第4話『行方不明の荷馬捜索』
冒険者の仕事には実に様々な種類がある。
魔物を討伐する仕事もあれば、薬草を採取する仕事もある。
護衛、調査、運搬、修理、捜索。
中には引き受けた本人たちですら何が起こるか分からない依頼もあるらしい。
そして今日ダスたちが挑戦するのは――。
「馬探しだ!」
朝のエルノア。
冒険者ギルドの受付でダスは依頼書を掲げて高らかに宣言した。
対面のミーナは一瞬だけ目を丸くし、それから差し出された依頼書へ視線を落とした。
「はい。《西街道沿い・行方不明の荷馬捜索》ですね」
「おう!」
「昨日、掲示板から依頼書をお持ちになっていましたよね」
「今日こそ受けようと思ってさ」
「承知しました。では詳しい状況をご説明しますね」
ミーナは依頼書を机へ置き、引き出しから地図を取り出した。
その間にも、ギルドの中では冒険者たちが忙しなく行き交っていた。
朝の依頼を探す者、装備を点検する者、昨夜の酒が残っているのか、椅子に沈み込んでいる者。
少し離れた窓口では職員と冒険者が東方森林の調査について話していた。
「ガルドさんたち、今朝も東へ?」
「ああ。昨日の夕方に戻って報告したばかりだってのにな。今日は応援も何人かつくらしいぞ」
「……まだ原因が分からないんだろ?」
「だから調べに行くんだろうさ」
ダスの耳にも、その会話は届いていた。
昨日、ガルドとシアが東の森へ向かうところを見送っている。
無事に戻ったのなら何よりだがどうやら調査はまだ続くらしい。
少し気にはなったものの、今は目の前の依頼が先だ。
ミーナが地図を広げるとダスは早速身を乗り出した。
行方不明になったのは街道沿いで荷物の運搬に使われていた一頭の馬だった。
昨日の昼頃、休憩中に繋いでいた場所からいなくなったらしい。
近くには切れた縄が残されていたが血痕などは見つかっていない。
依頼主とその手伝いが周辺を探したものの、発見には至らなかったという。
「馬の毛色は栗色。額に白い模様があります。年齢は十歳ほどで、人には慣れているそうです」
「へえ。結構長く働いてる馬なのか」
「はい。依頼主の方も大切にされているようで、できるだけ無事に連れ戻してほしいとのことです」
「なるほどな」
ダスは地図を覗き込んだ。
西街道。
昨日の角兎討伐へ向かった方角に近いが、今回は街道から南へ入る小道の周辺を探すことになる。
「ところで、ミーナ」
「はい?」
「馬って帰りたくなったら自分で帰ってこないのか?」
「帰ってくる馬もいると思いますが……」
「だよな。道覚えてたりするだろ?」
「ただ途中で何かに驚いたり、知らない場所へ入ってしまったりすることもありますから」
「ああ、そっか」
ダスは地図の上に指を置き、街道から枝分かれした細い道を辿った。
「じゃあ、そいつも帰り道が分からなくなってるかもしれないんだな」
「その可能性はありますね」
「ダス、迎えに行ってあげようね」
隣で聞いていたリュネが、そっと地図を覗き込む。
「おう。ちゃんと連れて帰ってやらないとな」
ダスは張り切って地図を畳もうとしたが、ミーナにまだ説明が終わっていないと止められた。
「おっと、すまん」
「もう少しだけお付き合いくださいね」
そんなやり取りを足元のヴァルが静かに見上げていた。
昨日の夜、ダスは馬探しなら自分が一番に見つけてみせると宣言している。
そのことを覚えているのか、ヴァルはダスと地図を交互に見た。
「……何だよ」
小さな白い飛竜は、何も答えない。
ただ、じっと見ている。
「大丈夫だって。今日こそ俺が活躍するからな」
「昨日もちゃんと活躍してたよ」
「リュネ、それはそれとしてだ」
「はいはい」
リュネは口元に手を添え、肩を小さく揺らした。
ミーナもつられそうになりながら依頼書へ視線を戻す。
「では、依頼を受注されますか?」
「もちろん!」
「承知しました。無理に追いかけて馬を興奮させないよう、十分にお気をつけください」
「了解!」
今度こそ地図を畳んだダスは、依頼書と一緒に大切そうに鞄へしまった。
そして、リュネとヴァルを連れて今日も元気よくギルドを出ていった。
*
「……で、どっちだ?」
「右だよ」
「おう」
エルノアの西門を出てまだ十分ほどしか経っていなかった。
ダスは最初の分かれ道で早速進む方向を間違えかけていた。
「いや、でもこっちの道も西に伸びてるだろ?」
「伸びてるね。でも、今探してる場所とは違う方へ行く道だよ」
「……確かに」
ダスはもう一度地図を開き、目の前の分かれ道と見比べた。
街道そのものは西へ続いているが、依頼主が最後に馬を見た場所は、途中から南へ折れた先にある。
「なるほど。地図って便利だな」
「今さら?」
「いや、便利なのは知ってたけどさ。こうやって使うと、ちゃんと便利だなって」
「……それ、どういう意味?」
「俺にもよく分からん!」
リュネはとうとう吹き出した。
ヴァルは二人の少し前を歩いていたが、騒がしい声に振り返ると、何事もなかったように再び足を進めた。
彼なら周囲の魔力や生命反応を利用して、馬の居場所を探すことも難しくないだろう。
ダスも同じだ。
本来の能力を使えば、依頼主が探し回る必要などほとんどない。
だが、それをしてしまえば今日の仕事は終わってしまう。
足跡を調べ、通りかかった人に話を聞き、道の先に何があるのかを考える。
