第7話『地の下で喰うもの』
朝のエルノアは今日も賑やかだった。
石畳の通りを荷馬車が行き交い、軒先では商人たちが商品の準備を始めている。
焼きたてのパンの匂いが路地へ流れ、荷物を抱えた人々が足早に仕事場へ向かっていた。
その中をダスは上機嫌で歩いていた。
「いやぁ、いい天気だ!」
隣を歩くリュネが空を見上げる。
「うん。今日は少し暖かいね」
「ああ。絶好の冒険日和だな!」
「今日は何の依頼にするの?」
「それを今から決める!」
ダスは胸を張った。
昨日の資材運搬で二人は五件目の依頼を達成した。
すでにFランクへの昇格査定を受けられるだけの実績も積んでいる。
しかし、ダスにはまだ昇格するつもりがなかった。
《G》。
最低ランクを示すその一文字がどうにも気に入っているらしい。
昨夜も宿で冒険者証を眺めリュネとヴァルに呆れられていた。
もっとも、本人は少しも気にしていない。
「今日こそ、何か新しい仕事があるといいな!」
「昨日も同じこと言ってたよ」
「実際、新しい仕事があっただろ?」
「ふふっ。そうだね」
足元を歩くヴァルは二人の会話を聞きながら尻尾を揺らしている。
白い小型飛竜の姿にもすっかり慣れた様子だった。
ただし、慣れたからといって喜んでいるわけではない。
昨日は倉庫の作業員に荷運びができるかと聞かれ、一昨日は通行人に子供の従魔と間違われた。
この姿を選んだのは自分だが人間たちからの扱いには思うところがある。
もっともダスがそれを気にするはずもなかった。
「よし、今日も稼ぐぞ!」
元気よく宣言した彼は意気揚々と冒険者ギルドの扉を開けた。
*
「……農場?」
依頼書を手にしたダスが首を傾げた。
「そう。西側の農場から来てる依頼だね」
リュネが横から覗き込む。
依頼内容は《農場雑務補助》。
柵の修理、飼料運び、家畜小屋の清掃、その他必要に応じた軽作業。
危険度は低く、Gランクでも受注可能。
作業量が多いため二人以上での参加が推奨されていた。
「……いいな」
ダスの目が輝いた。
「農場って、行ったことはあるけど働いたことないんだよな」
「そうだね」
「よし。今日はこれだ!」
依頼書を持って受付へ向かうとミーナが顔を上げた。
「おはようございます、ダスさん、リュネさん」
「おはよう!」
「今日は農場のお仕事ですか?」
「おう。面白そうだからな」
ミーナは依頼書を確認した。
「こちらは一日仕事ですね。依頼主の方は、ギルドから西へ徒歩で一時間ほどの農場にいらっしゃいます」
「結構近いな」
「ただ、作業内容が多いので、汚れてもいい服装で行かれた方がいいですよ」
「大丈夫だ!」
自信満々に答えるダスへミーナは苦笑を浮かべた。
「昨日は資材運搬でしたよね。疲れは残っていませんか?」
「ちょっと腕がだるい!」
「……でしたら、無理はしないでくださいね」
「おう!」
あまりにも元気のいい返事だった。
ミーナは少し心配になったが昨日の依頼でも問題なく仕事を終えている。
本人の体調に問題がなければ、受注を止める理由はない。
手続きを済ませたダスは、依頼書を掲げた。
「さあ、農場へ行くぞ!」
リュネが笑って後を追う。
その背中を見送りながらミーナは小さく呟いた。
「……本当に楽しそうですね」
冒険者になって七日。
あの新人はまだ一度も大きな獲物を討伐していない。
しかし、本人は誰よりも冒険者生活を楽しんでいるように見えた。
*
エルノア東方森林地帯。
同じ朝、ヴェルトは調査隊の冒険者たちとともに昨日発見した異常地点へ向かっていた。
昨夜のうちに調査結果を整理し今朝は追加の人員と測定器具を用意している。
