第20話『火口街と赤い足跡』
その街の城壁は黒かった。
遠くから眺めたときには山の一部だと思ったほどである。
巨大な火山岩を積み重ねた城壁はところどころ赤褐色に変色しており、門の上には煤が薄く積もっていた。
街の背後には険しい山々が連なり、そのうちの一つからは細い煙が空へ伸びている。
そして、何より。
「……くっさ!」
ダスは城門の手前で足を止めた。
鼻を突く、独特の臭い。
腐った卵に似ているような、それでいて熱い石を水に浸したような臭いも混じっている。
「何だこれ!?」
「硫黄の臭いだね」
リュネが答えた。
「火山地帯には、こういう臭いがする場所もあるんだよ」
「へえ! なるほどな!」
ダスは興味深そうに鼻を鳴らした。
その直後。
「……うえっ」
「何でまた嗅ぐの?」
「いや、どんな臭いなのか覚えようと思って!」
「もう十分覚えたんじゃない?」
「確かに!」
ダスが笑う。
その足元を歩くヴァルは実に迷惑そうだった。
人前なので喋りこそしないものの、小さな鼻先を一度だけ上へ向けると、すぐに元へ戻した。
彼にとって火山の熱など何の問題もない。
だが、だからといって強烈な臭いまで好ましいわけではないらしい。
「おい、《余白》! 門の前で遊んでると置いてくぞ!」
前方から声が飛んできた。
長槍を肩に担ぎ、右腕に赤い布を巻いた女性冒険者。
Bランクの《赤布》である。
「おう! 今行く!」
ダスは大きく手を振った。
ベルガから南下した商隊は途中で火山性魔物の襲撃を受け、さらに《戦火の獄犬》の目撃情報によって東側の道を避けることになった。
予定より時間はかかった。
それでも三台の荷馬車は一台も失われていない。
護衛にも商人にも負傷者はいなかった。
そして今、ようやく目的地へ辿り着いたのである。
採掘都市《カルド火口街》。
火山地帯への入口に位置する、鉱山と鍛冶の街だった。
*
「――それじゃ、これで護衛契約は完了だ」
荷捌き場で最後の確認を終えた赤布が、書類へ署名した。
商人の代表も頷き、深く頭を下げる。
「ありがとうございました。おかげで全員無事に到着できました」
「礼なら、あんたの御者たちにも言いな。予定が変わっても、ちゃんと指示に従ってくれたからね」
「もちろんです」
赤布は満足そうに笑った。
その後彼女は同行していた護衛たちへ報酬を分配した。
《余白》の分も事前の取り決め通り支払われる。
「ほら、ダス。リュネも」
「おっ、ありがとな!」
ダスは小袋を受け取り、重さを確かめた。
「……おお!」
「どうした?」
「ちゃんと入ってる!」
「そりゃ入ってるだろ!」
赤布が声を上げて笑った。
「護衛の報酬を空袋で渡す奴がいるか!」
「ははっ! いやぁ、何か嬉しくてさ!」
ダスは小袋を大切そうにしまった。
赤布はそんな彼を眺め、少しだけ目を細めた。
「……お前、相変わらず変わってるな」
「よく言われる!」
「だろうね」
彼女は槍を肩へ掛け直した。
「でも、仕事は悪くなかった。後方の警戒も、魔物が出たときの対応もな」
「おっ!」
「ただし、剣はもっと練習しろ」
「そこはやっぱり言われるか!」
「言うさ。あんな石殻の相手に、刃を正面から当てる奴があるか」
赤布はダスの腰にある鉄剣を指した。
「その剣、大事なんだろ?」
「ああ!」
「だったら、少しは長持ちさせてやりな」
ダスは思わず剣へ視線を落とした。
ハルメアで研ぎ直したばかりの刃には、先日の戦闘で付いた細かな傷が残っている。
「……確かにな」
「それと、リュネ」
「はい?」
「お前の支援は丁寧だった。だが、もっと前衛へ指示を出してもいい。後ろから見えてるものがあるなら、遠慮する必要はない」
リュネは少しだけ考えた。
そして微笑む。
「ありがとうございます。次はそうしてみます」
「よし」
赤布は頷いた。
それからふと表情を変えた。
「……最後に一つだけ」
「ん?」
「《戦火》の目撃情報は、まだ更新されてない。ここから先も気を付けな」
ダスが顔を上げる。
「この近くにいるかもしれないんだよな?」
「ああ」
赤布は南方の山並みへ目を向けた。
「あいつにとっては、街も街道も関係ない。歩きたいところを歩くだけだからね」
「……そうだな」
「もし近くで見つけても、面白がって追いかけるんじゃないよ」
ダスが笑う。
「分かってるって!」
「……その返事、どうも信用できないね」
「何でだよ!」
赤布は小さく笑った。
だが続けた言葉は真剣だった。
「私は今まで何人も護衛してきた。魔物と戦ったことも、危険な場所から撤退したこともある。でもね、あれが本当に目の前へ現れたら、私は戦って勝とうとは思わない」
彼女は右腕の赤い布を軽く引き直した。
「逃げられるなら逃げる。逃げられない奴がいるなら、私が時間を稼ぐ。その間に、残りを逃がす」
ダスは黙って彼女を見ていた。
「……勝てなくても?」
「勝てないからさ」
赤布は即答した。
「勝てない相手に勝つ方法を考えるのも冒険者の仕事だろうけど、勝てないと分かっている相手から何人帰せるかを考えるのも仕事だよ」
そして少し照れくさそうに笑った。
「まあ、本当にできるかは、そのときにならなきゃ分からないけどね」
ダスはゆっくりと笑った。
「……そっか」
「ああ」
「ありがとな、赤布!」
