ガルドはしばらく地図を見つめ、それから低く唸った。
「……だとしたら、谷にいた奴を倒しても終わらねえな」
「うん。だから、そこを調べたい」
ヴェルトが答えたところで会議室の扉が開いた。
入ってきた支部責任者はいつもより険しい表情をしていた。
「皆さん、追加の報告があります」
手にした書類を卓上へ置く。
「本日より、東方森林の指定調査区域について、危険度を暫定Sランク以上として扱うことになりました」
室内が静まり返った。
Sランク。
それは一般の冒険者が軽々しく踏み込める危険度ではなかった。
「周辺地域への影響も考慮し、東方面の低ランク依頼は当面停止します。調査に参加する高位冒険者についても、現場責任者の指示に従い、単独での深入りを禁止します」
ガルドが頷く一方、ヴェルトは地図から視線を離さなかった。
今の危険度指定は昨日戦った小型個体一体の強さだけを評価したものではない。
広範囲に及ぶ魔力減少、地中に伸びる器官、原因不明の振動、魔術や身体強化への影響。
そして、五十二年前の大量死亡事故。
そのすべてを考えれば慎重になるのは当然だった。
「……ねえ」
ヴェルトは顔を上げた。
「次の調査、地面の下を調べる準備もしたいな」
責任者は一瞬だけ黙った。
そして、深いため息をつく。
「……まずは方法を検討しましょう」
「うん!」
嬉しそうに返事をするヴェルトを見て、ガルドは苦笑した。
「お前さん、本当に冒険が好きなんだな」
「うん、大好き!」
迷いのない返事だった。
ただし、だからといって準備を省くつもりはない。
次に森へ入るときには魔力の減少に耐えられる装備、撤退に必要な余力、地下を安全に調査する方法を用意しなければならない。
未知を見つけることと、生きて帰ること。
ヴェルトにとってその二つは最初から同じ冒険の一部だった。
*
冒険者ギルドの一階ではダスが依頼掲示板の前で立ち尽くしていた。
「……ない」
隣に立つリュネが、彼の手元を覗く。
「何が?」
「依頼がない!」
正確には依頼そのものは沢山あった。
西街道の護衛、荷物の運搬、街中の雑務、採取依頼。
掲示板には様々な仕事が並んでいる。
ただ、ダスが今日やってみようと考えていた、街の外へ出る討伐や採取の依頼は大幅に制限されていた。
東方森林の異変に伴い、支部全体で警戒が強化されているためだ。
とりわけGランクの新人に対しては、不要な外出を避けるよう受付からも説明が行われていた。
「昨日までは普通にあったのになぁ」
残念そうに依頼書を眺めるダスへ、リュネが小さく笑う。
「仕方ないね。調査が続いてるんだし」
「まあ、そうなんだけどさ」
ダスは腕を組んだ。
昨日は農場で柵を直し、家畜小屋を掃除し、最後には逃げた鶏まで捕まえた。
仕事としては十分に楽しかったが、今日は少し違うことをやってみたかったらしい。
「……よし。じゃあ今日は休みにするか!」
切り替えは早かった。
リュネが目を瞬かせる。
「もう決めたの?」
「おう。無理して外へ出る必要もないしな。休むのも冒険者の仕事だろ?」
「ふふっ。そうだね」
二人が掲示板から離れようとしたところで背後から声がかかった。
「ダス!」
振り返るとフィナが片手を上げて近づいてきていた。
背中にはいつもの短槍を背負い、その隣には兄のレオがいる。
「おはよう、フィナ!」
「おはよう。今日は依頼に行かないの?」
「行こうと思ったんだけど、外の仕事が制限されてるだろ? どうしようかなって話してたところ」
「ああ、そうだよね。私たちも今日は街で待機なの」
フィナは少し困ったように笑った。
東方の警戒が続く間、彼女たちのような低ランク冒険者にも、可能な範囲で街に留まるよう指示が出されているらしい。
レオは掲示板を見てから、ダスへ顔を向けた。
「そういや、お前ら模擬戦には出ないのか?」
「模擬戦?」
「ギルドの訓練場だよ。今日は外へ出られない奴が多いから、結構人が集まってるぞ」
その言葉にダスの表情が明るくなった。
「おっ、それはいいな!」
「……あ」
フィナが小さく声を漏らした。
ダスはすぐに彼女へ向き直る。
「なあ、フィナ。俺と一戦やらないか?」
「私と?」
「おう! この前より少しは上達したと思うんだよな」