周囲に同行するのはAランク冒険者を中心とした経験者たちだった。
「昨日の振動、他の地点でも確認されたの?」
ヴェルトが尋ねる。
「はい。離れた二ヶ所でもほぼ同時刻に報告がありました」
「どちらも地下から?」
「少なくとも、地表で何かが衝突した痕跡はありません」
「そっか……」
ヴェルトは手元の地図を見る。
異常な魔力減少が確認された場所にはいくつもの印が付けられていた。
木から魔力が失われた地点。
地表近くに小さな穴が見つかった地点。
半透明の膜状物が確認された地点。
その分布は昨日までに把握していた範囲よりも広い。
ただ、印のない場所に異常が存在しないとは限らなかった。
「昨日、振動があった場所から調べようか」
「了解です」
一行は森へ入った。
しばらく進むと周囲の木々に変化が現れ始める。
葉の色が薄くなり幹の表面には小さな穴がいくつも残されていた。
ヴェルトは一本の木の前で足を止めた。
「……ここだね」
昨日は表面の観察だけで終えた場所だった。
今日は周囲を掘り穴の奥がどうなっているのか確認する予定になっている。
「じゃあ、慎重にお願い」
「はい」
土を掘り始めて間もなく調査員の手が止まった。
「……ありました」
根の下に薄い半透明のものが見えていた。
幅は指二本ほど。
濡れた薄皮にも寒天状の物質にも見える。
それは土の中を横切るように伸び、木の根へ密着していた。
「これが例の膜か」
同行していたAランク冒険者が呟く。
ヴェルトはしゃがみ込み、注意深く観察した。
「……ちょっと待って」
彼女の耳が動いた。
「これ、動いてない?」
全員が目を凝らす。
最初は分からなかった。
しかし、しばらく見つめていると半透明の表面がごく僅かに収縮した。
「……本当だ」
調査員が息を呑む。
「脈動しています」
ヴェルトは目を輝かせた。
「へえ……!」
その声には隠しきれない好奇心が滲んでいた。
「じゃあ、ただの膜じゃないのかもしれないね」
調査員が器具を取り出す。
「一部を採取します」
「うん。でも、切ったとき何が起きるか分からないから、全員少し離れて」
周囲の冒険者たちが位置を変える。
作業員が細い刃を使い、半透明の組織を慎重に切断した。
その瞬間だった。
「……っ!?」
表面が激しく収縮した。
切断された端が土の中へ引き込まれ、周囲の魔力が一瞬だけ大きく乱れる。
「魔力が……!」
測定器を見ていた調査員が声を上げた。
「減少しています!」
「どこから?」
「周囲です! 土壌と木の根、それに……!」
彼は慌てて数値を確認する。
「私たちの魔力にも反応しています!」
ヴェルトの表情が変わった。
「全員、下がって!」
その指示に冒険者たちは素早く後退した。
半透明の組織は切断面から細い枝のようなものを伸ばしていた。
周辺の土に触れ、木の根へ絡みつき、再び魔力を吸収し始める。
しかし、それは長く続かなかった。
数十秒ほど経つと収縮が弱まり表面の動きも落ち着いた。
「……止まった?」
「いえ、微弱ですが反応は続いています」
ヴェルトは少し離れた位置から観察していた。
「……なるほど」
口元に笑みが浮かぶ。
「これ、面白いね」
同行者の一人が苦笑した。
「面白い、ですか……?」
「うん。だって、今までただの膜だと思ってたものが、自分で動いて魔力を吸ってるんだよ?」
ヴェルトは地面を指さした。
「しかも、切られたら吸収量が増えた。傷を治そうとしたのか、危険を感じたのか……まだ分からないけど」
彼女は少し考えた。
「少なくとも、生きた組織みたいだね」
