第6話『SSSランク』
交易都市エルノアに少しずつ変化が現れ始めていた。
街道を行き交う商人の数は相変わらず多い。
市場では朝から野菜や肉が売られ、酒場では冒険者たちがくだらないことで笑い合っている。
ただ街の東側へ目を向ければ、いつもとは違う光景があった。
武装した冒険者が集まり、荷馬車には食料や治療用品、野営用の資材が積み込まれている。
東方森林地帯で起きている原因不明の異変に対応するため、冒険者ギルドのエルノア支部が各地から集めた人員と物資だった。
前日に出された緊急応援要請を受け、さらに高位の冒険者たちが集まり始めている。
調査区域への立ち入りは依然として厳しく制限され、異変の原因も判明していない。
五十二年前、十二人の調査隊のうち十一人が死亡したという記録は、冒険者たちの間で繰り返し話題に上がっていた。
そんな中。
「……おお」
冒険者ギルドの依頼掲示板の前でダスが感心したように声を漏らした。
「これ、なかなか面白そうだな」
隣に立つリュネが彼の見ている依頼書を覗き込む。
「何があったの?」
「資材運搬だってさ」
そこには《南倉庫街・資材運搬補助》と記されていた。
倉庫から荷馬車への積み込み、荷下ろし、資材の仕分けなどを手伝う仕事らしい。
必要な人数も多く力仕事ではあるものの、特別な戦闘技能は要求されていない。
報酬は作業時間と内容によって決まり、Gランクでも受注可能。
「倉庫かぁ」
ダスは依頼書を眺めながら笑った。
「まだやってない仕事だな」
「そうだね。運ぶ物も結構多そう」
「木材、縄、布、食料……へえ、野営用の資材もあるのか」
どうやら東方調査のために増えた物資の輸送が、倉庫街の仕事にも影響しているらしい。
本来なら街道輸送を担当する人員の一部が緊急対応へ回され、普段以上に人手が不足していた。
ダスは少し考えた。
「よし。今日はこれにしよう」
「うん、いいと思う」
足元にいたヴァルが顔を上げた。
白い小型飛竜の姿をした彼は二人の会話を聞きながら静かに座っている。
「ヴァルも来るか?」
その問いにヴァルは当然だと言いたげに立ち上がった。
「じゃあ決まりだな!」
ダスは依頼書を手に取り、受付へ向かおうとした。
そのときだった。
「……おい」
近くにいた冒険者が不意に入口の方へ顔を向けた。
「何か、外が騒がしくないか?」
ダスも足を止める。
確かにギルドの外から人の声が聞こえてきた。
普段から賑やかな場所ではあるが、今の騒ぎ方は少し違う。
「誰か来たのかな?」
リュネが尋ねる。
「さあ?」
ダスが首を傾げた直後、入口近くの冒険者が大きな声を上げた。
「……おい、嘘だろ!?」
「何だよ?」
「《未踏の獅子》だ!」
その名前が聞こえた瞬間、ギルドの空気が一変した。
「は!?」
「《未踏の獅子》って、あの!?」
「SSSランクの!?」
依頼掲示板の前にいた冒険者たちが一斉に振り返る。
酒場からも人が顔を出し、受付の職員まで立ち上がった。
「……SSS?」
近くにいた若い冒険者が呟く。
「本当に来たのか……?」
その反応を見てダスは目を瞬かせた。
そして隣のリュネへ視線を向ける。
「……なあ」
「うん?」
「これ、もしかして」
リュネは入口を見た。
少しだけ目を細め、それから楽しそうに笑った。
「……そうみたいだね」
二人の足元でヴァルが静かに尻尾を動かした。
そして。
ギルドの入口から、一人の女性が入ってきた。
*
獅子獣人の女性だった。
鍛え上げられた身体に旅慣れた装備。
獣人特有の耳と尾を持ち、堂々とした立ち姿には長年の実戦経験を感じさせる。
しかし、その表情は意外なほど柔らかかった。
「こんにちは。エルノア支部って、ここで合ってるよね?」
女性が尋ねる。
入口近くにいた職員は一瞬返事を忘れていた。
「あっ……は、はい!」
「よかった。場所を間違えたかと思った」
女性は小さく笑った。
「応援要請を受けて来たんだけど、責任者の人はいる?」