フィナはしばらく彼の顔を見つめた後、にやりと笑った。
「いいよ。今度こそ遠慮しないからね?」
「望むところだ!」
勢いよく答えたダスにレオが呆れたような顔をした。
「おいおい。お前、この前もフィナに負けただろ」
「だから面白いんじゃないか!」
「……その考え方、嫌いじゃねえけどな」
レオは笑い訓練場の方へ顎をしゃくった。
「行こうぜ。ちょうどガルドさんもいるみたいだしな」
*
訓練場には思った以上の人数が集まっていた。
壁際には木剣や模擬用の槍、盾などが並び、中央では冒険者たちが二人一組になって稽古を行っている。
窓から入る風に汗と木材の匂いが混ざり、時折、武器同士がぶつかる乾いた音が響いた。
東方の調査が長引いているせいか、普段は外で仕事をしている冒険者も今日はここにいるらしい。
そんな中、ガルドは訓練場の端で若い冒険者に剣の構えを教えていた。
「だから、腕だけで振るなって言ってるだろ。腰も使え。……そうだ、今の方がいい」
一通り指導を終えたところでダスたちに気付き、片手を上げる。
「おう、ダス。今日は依頼じゃねえのか?」
「休みにした! その代わりフィナと模擬戦するぞ!」
「ほう?」
ガルドは面白そうに眉を上げた。
「この前、負けてなかったか?」
「負けたぞ!」
「随分元気な返事だな……」
苦笑しながらも、ガルドは訓練場の一角を空けてくれた。
二人はそれぞれ模擬用の武器を選ぶ。
ダスは木剣。
フィナは普段の短槍と長さを合わせた模擬槍だった。
「じゃあ、始めようか」
フィナは軽く肩を回すと、槍を構えた。
先端をダスへ向け、右足を少し引く。
何度も繰り返してきた構えなのだろう。
身体に余計な力は入っていない。
対するダスは木剣を握り直し、足の位置を確かめるように動かした。
その様子を見て、フィナが少し笑う。
「前より構えがよくなった?」
「だろ? 色々教えてもらったからな!」
「じゃあ、ちゃんと見せてね」
フィナはそう言って一歩踏み込んだ。
最初の突きは速かった。
ダスは木剣で受けようとしたが、槍の先端が思った以上に遠くから伸びてくる。
慌てて身体を引いたところへ、フィナはさらに一歩踏み込んで間合いを詰めた。
「おっと!」
肩を狙った二撃目をかわすと、ダスは横へ回り込もうとした。
しかしフィナは槍を引き戻し、彼の進路を塞ぐ。
「前より動けてるけど、まだ甘いよ!」
「くそっ、長い武器って便利だな!」
「便利だから使ってるんだよ!」
フィナの返答に周囲から笑いが起きた。
ダスも笑ったが、すぐに目の前の槍へ集中する。
彼の剣の振り方は前回より幾分ましになっていた。
足運びにも以前ほどの無駄はなく、相手との距離を確かめようとする動きが増えている。
しかし、相変わらず剣の扱いそのものはぎこちない。
一度踏み込みを誤れば、すぐにフィナの槍が先に届く。
何とか防いでも、そこから攻撃へ繋げられない。
「……なるほどなぁ」
ダスは息を整えながら呟いた。
「こうしてみると、槍って結構厄介だな」
「今さら?」
「いや、使う側と相手にする側じゃ違うなって」
「そういうものだよ」
フィナは笑いながら構えを直した。
次の攻防ではダスが先に仕掛けた。
槍の先端が動いた瞬間に横へ踏み込み、間合いの内側へ入ろうとする。
フィナもすぐに対応し、槍の柄を引いて身体の向きを変えた。
木剣と柄がぶつかる。
一度、二度。
三度目でフィナが強く押し返すと、ダスは大きく後ろへ下がった。
そして、その直後だった。
フィナが槍を突き出すふりをして、低い位置から足元へ薙ぎ払った。
ダスは一瞬で反応した。
木剣による防御を捨て、身体を斜め後方へ引く。
槍の柄は足先をかすめる位置を通り過ぎ、空を切った。
それ自体は、危険な攻撃を避けただけの動きだった。
しかし。
「……ん?」
壁際で見ていたガルドが僅かに目を細めた。
フィナは今の攻撃から間髪入れずに槍を引き戻し、上段へ繋げている。
ダスはその動きへ対応しきれず、木剣で辛うじて受けたものの、体勢を崩した。
「一本!」
フィナの槍先がダスの胸元で止まる。
勝負はフィナの勝ちだった。
「……負けた!」
ダスが大きく息を吐く。
そして、すぐに笑った。
「いやぁ、上手いな!」
「ふふん。私だって、ずっと槍を使ってるんだから!」