調査員が頷いた。
「はい。通常の魔術式による吸収装置とは反応が異なります」
「じゃあ、これが何かの生物の一部だとしたら?」
ヴェルトの問いに周囲が静かになった。
「……本体がいる?」
一人が呟く。
「かもしれないね」
ヴェルトは頷いた。
「ただ、この部分だけで独立した生物なのかもしれないし、もっと大きな生き物に繋がってるのかもしれない」
彼女は地面に残る半透明の組織を見た。
「まずはどこまで続いてるのか調べよう」
*
「……おい、新人!」
エルノア西側の農場では、ダスが木槌を片手に立っていた。
目の前には古びた木製の柵。
そして、その向こうには広い牧草地があった。
「その板、反対だ!」
「……ん?」
ダスは手に持っていた板を見る。
「反対?」
「そうだ! 割れ目が外側に向くように取り付けろ!」
「おお、なるほど!」
彼は板を一度外し、向きを変えた。
農場主の男は腕を組んでその様子を眺めていた。
「……あんた、本当に冒険者か?」
「おう!」
「大工仕事は?」
「初めてだ!」
「だろうな!」
男は豪快に笑った。
「まあ、覚える気があるならいい。もう一回やってみろ」
「任せろ!」
ダスは木槌を握り直した。
しかし、釘を打とうとして今度は指の位置が悪いことに気付く。
「あっぶね」
慌てて手を引っ込めた。
農場主が笑った。
「指まで打つなよ!」
「危なかった!」
「笑い事じゃねえぞ!」
そんなやり取りを繰り返しながらダスは柵の修理を続けていた。
少し離れた場所ではリュネが家畜の飼料を運んでいる。
大きな袋を持ち上げ、指定された小屋まで運ぶ作業だった。
「リュネ! そっちはどうだー!」
「順調だよー!」
「俺ももう少しで終わる!」
「頑張ってね!」
その声を聞いた農場主が感心したように言った。
「仲がいいな、お前ら」
「おう!」
ダスは即答した。
「長い付き合いだからな」
「そうか。夫婦か?」
「ん?」
ダスが首を傾げた。
遠くから、その会話が聞こえたらしい。
リュネがこちらへ顔を向けた。
「……ふふっ……ふふふ…………」
少し楽しそうに笑っている。
ダスは農場主へ向き直った。
「まあ、家族みたいなもんだな」
「へえ」
男は頷いた。
「そりゃいい。旅をするなら気心の知れた相手が一番だ」
「そうだな!」
ダスは笑った。
その後ろでリュネが静かに微笑んでいた。
*
昼過ぎ。
農場の作業は思った以上に順調だった。
柵の修理を終えたダスは今度は家畜小屋の清掃を手伝っている。
ただし、こちらは予想以上に大変だった。
「……くっさ!」
小屋へ入った瞬間、ダスが顔をしかめた。
農場主は腹を抱えて笑った。
「当たり前だろ!」
「いや、分かってたけど!」
「ここで寝泊まりしてる奴らの小屋なんだぞ!」
「……すげえな、農場の仕事」
ダスは感心したように呟いた。
床に積もった藁を集め、汚れた部分を取り除き、新しい敷き藁へ交換する。
簡単そうに見えて、やることは多い。
しかも、家畜たちは作業中だからといって大人しくしてくれるわけではなかった。
一頭がダスの服を引っ張る。
「おい、こら!」
振り返ると別の一頭が藁を散らしていた。
「待て待て! 今片付けたばっかりだぞ!」
さらに後ろから別の個体が身体を押し付けてくる。
「……おい!」
ダスはよろめいた。
小屋の入口ではリュネが笑いを堪えていた。
「……大人気だね」
「全然嬉しくないぞ!」
「ふふっ」
ダスは家畜たちを見回した。
そして、少し考えた。
「……よし」
突然、真剣な顔になる。
「分かった。これは戦いだな」
「……え?」
リュネが首を傾げる。