その一つ一つが、ダスにとってはまだ知らない冒険者の仕事だった。
「なあ、ヴァル」
声をかけると、白い飛竜が足を止めた。
「今日は俺たちだけで探してみようぜ。お前は無理に何かしなくてもいいからさ」
ヴァルはダスを見上げ少し間を置いてから首を縦に動かした。
「よし。じゃあ頑張るか!」
ダスは地図をしまうと今度こそ正しい道へ向かって歩き出す。
その隣へリュネが並んだ。
「まずはいなくなった場所まで行こ」
「おう!」
*
荷馬がいなくなった場所は小道沿いの休憩地だった。
街道から少し離れたところに木陰があり、旅人が腰を下ろせる程度の平らな土地が広がっている。近くには細い水路が流れ、その向こうには丈の低い草が生えていた。
ただ、昨日も人が利用していたらしく、地面には様々な足跡が残されていた。
「……なるほどな」
ダスは休憩地へ入るなり地面にしゃがみ込んだ。
「足跡が多い」
「うん」
「馬の足跡って、どれだろうな」
「蹄の跡を探せばいいんじゃない?」
「そうか」
早速、地面に顔を近づける。
土の上には靴の跡らしいものや、何かを引きずったような細い筋が残っていた。
しばらく探していると、丸みを帯びた窪みがいくつか目に入る。
「おっ。これじゃないか?」
リュネも隣へしゃがみ、ダスが指差す先を確かめた。
「それっぽいね」
「よし。こっちか!」
ダスは足跡の続く方向へ歩き始めた。
数歩進むとまた同じ形の窪みがある。
さらにその先にも。
「おお、ちゃんと続いてる!」
「うん」
「案外すぐ見つかるかもな」
期待を膨らませながら足跡を追っていく。
ところが、しばらく進んだところで窪みは小道へ合流した。
その先には荷車の車輪跡が続いている。
ダスは足を止めた。
足元を見る。
車輪跡を見る。
もう一度、足元を見る。
「…………」
「どうしたの?」
「……これ、普通に街道を通った馬じゃない?」
リュネも小道へ目を向けた。
「そうかもしれないね」
「……やっちまった」
ダスは膝に手をつき大きく息を吐いた。
昨日までの採取や討伐とは勝手が違う。
草や魔獣なら、目の前にいれば自分で確認できる。
だが、足跡は誰が残したものなのかまで教えてくれるわけではない。
「なあ、リュネ」
「うん?」
「俺、昨日は角兎三体倒したんだぞ」
「うん」
「今日は馬の足跡一つ見分けられない」
「お仕事が違うからね」
「冒険者って奥が深いな!」
ダスは膝を叩いて立ち上がった。
どうやら失敗したことよりも、新しい難しさを見つけたことの方が嬉しいらしい。
リュネはそんな彼の顔を見て、呆れたように、それでいてどこか楽しげに息を漏らした。
「最初から、もう一回探してみようか」
「おう!」
二人は再び休憩地へ戻った。
*
しばらく調べていると、別の一団が小道から姿を現した。
三人組の冒険者だった。
荷物を背負った前衛らしい男性と、弓を持った女性。そして少し後ろを歩く細身の男性。
先頭の男がダスたちの様子に気づき、歩みを緩めた。
「おう。何か探してるのか?」
「行方不明の馬を探してるんだ」
「ああ、昨日の依頼か」
男は足を止め、休憩地へ目を向けた。
「俺たちも昨日、この辺りを通ったんだよ」
「本当か!?」
ダスが勢いよく顔を上げる。
「ああ。休憩地で騒ぎになってたから覚えてる」
「馬、見なかったか?」
「残念ながら見てねえ。ただ……」
男は一度周囲を見回し、南側の草地を指差した。
「探すなら、あっちも確認した方がいいぞ」
「何かあったのか?」
「昨日の夕方、向こうで草が随分倒れてたんだよ。野生の獣かもしれねえけどな」
「おお、ありがとう!」
「気をつけろよ。水路の向こうは足場が柔らかい。荷を背負ったまま入り込むと面倒だぞ」
「了解!」
男は片手を上げ、仲間とともに歩いていった。
ダスはその背中が小道の向こうへ消えるまで見送っていた。
「……いいな、ああいうの」
「うん?」
「俺たち、初対面だろ?」
「そうだね」
「なのに、普通に教えてくれるんだな」
リュネは少し考え男たちが歩いていった道へ目を向けた。
「自分たちも、誰かに助けてもらうことがあるからじゃないかな」
「ああ、なるほど」
ダスは腕を組み、先ほど男が指差した草地を眺めた。
「何か、いいよな。知らない奴同士でも、困ってるなら教え合うって」
「うん。いいね」
冒険者は一人で何でもできるわけではない。
誰かが見つけた危険な場所。
誰かが失敗した依頼。
誰かが知っている道。
その情報が別の誰かの役に立つこともある。
ダスはそれを当然のこととして語る男の態度が、妙に気に入っていた。
「よし。じゃあ、せっかく教えてもらったし、見に行こうぜ」
「うん」
二人は水路の方へ向かった。
ヴァルも、少し遅れてその後を追う。
*
水路を越えた先には背の低い草と灌木が広がっていた。
地面はところどころ湿り、小さな窪みには水が溜まっている。足を置くたび、柔らかな土が靴底の下でわずかに沈んだ。
「……おっ」
ダスは草の倒れている場所を見つけ、足を止めた。
幅はそれほど広くない。
だが、何かが通ったように草の向きが不自然に揃っている。
「ここかな?」
リュネが隣から覗き込む。
「そうみたいだね」
二人は足元の草をかき分けた。
すると、湿った地面に蹄の跡が残っている。
「……これだ!」
ダスの顔がぱっと明るくなった。
「さっきのと違って、荷車の跡がない!