彼は右手を差し出した。
「一緒に仕事できて、すげえ楽しかった!」
赤布はその手を握り返した。
「こっちこそ。またどこかで組もうじゃないか」
「おう!」
こうして、商隊護衛の仕事は終わった。
赤布は荷捌き場に残り、商人との最後の手続きを進める。
ダスたちは新しい街へ踏み出した。
背後からは相変わらず威勢のいい声が聞こえてくる。
「おい! そこの荷車、まだ確認終わってないよ! 勝手に持ってくんじゃない!」
ダスは振り返り、笑った。
「……元気だなぁ」
「うん。頼りになる人だったね」
リュネも微笑んだ。
ヴァルが小さく尾を振る。
三者にとって、また一つ良い出会いが増えた。
*
カルド火口街は街全体が巨大な鍛冶場のようだった。
大通りには金属を運ぶ荷車が絶えず行き交い、建物の隙間からは炉の赤い光が漏れている。
あちらでは鉱石を選別する職人。
こちらでは炉の温度を確かめる鍛冶師。
少し離れた工房からは金槌が鉄を打つ乾いた音が聞こえてきた。
かん、かん、かん。
その響きに混じって、街の外から風が吹き込む。
熱く、乾いた風だった。
「……すげえ!」
ダスは通りの真ん中で足を止めた。
「見ろよ、リュネ! あの工房、炉が三つもあるぞ!」
「うん。奥でも作業してるね」
「何作ってんだろ!」
「……見に行く?」
「行きたい!」
「じゃあ、先に宿だけ決めてからね」
「……あっ」
ダスは自分の荷物を見た。
背中には野営道具。
腰には剣。
片手には街の案内図。
完全に旅装のままである。
「……そうだった!」
リュネが笑った。
三者はまず宿を確保し、荷物を置いた。
その後街を少し歩いてみることにした。
ダスが特に気に入ったのは鍛冶工房が立ち並ぶ一角だった。
店先に置かれた武器を眺め、金属の種類を尋ね、職人がどんな加工をしているのか聞いて回る。
もちろん職人たちも仕事中である。
いつまでも付き合ってくれるわけではない。
「これ、どうやって作ったんだ?」
「熱して叩いた」
「……それは分かる!」
「なら仕事させてくれ!」
工房の親方に追い返され、ダスは大笑いした。
リュネも笑っていた。
ヴァルはどうやら工房の熱そのものには興味がないらしい。
ただ焼けた金属の匂いを嗅いだり、道具の配置を眺めたりしていた。
そんな彼を見つけた若い職人がしゃがみ込んで声をかける。
「おっ、飛竜か。珍しいな」
ヴァルが顔を上げた。
「ちょっと撫でてもいいか?」
職人が手を伸ばす。
ヴァルはすっと横へ移動した。
職人の手が空を切る。
「……あれ?」
もう一度近付こうとすると、ヴァルは今度は明確に一歩下がった。
ダスが笑った。
「ははっ! 悪いな、こいつ触られるの好きじゃないんだ!」
「そうなのか。すまんな」
職人は素直に手を引いた。
ヴァルはしばらく相手を見ていたが、それ以上近付いてこないと分かると、また工房の方へ顔を向けた。
その様子を見て、リュネが少し嬉しそうに微笑んだ。
最近、ヴァルはこういう場面でも自分から意思を示すようになっている。
ただ大人しくしているだけが、同行魔獣としての振る舞いではない。
嫌なことは嫌だと示す。
必要なら距離を取る。
それでも周囲と問題なく過ごす。
ヴァルは彼なりのやり方で外界の暮らしに付き合っていた。
そしてギルドへ向かった三者はそこでこの街ならではの光景を見ることになった。
*
ギルドの壁が地図で埋まっていた。
正確には壁の半分ほどを占める巨大な地図と、その周囲に貼り付けられた数十枚の報告書である。
ダスは受付へ向かう途中で足を止めた。
「……何だこれ?」
最も大きな地図にはカルド周辺の山々と街道が描かれていた。
採掘坑、休憩所、監視所、ダンジョン。
それぞれの位置が示され、通行可能な道には印が付いている。
だが地図の東側だけは様子が違った。
赤い線。
黄色い札。
大きく斜線を引かれた経路。
そして中央に貼られた一枚の紙。
《七厄災No.05 戦火の獄犬》
「……おお」
ダスが顔を近付ける。
その下には目撃時刻と場所、情報源、確認の程度が細かく記されていた。
単なる注意書きではない。
どこで見つかり、どちらへ向かっていたのか。
どの報告が複数人の証言で一致しており、どれが未確認の噂なのか。
さらにはそれを受けて止められた依頼や、変更された交易路まで書き込まれている。
「……すごいね」
リュネも地図を見上げた。
「ちゃんと毎日更新してるみたい」
「ああ。こっちは昨日、こっちは一昨日か」
ダスは記録を追っていった。
南東の岩地で巨大な黒犬を目撃。
その後山間の監視所で黒い獣の足跡を発見。
別の場所では夜間に不自然な赤い光が見えたとの報告。
だが赤い光については火山活動との区別ができず、未確認扱いになっている。
「……へえ」
「興味あります?」
横から声がした。
振り返ると、ギルド職員らしい若い男性が立っていた。
「おう! これ、全部《戦火》の情報か?」
「はい。ほかの危険情報もありますが、今はあちらが最優先ですね」
職員は東側の地図を指した。
「現在、こちらの採掘坑調査と街道護衛の一部を停止しています。採掘隊を送り出してから付近に現れられると、退避が間に合わない恐れがありますので」
「なるほどな」