「家畜との知恵比べだ!」
ダスは木製の仕切りを持ち上げた。
それを使い、家畜たちが入ってこない小さな作業区域を作る。
すると、今度は邪魔されずに藁を交換できるようになった。
「……おお!」
ダスは目を輝かせた。
「勝った!」
リュネが吹き出した。
「ふふっ……何に?」
「家畜に!」
「……ふふふっ!」
ダスも笑った。
「いやぁ、今日も勉強になるな!」
その様子を見ていた農場主はすっかり呆れていた。
「……変な冒険者だな、お前」
「よく言われる!」
「褒めてねえぞ!」
農場に笑い声が響いた。
*
東方森林地帯では調査がさらに進んでいた。
半透明の組織は一ヶ所だけに存在するものではなかった。
複数地点で地面を掘り返した結果。
木の根に沿って伸びるもの、
土壌の深い位置を横切るもの、
地中の魔力が比較的濃い場所へ集まるものなど、
様々な形で確認された。
「……全部、同じ方向へ続いてる?」
ヴェルトが尋ねる。
調査員が地図へ印を書き加えた。
「少なくとも、確認できた範囲では東側へ伸びています」
「どこまで?」
「まだ分かりません。ただ、ここから数キロ離れた地点でも、同じ組織が見つかっています」
「数キロ……」
ヴェルトは地図を見つめた。
それほど広い範囲へ、一つの生物が器官を伸ばしている。
もし本当に同一個体へ繋がっているなら、普通の虫や植物とは比較にならない採餌構造だった。
「……ねえ」
ヴェルトが調査員を見る。
「さっき切った部分、吸った魔力はどこへ行ったの?」
「それを調べていました」
調査員は測定器を示した。
「周囲から取り込まれた魔力はその場所に留まっていません。組織の内部を通って、一定の方向へ移動しています」
「東?」
「はい」
ヴェルトは笑った。
「じゃあ、何かに送ってるんだね」
「その可能性が高いです」
調査員は地図の東側を指した。
「仮にこれが一つの生物の器官だとすると、魔力を集めるために広い範囲へ展開していることになります」
「……すごいね」
ヴェルトは素直に感心した。
「こんなに広い範囲から、少しずつ食べてるんだ」
彼女は地面を見下ろす。
木の根。
土壌。
地中を流れる魔力。
そのすべてが何かの食事に利用されているのかもしれない。
「……本体、見てみたいな」
思わず呟いた。
同行者の一人が苦笑する。
「ヴェルトさん……」
「あ、ごめん」
彼女は笑った。
「もちろん、慎重にね」
そして地図へ視線を戻す。
「東側に谷があるんだよね?」
「はい。昨日までの調査では、谷の周辺にも魔力減少が確認されています」
「じゃあ、そこまで行ってみようか」
一行は地図上で安全な進路を確認し谷へ向かった。
*
農場では最後の仕事が始まろうとしていた。
「……逃げた?」
ダスが聞き返す。
農場主は頭を掻きながら頷いた。
「ああ。鶏が一羽な」
「鶏?」
「さっき小屋の扉を開けたときに出ちまってな。裏の草地へ逃げたらしい」
ダスは一瞬、真顔になった。
そして。
「……はっはっはっ!」
突然、声を上げて笑い始めた。
農場主が目を丸くする。
「な、何だ?」
「いや、すまん!」
ダスは笑いながら答えた。
「鶏を捕まえる仕事って、結構難しそうだなと思って!」
「……そうか?」
「おう!」
彼は目を輝かせていた。
「よし、任せろ!」
その隣でリュネが首を傾げる。
「そんなに楽しみ?」
「そりゃそうだろ!」
ダスは胸を張った。
「鶏を捕まえるのも、立派な冒険者の仕事だ!」
リュネは少し笑った。
「……そうだね」
二人は農場の裏手へ向かった。
そこには背の低い草が広がる小さな斜面があった。