「は、はい! すぐにお呼びします!」
職員が慌てて奥へ走っていく。
それを見送った女性は周囲を見渡した。
集まった冒険者たちは誰もが彼女へ視線を向けている。
その中には憧れの人物を実際に目にした興奮を隠せない者も多かった。
SSSランク。
冒険者として到達できる最高位の等級。
その肩書を持つ者は世界でも限られている。
そして彼女はその中でも特に有名な一人だった。
《未踏の獅子》ヴェルト。
未知の土地や迷宮、危険地帯を数多く踏破してきた冒険者であり、その実績は一般の冒険者にとってもはや英雄譚に近い。
だが本人は周囲の視線をあまり気にしていなかった。
「……あれ?」
ヴェルトの耳がぴくりと動いた。
何かに気付いたらしい。
彼女の視線が依頼掲示板の方へ向かう。
そこには二人の新人冒険者と、一体の小さな白い飛竜がいた。
ヴェルトの表情が止まった。
「…………」
ダスが笑った。
リュネも微笑んでいる。
ヴァルは少しばかり面倒そうな顔をしていた。
ヴェルトは三者を順番に見た。
そしてもう一度ダスを見る。
彼の胸元には冒険者証が下がっていた。
《G》。
ヴェルトの目がわずかに大きくなる。
「…………え?」
思わず声が漏れた。
ダスは何食わぬ顔で軽く片手を上げた。
それから自分の冒険者証を指先で叩く。
ヴェルトはその動作だけで大体の事情を理解した。
少なくとも今ここで普段通りに話しかけてはいけないらしい。
彼女は一度だけ目を閉じた。
そして口元を手で隠す。
……笑っていた。
何とか声を出さずに済ませているものの、肩が少し揺れている。
ダスは満足そうに頷いた。
リュネは横で笑いを堪えていた。
ヴァルだけが三人を順番に見てから、呆れたように目を細めた。
*
「……ヴェルトさん!」
そんな三者の事情など知らない一人の少女が人混みの向こうから現れた。
フィナだった。
短槍を背負ったEランク冒険者の少女はヴェルトを見つけた瞬間、その場で立ち止まった。
「……本物?」
隣にいたレオが苦笑する。
「本物だろ。ほら、行ってこいよ」
「えっ!? いや、でも!」
「ずっと会いたいって言ってただろ」
「そ、そうだけど!」
フィナは慌てて自分の服を見下ろした。
袖を直し、髪に触れ、それから手のひらを確認する。
「……どうしよう」
「どうしようって、話しかけるだけだろ」
「お兄ちゃんは分かってない!」
「何をだよ」
「こういうのには準備が必要なの!」
レオは呆れたように笑った。
その会話が聞こえたのかヴェルトが二人へ顔を向けた。
「……何かあった?」
「ひゃっ!?」
フィナが跳ねた。
ヴェルトは少し驚いたように目を瞬かせる。
「あ、ごめん。びっくりさせちゃった?」
「い、いえ!」
フィナは背筋を伸ばした。
「わ、私、フィナっていいます! Eランクの冒険者で、短槍を使ってて、その、ずっと!」
言葉が詰まった。
ヴェルトは急かさずに待っている。
「……ずっと、ファンでした!」
ようやく言い切ったフィナは顔を真っ赤にしていた。
ヴェルトは一瞬驚いたような顔をした。
それから嬉しそうに笑う。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」
「……っ!」
フィナの口が開いたまま止まる。
「短槍使いなんだ?」
「は、はい!」
「いいね。普段はどんなところで活動してるの?」
「エ、エルノアの周辺が多いです! 今はEランクですけど、もっと強くなりたくて!」
「そっか」
ヴェルトは頷いた。
「じゃあ、これからいろんな場所へ行けるね」
その言葉にフィナは目を輝かせた。
「はい!」
「でも、怪我には気を付けてね。知らない場所って、楽しいことばかりじゃないから」
「はいっ!」
「ふふっ。元気だね」
フィナはもう限界だった。
あまりの嬉しさに何を話せばいいのか分からなくなっている。
レオが横から口を挟んだ。