「反対に、西側は通常通り依頼を受け付けています。ただし、こちらも状況次第では制限が入ります」
ダスが頷いた。
「じゃあ、《戦火》が移動したら、また変わるのか?」
「そうなります」
「……大変だなぁ」
職員は苦笑した。
「本当に。本人が何もしていなくても、こちらは対応しなければなりませんから」
その言葉にダスの口元が緩んだ。
七厄災がただ歩いている。
それだけで採掘が止まり、依頼が消え、街道が変わる。
昔は一匹の犬だった存在が今では社会の動きそのものを変えている。
何とも面白い話だった。
「……そういやさ」
ダスが別の紙を指した。
「これ、姿が違わないか?」
壁には《戦火の獄犬》を描いた絵が二枚あった。
一枚目は巨大な黒犬。
鋭い頭部と長い四肢。
黒い体表には冷えた溶岩のような亀裂が走り、その奥に赤い色が覗いている。
二枚目は全身から激しい熱を放つ異形の獣だった。
亀裂が大きく開き、内部の赤熱した組織が露出している。
足元の岩は焼け、周囲の空気は揺らいでいた。
「ええ。通常時と、激しい戦闘を行った際の姿だと言われています」
「ほう!」
職員は一枚目を示した。
「普段の目撃報告では、こちらの黒い姿が多いですね。山を歩いていたり、岩場で休んでいたりします」
「休んでるのか」
「はい。ただ、だからといって安全という意味ではありません」
「そりゃそうだな」
「一方、こちらの赤熱した姿は、過去の大規模な戦闘記録を基にしています」
職員は二枚目へ指を移した。
「記録によれば、戦闘が激しくなるにつれて身体の様子が変わり、周囲へ極端な高熱を発するようになるそうです」
「……へえ」
「間に、体表が黒曜石のような硬い殻に覆われる姿を確認したという記録もあります。ただし、実際に近くで観察して帰還した者が極めて少ないため、詳細には不明な点が残っています」
ダスは少しだけ目を見開いた。
(……そこまで分かってるのか)
《猟犬》。
《番犬》。
そして《獄犬》。
あの犬の三つの戦闘形態。
当然、人類側が正式名称まで知っているとは限らない。
だが目撃された外見の違いを区別し、戦闘時に何が起きるかを調べようとしている。
それも何度も失敗しながら積み重ねたのだろう。
「……すげえな」
ダスが呟いた。
職員が首を傾げる。
「はい?」
「いや、よくここまで調べたなって」
職員は少し照れくさそうに笑った。
「大勢の方が調査や記録に関わっていますから。もちろん、その中には帰ってこられなかった方もいます」
ダスはもう一度壁の地図を見た。
赤い線。
黄色い札。
細かな文字。
その一つ一つが誰かの経験から生まれている。
「……そっか」
短く答え、頷いた。
そして。
「ありがとな!」
職員へ笑いかけた。
「こういうの、すげえ面白い!」
職員は一瞬だけ驚いたが、すぐに微笑んだ。
「お役に立てたなら何よりです。ただし、実際に近付こうとはしないでくださいね」
「おう!」
ダスは元気よく答えた。
それからリュネへ顔を向ける。
「……さて!」
「うん?」
「東は駄目なんだろ? じゃあ西にしよう!」
リュネが笑った。
「そうだね。まずは依頼を見ようか」
二人が掲示板へ移動すると、ヴァルもその後を追った。
彼は最後に一度だけ《戦火の獄犬》の絵へ目を向けた。
赤く描かれた巨大な獣。
その存在を、ヴァルも知っている。
だが人間たちがどのような記録を残しているのかは、また別の話だった。
小さな白い飛竜は何も言わず、ゆっくりと尾を揺らした。
*
《赤炉洞》。
カルド火口街の西側にある、火山性のダンジョンだった。
第一層と第二層はDランクの冒険者が活動する範囲。
第三層以降はCランク以上が推奨されている。
火山岩の通路、地中から伝わる熱、場所によって変化する地形。
さらに熱に適応した魔物たちが生息している。
今回《余白》が受けたのは第二層で採取できる《赤炉石》の回収依頼だった。
「……これ、面白そうだな!」
ダスは依頼書を読みながら笑った。
赤炉石は火山地帯の地中から産出する鉱石の一種である。
熱に耐える加工素材として需要があり、カルドの職人たちも扱っているらしい。
ただし必要な量を安定して採取するには、適切な場所と鉱石の見分け方を知っていなければならない。
「第二層まで行って、指定された石を採って帰る。よし!」
「でも、普通の石と間違えないようにしないとね」
「そこは資料があるだろ?」
ダスは添付された図を取り出した。
灰黒色の表面。
割れ目に走る赤褐色の模様。
そして周辺に多い似た鉱石との見分け方。
彼は図と説明を真面目に読み始めた。
リュネは少し微笑んだ。
以前なら、まず現地へ行ってから考えると言いかねなかった。
だが最近は必要な情報を先に調べることも楽しむようになっている。
それは単に慎重になったということではない。
調べたことを、現場で確かめる。
その楽しさも覚えたのだ。
「……あ、そうだ」
ダスが顔を上げた。
「ヴァルも、今回は戦うか?」
足元の白い飛竜がぴくりと顔を動かした。
ダスはしゃがみ込む。
「火山の魔物だってさ。面白そうだろ?」
ヴァルはしばらくダスを見つめた。
そして。
ゆっくりと一度、頷いた。
「……おっ!」
ダスの顔が明るくなる。
「やる気だな!」
リュネが笑う。
「よかったね」