フィナは得意そうに胸を張った。
「でも、前よりは強くなってたよ。特に足の動き」
「本当か?」
「うん。前みたいに無茶な踏み込みをしなくなったし」
「おお!」
ダスは嬉しそうに木剣を見下ろした。
実際に強さがどう変化したかはともかく、彼は今、普通の新人剣士として扱われている。
そして、その立場で教えてもらい、褒められ、失敗することを存分に楽しんでいた。
一方、ガルドは先ほどの動きを思い返していた。
奇妙なのは、剣の振り方ではない。
あの低い薙ぎ払い。
ダスは槍が足元へ向かうよりも早く、危険な位置から身体を外していた。
偶然にしては動きがよすぎる。
だが、その前後の攻防は明らかに下手だった。
槍の間合いへ入る方法も、剣を振る位置も、まだまだ改善の余地がある。
「……ダス」
ガルドが声をかけると、彼はすぐに振り返った。
「ん?」
「お前、剣は本当に初心者なんだよな?」
「おう。全然上手くないだろ?」
「まあ、そうなんだが……」
ガルドは腕を組んだ。
「妙に危ねえ動きをしないんだよな、お前」
「……危ない動き?」
「そうだ。技は下手なんだが、致命的なところには身体を置かねえ。さっきの槍もそうだ」
ダスは少し考えるような顔をした。
「……ああ」
そして、何でもないことのように笑う。
「死ぬのは嫌だからな!」
あまりにも当たり前の返事にガルドは一瞬言葉を失った。
「……そりゃそうだろうけどよ」
「だったら、危ないところには立たない方がいいだろ?」
「……まあな」
理屈は通っている。
しかし、それを戦闘中に実行するのは簡単ではない。
まして、剣の扱いすら覚束ない新人なら尚更だ。
ガルドはしばらくダスの顔を見つめていたが、結局それ以上は追及しなかった。
「……変な新人だな、お前」
「はははっ! よく言われる!」
隣で聞いていたリュネが口元へ手を当てて笑っていた。
ガルドの観察は間違っていない。
ダスが演じているのは剣を使い慣れていない新人だ。
しかし、彼自身が本来持っている経験や判断まで消えているわけではない。
剣を上手く扱えないことと、危険を理解できないことは別だった。
ただし、その事情をガルドが知る由もない。
「……まあいい」
ガルドは肩をすくめた。
「次は剣の振り方もちゃんと覚えろよ。避けるだけじゃ勝てねえぞ」
「了解!」
元気よく返事をしたダスは再び木剣を構え直した。
「じゃあ、もう一回やるか!」
「えっ、まだやるの!?」
フィナが驚く。
「当然だろ! 次こそ勝つぞ!」
「……ふふっ。いいよ!」
二人は笑いながら位置についた。
訓練場には再び、木剣と模擬槍のぶつかる音が響き始めた。
*
午後になって、エルノア支部の受付前に人だかりができていた。
東方森林の危険度が暫定S以上と判断されたことで、支部は依頼の受注制限と冒険者の配置を見直していた。
通常依頼に加え、街に残る低ランク冒険者にも待機や補助作業を割り振る必要が生じている。
そんな中、訓練場から戻ってきたダスたちは、ミーナに呼び止められた。
「ダスさん、リュネさん。少しよろしいですか?」
「ん? 何かあった?」
「お二人の冒険者ランクについて、お話があります」
その言葉を聞いた瞬間、ダスは嫌な予感がしたように冒険者証を握った。
ミーナは事情を説明し始める。
東方の緊急対応に伴い、エルノア支部では一定の条件を満たしたGランク冒険者について、昇格査定の手続きを簡略化する特例が認められたらしい。
通常なら別途受ける必要のある査定の一部を、これまでの依頼実績と受付評価によって代替できるという。
「お二人は、これまで受注された依頼をすべて達成されています。依頼主からの評価も良好で、特に問題行動の報告もありません」
「……うん」
「そのため、今回の特例によってFランクへの昇格条件を満たしました」
「…………」
ダスが黙った。
ミーナは書類を確認する。
「もちろん、ランクが上がっても危険区域への立入制限は変わりません。ただ、今後の依頼受注や緊急時の人員管理を考えると、昇格していただいた方が――」
「……ミーナさん」
ダスが神妙な顔で口を開いた。
「はい?」
「俺のGランクはどうなるんだ?」
「……はい?」
ミーナが目を瞬かせる。