「ほら、フィナ。握手してもらいたかったんじゃないのか?」
「……あっ!」
思い出したように顔を上げる。
「そ、その! 握手してもらってもいいですか!?」
「もちろん」
ヴェルトが自然に手を差し出した。
フィナは両手でその手を握った。
「……ありがとうございます!」
「こちらこそ。応援してくれてありがとう」
しばらくして手を離したフィナは自分の手をじっと見つめた。
レオが笑う。
「おい、戻ってこい」
「……お兄ちゃん」
「何だ?」
「私、今日、もう依頼行けないかもしれない」
「行け」
即答だった。
周囲から笑いが起きた。
ヴェルトも声を出して笑った。
少し離れた場所ではダスがその様子を眺めていた。
「……おお」
感心したように呟く。
「すげえな、SSSランク」
リュネが横を見る。
「うん?」
「いや、人気者だなぁと思って」
「そうだね」
「握手しただけであんなに喜ばれるのか」
ダスは少し考えた。
そしてにやりと笑う。
「俺も握手してもらおうかな」
リュネはすぐには答えなかった。
一拍置いてから楽しそうに微笑む。
「……してもらえるんじゃない?」
「だよな」
「ただ、握手だけで済むかな」
「ん?」
ダスが首を傾げた。
そのときヴェルトがこちらを向いた。
目が合う。
ヴェルトは今度こそはっきり笑った。
そしてこちらへ歩いてきた。
*
「ねえ、そこの人」
ヴェルトが声をかける。
ダスは振り返った。
「ん? 俺?」
「うん」
ヴェルトは彼の冒険者証を見た。
「Gランクなんだね」
「おう。ついこの間登録したばっかりなんだ」
「へえ……」
ヴェルトの口元が緩む。
「新人なんだ」
「ああ。まだ知らないことばっかりでさ」
「……ふふっ」
「何か?」
「いや、楽しそうだなって思って」
「そりゃ楽しいぞ!」
ダスは即答した。
「依頼も色々あるし、知らない仕事も多いし。昨日なんか鼠を七体も倒したんだ」
「七体?」
「おう。なかなか面白かったぞ」
ヴェルトは一瞬だけ口を結んだ。
笑いを堪えているらしい。
「……そっか。七体も倒したんだ」
「おう!」
「すごいね」
「だろ?」
その会話を聞いていたフィナが目を丸くした。
「……ちょっと待って」
ダスが顔を向ける。
「ん?」
「何でそんな普通に喋ってるの!?」
「何が?」
「相手、ヴェルトさんだよ!?」
「知ってるぞ。SSSランクだろ?」
「そうだけど!」
フィナは頭を抱えた。
ダスは不思議そうに首を傾げる。
「話しかけられたんだから、返事するだろ」
「……それはそうなんだけど!」
レオが横で笑った。
「まあ、ダスらしいっちゃダスらしいな」
ヴェルトはそのやり取りを面白そうに眺めていた。
「名前、ダスっていうんだ?」
「おう。こっちはリュネ」
「こんにちは」
リュネが柔らかく微笑む。
「それと、こいつがヴァル」
ダスが足元を指さした。
ヴェルトの視線が下がる。
小さな白い飛竜が静かに彼女を見上げていた。
「……へえ」
ヴェルトがしゃがむ。
「かわいいね」
ヴァルの尾が一度だけ動いた。
「従魔なの?」
「そうそう。俺の従魔」
「名前はヴァル?」
「おう」
「……ふふっ」
ヴェルトは笑った。
その視線にヴァルが少しだけ目を細める。
どうやら彼女が何を面白がっているのか分かったらしい。
「触ってもいい?」
ヴェルトが尋ねた。
ダスは足元のヴァルを見る。
「本人次第だな」
「そっか」
ヴェルトは手を伸ばさず、ヴァルの反応を待った。
ヴァルはしばらく彼女を見ていたが、やがて静かに顔を背けた。
「……あら」
ヴェルトが笑う。
「嫌われちゃったかな?」
「いや、機嫌の問題だと思うぞ」
ダスが答える。
「こいつ、結構気難しいからな」
ヴァルの尾がダスの足を軽く叩いた。
「いてっ」
「……ふふふっ!」
とうとうヴェルトが吹き出した。
「な、何だよ?」
「ごめん。ちょっと……面白くて」
「そうか?」
「うん。すごく」
ヴェルトは立ち上がった。
