第21話『航路のない島』
カルド火口街の朝は金槌の音で始まる。
まだ太陽が城壁の上へ顔を出す前から、街のあちこちで鍛冶炉に火が入り、鉄を打つ音が響いていた。
石造りの建物の間には薄く煙が漂い、風が吹くたび、硫黄と焼けた金属の匂いが混ざり合う。
その音に紛れて宿の一室から妙に楽しそうな声が聞こえてきた。
「いやあ、昨日はいいものを見たなぁ」
ダスは寝台の端に腰掛け、昨夕の光景を思い返していた。
遠くの稜線に立っていた巨大な黒い犬。
体表を走る赤い亀裂と周囲の山々を小さく見せるほどの巨体。
七厄災No.05《戦火の獄犬》。
かつて普通の犬だった存在が幾千年もの歳月を経て辿り着いた姿だった。
「昨日から何度目ですか、その話」
旅装を整えていたリュネが鏡越しに微笑んだ。
「五回くらい?」
「七回目かな」
「そんなに?」
「うん。寝る前にも二回言ってたよ」
ダスは少し考え納得したように頷いた。
「まあ、それだけ嬉しかったってことだな」
部屋の隅では白い小型飛竜の姿をしたヴァルが床に伏せていた。
「喜ぶのは構わんが、そろそろ昨日の依頼を終わらせたらどうだ」
「おっと、そうだった」
ダスは机の上に置かれた採取袋へ目を向けた。
中には昨日《赤炉洞》の第二層で採取した《赤炉石》が入っている。
必要量は確保した。
ダンジョン管理所での採取記録も済んでいる。
しかし、依頼主への納品と冒険者ギルドへの正式な達成報告はまだ終わっていなかった。
「危ない危ない。依頼を受けっぱなしにするところだった」
「昨日の帰り道でも納品の話をしていたのにね」
「獄犬を見たらちょっと忘れた」
「ちょっと?」
「かなり」
リュネが小さく笑う。
ヴァルは呆れたように鼻を鳴らした。
「お前は本当に何千年経っても変わらんな」
「変わってるぞ。昔よりちゃんと冒険者をやってる」
「それは否定せん」
ヴァルは一度言葉を切り、窓の外へ目を向けた。
「だが、昨日の一件は報告しておいた方がいい。あの犬の移動は周囲の者にとって無視できるものではない」
「だな」
ダスもすぐに頷いた。
彼にとって《戦火の獄犬》は昔を知る一個の生命だ。
けれど、ここで暮らす人々にとっては違う。
獄犬が山を一つ越えるだけで商隊の進路が変わり、採掘作業が中断され、冒険者への依頼が組み直される。
昨日、赤布が率いる商隊も、獄犬の目撃情報によって遠回りを選んだ。
獄犬自身が何を考えて歩いているかとは関係なく、その存在は人々の生活へ大きな影響を与えている。
「よし。じゃあ今日は納品して、報告して、それから次の依頼だな!」
「その前に朝食かな」
「あ、それは絶対だ」
ダスが即答するとリュネは今度こそ声を立てて笑った。
ヴァルも立ち上がり小さな翼を伸ばす。
「昨日の夕食は随分と少なかったからな」
「お前、俺の分まで食っただろ」
「お前が勧めた」
「そうでした」
そんなやり取りを交わしながら三者は部屋を出た。
◇
朝の冒険者ギルドはすでに多くの人で賑わっていた。
火山地帯で働く採掘護衛、街道警備、鉱石運搬、ダンジョン探索。
カルドには他の都市ではあまり見かけない依頼が数多く集まっている。
その一方で掲示板の東側には赤い札が目立っていた。
《依頼停止》
《通行制限》
《危険存在の目撃情報あり》
いずれも《戦火の獄犬》に関係する措置だった。
「昨日より増えてるな」
「東側の採掘護衛も止まってる」
「確認情報が増えたんだろうね」
掲示されている地図には獄犬の目撃地点と報告された時刻が書き込まれ、未確認情報には別の印が付けられていた。