「昇格されますので、冒険者証の等級表示がFになりますが……」
「……そうか」
ダスは手元の冒険者証を見下ろした。
数日前、初めて受け取ったばかりの証だ。
まだ大きな傷もない。
その表面には彼が散々眺めてきた《G》の文字が刻まれている。
薬草を採り、角兎を討伐し、逃げた荷馬を探し、小牙鼠を倒した。
資材を運び、農場の仕事も手伝った。
どれも彼にとっては楽しい仕事だった。
そして、そのすべてをこの冒険者証とともに経験してきた。
「……ちょっと寂しいな」
ぽつりと漏れた言葉にミーナは少しだけ表情を和らげた。
「……気に入っていらっしゃったんですね」
「おう。すっごく」
「でも、昇格はこれまでの活動が評価された結果ですよ」
「……そうだよなぁ」
ダスは冒険者証をもう一度見た。
その隣でリュネが楽しそうに彼を眺めている。
「ダス。Gランクで色々できたんだし、Fになったらまた違う仕事もできるよ」
「……ああ」
「せっかくだから、上がってみたら?」
ダスは少し考えた。
そして顔を上げる。
「……そうだな!」
切り替わるまでが早かった。
「よし! Fランクになろう!」
ミーナは思わず笑った。
「ありがとうございます。では、手続きを進めますね」
しばらくして、二人の冒険者証の等級表示が更新された。
《F》。
ダスは受け取った証を手に取り、じっと眺めた。
さっきまでGだった場所に、今度はFがある。
「……おお」
表情が徐々に明るくなる。
「リュネ!」
「うん?」
「見ろ! Fだぞ!」
「ふふっ。本当だね」
「一つ上がった!」
「うん。おめでとう」
ダスは冒険者証を掲げた。
「……いいな、これも!」
リュネが吹き出した。
「やっぱり気に入った?」
「おう!」
さっきまでの寂しさはどこへやら。
ダスはすっかり新しい等級に夢中になっていた。
近くで話を聞いていたフィナが、呆れたように笑う。
「ダスって、ほんと変わってるよね」
「そうか?」
「だって、普通は昇格できたら最初から喜ぶでしょ!」
「いやぁ、Gもよかったからな!」
「……もう」
フィナは笑いながら首を振った。
「まあ、おめでとう!」
「ありがとう!」
レオも近づいてきて、ダスの肩を軽く叩いた。
「これで俺たちと同じくらいの依頼も受けやすくなるな。今度、一緒に何かやるか?」
「おっ、いいな!」
ダスは嬉しそうに頷いた。
「ぜひ頼む!」
その様子を見ながら、ミーナは受付の記録へ昇格の処理を書き込んだ。
ダス、リュネ。
両名ともFランク。
エルノア支部に登録されてから、まだ一週間余り。
二人の新人冒険者はこうして最初の昇格を迎えた。
*
夕方、東方森林の調査資料が再び更新された。
ヴェルトたちは地下魔力の移動方向を調べるため、複数地点で測定した記録を重ね合わせていた。
その結果、昨日遭遇した《吸脈殻虫》へ向かう流れと、そこからさらに深い場所へ続く流れが区別できるようになってきた。
「……やっぱり」
ヴェルトは地図へ身を乗り出した。
「これ、下へ続いてるね」
「はい。確実な到達地点までは分かりませんが、少なくとも谷の個体で魔力の移動が止まっているわけではありません」
調査員は記録へ線を書き加えた。
谷の下。
さらに東寄りの地下。
深度が増すにつれて測定精度は落ちているものの、複数の記録は同じ方向を示していた。
「……なるほどな」
ガルドが低く唸った。
「谷の奴は単に魔力を集めてただけかもしれねえってことか」
「うん。もちろん、自分でも使ってるとは思うけど」
ヴェルトは頷いた。
「集めた分の全部を消費してるわけじゃなさそうだね」
「だとすると、下にいるのは何だ?」
その問いに、ヴェルトは首を傾げた。
「分からない」
考えられる可能性はいくつもある。
別の個体。
巨大な貯蔵器官。
あるいは今まで誰も見たことのない構造を持った生物の一部。
ただ、そのどれであっても、現状の情報だけでは断定できない。
「……でも、行ってみたいな」
ヴェルトが小さく呟くと、ガルドがすぐに顔を上げた。
「おい、今すぐ潜るとか言い出すなよ」
「言わないよ!」
「本当か?」
「本当だって。ちゃんと準備するもん」
ヴェルトは少し不満そうに頬を膨らませた。
その反応にガルドが笑う。