それからダスが手に持っていた依頼書へ視線を向ける。
「今日は仕事?」
「おう。資材運搬だ」
「資材運搬?」
「南倉庫街で荷物運ぶんだってさ」
「へえ、いいね」
ヴェルトは素直に頷いた。
「そういう仕事も結構好きだよ」
ダスの表情が明るくなる。
「おっ、分かるか?」
「うん。大勢で何かを運んだり、準備したりするのって、楽しいよね」
「そうなんだよ!」
ダスが身を乗り出した。
「戦うだけが冒険者じゃないっていうかさ。昨日も盾使いの奴と話したんだけど――」
話し始めたダスをリュネが楽しそうに見ている。
ヴェルトも嬉しそうだった。
しかし。
「……ヴェルト様!」
奥から戻ってきた職員が慌てて声をかけた。
「支部の責任者がお待ちです!」
「あ、うん」
ヴェルトが振り返る。
「すぐ行くね」
それからもう一度ダスたちへ顔を向けた。
「じゃあ、私は仕事に行ってくるね」
「おう。頑張れよ!」
「うん。そっちも頑張ってね」
「任せとけ!」
ヴェルトは笑った。
そして最後にリュネとヴァルへも軽く目を向ける。
二者は何も言わずにその視線を受け止めた。
ヴェルトはそのまま職員に案内され、奥へ向かっていった。
残されたフィナはしばらく黙っていた。
そしてゆっくりダスへ顔を向ける。
「……ねえ」
「ん?」
「何で?」
「何が?」
「何でヴェルトさん、ダスにあんなに話しかけてたの?」
ダスは少し考えた。
「……俺が面白そうだったんじゃないか?」
「自分で言う!?」
「いや、だってあの人、楽しそうだったし」
「それはそうだけど!」
リュネが横から口を挟む。
「フィナもたくさん話せてよかったね」
「……あっ」
フィナが自分の手を見た。
そして再び顔を赤くした。
「……うん」
レオが笑う。
「今日は手を洗わないとか言い出すなよ?」
「そんなこと言わない!」
「本当か?」
「……今日くらいは」
「洗え」
ダスは腹を抱えて笑った。
*
エルノア南倉庫街では東方調査へ送る大量の資材が次々と荷馬車へ積み込まれていた。
ダスとリュネも作業員に混じり、木箱や木材の運搬、荷札の仕分けを手伝う。
「重い物は下だ! 荷台の左右にも気を付けろよ!」
「おう! なるほどなぁ!」
荷物の持ち方から積載順序、縄の固定方法まで、初めて教わる仕事の技術にダスは興味津々だった。
途中、荷車の固定用木片がずれて木材が滑り落ちる事故が起きたが、咄嗟に押さえようとした若い人夫をダスが呼び止め、幸い怪我人は出なかった。
その後は全員で荷車を点検し、積み荷を整え直す。
ヴァルは日陰から作業を眺め、二人は人夫たちと声を掛け合いながら仕事を続けた。
「お前ら、なかなか働くじゃねえか!」
「だろ? 面白い仕事だな!」
こうして午後には作業も無事終了し、ダスとリュネは五件目の依頼を達成した。
*
その頃。
エルノア東方森林地帯では別の仕事が始まっていた。
「……ここから先か」
ヴェルトは木々の間に続く細い道を眺めていた。
周囲にはAランクの冒険者たちが数名。
いずれも今回の異変を調査するために集められた経験者だった。
彼らは適度な距離を保ち、周囲を警戒している。
「はい」
同行する冒険者の一人が答えた。
「この先から、魔力の減少が確認されています」
「どのくらい?」
「場所によって差があります。植物だけに見られる地点もあれば、地面そのものに異常がある場所も」
「……ふうん」
ヴェルトは頷いた。
「全部が同じ原因かどうかは、まだ分からないんだよね?」
「はい」
「分かった。じゃあ、まずは確認しようか」
彼女は森へ足を踏み入れた。
湿った土に低い草。
木々の間から光が差し込み、一見するとごく普通の森林だった。
鳥の声も聞こえる。
小さな虫が葉の上を歩き、風に揺れる枝が擦れ合っていた。
しかし少し進んだところで変化が現れた。
「……ここだね」
ヴェルトが足を止める。
一本の木。
幹の根元近くに小さな穴が空いていた。