ダスが眺めていると、近くの冒険者二人が話している声が聞こえた。
「南の道、また止まったのか」
「昨日、山の向こうで見たって話が出たらしい」
「勘弁してくれ。あそこを通らねえと仕事にならん」
「だったらお前が行ってこいよ」
「嫌だよ。俺はまだ生きたい」
二人は笑っていたが、目は真剣だった。
ダスは納品窓口へ向かった。
「すみませーん。赤炉石の納品です」
受付職員が依頼票を確認する。
「《赤炉洞》第二層の採取依頼ですね。冒険者証と採取記録をお願いします」
「はいよ」
ダスとリュネが冒険者証を出すと、職員は記録を照合し、採取袋の中身を専用の台へ広げた。
赤みを帯びた鉱石が、朝の光を受けて鈍く輝く。
職員は一つずつ表面を確認し、指定された模様と亀裂の特徴を見比べていった。
「……はい。品質、数量ともに問題ありません」
「よし!」
「ただ、こちらの一個は表面に少し傷がありますね。採取中についたものでしょうか」
「ああ、それは俺が最初に外そうとして、ちょっと道具を滑らせたやつだな」
職員は傷の深さを確かめ、頷く。
「この程度でしたら規定内です。次回は周囲の岩を先に少し落とした方が、傷を付けずに済むと思います」
「なるほど。覚えとく」
リュネが傍らで小さく笑っていた。
「何?」
「ううん。最近、本当に採取の話をするのが好きだなと思って」
「そりゃ面白いからな。採れるかどうかだけじゃなくて、綺麗に採れるかでも違うんだぞ」
「知ってるよ。昨日、一緒に採ったもの」
「そうだった」
職員も小さく笑い、依頼達成の処理を進めた。
報酬を受け取ったダスは冒険者証に記録された新しい実績を眺めた。
「うん。いいな、こういうの」
「それと、もう一件報告したいことがあるんだけど」
「はい。何でしょう?」
「昨日の夕方、赤炉洞からの帰り道で、でっかい黒い犬を見た」
職員の手が止まった。
「……黒い犬、ですか?」
「うん。かなり遠くの山だったけどな。体に赤い亀裂みたいな模様があった」
「少々お待ちください」
職員は別の職員を呼び、目撃情報を記録する用紙を取り出した。
ダスは少しだけ目を輝かせた。
「おお、本格的だ」
「当然です」
「《戦火の獄犬》の可能性があります。見た場所と時刻を、できるだけ正確に教えてください」
「赤炉洞の帰り道だな。街に戻る前、山道から南側の稜線が見える場所」
「距離は?」
「正確には分からない。かなり遠かった。直接近付いたわけじゃないし、目撃した山までの距離も測ってない」
「分かりました。見えた時間は?」
「夕方。日が沈みかける少し前だったな」
職員は移動方向や炎・噴煙の有無、ほかの生物への反応を順に確かめた。
「こっちを向いたようには見えた。でも距離があったし、それ以上は分からない。襲ってきたわけでもないしな」
「その後は?」
「別の方向へ歩いていった」
「ありがとうございます。現時点では、追加の目撃報告として扱わせていただきます」
職員は記録用紙を揃えた。
「他の報告とも照合しますので、すぐに確定情報へ変更するわけではありません」
「いいねえ」
「……はい?」
「いや、ちゃんとしてるなと思って」
ダスは掲示板の赤い札を振り返った。
あの札の一枚にも、誰かが集めて確かめた情報がある。
「討伐しようって話にはならないんだな」
「七厄災ですよ?」
「うん」
「普通の冒険者が討伐できる相手ではありません。まずは人命と交通路の安全が優先です」
「なるほど」
ダスは昨日の商隊を思い出し、頷いた。
「じゃあ、次の依頼も見ていくか」
◇