「そうだね。こっちは馬だけかもしれない」
「よしよし。だんだん分かってきたぞ」
今度はすぐに歩き出さず、足跡の形と進行方向を確かめてから動いた。
蹄の跡は水路から離れ、灌木の多い方向へ続いている。
途中には泥が跳ねた跡もあった。
さらに進むと、草が何本か折れている。
「結構勢いよく走ったのかな」
「かもしれないね」
「で、こっちに来て……」
ダスは顔を上げた。
前方には、低い木々が密集した小さな林があった。
足跡はその中へ向かっているように見える。
「……いるかもな」
声を落とすとリュネも足を止めた。
「うん。近いかもしれないね」
ヴァルは二人の少し後ろで静かに林を見つめている。
ダスは無理に走り出さず、木々の隙間へ目を凝らした。
枝が風に揺れている。
鳥が一羽、低い枝から飛び立った。
その奥で、何かが草を踏む音がした。
「……ん?」
ダスが耳を澄ませる。
がさり。
また音がした。
今度は少し重い。
「……リュネ」
「うん」
「馬っぽくない?」
「見てみようか」
二人は音の方へゆっくり近づいた。
木々の間を抜けると、小さく開けた場所に出る。
そこで――。
「……いた!」
栗色の馬が、一頭。
実にのんびりと草を食べていた。
*
「……お前かあ」
ダスは思わず声を漏らした。
栗色の身体。
額には白い模様。
依頼書に記されていた特徴と一致している。
馬は二人の姿に気づくと、もぐもぐと口を動かしたまま顔を上げた。
しばらくこちらを眺める。
そして、何事もなかったように草へ鼻先を戻した。
「……ずいぶん落ち着いてるな」
「うん。怪我もなさそうだね」
リュネが馬の様子を確かめる。
四本の脚でしっかり立っており、歩き方にも不自然なところはない。
身体に目立った傷もなく、首には短く切れた縄が残っていたが、擦れた様子は見られなかった。
「よし。じゃあ、連れて帰るか」
ダスが一歩踏み出す。
馬が顔を上げた。
「おーい。迎えに来たぞー」
ぶるるっ、と馬が鼻を鳴らした。
「帰ろうぜ」
ダスが手を伸ばす。
馬は一歩下がった。
「……ん?」
さらに近づく。
馬はもう一歩下がった。
「……おい」
ダスが足を止める。
馬も止まる。
互いに見つめ合うこと数秒。
「……こいつ、帰る気なくない?」
「ここ、草がいっぱいあるからかな」
リュネが周囲を見渡した。
確かに、馬が食べられそうな草は辺り一面に生えている。
「いやいや、お前、仕事あるだろ?」
ダスは馬へ真面目な顔で話しかけた。
「依頼主、めっちゃ心配してたんだぞ?」
馬は耳を動かした。
「ほら、帰るぞ」
また一歩近づく。
馬も一歩下がる。
ダスは立ち止まった。
「…………」
その横でリュネがそっと顔を背けた。
しかし、隠そうとしている口元がどうにも緩んでいる。
「……笑ってるだろ」
「ちょっと」
「ちょっとじゃないだろ!」
抗議するとリュネはとうとう声を漏らした。
馬はそんな二人には構わず、再び草を食べ始めている。
「……なるほど」
ダスは腕を組んだ。
人に怯えている様子ではない。
けれど、近づこうとすると離れてしまう。
「こっちが追うから逃げるのか」
「そうかもね」
「じゃあ、追わなきゃいいわけだ」
ダスは馬から少し離れたところへしゃがみ込んだ。
馬が顔を上げる。
ダスは動かない。
しばらく見つめ合っていると、やがて馬はまた草を食べ始めた。
「……よし」
ダスは荷物を下ろし、携帯していた食料を取り出した。
その中から馬に与えても問題なさそうなものを少量選び、手のひらに載せる。
「……ほら」
馬の耳が動いた。
鼻先がこちらを向く。
しばらく様子を窺っていた馬はやがて一歩近づいてきた。
「……おっ」
ダスは動かなかった。
馬がさらに近づく。
湿った鼻先が、差し出した手のひらへ伸びた。
「……よしよし」
馬が食べ物を口にする。
ダスはしばらくそのまま待ち、馬が離れようとしないことを確かめてから、ゆっくりと首へ手を伸ばした。
馬の耳が一度だけ動く。
しかし、逃げる様子はなかった。
「……よっしゃ」
ダスは馬の首を軽く撫でた。
「捕まえたぞ」
「おめでとう」
リュネが隣へ近づいてくる。
「へへっ。ありがとう」
「逃がさないようにね」
「分かってるって」
ダスは馬の首に残っていた縄を確認し、持参していた予備の引き綱を慎重に取り付けた。
それから、ゆっくり歩き始める。
馬は一度だけ草地を振り返ったものの、今度は大人しくついてきた。
「……何だよ、案外素直じゃん」
ぶるるっ。
「いやぁ、よかったよかった」
ダスは手にした綱を眺め、満足げに息を吐いた。
「無事に見つかってよかったね」
「おう。依頼主も喜ぶだろうな」
ヴァルは二人の後ろを歩きながらのんびりと尾を揺らしていた。
結局、今回も自分が何かする必要はなかったらしい。
それで十分だった。
ダスは実に楽しそうだしリュネもそんな彼と一緒にいる時間を満喫している。
馬も今のところ、特に不満はなさそうだった。
「……なあ、リュネ」
「うん?」
「今日の俺、結構冒険者っぽかったよな」
「うん。ちゃんと足跡を追ってたね」
「だろ?」
「最初は違う馬の足跡を追ってたけど」
「……そこは忘れてくれ」
「ふふっ。どうしようかな」
「頼むよ!」
リュネは答えず楽しそうにダスを見つめる。