周辺の木々と比べて葉の色もわずかに薄い。
ヴェルトはしゃがみ、穴の周囲を観察した。
「……何かが刺さったみたいにも見えるね」
「はい。ただ、通常の虫穴とは形が違います」
「そうだね」
彼女は手を伸ばしかけ、途中で止めた。
まだ何が原因なのか分からない。
不用意に触れていいものではなかった。
「切断した部分は?」
「最初の調査では、木の内部へ続いているように見えました。ただ、奥まで確認する前に異常な抵抗が発生しています」
「……なるほど」
ヴェルトは周囲の地面へ目を向けた。
小さな穴は木の幹だけではない。
少し離れた土の表面にも似たような痕跡が残っている。
しかし、すべてが同じ形ではなかった。
「……ねえ」
ヴェルトが尋ねる。
「五十二年前の記録にも、これと同じ穴があったの?」
「似たものは記録されています。ただ、完全に一致するかは……」
「まだ分からないか」
「はい」
「そっか」
ヴェルトは立ち上がった。
「じゃあ、そこはまだ別にしておこう」
同行者たちが頷く。
ヴェルトは周囲を見渡した。
未知の土地、原因の分からない現象、正体の分からない存在。
彼女にとってそれらは非常に魅力的なものだった。
知らないものを知る。
理解できなかったものを理解する。
行ったことのない場所へ行き、見たことのない景色を見る。
その楽しさは何度冒険を繰り返しても変わらない。
そして、それを楽しむためにこそ現場での判断は大切だった。
「……あ、ちょっと待って」
ヴェルトが片手を上げた。
全員が足を止める。
「どうしました?」
「右の奥。何かいる」
冒険者たちが武器へ手を伸ばす。
ヴェルトは視線を森の奥へ向けた。
木々の隙間、倒木の向こう側に何かが動いている。
「……大きいね」
彼女が呟いた。
やがて、その姿が見えた。
虫に似た大型の個体だった。
全長は二メートルほど。
硬い外殻に覆われた身体を持ち、太い脚で地面を歩いている。
頭部には触角らしき器官があり、周囲の落ち葉を探るように動いていた。
「……魔物か?」
同行者の一人が小声で尋ねる。
「まだ分からないね」
ヴェルトは答えた。
「虫型の魔獣にも見えるけど、ここからじゃ判断できない」
その個体はこちらへ敵意を向けている様子はなかった。
倒木の近くを歩き、地面を探っている。
ヴェルトは仲間たちへその場での待機を頼み、自分だけ少し距離を詰めた。
「……ふうん」
彼女はしばらく観察した。
個体の周囲にはこれまで調べていた地点のような強い魔力減少が確認できない。
近くの草木も特別に弱っている様子はなかった。
何より木や地面に残る小さな穴、そして先の調査で報告されている半透明の膜状物と、この個体を直接結び付ける証拠がない。
「……違うかな」
ヴェルトが呟く。
「原因ではないと?」
「少なくとも、今のところそう判断する理由はないね」
彼女は個体を眺めた。
「ただ、知らない種類かもしれないから、特徴は記録しておこう」
同行者が頷き、観察内容を書き留め始める。
その間も虫に似た個体はゆっくり移動していた。
やがて倒木の向こうへ姿を消す。
追撃はしなかった。
「……討伐しなくてよかったんですか?」
同行者の一人が尋ねた。
ヴェルトは振り返った。
「うん?」
「あの個体、未確認種の可能性もありますし……」
「そうだね」
「危険性を調べるなら、捕獲か討伐を試みる方法もあるかと」
ヴェルトは少し考えた。
「それも方法の一つだと思う」
「では……」
「でも、今は必要ないかな」
彼女は森の奥を見た。
「私たち、あの虫を倒しに来たわけじゃないから」
同行者が口を閉じる。
「もちろん、襲われたら対応するよ。でも、相手が何もしてないのに正体を知りたいってだけで戦いを始めたら、余計な危険が増えるかもしれないでしょ?」
「……確かに」
「それに、こっちには本当に調べなきゃいけないものがあるからね」
ヴェルトは笑った。