そして、その先。
一羽の茶色い鶏が悠々と地面をつついていた。
「……いた」
ダスが小声で言う。
リュネも頷く。
「いるね」
「よし」
ダスは姿勢を低くした。
「俺が右から回る」
「じゃあ、私は左だね」
「おう」
二人は静かに距離を詰めた。
鶏は地面をつついている。
まだ気付いていない。
あと五歩。
四歩。
三歩。
「……今だ!」
ダスが飛び出した。
しかし。
「コケェッ!」
鶏が跳ねた。
ダスの両手は空を掴む。
「……あっ!」
目の前を茶色い羽が横切った。
鶏は勢いよく走り出す。
「待てぇ!」
ダスが追う。
「ダス、そっちじゃない!」
リュネが声を上げる。
鶏は急に方向を変え、柵の隙間へ向かっていた。
「……おっと!」
ダスが進路を塞ぐ。
しかし、鶏はその直前でまた方向を変えた。
「……こいつ!」
ダスは笑った。
「なかなかやるな!」
農場主が遠くから叫ぶ。
「羽を掴むなよ! 身体を包むように捕まえてくれ!」
「了解!」
ダスは追いかける速度を落とした。
今度はリュネと距離を取り、逃げ道を少しずつ狭めていく。
鶏は二人の間を行ったり来たりしていたが、やがて草の深い場所へ入り込んだ。
「……よし」
ダスが小さく呟く。
彼は膝を曲げ、両手を広げた。
鶏が動く。
その瞬間、ダスも動いた。
「……捕まえた!」
今度は逃がさなかった。
両手で鶏の身体を包み込み、羽を押さえる。
鶏は少し暴れたが、やがて大人しくなった。
「……はっはっはっ!」
ダスは満面の笑みを浮かべた。
「勝ったぞ!」
リュネが近づいてくる。
「おめでとう」
「いやぁ、強敵だった!」
「ふふっ。そうだね」
ダスは鶏を抱えたまま、満足そうに頷いた。
その姿はどう見ても強大な存在には見えなかった。
ただの新人冒険者。
ただの農場の雑用係。
そして今は一羽の鶏を捕まえたことを心から喜んでいる青年だった。
*
谷へ到着したヴェルトたちは予想以上の光景を目にしていた。
「……これは」
同行者の一人が息を呑む。
谷底には葉の色を失った木々が点在していた。
地面には細い亀裂が走り、岩肌には半透明の組織が幾重にも張り付いている。
それらは地表から地中へ伸び、谷の奥へ向かって集まっていた。
周囲の魔力濃度はこれまで調査した場所よりもさらに低い。
「……ここが中心なのか?」
一人が呟く。
ヴェルトは首を振った。
「まだ分からない。でも集まってる場所ではありそうだね」
彼女は谷底へ視線を向けた。
岩の影。
少し開けた場所に、奇妙なものがあった。
「……あれ?」
ヴェルトが足を止める。
そこにいたのは硬い殻を持つ小さな生物だった。
全高は一・五メートルほど。
四本の短い脚で身体を支え、背中には大きく丸い殻を背負っている。
明瞭な頭部は見当たらず、牙や爪といった目立った武器もない。
一見すると、巨大な甲虫と亀を混ぜたような姿だった。
しかし、その腹部は異様だった。
そこから無数の半透明の器官が伸びている。
細いもの。
太いもの。
地面を這うもの。
岩の隙間へ潜り込むもの。
そのすべてが周囲の土地へ広がっていた。
「……いたね」
ヴェルトが小さく呟く。
同行者たちは武器を構えた。
「ヴェルトさん、どうします?」
「まだ動かないで」
彼女は静かに答えた。
生物はこちらへ反応していない。
殻の内側から、微かな脈動だけが続いている。
ヴェルトは周囲を観察した。
地面を覆う半透明の器官。
それらが、谷の各所からこの個体へ繋がっている。
「……これが、集めてるのかな」
「魔力をですか?」
「うん」
ヴェルトは頷いた。