「おう! 初めてだな、人前で一緒に戦うの!」
もっともヴァルが本来の力を使うつもりなどない。
巨大な白龍として姿を現せば、それだけで周囲は大騒ぎになる。
今の彼は《余白》へ同行する小型飛竜系の魔獣という扱いだ。
そこでダスは受付で同行魔獣の戦闘参加についても確認した。
職員は登録内容を確認し、説明する。
「魔獣を戦闘に参加させる場合も、管理と周囲への配慮はお願いします。ほかの冒険者や採取対象を巻き込まないようにしてください」
「了解!」
「また、同行魔獣がいるからといって、パーティの進入条件が変わるわけではありません」
「もちろん!」
受付手続きが終わると、ダスは満足そうに依頼書を受け取った。
「よし! 行こうぜ!」
こうして三者は初めての火山ダンジョンへ向かった。
*
赤炉洞の入口は山肌に大きく口を開けていた。
周囲には黒い火山岩が積み重なり、ところどころ地面から白い蒸気が上がっている。
洞窟の前には簡易的な管理所が設けられ、入場記録と装備確認が行われていた。
ダスたちは冒険者証を提示し、依頼書と行動予定を伝える。
管理員は二人と一体の装備へ目を向けた。
「第二層か。今日は熱気が強い場所があるから、無理はしないように」
「おう!」
「それと、魔物を倒した場合でも、熱いまま触らないこと。外側は冷えていても、内部に熱が残っていることがある」
「……なるほど!」
ダスは頷いた。
そういう細かな注意も今では素直に聞くようになっている。
リュネも必要な確認を済ませ、三者は洞窟へ入った。
最初に感じたのは熱だった。
「……おお」
ダスが息を吐く。
ハルメアのクルゼ洞とはまるで違う。
湿った冷気の代わりに肌を包むような温かい空気が流れている。
洞窟の壁は黒く、ところどころ赤い鉱物が混じっていた。
足元には細かな砂利があり、通路の奥からは地中を流れる水のような低い音が響いている。
ただしそれが本当に水なのかは分からない。
「……いいなぁ!」
ダスが笑った。
「全然違うぞ、クルゼ洞と!」
「うん。足元も滑りにくいところと、崩れやすいところが混じってるね」
リュネは地面を確認していた。
外見上は丈夫そうな岩でも、表面だけが薄く固まっている場所がある。
そうしたところへ不用意に体重をかければ、足を取られるかもしれない。
ダスも試しに小石を踏んだ。
ぱきり、と乾いた音がした。
「……おっ」
小石の内部は思ったより脆かった。
「なるほどな。硬そうだからって丈夫とは限らないんだ」
「そうだね」
ヴァルは二人の後ろを歩いていた。
彼の足取りは普段と変わらない。
周囲の熱も岩肌の温度も、ほとんど気にならないようだった。
ただ歩きながら時折周囲を見回している。
同じ龍であっても、今は冒険者の同行魔獣としての旅だ。
何もせずに先へ進むのではなく、二人と歩調を合わせる。
その役回りを、彼も楽しみ始めていた。
第一層では何度かほかの冒険者とすれ違った。
鉱石を詰めた袋を背負う者。
装備を点検しながら戻ってくる者。
魔物の素材を運ぶ者。
いずれも暑さに顔を赤くしている。
「……ふう、暑い!」
ダスは額の汗を拭った。
もちろん本人にとってこの程度の熱が危険なわけではない。
今は普通の冒険者として過ごしているため、その環境に合わせて自然に振る舞っているだけである。
「リュネ、大丈夫か?」
「うん。まだ平気」
「ヴァルは……」
ダスが足元を見る。
ヴァルは涼しい顔で歩いていた。
「……元気そうだな!」
小さな白龍が何とも言えない目を向ける。
ダスは笑った。
「分かってるって!」
しばらく進むと、第二層へ続く下り坂が見えてきた。
通路は少し狭くなり、壁から伝わる熱も強くなる。
ダスは案内図を確認し、依頼に指定された採取地点へ向かって歩き始めた。
しかし。
坂を下り切る少し手前。
ヴァルが足を止めた。
「……ん?」
ダスが振り返る。
小さな白龍は通路の右側を見ていた。
岩壁には細長い亀裂が走っている。
その奥に何かがいる。
リュネも気付いた。
「……ダス」
「ああ」
ダスはゆっくりと剣の柄へ手を伸ばした。
亀裂の奥で赤いものが動いた。
そして。
がりっ、と。
硬い爪が岩を引っ掻く音が響いた。
*
亀裂から這い出してきたのは赤黒い蜥蜴だった。
大きさは尻尾まで含めれば成人の背丈を超える。
四肢は短いが太く、岩へ引っ掛ける爪が発達していた。
背中には黒い硬質の突起が並び、首から腹にかけての鱗には鈍い赤色が混じっている。
周囲の熱に紛れるように岩とほとんど同じ色をしていた。
「……おっ」
ダスが剣を抜く。
「火蜥蜴か!」
依頼書にも注意が書かれていた。
赤炉洞に生息する、火属性の魔物。
熱い岩場への適応力が高く、岩の隙間へ潜んで獲物を待ち構えることもあるという。
火蜥蜴は三者をじっと見つめていた。
すぐには襲ってこない。
黒い眼球が動き、ダスからリュネへ、そしてヴァルへと視線が移る。
小さな白い飛竜を見たとき、その動きが止まった。
ヴァルも相手を見返す。
数秒。
火蜥蜴がぐるる、と低く喉を鳴らした。
「……怒ってる?」
ダスが呟く。
リュネは少し首を傾げた。
「警戒してるのかも」
「……なるほどな」
火蜥蜴は身体を低くした。
前脚が岩を掴む。
尾がゆっくりと左右へ動く。
次の瞬間。
だんっ!