ダスは何か言い返そうとして、結局自分でもおかしくなってしまった。
二人と一体、そして一頭は、そうして来た道を戻り始めた。
*
馬の引き渡しは、想像以上に喜ばれた。
「おおっ! お前、無事だったのか!」
依頼主の商人は栗色の馬を見るなり駆け寄ってきた。
馬も相手を覚えていたらしい。
商人が近づくと、自分から鼻先を寄せる。
「まったく……どこ行ってたんだ、お前は!」
叱るような声とは裏腹に商人の手は何度も馬の首を撫でていた。
ダスは少し離れたところでその様子を眺めていた。
「南の方の草地にいたぞ。怪我もしてないみたいだ」
「そうか、そうか……!」
商人は馬の背や脚を確かめ、ようやく大きく息を吐いた。
「本当に助かった。こいつとは長い付き合いでな。怪我でもしていたらどうしようかと……」
「元気だったぞ。むしろ草食ってのんびりしてた」
「……そうか」
商人は馬へ目を向けた。
馬は何事もなかったように鼻を鳴らしている。
「……お前なあ」
叱るつもりだったのだろう。
けれど、商人の口から漏れたのは安堵の混じった苦笑だった。
ダスもつられて頬を緩めた。
「まあ、元気ならよかったじゃん」
「そうだな。本当にそうだ」
商人は改めて二人へ向き直った。
「ありがとう。ギルドへの報告は私からもしておくよ」
「おう。頼む!」
深々と頭を下げる商人にダスは少し照れくさそうに手を振った。
別れ際、商人が馬へ話しかける声が聞こえた。
「今度からは、ちゃんと俺のそばにいろよ」
馬が鼻を鳴らす。
ダスは振り返りリュネと目を合わせた。
「……いい仕事だったな」
「うん」
「今日は誰も怪我してないし、ちゃんと帰ってこられた」
「そうだね」
「こういう依頼も結構好きだわ」
リュネは少しだけ目を細めた。
「知ってるよ」
その返事に、ダスは嬉しそうに笑った。
*
エルノア支部へ戻るとミーナが受付から顔を上げた。
「お帰りなさい。荷馬は見つかりましたか?」
「ばっちり!」
ダスが胸を張る。
「それはよかったです!」
ミーナの表情が明るくなった。
ダスが依頼の経緯を説明し、先に届いていた依頼主からの連絡と照合する。
確認はすぐに終わった。
「はい。依頼達成です。お疲れさまでした」
「よっしゃ、三件目!」
ダスが嬉しそうに拳を握った。
薬草採取、角兎討伐、荷馬捜索。
三日間で三種類の仕事を経験したことになる。
「……何かさ、ミーナ」
「はい?」
「冒険者って、思った以上に何でも屋なんだな」
「ふふっ。確かに、そういう一面もありますね」
「でも、そこが面白いわ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
ミーナが報酬を差し出すとダスは硬貨を受け取り、一度手のひらで転がしてから大切そうにしまった。
そして隣のリュネへ顔を向ける。
「さて、今日は何する?」
「まだ午後だね」
「もう一件受けるのもありだな」
「休憩してもいいと思うよ」
「それもいいなぁ」
どちらも捨てがたいらしくダスは真剣な顔で考え始めた。
そのとき背後から明るい声が飛んできた。
「あっ、ダス!」
振り返ると、フィナがこちらへ手を振っていた。
「おお、フィナ!」
「今日も依頼帰り?」
「おう。馬探してきた!」
「馬?」
フィナは一瞬きょとんとした。
「ああ、昨日の荷馬捜索?」
「そうそう。無事見つけたぞ」
「よかった! あれ、依頼主さんがすごく心配してたんだよ」
「やっぱりそうだったんだな」
「うん。昨日から結構探してたみたいだから」
フィナは安心したように胸を撫で下ろした。
それから、何かを思いついたらしい。
「あ、そうだ! ダス、今から時間ある?」
「あるぞ」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「何に?」
フィナは口元を上げ、腰に提げた短槍を軽く持ち上げた。
「模擬戦!」
「おっ、いいじゃん!」
ダスは身を乗り出した。
「昨日、初めて討伐依頼受けたんでしょ? どのくらい戦えるのか気になってたんだよね」
「なるほどな。先輩冒険者との練習試合か」
「そういうこと!」
フィナは得意げに胸を張った。
「もちろん、練習用の武器を使うよ」
「おう。やろうぜ!」
ダスは即答した。
リュネはその横顔を見て、すっかり予想どおりだったとでも言いたげに口元を緩める。
「頑張ってね」
「おう!」
そしてダスは足元のヴァルを見た。
「今日はお前も見てろよ。俺の剣士っぷりを」
ヴァルは一度だけ顔を上げた。
それから、何も言わずに練習場へ向かうフィナの後を歩き始めた。
「……何でそんな興味なさそうなんだよ」
リュネはとうとう堪えきれず声を立てて笑った。
*
ギルドの裏手には冒険者が訓練に使える小さな練習場があった。
踏み固められた地面には無数の足跡が重なり、端には木製の練習武器が並べられている。
ダスはその中から普段使っている剣に近い長さの木剣を選んだ。
フィナは練習用の短槍を手に取る。
「じゃあ、軽く一本勝負ね」
「了解!」
「危ないと思ったら止めるから。無理しないでよ?」
「おう。頼むわ」
二人は少し距離を取って向かい合った。
リュネとヴァルは練習場の端にいる。
フィナが短槍を構えた。