「また必要になったら、そのとき考えよう」
そして再び歩き出す。
未知を見つけたら知りたい。
だが知らないものを見つけるたびに戦わなければならないわけではない。
彼女はそうした判断ができる冒険者だった。
*
調査はその後も続いた。
木々の根元や地表近く、浅い土の中など、場所によって程度は違うものの周辺の魔力が不自然に少なくなっている地点があった。
ただし、その理由はまだ分からない。
「……思ったより広いね」
ヴェルトが呟く。
「はい。最初に確認された地点から、さらに外側でも痕跡が見つかっています」
「増えてるの?」
「それも調査中です。以前から存在していたものを、今になって発見している可能性もあります」
「そっか」
ヴェルトは頷いた。
「じゃあ、広がってるって決めるのはまだ早いね」
同行者は同意した。
森の奥では風が木々を揺らしていた。
その音を聞きながらヴェルトは足を止める。
「……ん?」
彼女の耳が動いた。
同行者たちが振り返る。
「どうしました?」
「……ちょっと待って」
ヴェルトは片手を上げた。
誰も動かない。
しばらく森の静けさが続いた。
そして。
……ずん。
地面の奥から微かな振動が伝わった。
「……?」
同行者の一人が足元を見る。
「今の……地震ですか?」
「……分からない」
ヴェルトは静かに答えた。
再び耳を澄ませる。
風の音、枝の揺れる音、遠くの鳥の声。
その奥に何かがあった。
直接聞こえる音というより、地面を通して伝わる微かな変化。
さらに周囲の魔力の流れにもごく小さな乱れが生じていた。
「……ねえ」
ヴェルトが尋ねる。
「この辺りで、今まで地震みたいなものは確認されてた?」
「いえ。少なくとも報告にはありません」
「そう……」
ヴェルトは少し考えた。
そして森のさらに奥へ目を向ける。
何かが移動してきた痕跡はない。
大きな物音もない。
しかし先ほどまでとは明らかに何かが違っていた。
「……変だね」
その声は少しだけ楽しそうだった。
同行者が緊張した面持ちで尋ねる。
「何か分かったんですか?」
「ううん」
ヴェルトは首を振った。
「何が起きたのかは、まだ分からない」
「では……」
「ただ」
彼女は足元の地面を見た。
「何かが、今、変わった気がする」
同行者たちは顔を見合わせた。
ヴェルトは続けた。
「外から何かが来たっていうより……」
そこで言葉を切る。
まだ証拠はない。
だが、彼女の経験と感覚はある可能性を示していた。
「……ずっとここにあった何かが、起きたのかもしれないね」
森の奥を見つめる。
その表情には確かな好奇心があった。
しかし同時に彼女は同行者たちの状態も確認していた。
ここまでの調査ですでに相応の時間が経過している。
魔力の消耗は少ないが、未知の現象が広がる区域で長時間活動することはそれ自体が危険だった。
何より、今の変化が何を意味するのか分からない。
ヴェルトは少し考えた。
そして振り返る。
「……今日は一回戻ろうか」
同行者の一人が驚いた。
「よろしいんですか?」
「うん」
ヴェルトは頷いた。
「今の変化、ちゃんと報告した方がいいと思う。調べた場所も整理したいしね」
「しかし、原因に近づいている可能性も……」
「それはあると思う」
彼女は素直に認めた。
「でも、近づいてるかもしれないからって準備もなしに奥へ進む理由にはならないでしょ?」
同行者は少し考え、頷いた。
「……了解しました」
「じゃあ、帰ろう」
ヴェルトは笑った。
「まだ調べたいこと、いっぱいあるしね」
その言葉に同行者たちも少しだけ表情を緩めた。
一行は慎重に進路を戻し始める。
ヴェルトは最後尾へ回り、全員が安全に移動できていることを確認した。
そして一度だけ森の奥を振り返った。
「…………」
何かがいる。
いや、いると決まったわけではない。
ただ、確かに変化があった。
それが何なのか。
どこから始まったのか。
五十二年前の事件と関係しているのか。