火蜥蜴が飛び出した。
「おっと!」
ダスは素早く左へ身体をずらした。
魔物の頭部が先ほどまで彼のいた場所を通過する。
すぐに剣を振り下ろしたが、火蜥蜴は地面へ着くと同時に身体を捻り、岩壁へ駆け上がった。
刃が背中の鱗を浅く擦る。
硬い音。
「……ありゃ」
ダスが剣を引く。
火蜥蜴は壁へ爪を掛け、身体を反転させた。
地面だけでなく、急な岩肌まで移動できるらしい。
「……こいつ、結構すばしっこいな!」
ダスが笑った。
その声を聞いた火蜥蜴は今度はリュネの方へ顔を向けた。
リュネはすでに通路の少し広い側へ移動していた。
相手が岩壁から飛びかかってきても、後退する余地を残している。
火蜥蜴が動いた。
壁を蹴り、斜め下へ飛ぶ。
リュネは一歩だけ退いた。
相手の身体が空中を通過する。
その下へ短く発動した水の魔術が当たった。
じゅっ、と音がした。
熱を帯びた鱗へ水が触れ、白い蒸気が上がる。
火蜥蜴は着地したものの、進路を変えられ、通路の中央へ転がった。
「ダス、今!」
「おう!」
ダスは踏み込んだ。
剣を横へ振り、火蜥蜴の頭部を狙う。
しかし相手は素早く首を引いた。
刃が空を切る。
続けて、太い尾が横から振り抜かれた。
「……っ!」
ダスは剣を戻すのを諦め、身体を低くする。
尾が頭上を通り過ぎた。
その先端が岩壁へ当たり、細かな石片が飛び散る。
「……あぶねっ!」
ダスは距離を取った。
火蜥蜴はすぐに追ってこなかった。
今度はヴァルを見ている。
小型の飛竜。
自分より小さく、翼を畳んで地面に立っている。
だがそこから漂う何かが気になるのか、火蜥蜴は一瞬だけ動きを鈍らせた。
ヴァルは静かに見返していた。
ダスが声をかける。
「……ヴァル!」
小さな白い飛竜が顔を上げる。
「一回、やってみるか?」
ヴァルはダスを見た。
次にリュネを見る。
そして火蜥蜴へ視線を戻した。
そのままゆっくりと一歩前へ出る。
「……おっ」
ダスが笑った。
火蜥蜴は再び低く唸った。
尾が大きく揺れる。
前脚が岩を引っ掻く。
そして突進した。
ヴァルは動かなかった。
火蜥蜴が迫る。
距離が縮まる。
相手の口が開き、鋭い歯が並んだ。
その瞬間。
ヴァルが前脚を上げた。
ぱんっ。
実に軽い音だった。
飛びかかってきた火蜥蜴の頭部を、横から前脚で叩いたのである。
ただそれだけ。
だが衝突の勢いをまともに受けた火蜥蜴は、その場で身体を大きく崩した。
頭が横へ流れ、前脚が岩を掻く。
体勢を戻そうとしたが、間に合わない。
どさり、と。
火蜥蜴は地面へ倒れた。
そのまま動かなくなった。
「…………」
ダスが黙った。
リュネも黙った。
ヴァルは倒れた火蜥蜴を見下ろしている。
少し間を置いてから。
「……おお!」
ダスが声を上げた。
「やったじゃん、ヴァル!」
小さな白い飛竜が振り返った。
どこか誇らしげな顔だった。
「一撃か!」
ダスは嬉しそうに笑った。
「すげえな!」
リュネも近付く。
「うん。上手だったね」
ヴァルが尾を揺らした。
しかしダスは火蜥蜴の身体を確認してから、少しだけ首を傾げた。
「……いや」
リュネが顔を向ける。
「どうしたの?」
「……ちょっと強すぎたか?」
ダスが呟いた。
Dランク帯の魔物。
それを、小型飛竜が前脚の一撃で倒した。
あり得ない光景とまでは言えない。
同行魔獣にも個体差はある。
火蜥蜴の突進を利用して急所へ一撃を入れれば、十分に起こり得る結果だ。
だが毎回これをやっていたら、さすがに目立つかもしれない。
「……ヴァル」
ダスがしゃがみ込んだ。
小さな白龍が顔を向ける。
「もうちょっとだけ、弱そうに戦える?」
ヴァルの目が細くなった。
何とも不服そうだった。
リュネが口元を押さえる。
「……ふふっ」
「いや、ほら! 今のはちょっと格好よすぎただろ!」
ダスは笑いながら言った。
「せっかくDランクの同行魔獣なんだからさ!」
ヴァルはしばらくダスを見つめていた。
そして。
ぷいっ、と顔を逸らした。
「……あ」
ダスが固まる。
リュネが笑い出した。
「怒っちゃった?」
「……いや、これは……」
ヴァルが尾を大きく振った。
明らかに抗議している。
「……分かった、分かった!」
ダスは両手を上げた。
「お前がちゃんと考えて戦ったのは分かってる! すごかったぞ!」
ヴァルの尾が止まった。
「ただ、今度はもう少し時間かけてもいいかもなって!」
再び、尾が動いた。
「……はい、すみません!」
リュネはとうとう声を上げて笑った。
周囲にほかの冒険者がいなくてよかった。
いたら、小型飛竜へ謝り続けるDランク冒険者という、なかなか奇妙な光景を見られていたところだった。
ダスは立ち上がり、倒れた火蜥蜴を確認した。
完全に動きを止めている。
依頼の対象ではないが、討伐記録として報告できるだろう。
ただし素材を持ち帰るかどうかは別だ。
今は赤炉石を回収するために来ている。
むやみに荷物を増やしても仕方ない。
「……よし」
ダスは剣を鞘へ戻した。
「まず依頼を終わらせよう!」
リュネが頷く。
「うん」
ヴァルも何事もなかったように歩き始めた。
その足取りは先ほどより少しだけ軽いように見えた。
*
第二層の採取地点へ到着した頃にはダスの背中にも汗が滲んでいた。
岩壁の一部には赤褐色の鉱脈が走り、ところどころ黒い石が床へ露出している。
足元には採掘跡も残されていた。
「……おっ、ここか!」
ダスは依頼書を確認した。
指定された場所。
必要な採取量。
そして赤炉石の特徴。
図と実際の岩壁を見比べる。
「……これかな?」
赤い筋の走る石を一つ見つけ、手に取った。
リュネが覗き込む。
「似てるけど、少し色が違わない?」
「……ああ、確かに」
ダスは石をひっくり返した。
表面の模様は似ている。
しかし割れ目の色合いが図と違う。
少し考えたあと、元の場所へ置いた。