それまでの気さくな雰囲気とは違い、足元から余計な動きが消える。
身体の重心が安定し穂先は自然とダスの動きを捉えられる位置へ向けられていた。
ダスはその構えを眺め、感心したように声を漏らした。
「へえ、いい構えだな」
「そう?」
「うん。槍ってやっぱ、剣より間合いが長いよな」
「まあね。だから、簡単には近づかせないよ」
「おお、楽しそう!」
フィナは口元を上げ、短槍を握り直した。
「じゃあ、始めるよ!」
「おう!」
最初に動いたのはフィナだった。
短槍の穂先が、まっすぐダスの正面へ伸びる。
「おっ!」
ダスは木剣を横へ動かし、穂先を外へ逸らした。
しかし、フィナはすぐに槍を引き戻す。
間髪入れず、二度目の突き。
ダスが一歩下がる。
三度目。
さらに半歩。
「おお、速いな!」
「余裕そうに言わないでよ!」
フィナは抗議しながらも攻撃の手を緩めない。
短槍は剣よりも遠くへ届く。
しかも、相手が距離を詰めようとすれば、足を使って間合いを維持できる。
ダスが一歩前へ出ようとするたび、穂先がその進路へ伸びてきた。
同じ前衛でも、戦い方がまるで違う。
「なるほどな……」
ダスは木剣を構え直した。
今はGランクの新人剣士。
真正面から突き込まれる槍に対してどうやって懐へ入るか。
それを考えるようにフィナの動きを観察する。
彼女の突きは、決して適当なものではなかった。
相手の足が動く瞬間を狙い、踏み込みに合わせて穂先を置く。
逃げ道をすべて塞ぐほどではないが、新人が不用意に前へ出れば簡単に捉えられる。
よく練習した動きだった。
「……いいな」
ダスが小さく呟く。
「え?」
「いや、こっちの話!」
フィナが短槍を引いた。
その瞬間、ダスは一歩前へ踏み出す。
木剣を上から振り下ろした。
「……っと!」
フィナは槍の柄で受け身体を横へ逃がす。
木剣と木製の柄がぶつかり、乾いた音が響いた。
ダスはさらに踏み込もうとした。
――そのとき。
フィナの体勢がほんの少しだけ崩れた。
このまま踏み込めば、木剣を胴へ当てられる。
だが、そのためには新人剣士として見せている動きを大きく超える足運びが必要だった。
ダスは踏み込みを止めた。
代わりに少し大きく木剣を引き、次の攻撃へ移ろうとする。
その隙をフィナは逃さなかった。
「もらった!」
短槍の穂先が、ダスの胸元へ向かう。
「うおっ!」
ダスは慌てて後ろへ下がった。
しかし間に合わない。
練習用の穂先が軽く胸へ触れた。
「……あ」
ダスが動きを止める。
フィナもすぐに槍を引いた。
「はい、一本!」
ダスは自分の胸元を見下ろした。
それから顔を上げる。
「……負けた!」
その顔には、悔しさよりも楽しさが溢れていた。
フィナは目を丸くする。
「えっ、何でそんな嬉しそうなの?」
「いや、ちゃんと負けたなと思って!」
「普通、悔しがるところじゃない?」
「悔しくないわけじゃないけどさ」
ダスは木剣を肩へ担ぎかけ思い直して持ち直した。
「槍の方が長いし、間合いに入ろうとすると突かれるし。いやぁ、面白かった!」
フィナはしばらく呆気に取られていた。
そして、とうとう噴き出した。
「あははっ! 変な人!」
「また言われた!」
「だって、そんなに負けて喜ぶ人、初めて見たもん!」
リュネは少し離れた場所でその様子を眺めていた。
ダスが勝てる機会を自分から手放したことは分かっている。
けれど、それだけではない。
彼は本当にフィナの槍の扱いを面白がっていた。
自分で覚え、何度も練習し、実戦で磨いてきた技術。
それが一人のEランク冒険者の動きとなって表れている。
ダスは昔からそういう積み重ねを見るのが好きだった。
「なあ、フィナ」
「何?」
「今のさ、俺が木剣振ったあと、ちょっと横に動いただろ?」
「うん」
「あれ、わざと?」
「もちろん。正面で受けたら押し込まれるかもしれないから」
「なるほどな!」
ダスはもう一度木剣を構え、先ほどの動きを真似してみる。
「じゃあ、俺はもっと早く距離を詰めた方がいいのか?」
「それもいいけど、槍の先ばっかり見てると足元がおろそかになるよ」
「おお……勉強になるわ」
「でしょ?」
フィナは得意げに顎を上げた。
「私、一応Eランクだからね!」
「頼もしいな、先輩!」
「ふふん。もっと褒めてもいいよ?」
「槍の構えが格好いい!」
「うん!」
「突きが速い!」
「うんうん!」
「あと、さっき笑ったとき槍落としかけた!」
「そこは言わなくていい!」
フィナが思わず短槍を握り直す。
その動作があまりに素早くダスは声を上げて笑った。
「ほら、また!」
「もう! 次は絶対そんな余裕なくしてやるから!」
「おっ、またやってくれるのか?」
「……あっ」
フィナはしまったという顔をした。
そのやり取りに見守っていたリュネまで声を立てて笑い始めた。
*
模擬戦を終え、二人が練習用の武器を片づけていたときだった。
ギルドの建物の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「……何だ?」
フィナが振り返る。
職員が数人、建物から駆け出してきた。
そのうち一人は治療用の道具を抱えている。
「おい、手を貸してくれ!」
入口の方から声が上がった。
「東の調査隊が戻ってきた! 怪我人がいる!」
フィナの表情が変わった。