「いや、悪い悪い。昨日、撤退を決めたのはお前さんだったな」
「そうだよ」
「分かってる。だから、準備の方は俺たちに任せろ」
その言葉を聞いて、ヴェルトはすぐに笑顔へ戻った。
「うん。よろしく!」
ガルドは改めて地図を見下ろした。
地下に何があるのかは分からない。
ただ、一つだけはっきりしたことがある。
五十二年前に一体を討伐したことで事件が終わった、という記録だけでは現在の異変を説明できない。
原因は、あの小さな殻の先にある。
そう考え始めた者がこの会議室には増えていた。
*
その夜、エルノアの宿屋街ではダスが新しい冒険者証を手にしていた。
「……Fランクかぁ」
寝台に腰かけながら、何度目か分からない呟きを漏らす。
リュネは窓際の椅子へ座り、そんな彼を眺めていた。
「まだ見てるの?」
「おう。何かいいなと思ってさ」
「Gのときも同じこと言ってたね」
「はははっ! そうだったな!」
ダスは笑い、証を指先でくるりと回した。
「でもさ、リュネ。俺たちちゃんと冒険者として上がったんだな」
「うん」
「薬草採って、魔物倒して、荷物運んで、農場の仕事もして……」
思い返してみれば特別な事件など何もない日も多かった。
ただ仕事を探し、依頼を受け、報酬をもらう。
そんな生活を続けているだけで、いつの間にか最初の昇格へ届いていた。
「……面白いなぁ」
ダスは満足そうに笑った。
リュネも微笑む。
「次はEランク?」
「いや、まずFランクを楽しむ!」
「ふふっ。そう言うと思った」
床で休んでいたヴァルがそこでようやく口を開いた。
「お前は、ランクが上がるたびに同じことを言うつもりか?」
「いいだろ? 楽しいんだから」
「……まあ、お前らしいがな」
ヴァルは静かに尾を動かした。
ダスは笑って冒険者証をしまうと、そのまま寝台へ身体を倒した。
「明日は何をするかなぁ」
「まだ制限が続くと思うよ」
「そっか。じゃあ、また訓練でもするか」
「フィナに勝てるといいね」
「次こそ勝つぞ!」
リュネは声を出して笑った。
その様子を見ていたヴァルも、呆れたようにしながら、どこか楽しそうだった。
三者にとってエルノアでの生活はまだ始まったばかりだ。
ただ、その穏やかな時間の裏側で、東方森林の異変は確実に進行していた。
*
地中深く。
日の光が届かない空洞に、無数の硬い殻が並んでいる。
その一つ一つから半透明の器官が伸び、複雑に絡み合いながら、さらに奥へと続いていた。
地表近くの木々から取り込まれた魔力は細い器官を通って小型の個体へ集まり、そこから別の経路を経て、地下の中心部へ運ばれていく。
地上で《吸脈殻虫》と呼ばれ始めた生物。
しかし、あれは全体の一部にすぎなかった。
地下に並ぶ小型個体は広大な範囲から魔力を集めるための採餌体だった。
その数は百を超えている。
さらに深い場所にはそれらとは比較にならないほど巨大な殻があった。
長い年月をかけて地下へ張り巡らされた器官が、各地から集めた魔力をそこへ送り続けている。
巨大な中央個体。
その身体は長い眠りの中にあった。
五十二年前にも一度だけ目覚めかけている。
だが、当時は地上へ近づいた採餌体が人間たちに討伐され、集められる魔力も減少した。
そのため、中央個体は再び深い眠りへ戻っていた。
そして今。
五十二年前よりも多くの魔力が地下の器官を通って集められている。
巨大な殻の奥でゆっくりと何かが動いた。
周囲に並ぶ採餌体も僅かに身体の向きを変えていく。
一体。
また一体。
さらに遠くの個体も。
地中に広がる器官が収縮し、それぞれの身体へ魔力を送り込んだ。
長く眠っていたものが再び活動を始めようとしていた。
そして翌朝。
エルノア東方の監視地点では夜明けとともに異常を知らせる声が響いた。
「……おい、あれ!」
見張りの冒険者が森の奥を指さす。
木々の間に硬い殻を持つ個体がいた。
一体ではない。
二体、三体と姿を現し、その数はさらに増えていく。
監視員たちは慌てて距離を取り、双眼鏡と記録器具を使って確認を続けた。
やがて、数え終えた冒険者の一人が、顔色を変えた。
「……十七体」
周囲が静まり返る。
「十七体、確認!」
しかも、そのすべてが同じ方向を向いていた。
西。
交易都市エルノアのある方角だった。