「……違うな!」
リュネが微笑む。
「うん。たぶん」
「よし、次!」
今度は岩壁に半分埋まっている石を見つけた。
表面へ付いた砂を払い、説明書の図と照らし合わせる。
先ほどより、ずっと近い。
「……おお」
ダスの目が輝いた。
「これじゃないか?」
リュネも確認する。
「うん。こっちは特徴が合ってるね」
「よし!」
ダスは採掘道具を取り出した。
力任せに岩を壊せば、石そのものを傷める可能性がある。
そこで周囲の岩を少しずつ削り、目的の鉱石を取り出していく。
ごつっ。
かつっ。
小さな音が続いた。
「……んー」
ダスは手元を確かめた。
思ったより難しい。
強く叩けば割れすぎる。
弱すぎれば、岩から外れない。
何度か力を調整しているうちにようやく一つの鉱石が外れた。
「……取れた!」
ダスが嬉しそうに掲げる。
リュネが笑った。
「おめでとう」
「ははっ! ありがとな!」
ヴァルは少し離れた場所で通路の奥を見張っている。
採取作業中は周囲への注意が薄くなりやすい。
だから彼は二人の手元ではなく、近付いてくるものがないかを確かめていた。
ダスたちは採取を続けた。
岩を削り、石を見分け、必要な量だけ袋へ詰める。
途中で何度か水を飲み、熱の強い場所では短い休憩を挟んだ。
採取に集中するあまり、周囲の様子を見失うことのないようにする。
そして依頼で指定された量を確保したところで、ダスは道具を片付けた。
「……よし。終わり!」
リュネが袋の中身を確認する。
「うん。量も足りてるね」
「いやぁ、いい仕事だった!」
ダスは満足そうに笑った。
「それにしても、あれだな」
「何?」
「石を掘るのも、結構面白い!」
リュネが目を細めた。
「今度は採掘も始める?」
「……それもいいな!」
「ふふっ。本当に何でもやりたがるね」
「だって、面白そうだろ?」
ダスは何の迷いもなく答えた。
その言葉にリュネは笑った。
きっと彼は冒険者として一通りの仕事を経験しても、まだ別のことを見つけるのだろう。
戦うこと。
探すこと。
採ること。
作ること。
知らなかったものを知ること。
そのどれもが彼にとっては立派な冒険だった。
荷物を整えた三者は来た道を引き返し始めた。
途中、火蜥蜴と戦った場所を通ったが、新たな魔物は現れなかった。
第一層へ戻り、管理所で退出を記録する。
依頼は無事達成。
あとはカルド火口街のギルドへ報告し、赤炉石を納品するだけだった。
「……さて!」
ダスは洞窟の外へ出た。
夕方の風が頬を撫でる。
「帰ろうか!」
リュネが頷く。
「うん」
ヴァルも二人へ続いた。
しかし。
山道を下り始めて、しばらく経った頃。
三者の足がほとんど同時に止まった。
*
風が変わった。
先ほどまで山肌を下っていた熱い風が、一瞬だけ途切れる。
それから遠くの稜線を越えて、乾いた空気が流れてきた。
ダスは顔を上げた。
「……あ」
その声は小さかった。
リュネも同じ方向を見ている。
ヴァルは翼を少しだけ開いた。
山道の向こう。
幾重にも重なる黒い岩山の、そのさらに奥。
夕日に照らされた稜線の上に一つの影があった。
巨大な黒い犬。
細長い脚。
引き締まった胴体。
大きな頭部。
遠目にも分かるほど異様な大きさだった。
岩肌へ溶け込むような黒い体には幾筋もの赤い亀裂が走っている。
その奥で鈍い赤色が見え隠れしていた。
だが炎は上がっていない。
周囲の岩が溶けている様子もない。
ただそこに立っている。
「…………」
ダスは黙っていた。
その隣でリュネが小さく息を吐く。
「……いたね」
「ああ」
ダスは笑った。
「……本当に、いたな」
《戦火の獄犬》。
七厄災No.05。
人間たちが恐れ、国が警戒し、たった一度の目撃情報で街道の進路が変わる存在。
その本人が遠くの山の上に立っていた。
黒い犬はゆっくりと首を動かした。
まずは山道。
次に周囲の岩場。
そして。
三者のいる方向へ顔を向けた。
「……おっ」
ダスの目が輝く。
遠く離れているというのに犬の視線がこちらへ向けられたことは分かった。
向こうもこちらを見ている。
ただしその眼差しが何を意味するのかまでは、簡単には決められない。
巨大な犬はしばらく動かなかった。
風が吹く。
黒い体表を覆う亀裂の赤が夕日の中で微かに揺らいで見えた。
ダスは一歩だけ前へ出た。
無意識に口元が緩む。
その姿を見た瞬間、遠い昔の記憶が蘇っていた。
*
小さな犬だった。
特別な種族ではない。
強い魔力を持っていたわけでもない。
巨大な身体も鋭い爪も、溶岩のような体表もなかった。
ただの犬。
それが圧倒的に強い魔物へ向かって吠えていた。
後ろには人間の子供がいた。
逃げようと思えば逃げられたはずだった。
少なくとも、自分だけが生き延びる道はあった。
けれど、その犬は退かなかった。
魔物に吹き飛ばされる。
地面へ転がる。
それでも立ち上がる。
再び子供の前へ戻り、牙を剥く。
勝てるはずがない。
それどころか、何度立ち上がっても結果は変わらない。
ただあの犬は戦い続けた。
ヴェルデンはその姿を見ていた。
そして思ったのだ。
――面白い。
何故、逃げないのか。
何故、勝てないと分かっていて立ち上がるのか。
何をそこまで守ろうとしているのか。
理由は本人にしか分からない。
それでもその行動には確かな意思があった。
だからヴェルデンは犬へ一つの力を与えた。
《不退牙》。
格上を相手にしても、挑む可能性を作る力。
勝利を約束するものではない。
傷を消すものでもない。
ただ圧倒的な力の差を前にしてなお、牙を届かせようとする余地を生み出すものだった。
それから犬は生き続けた。
戦い。
傷付き。
何度も強い相手へ挑み。
長い年月の中で姿も存在も変えていった。
ヴェルデンが何も指示しなくても。
誰かが成長の道を決めなくても。
あの犬は自分の意思で生き続けていた。