「東の調査隊って……ガルドさんたち?」
ダスも顔を向けた。
「今朝、また調べに行ったって話してたよな」
「うん。でも、怪我人って……」
フィナは言い終えるより早くギルドの入口へ駆け出していた。
ダスとリュネも後を追う。
入口付近にはすでに何人もの冒険者が集まっていた。
その間を縫うように、装備を汚した一団が建物へ入ってくる。
先頭にはガルドがいた。
鎧や衣服には泥が付着し片腕の袖が裂けている。
その後ろを歩くシアも片脚を少し庇っていた。
さらに別の冒険者が一人、仲間の肩を借りて歩いている。
昨日、ダスたちが見送ったときにはガルドとシアの二人だったが、今日の調査には別の冒険者たちも同行していたらしい。
「ガルドさん!」
フィナが人垣を抜けて駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「おう、フィナか」
ガルドは声の方へ顔を向けた。
疲労は隠せないものの、意識ははっきりしている。
「俺は大したことねえ。ちょっとしくじっただけだ」
「しくじったって……腕、怪我してるじゃないですか!」
「擦り傷だよ。大げさに騒ぐな」
「そう言う人ほど、あとで怒られるんですよ!」
ガルドは一瞬言葉に詰まった。
それから、困ったように頭を掻く。
「お前、ミーナみたいなこと言うな」
「当たり前です!」
「二人とも、治療が先よ」
横からシアが口を挟んだ。
自分も片脚を庇っているくせに声は落ち着いている。
「ガルドはいつもこうだから。今回は本当に軽傷で済んだけどね」
「……今回は?」
ダスが尋ねる。
ガルドはそこで彼に気づいた。
「おう、ダス。お前もいたのか」
「模擬戦してたんだよ。それより、森で何かあったのか?」
「ああ……」
ガルドは自分の裂けた袖へ目を落とした。
「昨日、妙な痕跡を見つけただろ。今日は人数を増やして、もう少し奥まで調べてたんだがな」
そこまで言って口を閉じる。
周囲にはすでに何人もの冒険者が集まっていた。
話を聞こうと身を乗り出す者もいる。
ガルドは一度、深く息を吐いた。
「……悪い。詳しい話はギルドへ報告してからだ」
「そんなにまずいのか?」
「ああ。少なくとも、楽観できる状況じゃねえ」
ガルドの声から普段の軽さが消えた。
「とにかく、東へ行くな。今は何が起きてるか分からん」
「分かった」
「お前らGランクだろ? 絶対に首突っ込むなよ」
「おう。約束する」
ダスが迷わず答えるとガルドはようやく少し表情を緩めた。
その横へ職員が近づく。
「ガルドさん、先に傷を診せてください。報告はその後で構いませんから」
「ああ、分かったよ」
ガルドは素直に従いシアとともに治療室へ向かった。
肩を借りていた冒険者も別の職員に付き添われて運ばれていく。
フィナはその背中をしばらく見送っていた。
「……大丈夫かな」
いつもの明るい声ではなかった。
リュネが隣へ寄る。
「大きな怪我じゃないって言ってたね」
「うん。でも……」
フィナは自分の短槍を握り直した。
「ガルドさんって、あんまり怪我して帰ってこないから」
ダスはその言葉を聞き治療室の方へ視線を向けた。
Aランク冒険者。
この街では十分に高位の実力者だ。
そのガルドが原因の分からない異変を調べに行って負傷した。
しかも、同行者にまで怪我人が出ている。
昨日は調査を切り上げて無事に戻れたが、今日はそうはいかなかったらしい。
「……なるほどな」
ダスは小さく呟いた。
その声には先ほどまでの浮かれた調子がなかった。
少し離れた酒場の入口では一人の老人が騒ぎを見つめていた。
昨夜、五十二年前の事件を語っていた老冒険者だった。
老人は治療室へ消えていくガルドたちを見送り、手にしていた酒杯を静かに卓へ置いた。
そのまましばらく動かなかった。
*
治療を終えたガルドとシアはギルドの奥にある会議室へ呼ばれていた。
机の上には二日間の調査で持ち帰った記録が並べられている。
木に開いた小さな穴。
周囲の魔力減少。
異なる種類の魔物が同じ西方向へ移動する現象。
そして今日新たに確認されたもの。
「……昨日見つけた地点から、さらに奥まで同じ痕跡が続いていました」
シアが地図の一点を指差した。
「木だけではありません。地面にも植物にも、魔力が失われたような部分があります」
担当職員が記録をめくる。
「範囲が広がっている、ということでしょうか」
「そう見えます。ただ実際に広がっている途中なのか、昨日の時点でそこまで存在していたのかは分かりません」
「なるほど……」
職員は手元の記録へ書き込んだ。
ガルドが腕を組む。
片腕には治療を受けたばかりの包帯が巻かれていた。
「俺たちも慎重に進んだつもりだったんだがな。途中で地面の感触がおかしくなった」
「感触、ですか?」
「ああ」
ガルドは言葉を探すように少し考えた。
「泥でも、木の根でもねえ。何か薄いものを踏んだような……妙な抵抗があったんだ」
シアが机の上に一枚の記録を置いた。
「目で確認できたものもあります。半透明の、膜のようなものです」
職員の筆が止まる。
「膜……?」
「はい。非常に薄くて、普通に見ているだけでは分かりにくいものでした」
「それが魔力を吸っている原因なんですか?」
「そこまでは分かりません」