今は、まだ何も分からない。
「……ふふっ」
ヴェルトは小さく笑った。
「これは、面白くなりそうだね」
そして仲間たちの後を追った。
*
夕方。
ダスたちは冒険者ギルドで五件目の依頼達成を報告していた。
「……はい、確認できました」
受付のミーナが依頼書へ目を通す。
「南倉庫街の資材運搬補助ですね。作業完了の証明もあります」
「おう!」
「今回も問題なく達成されています。お疲れさまでした」
報酬が渡される。
ダスは硬貨を受け取り、嬉しそうに眺めた。
「……よし!」
リュネが笑う。
「五件目だね」
「ああ!」
ダスは冒険者証を取り出した。
そこには変わらず《G》の文字が刻まれている。
「……いいなぁ」
ミーナは苦笑した。
「本当に、そのランクがお好きなんですね」
「おう!」
「でも、もう昇格査定を受けられる実績はありますよ?」
「……うーん」
ダスは少し悩んだ。
そして冒険者証を眺める。
「もうちょっとかな」
「そうですか」
ミーナは頷いた。
「では、引き続きGランクとして活動されるんですね」
「おう。よろしく!」
「はい。こちらこそ」
ダスは満足そうに冒険者証をしまった。
そのとき少し離れた場所から声が聞こえた。
「……ヴェルトさん、帰ってきたらしいぞ」
「本当か?」
「ああ。東の調査から戻ったって」
酒場にいた冒険者たちが話し始めていた。
「原因は分かったのか?」
「いや、まだらしい」
「SSSでも分からないのか……」
「来たばっかりだろ。そんなすぐ分かるわけねえよ」
もっともな意見だった。
ヴェルトが到着してからまだ一日も経っていない。
それでも人々の期待は大きかった。
彼女が来たことで異変の正体がすぐに判明するのではないか。
そんな期待を抱く者も少なくなかった。
ダスはその会話を聞きながら笑った。
「……大変だなぁ、SSSランクって」
リュネも微笑む。
「そうだね」
「来ただけで色々期待されるんだもんな」
「うん」
「俺だったら、ちょっと困るかもしれない」
リュネは彼の顔を見た。
そして少しだけ笑みを深める。
「……ダスなら、楽しんじゃいそうだけど」
「……ああ」
ダスは考えた。
「それもそうだな!」
二人は笑った。
足元のヴァルがゆっくり首を振る。
その様子を見てダスはさらに笑った。
「何だよ、ヴァル」
ヴァルは黙って歩き出した。
「……あれ?」
リュネが小さく笑う。
「呆れられちゃったね」
「何でだよ!」
ダスはヴァルの後を追った。
*
夜。
宿へ戻った三者はようやく人目から離れていた。
ダスは寝台へ腰を下ろし、大きく伸びをする。
「……あー、楽しかった!」
リュネは椅子へ座りながら微笑んだ。
「今日は色々あったね」
「おう。荷物運びも面白かったし……まさかヴェルトまで来るとはな!」
「本当にびっくりしたね」
「いやぁ、あいつの顔!」
ダスが思い出したように吹き出す。
「俺たち見つけた瞬間、すごい顔してたぞ!」
リュネも楽しそうに笑った。
「最初、何が起きてるのか分かってなかったみたい」
「そりゃそうだろうな!」
ダスは腹を抱えた。
「Gランクだぞ、G!」
「ふふっ」
「しかもヴァルまで小型飛竜になってるし!」
その言葉に床で身体を休めていたヴァルが顔を上げた。
「……お前たちな」
低い、落ち着いた男の声だった。
外部の人間には聞かせないヴァル本来の声。
「何だよ?」
ダスが笑いながら尋ねる。
ヴァルは少し呆れたように答えた。
「もう少し、普通に振る舞えないのか」
「普通だっただろ?」
「どこがだ」
「俺、ちゃんと新人冒険者してたぞ」
「そういう話ではない」
ヴァルは首を振った。
「ヴェルトも、途中から完全に面白がっていただろう」
「そりゃ面白いだろ!」
ダスは即答した。
「SSSランクの冒険者が、Gランクの新人に話しかけてるんだぞ?」
「お前がその状況を作ったんだろうが」
「はははっ!」
リュネが横から口を挟む。