「少なくとも、ここまではそう見えるね」
そのとき。
生物の殻が僅かに震えた。
「……っ!」
同行者の一人が身構える。
続いて地面を這っていた器官が一斉に収縮した。
谷全体の魔力が急激に動いた。
「……何!?」
調査員が測定器を見る。
「魔力が……吸われています!」
ヴェルトの目が鋭くなる。
「全員、後退!」
直後。
生物の殻の隙間から強い魔力の波が放たれた。
地面が震え、周囲の器官が鞭のように跳ね上がる。
一本が近くの岩を砕いた。
「……来る!」
ヴェルトは前へ出た。
仲間たちへ向かって伸びた器官を素早い一撃で切り払う。
しかし、切断された器官の先端から、さらに細い枝が伸び始めた。
「……再生するんだ」
ヴェルトが呟く。
生物の殻が再び脈動した。
次の瞬間。
「……っ!?」
後方の魔術師が膝をついた。
「魔力が……!」
彼の周囲で発動しかけていた防御魔術が不安定に揺らいでいる。
体内魔力そのものが急激に引き抜かれたわけではない。
しかし、周囲の体外魔力が一気に失われ、術の維持と補助に必要な魔力が不足していた。
別の冒険者も顔をしかめる。
「身体強化が……!」
魔力を利用した強化が弱まっていた。
谷全体が巨大な吸収装置になったようだった。
ヴェルトは状況を見た。
目の前の生物。
地面へ伸びる器官。
急激に減少していく周辺魔力。
そして仲間たちの状態。
「……なるほどね」
彼女は小さく笑った。
「戦うと、一気に食べるんだ」
生物が動いた。
四本の脚で地面を蹴り予想以上の速度で横へ移動する。
ヴェルトはその動きを見切り、横から接近した。
殻へ一撃を加える。
硬い音が響いた。
殻の表面に亀裂が走る。
「……硬い!」
同行者が叫ぶ。
ヴェルトはすぐに距離を取った。
「うん。でも、壊せないほどじゃないね」
彼女は呼吸を整えた。
まだ余裕はある。
この個体を倒すだけなら、十分に可能だろう。
少なくとも、今確認できている能力だけを相手にするなら。
だが。
「ヴェルトさん!」
後方から声が上がった。
「一名、歩行困難です!」
振り返ると魔術師の一人が仲間に支えられていた。
周囲の魔力減少によって術の維持に失敗し、体力も大きく消耗している。
さらに別の冒険者も魔力の使用量を抑え始めていた。
帰還に必要な体力と魔力。
それを失えば、たとえ目の前の生物を討伐できたとしても、安全に森を抜けられるとは限らない。
ヴェルトは一瞬だけ、殻を持つ生物へ視線を向けた。
「…………」
本当はもっと調べたい。
どうやって魔力を吸っているのか。
なぜこれほど広い範囲へ器官を伸ばしているのか。
殻の内側には何があるのか。
この個体はどこから来たのか。
知りたいことは山ほどあった。
しかし。
「……撤退しよう」
ヴェルトが言った。
同行者が驚く。
「討伐しないんですか!?」
「今はしない」
彼女は即答した。
「これ以上ここにいたら、帰るための魔力まで足りなくなるかもしれない」
「ですが、相手はまだ……!」
「うん。倒せるかもしれない」
ヴェルトは頷いた。
「でも、倒せるからって、今倒さなきゃいけないわけじゃないよ」
その言葉に同行者は口を閉じた。
ヴェルトは周囲を見渡す。
「全員、撤退準備。歩けない人には肩を貸して。帰り道は私が確保する」
「……了解!」
冒険者たちが動き始めた。
ヴェルトは最後尾へ回り、殻を持つ生物を警戒する。
相手は追撃してこなかった。
ただ、半透明の器官を地中へ引き戻し始めている。
「……ふうん」
ヴェルトは小さく呟いた。
「追ってこないんだね」
そのことにも興味を覚えた。