シアはすぐに首を横へ振った。
「ただ、その付近で魔力の流れが急に乱れました。足を取られた者もいて、撤退する際に負傷者が出ています」
ガルドは包帯の巻かれた腕を少し持ち上げた。
「俺の怪我もそのときだ。幸い、今回は全員帰ってこられたがな」
「……そうですか」
職員の表情が険しくなる。
「原因となる魔物などは確認できましたか?」
「いや」
ガルドは即答した。
「正体を見たわけじゃねえ。何かがいるのか、それとも別の現象なのかも分からん」
そう言って机の上の地図へ目を落とす。
「だが、今の人数であれ以上進むのは危険だ。少なくとも、昨日の調査より状況が悪いことは確かだな」
職員はしばらく記録を見つめていた。
やがて顔を上げる。
「東方森林の立ち入り制限を強化します。追加の高位冒険者も招集しましょう」
「ああ。それがいい」
「それと……昨夜、酒場で五十二年前にも似た異変があったという証言が出ています」
その言葉にガルドが眉を寄せた。
「五十二年前?」
「はい。当時の調査隊で、十二人中十一人が亡くなったという話です」
シアも顔を上げる。
「記録は残っているんですか?」
「まだ確認できていません。これから調べます」
ガルドは少し考え、机の上の資料を指先で叩いた。
「だったら、そっちも並行して頼む。似ているだけかもしれねえが、同じ失敗を繰り返す必要はないからな」
「承知しました」
職員は頷き必要な手続きを進め始めた。
会議室の窓からは夕方の光が差し込んでいる。
ギルドの外では荷馬車が街道を行き交い、商人たちがいつもどおりの声で客を呼んでいた。
だが、その日常からそう遠くない森で、何が起きているのか。
まだ誰にも分からなかった。
*
夕方。
エルノア支部の掲示板へ新しい通達が貼り出された。
《東方森林地帯・立ち入り制限区域の拡大》
東門から東方調査区域へ向かう冒険者については、Aランク未満の通行を禁止するという内容だった。
ガルドたちの報告を受けて決定された緊急措置である。
掲示板の前にはあっという間に人だかりができた。
「A未満禁止って、相当だぞ」
「昨日まではそこまでじゃなかったよな?」
「ああ。今日の再調査で怪我人が出たらしい」
「ガルドさんまで怪我したって?」
「何なんだよ、あの森……」
冒険者たちの声には不安が混じっていた。
ダスも人垣の隙間から通達を眺めている。
「……A未満か」
リュネが隣から覗き込んだ。
「かなり厳しくなったね」
「だな」
ダスは冒険者証を取り出した。
そこには変わらず《G》の文字がある。
「Aランクでも怪我するんだから、そりゃGは行っちゃ駄目だよな」
「うん」
「……気になるけど」
そう言いながらもう一度通達へ目を向ける。
リュネは何も言わず隣で待っていた。
やがてダスは冒険者証をしまった。
「まあ、今は俺たちの仕事じゃないな」
そのときだった。
「……五十二年前も、最初はそうだった」
背後から、低い声が聞こえた。
振り返ると、一人の老冒険者が立っていた。
昨夜、酒場で過去の調査について語っていた老人である。
老人は掲示板を見上げていた。
「最初はただの調査だった。小さな異変があって、何人かが見に行っただけだ」
近くにいた冒険者たちが口を閉じる。
「だが、調べれば調べるほど妙な痕跡が増えた。木から魔力が抜け、地面にもおかしな跡が残っていた」
老人はそこで一度言葉を切った。
節くれだった指が、握っていた杖の柄をゆっくりと撫でる。
「……昨日、酒場で昔の話をした」
一人の冒険者が口を開く。
「ああ、聞いたぜ。十二人で調べに行って、あんた一人しか帰らなかったって……」
「そうだ」
老人は短く答えた。
「昨日は、それ以上話す気になれんかった。今さら古い話を持ち出しても、何が変わると思ってな」
老人の視線がギルドの奥へ向いた。
ガルドたちが治療を受けていた方角だった。
「だが、今日の怪我人を見て思い出したよ。あのときも、最初は大したことじゃないと思っていた」
誰も口を挟まなかった。
老人は再び掲示板を見上げた。
「五十二年前、俺たちは妙なものを見つけた」
「……妙なもの?」
ダスが尋ねる。
老人はゆっくりと顔を向けた。
「透明な膜みたいなものだ」
その言葉に周囲の冒険者たちが顔を見合わせた。
「膜?」
「ああ。薄くて、ほとんど見えん。だが、確かにそこにある」
老人は杖を握り直した。
「俺たちは、それを見つけた。何なのかも分からんまま、さらに奥へ進んだ」
「……それで?」
若い冒険者が尋ねた。
老人はすぐには答えなかった。
しばらくして、低い声が漏れる。
「帰ってきたのは、俺一人だった」
酒場から食器の触れ合う音が聞こえた。
少し離れた卓ではまだ何人かの冒険者が談笑している。
けれど掲示板の前に集まった者たちは、誰も口を開かなかった。
「……もし今回のものが本当に同じなら、Sランク以上の危険があると思った方がいい」
フィナが思わず息を呑んだ。
「……S?」
「あくまで当時の推定だ。原因が同じかどうかも、まだ分からん」
老人はそう付け加えた。
そして重そうに肩を落とす。
「ただな……」
杖を握る手にわずかに力が入った。
「あれを甘く見て、十一人死んだ。それだけは忘れん方がいい」
誰もすぐには返事をしなかった。
ダスは老人を見つめていた。