「でも、ヴェルトも楽しそうだったね」
「まあ、あいつも冒険とかこういうの好きだからなぁ」
「うん」
「……それにしても」
ダスは少し考えた。
「フィナ、すごかったな」
リュネが笑う。
「握手できて、あんなに喜んでたね」
「なあ。ヴェルト本人は普通にしてるだけなのに」
「本人にとっては普通でも、フィナにとっては特別なんだと思うよ」
「……なるほどなぁ」
ダスは少しだけ考え込んだ。
SSSランク。
世界最高位の冒険者。
その称号が人々にとってどれほど特別なものなのか。
今日、彼はその一端を見た。
ヴェルトにとっては普段通りの交流だったのだろう。
しかしフィナにとっては憧れの人物と出会えた忘れられない一日になった。
「……面白いな」
「何が?」
リュネが尋ねる。
「同じ出来事でも、人によって全然違うんだなって」
「そうだね」
「俺にとってはヴェルトが来たってだけだったのにな」
「ふふっ」
「フィナにとっては一生覚えてる日かもしれない」
「うん」
「……いいなぁ」
ダスは満足そうに頷いた。
そのときだった。
ふと彼の表情が変わった。
「…………ん?」
リュネも顔を上げる。
ヴァルが静かに目を開いた。
三者の間に短い沈黙が落ちる。
「……ダス」
リュネが声をかけた。
「ああ」
ダスは窓の外へ視線を向けた。
夜のエルノア。
遠くからは酒場の喧騒が聞こえてくる。
街は普段通りだった。
だが。
「……何か変わったな」
ダスが呟く。
「うん」
リュネが頷いた。
ヴァルも静かに口を開いた。
「東の方角だな」
「ああ」
ダスは少し考えた。
「……何だろうな、あれ」
「分からない」
リュネは素直に答えた。
「ただ、少なくともさっきまでとは違うね」
「だな」
ダスは窓の外を眺めた。
本来の力を持つ彼らにとって、遠く離れた場所の変化を感じ取ること自体は難しくない。
しかし変化を感じたことと、その原因を知っていることは別だった。
今の反応だけで何が起きたのかを断定することはできない。
「……ヴェルト、気付いてるかな」
ダスが呟く。
リュネは少し笑った。
「気付いてると思うよ」
「だよな」
「……絶対、楽しそうな顔してるぞ」
「ふふっ。そうだね」
ヴァルが静かに言った。
「だが、危険がないとは限らん」
「分かってるさ」
ダスは頷いた。
「まあ、あいつもその辺はちゃんと判断するだろ」
「そうだな」
ヴァルもそれ以上は言わなかった。
ダスはしばらく東の方角を眺めていたが、やがて寝台へ身体を倒した。
「……さて」
「うん?」
「俺たちは明日、何するかなぁ」
リュネが笑う。
「もう次の依頼?」
「おう!」
「今日、結構疲れたんじゃない?」
「疲れたぞ!」
「じゃあ、休む?」
「……それもいいな」
ダスは少し考えた。
そしてにやりと笑う。
「でも、まだやってない仕事もあるしなぁ」
リュネはその顔を見て小さく笑った。
「本当に楽しそうだね」
「そりゃそうだろ!」
ダスは天井を見上げた。
「まだGランクなんだぞ!」
ヴァルがまた小さくため息をついた。
窓の外ではエルノアの夜が静かに更けていく。
冒険者ギルドでは東方調査の報告書が整理されていた。
新たな痕跡、広い範囲に見つかった異変、そして今日確認された奇妙な振動。
そのどれもがまだ明確な答えへは結び付いていなかった。
一方、街の宿では二人の新人冒険者と一体の従魔が明日の依頼について相談している。
世界最高峰の冒険者《未踏の獅子》ヴェルトがすぐ近くにいる。
それでもダスたちの生活は変わらない。
少なくとも、今はまだ。
そしてエルノア東方森林地帯。
昼間の調査が終わり、人の姿が消えた森の奥深くで。
……ずん。
再び地面が微かに震えた。
今度は昼間よりも長く。
木々の根元に残る小さな穴の周囲で土がわずかに崩れる。
半透明の薄い何かが。
地中の奥でゆっくりと動いた。
それが何なのかを知る者は、まだいなかった。