しかし、今は観察を続ける時間ではない。
彼女は仲間たちの後を追った。
*
夕方。
農場での仕事を終えたダスたちは依頼達成の証明を受け取っていた。
「いやぁ、助かった!」
農場主が笑った。
「柵も直ったし、小屋も片付いたし、鶏まで戻ってきた!」
「おう! 楽しかったぞ!」
ダスは満面の笑みで答える。
「……変な奴だな、本当に」
農場主は呆れたように笑った。
「普通、家畜小屋の掃除を楽しかったとは言わねえぞ」
「そうか?」
「そうだよ!」
二人は笑い合った。
リュネも横で微笑んでいる。
ヴァルはその少し後ろで静かに座っていた。
農場主が二人を見た。
「また人手が必要になったら頼むぞ」
「おう!」
「今度は鶏を逃がさないようにしておくけどな!」
「はははっ! それは助かる!」
ダスは笑った。
農場を出る頃には空が赤く染まり始めていた。
街道を歩きながらダスは満足そうに伸びをする。
「……いやぁ、今日もいい一日だった!」
リュネが頷く。
「うん。色々できたね」
「ああ。柵も直したし、荷物も運んだし、掃除もしたし……」
ダスは指を折って数えた。
「最後は鶏との戦いだったな!」
「なかなか手強かったね」
「だろ?」
ダスは嬉しそうだった。
そのときリュネがふと東の空へ視線を向けた。
「……ダス」
「ん?」
「ヴェルト、戻ってきたみたい」
ダスも足を止めた。
少しだけ意識を向ける。
「……ああ」
彼は頷いた。
「何か見つけたかな?」
「どうだろうね」
「まあ、帰ってきたなら聞いてみたいな」
リュネが微笑む。
「普通のGランク冒険者がSSSランクの調査内容を?」
「……あ」
ダスは目を瞬かせた。
そして。
「はっはっはっ!」
声を上げて笑った。
「それもそうだな!」
リュネも笑った。
ヴァルは二人の後ろで静かに首を振っていた。
*
その夜。
エルノア冒険者ギルドの会議室では東方調査の報告が行われていた。
長机には地図が広げられ、今日採取した半透明の組織片と測定記録が並べられている。
ヴェルトは椅子へ座り、調査結果を説明していた。
「まず、地中の半透明のものだけど、あれは生きた器官だと思う」
支部責任者が頷く。
「……魔力を吸収する器官、ということですか」
「うん。しかも、かなり広い範囲へ伸びてる」
ヴェルトは地図を指さした。
「確認できた場所だけでも、数キロ以上。もっと広い可能性もあるね」
「……数キロ」
責任者の表情が険しくなる。
「そんなものが、地下に……」
「それと谷で本体らしい個体を見つけたよ」
ヴェルトは続けた。
「全高一・五メートルくらい。四本脚で、硬い殻を持ってた。腹部から大量の器官が伸びてたから、少なくともあの周辺の魔力減少には関係してると思う」
「討伐は?」
「してない」
ヴェルトは答えた。
「周囲の魔力を一気に吸い始めたから、同行者の安全を優先して撤退した」
責任者は頷いた。
「適切な判断です」
「ありがとう」
ヴェルトは笑った。
「でも、まだ分からないことが多いね」
彼女は地図を見た。
「本当にあの個体だけなのか。地中の器官が全部あれに繋がってるのか。それとも、もっと別のものがあるのか……」
そこで言葉を切る。
「……まだ調べたいな」
その声には隠しきれない好奇心があった。
責任者は苦笑した。
「ヴェルト様らしいですね」
「そうかな?」
「ええ」
彼は頷いた。
「ですが、今回は慎重にお願いいたします」
「うん。もちろん」
ヴェルトは素直に答えた。
その後、調査対象には暫定的な識別名が付けられることになった。
《吸脈殻虫》。
地下へ吸魔器官を広げ、魔力を吸収する殻を持つ生物。