*
「……大きくなったなぁ」
ダスがぽつりと呟いた。
隣のリュネが微笑む。
「うん」
遠くの犬はまだ三者を見ていた。
その大きな身体が僅かに前へ傾く。
前脚が岩を踏み締めた。
ダスはその動きを見逃さなかった。
「……ははっ」
小さく笑う。
何となく、分かる気がした。
あの犬は強い相手と戦うことが好きだ。
それは昔から変わらない。
そして今、こちらを見つめている。
「……どうする?」
リュネが尋ねた。
ダスは少しだけ考えた。
腰には鉄剣。
背中には赤炉石の入った袋。
足元にはヴァル。
今の彼らは赤炉洞の採取依頼を終えたばかりのDランク冒険者だった。
「……まあ、今日はいいかな」
ダスが笑った。
「せっかく依頼も終わったし、ちゃんと帰って報告しないとな」
「そうだね」
リュネも頷いた。
ヴァルは遠くの犬へ視線を向けたままだった。
黒い巨体はまだ動かない。
ダスは少しだけ口元を緩めた。
彼にとって、あの犬が人類側の脅威であることも、昔の小さな犬であることも、どちらも事実だった。
だからといって、今ここで接触する必要はない。
無理に近付く必要もない。
相手には相手の暮らしがある。
今の自分たちにも今の仕事がある。
それだけだった。
そしてしばらくして。
黒い犬がゆっくりと顔を逸らした。
「……お?」
ダスが目を細める。
巨大な身体が向きを変える。
稜線の上を、悠々と歩き始めた。
一歩。
また一歩。
黒い脚が岩を踏むたび、亀裂の奥に残る赤い色がちらりと覗く。
まるで暗い山肌の上に赤い足跡が続いているようだった。
だが燃え盛る炎が残るわけではない。
地面を焼き尽くすわけでもない。
犬はただ歩いている。
そしてもう一度だけ顔を向けた。
遠くの三者を見つめる。
ダスは笑った。
「……またな!」
声が届く距離ではなかった。
それでも自然と口にしていた。
巨大な黒犬は何も答えなかった。
ただしばらくこちらを眺めていた。
そして再び向きを変え、岩山の向こうへ姿を消した。
遠くの稜線には夕日の赤だけが残った。
*
しばらくして三者は山道を下り始めた。
ダスは何度か後ろを振り返っていた。
だが黒い犬の姿はもう見えない。
「……いやぁ」
ダスが笑った。
「いいもん見たな!」
「うん。元気そうだったね」
「だな!」
リュネは少しだけ彼の顔を覗き込んだ。
「嬉しかった?」
「そりゃもう!」
ダスは即答した。
「だって、あいつ、まだ生きてるんだぞ」
リュネは黙って頷いた。
「俺が能力を与えたのなんて、ずっと昔のことだろ? そのあと、どんな相手と戦って、どこへ行って、どうやってここまで強くなったのか……全部知ってるわけじゃない」
「うん」
「でも、あいつはあいつで、ずっと生きてきたんだよな」
ダスは嬉しそうに笑った。
あの犬を七厄災にしようと思ったことはない。
人類から恐れられる存在へ育てようとしたこともない。
それでも今では世界中で名前を知られている。
そして本人はたぶんそんなことを大して気にしていない。
強い相手を見つければ戦う。
気が向けば歩く。
疲れれば休む。
時には弱い者を守ることもある。
誰かに命じられたのではない。
自分の意思でそうしている。
「……面白いなぁ」
ダスが呟いた。
「生き物ってさ」
リュネはそんな彼を見つめて微笑んだ。
「……そうだね」
ヴァルが二人の少し前を歩いていた。
人前では大人しい小型飛竜として振る舞っているが、今は周囲に誰もいない。
彼は少しだけ振り返った。
「……お前は、本当にそういうものが好きだな」
ダスが笑う。
「おう!」
「戦いを楽しむ犬が、何千年も生きて七厄災になった。それを見て喜ぶとはな」
「だって、すごいだろ?」
「……まあな」
ヴァルは少し考えた。
それから静かに続けた。
「ただ、あいつにとっては、七厄災という呼び名も関係ないのかもしれんな」
「……ああ」
ダスは頷いた。
「そうだろうな」
そして笑った。
「だからいいんだよ」
それ以上、言葉を重ねる必要はなかった。
三者は夕暮れの山道を下っていく。
やがて遠くにカルド火口街の黒い城壁が見え始めた。
その内側では今日も無数の炉が燃えている。
鍛冶師たちは鉄を打ち、商人たちは荷物を運び、冒険者たちは依頼を受ける。
誰かが七厄災の目撃情報を報告し、ギルドは新しい危険地図を作るだろう。
人間たちは自分たちの暮らしを守るために動き続ける。
そしてあの黒い犬もまた、自分の生きたいように生き続ける。
ダスは両方の世界を楽しそうに眺めていた。
その足取りは、軽かった。
*
一方その頃。
サルディア大陸へ向かう交易船が一隻の港を出航していた。
港に集まった人々が手を振り、船員たちは帆を調整する。
船体がゆっくりと岸壁を離れ、波の上へ滑り出していった。
「……うわぁ!」
甲板の上でヴェルトが声を上げた。
「海だ!」
目の前にはどこまでも続く青い水面。
遠くには小さな船影があり、空には海鳥が飛んでいる。
ヴェルトは甲板の縁へ近付き、楽しそうに身を乗り出した。
「すごいね! こんなに広い!」
「海だからね!」
アルシェも隣へ来て笑った。
彼女の手にはすでに航海用の地図がある。
ナディアは少し離れたところで船員と話していた。
目的地。
途中で立ち寄る港。
天候が悪化した場合の対応。
そして船内での安全上の注意。
そうした説明を聞き終えると、三人の方へ戻ってきた。
「出航したばかりだけど、しばらくは甲板で過ごせるみたいだよ」
「やった!」
ヴェルトが笑った。
その横ではミオが手すりにもたれて海を眺めていた。
灰黒色の髪が風に揺れている。
相変わらず裸足で荷物らしい荷物もない。
「……ねえ、ミオ」
ヴェルトが声をかけた。
「ん?」
「船、楽しい?」
ミオは少し考えた。
「……揺れるね」
「うん!」
「……水、多い」
「海だからね!」
「……そう」
ミオは頷いた。