五十二年前。
十二人の調査隊。
そして、十一人の死。
目の前の老人にとってそれはただの昔話ではないのだろう。
「……教えてくれて、ありがとう」
ダスが言った。
老人は少し意外そうに顔を上げた。
「何?」
「大事な話なんだろ。だったら、聞いておいてよかったと思う」
老人はしばらくダスを見ていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうか」
それだけ言うと杖をついてゆっくりと歩き出した。
その背中を、何人もの冒険者が黙って見送った。
*
夜。
ダスとリュネは宿の部屋で今日の出来事を話していた。
「いやぁ、馬探しって結構大変だったな」
ダスは椅子へ腰を下ろし満足そうに足を伸ばした。
「そうだね」
「でも、最後はちゃんと見つけられたし」
「うん」
「フィナとの模擬戦も面白かった」
リュネは荷物を整理しながらちらりとダスを見た。
「負けちゃったけどね」
「そうだな」
ダスはあっさり認めた。
「いい槍使いだったよ、あいつ」
「そう思う?」
「おう。ちゃんと練習してる動きだった」
椅子の背にもたれながら今日の模擬戦を思い返す。
フィナが槍を引いた瞬間。
横へ身体を逃がした足運び。
こちらが近づこうとするたび進路へ伸びてきた穂先。
どれも、何度も繰り返して身につけた技術なのだろう。
ダスは手元の剣へ視線を落とした。
「俺も、もうちょっと新人剣士らしい戦い方を覚えたいな」
「どんな戦い方?」
「うーん……」
ダスは少し考えた。
「新人だからって、ずっと何もできないのは違うだろ?」
「うん」
「昨日より今日、今日より明日。少しずつできることが増える方が面白いじゃん」
リュネは整理していた荷物から手を離し、ダスへ顔を向けた。
「そうだね」
「だからさ、これからちゃんと練習もしようぜ」
「いいよ。私も付き合う」
「おう!」
ダスは満足げに頷いた。
しばらくは明日の依頼や、今日の馬の様子について話していたが、ふと会話が途切れた。
ダスは椅子の背にもたれたまま、窓の方へ目を向ける。
「……東の森も、気になるけどな」
リュネの手が止まった。
「うん」
「Sランク以上かもしれないって話だろ?」
「そうだね」
「しかも、五十二年前に似たことが起きてる」
ダスは天井を見上げた。
「……何がいるんだろうな」
その声には純粋な好奇心があった。
未知の生物か。
特殊な現象か。
それとも、まだ知られていない何かか。
老人が語っていた透明な膜。
魔力が失われた木々。
異なる種類の魔物が同じ方向へ移動する現象。
何かしら関係があるのかもしれない。
だが、まだそれを確かめられるだけの情報はない。
「……ま、今は任せるか」
ダスはそう言って椅子から身体を起こした。
「調べてる奴らがいるんだしな」
「うん」
「ガルドたちも、危ないと思ったらちゃんと引き返してきたんだろ?」
「そうだね」
「だったら俺たちが勝手に出しゃばる必要もないだろ」
リュネは隣の椅子へ腰を下ろした。
「でも、気になるんでしょう?」
「そりゃな!」
ダスは即答した。
「知らないものがあるって聞いたら、見たくなるじゃん!」
「ふふっ。ダスらしいね」
「だろ?」
ダスは立ち上がり、荷物の中から冒険者証を取り出した。
そこには変わらず《G》の文字がある。
指先でその文字を軽くなぞる。
「……いやぁ」
しみじみと声が漏れた。
「俺、これ結構気に入ってるわ」
リュネが小さく吹き出した。
「知ってるよ」
「まだGでできること、全然やってないしな」
「そうだね」
「もっといろいろやりたい」
ダスは冒険者証をしまった。
「明日も普通の依頼受けようぜ」
「何がいい?」
「そうだな……」
少し考えたあとダスは顔を上げた。
「また討伐とかどう?」
「昨日やったばかりだよ」
「でも、違う相手なら違う経験になるだろ?」
「それはそうだね」
「よし、決まり!」
ダスは勢いよく立ち上がった。
そして、足元で休んでいたヴァルへ声をかける。
「ヴァル、明日も頼むぞ!」
ヴァルは顔を上げた。
ダスを一度見てから、ゆっくりと首を縦に動かす。
「よし!」
ダスは満足そうに頷いた。
リュネはそんな二人のやり取りを眺めながら、今日も随分と楽しい一日だったと思った。
馬を探し、人を助け、模擬戦で負けた。
その間にも東方森林では危険な異変が進行している。
けれど、だからといって目の前の日常が無価値になるわけではない。
むしろ、こうした日々の中にこそ、ダスがまだ知らない楽しさが山ほど残っていた。
窓の外では夜風が吹いている。
エルノアの街灯りは今日も穏やかだった。
明日は四件目の依頼。
「……あ、そうだ」
寝台へ向かいかけたダスが足を止めた。
「何?」
「明日の相手、何がいいかな」
リュネは一瞬黙った。
そして、少し呆れたように目を細める。
「……それ、明日ギルドで決めればいいんじゃない?」
「それもそうだな!」
あっさり納得して寝台へ向かうダスにリュネは完全に呆れたようにため息をついた。
ヴァルはそんな二人を一瞥すると何事もなかったように目を閉じる。
今日も一日、よく遊んだ。
そして明日もきっと、そうなるのだろう。
ダスはまだ見ぬ四件目の依頼を楽しみにしながら、寝台へ潜り込んだ。