正式な種族名ではない。
あくまで調査現場で識別するための仮称だった。
「……吸脈殻虫」
ヴェルトが呟く。
「なかなか分かりやすいね」
「ありがとうございます」
記録担当者が答える。
そのときだった。
会議室の奥で資料を確認していた老職員が不意に声を上げた。
「……待ってください」
全員が振り返る。
老職員は古い記録帳を開いていた。
「……この形」
彼は震える指で一枚の古い図を示した。
そこには四本脚と硬い殻を持つ生物が描かれていた。
ヴェルトが身を乗り出す。
「……あれ?」
目が細くなる。
「これ……」
老職員は、ゆっくり頷いた。
「五十二年前の調査記録です」
会議室が静まり返った。
「当時、調査隊が遭遇した原因個体の図が残されていました」
「……原因個体?」
「はい」
老職員は記録を読み上げた。
「硬質外殻。四肢。地中へ伸びる管状器官。周囲の魔力減少……」
彼は言葉を切った。
「……ほぼ同じです」
ヴェルトは図を見つめた。
「……へえ」
表情が変わる。
「五十二年前にもいたんだ」
「はい」
老職員は頷いた。
「そして……」
彼は次の頁を開いた。
そこには短い報告が記されていた。
《原因個体、討伐完了》
《死体回収》
《研究機関へ搬送》
ヴェルトが目を瞬かせる。
「……討伐されてる?」
「はい」
老職員はさらに記録を確認した。
「少なくとも、当時の報告では……」
彼は顔を上げた。
「五十二年前に同じような個体が確実に討伐されています」
会議室に沈黙が落ちた。
ヴェルトは古い図と今日の観察記録を見比べた。
そして、ゆっくり笑った。
「……そっか」
彼女の目には再び強い好奇心が宿っていた。
「じゃあ、今いるのは……」
そこで言葉を止める。
別個体なのか。
同じ種類の生物なのか。
それともまだ知らない何かがあるのか。
答えは分からない。
しかし。
「……ますます気になるね」
ヴェルトは楽しそうに笑った。
*
エルノア東方森林地帯。
人間たちが去った谷では再び静けさが戻っていた。
硬い殻を持つ小さな個体が地面へ身体を沈めている。
腹部から伸びた半透明の器官はゆっくりと土の中へ潜っていった。
その先は地中深くへ続いている。
何十メートル。
何百メートル。
さらに、その奥。
暗い地中に同じ形の硬い殻があった。
一つ。
また一つ。
そして、その先にも。
数えきれないほどの殻が静かに並んでいた。
その数は百を優に超えている。
それぞれの腹部から細い器官が伸び、複雑に絡み合いながら、さらに深い場所へ続いていた。
そこには外界の光も届かない。
地上の風も、鳥の声も、人間の足音もない。
ただ、地中を流れる魔力だけが、無数の器官を通って一つの方向へ集まっていた。
……どくん。
暗闇の奥で、何かが脈動した。
それは谷で確認された個体よりも遥かに大きかった。
巨大な殻。
幾重にも重なる硬質な外皮。
地中の空洞を埋めるように広がる、異様な身体。
その奥へ、無数の器官から集められた魔力が流れ込んでいく。
……どくん。
再び、脈動。古く、巨大な殻が、僅かに動いた。
地上ではまだ誰も知らない。
今日ヴェルトたちが見つけた小さな個体が決して唯一の存在ではないことを。
そして。
五十二年前に討伐されたものもまたこの膨大な採餌構造の一部に過ぎなかったことを人はまだ知らない。
地下深くで巨大な殻がゆっくりと脈打った。
その動きに合わせるように無数の半透明の器官が収縮する。
森の木々から。
土壌から。
地中を流れる魔力から。
少しずつ。少しずつ。
何かが世界の魔力を喰い続けていた。