ヴェルトは笑った。
「気に入った?」
「……別に」
「ははっ! そっか!」
ナディアも小さく笑う。
アルシェは船の帆や舵の仕組みに興味を持っているようだった。
「あれって、風の向きに合わせて角度を変えるんだよね?」
「そうだね。船の種類や帆の配置にもよるけど」
「……面白いなぁ!」
彼女は早速、近くの船員へ話を聞きに行った。
その後船員から長々と帆の扱いを教えてもらうことになった。
もっとも。
「お嬢ちゃん、見るのはいいが、その綱は勝手に引っ張るなよ」
「分かってるって!」
「本当か?」
「本当!」
アルシェは元気よく答えた。
その返事を聞いたヴェルトが笑う。
「アルシェ、さっきから同じこと三回聞いてるよ!」
「だって、面白いんだもん!」
甲板に笑い声が広がった。
船は順調に進んでいた。
少なくとも、その日の昼までは。
*
夕方。
船長は航海士が差し出した記録を見て、眉を寄せた。
「……おい」
「はい?」
「これ、合ってるのか?」
航海士は海図を覗き込んだ。
「……ええ。観測した位置は、こちらですが」
「おかしいだろ」
船長は指で海図を叩いた。
「この時間なら、もっと南東へ出てるはずだ」
航海士も難しい顔をした。
出航後、風はそれほど悪くなかった。
波も穏やか。
大きな進路変更を行った記録もない。
それなのに、観測結果と予定航路が微妙にずれている。
「……潮の影響でしょうか」
「それにしちゃ、ずれ方が変だな」
船長は顔を上げた。
「舵の記録を持ってこい。あと、帆の調整も確認する」
「分かりました」
航海士が動き始めた。
船長はしばらく海図を眺めていた。
通常の航海でも、予想した位置と実際の位置が一致しないことはある。
風。
潮。
測定誤差。
原因はいくらでも考えられる。
だが今回の違和感はそれだけでは説明しにくかった。
進んだ距離は足りている。
時間も合っている。
それなのに、目的地へ向かう進み方が、どこかおかしい。
「……何だ、こりゃ」
船長は小さく呟いた。
その頃。
甲板ではヴェルトたち四人が夕日を眺めていた。
「……綺麗だねぇ」
ヴェルトが笑う。
海面へ伸びる赤い光。
遠くへ続く波。
その先にはまだ見たことのない大陸が待っている。
「……サルディア、楽しみだな!」
「うん。私も!」
アルシェが元気よく頷いた。
ナディアは二人の横で少しだけ笑っていた。
そしてふとミオへ目を向ける。
少年は静かに海を眺めている。
何かを考えているようにも見えない。
ただ今はここにいる。
それだけで十分だと言いたげだった。
「……ミオ」
ナディアが声をかけた。
「ん?」
「……この船、サルディアへ向かってるんだけど」
「……うん」
「君は、そこへ行ってみたい?」
ミオは少し考えた。
そして。
「……別に」
短く答えた。
「……そう」
ナディアは頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
ただその返事が妙に気になっていた。
目的地を持たない少年。
《迷途》という、何かへ至ろうとする経路を迷わせる固有能力。
今までそれは人が歩く道や、目的の人物を探す行動へ影響していた。
では。
船に乗った場合はどうなるのだろう。
乗っている本人たちが何を望むか。
船長が何を目指すか。
船そのものがどこへ向かうものとして航行しているか。
その違いが《迷途》へどう関係するのか、ナディアにはまだ分からなかった。
ただ少しばかり嫌な予感がしていた。
「……ナディア?」
ヴェルトが首を傾げる。
「どうしたの?」
「……ううん」
ナディアは海へ目を向けた。
「何でもない。ちょっと、気になっただけ」
「……そう?」
「うん」
それから彼女は小さく笑った。
「まあ、船のことは船員さんたちが見てくれてるからね。何かあれば、私たちも手伝おう」
「了解!」
ヴェルトは元気よく頷いた。
その横でミオが小さく欠伸をした。
「……眠い」
「もう?」
アルシェが笑う。
「うん」
「さっきまで寝てなかった?」
「……寝てた」
「じゃあ何でまた眠いの!?」
「……分かんない」
ヴェルトが笑い出した。
ナディアもつられて口元を緩める。
船は進んでいた。
確かに海の上を進んでいた。
ただし。
その進路が船長の思い描く目的地へ繋がっているのかどうか。
それだけは、まだ分からなかった。
*
夜。
船長室では再び海図が広げられていた。
船長と航海士が二つの記録を見比べている。
舵の操作。
帆の向き。
風の記録。
そして観測された船の位置。
「……やっぱりおかしいな」
船長が呟いた。
航海士も頷いた。
「ええ。方位を取り直しても、どうも……」
「……何だ?」
「目的地へ向けて進路を修正したはずなのに、次の観測では別の方向へずれているんです」
船長は黙って海図を見つめた。
この海で何年も船を動かしてきた。
天候を読み違えたこともある。
潮に流されたこともある。
それでもこういう状況は滅多に経験しない。
「……明るくなったら、もう一度確認する」
船長は静かに言った。
「今夜は無理に進路を変えるな。見張りを増やして、周囲の海域を確かめろ」
「はい」
「それと、乗客にはまだ騒ぐな。状況も分からんうちに不安を広げたって仕方ない」
「分かりました」
航海士が退室する。
船長は一人、海図へ目を落とした。
目指す先はサルディア大陸。
航路も決まっている。
船も動いている。
なのに。
「……どうして、こうなる」
小さな声が船長室へ落ちた。
その頃、船室ではミオが静かに眠っていた。
何かを妨害しようとしているわけではない。
船をどこかへ導こうとしているわけでもない。
ただ、そこにいる。
そして船は夜の海を進み続けた。
正しい航路を選んでいるはずなのに、目的地へ思うように近付けない。
その奇妙な航海はまだ始まったばかりだった。