その頃、広い海の上では交易船の船長が三度目の海図確認を終えたところだった。
「……合わんな」
海図を押さえた手に、力がこもる。
船は予定どおりサルディア大陸を目指していた。
昨日から風向きは大きく変わっていない。
帆の調整も舵の操作も記録されている。
航海士が確認した時刻にも不自然な食い違いはなかった。
にもかかわらず、船の位置が合わない。
昨夜の観測結果を基に進路を修正したはずなのに、今朝の観測では再び予定航路から外れていた。
「船長。見張りからの報告です。左舷前方、まだ陸影は見えません」
「分かった。引き続き監視させろ」
「潮に流されたというには……」
「流された量が大きすぎる」
船長が航海士の続きを引き取った。
「しかも同じ方向に流され続けているわけでもない。昨夜の修正を含めて、もう一度確認しろ。間違いがあれば、まずそこを潰す」
「了解です」
航海士が離れる。
船長は深く息を吐いた。
潮や風に進路を狂わされることは珍しくないが、原因を掴めないまま進むわけにはいかない。
船長の様子を少し離れた場所からヴェルトたち四人が見ていた。
「やっぱり、まだおかしいんだね」
ヴェルトが海図へ視線を向ける。
その隣でナディアが腕を組んでいた。
「昨日の夜から続いている。船員の操作ミスだけでは説明しにくい」
「でも、船の動きそのものがおかしいわけじゃないんだよね?」
アルシェが尋ねる。
「少なくとも、私たちが確認した範囲ではね。風も波もあるし、船は普通に進んでいる」
「じゃあ、進む先がおかしい?」
「その可能性はある」
ナディアは傍らの少年へ目を向けた。
灰黒色の髪。
簡素な白い服。
裸足の少年。
ミオは船縁に寄りかかり、海面をぼんやり眺めていた。
「ミオ」
「ん」
「君の《迷途》について、もう少し聞いてもいい?」
「いいよ」
「この船がサルディアへ向かっていることは、知っているよね」
「うん」
「そこへ辿り着こうとしていることも?」
「うん」
「それが、影響している可能性はある?」
「あるかも」
「あるかも、なんだ」
「うん」
「じゃあ、ミオが何とかすれば元の航路へ戻れる?」
「分かんない」
「そっかぁ」
ナディアは船が進んできた海を振り返った。
ミオの《迷途》が迷わせるのは、何かへ辿り着こうとする行為だ。
仮に能力が原因でも、すでに船が進んだ距離まで元へ戻るわけではない。
「船長には、どう説明する?」
「少なくとも、まだ原因として断定はできない。それに、説明するなら影響を減らせるかどうかも確認したい」
「それはそうだね」
「まずは船の安全を優先しよう」
その会話を聞いていたヴェルトが、ふとミオへ尋ねた。
「ミオはさ、サルディアへ行きたい?」
「別に」
「じゃあ、どこへ行きたい?」
「どこでも」
「ふふっ。いいね、それ」
「ねえ、ナディア」
「何?」
「私たちも、今はサルディアへ辿り着くことばかり考えなくてもいいんじゃないかな」
「……船長たちには目的地があるんだけど」
「あ、もちろん船はちゃんと戻さないとね」
「ただ、私たちが焦って動いても、かえって邪魔になるかもしれないでしょ。まずは今どこにいるのか確かめて、それから考えよう」
ナディアは少しだけ表情を緩めた。
「それなら賛成」
「それにさ」
ヴェルトは水平線へ視線を向けた。
「こういう予定外の旅って、何が見つかるか分からないから――」
そのときだった。
「陸だ!」
見張り台から声が上がった。
「前方に陸影! 島です!」
甲板にいた船員たちが一斉に動いた。
ヴェルトも顔を上げる。
遠い水平線の向こう。
海の青さの中に、緑と黒の小さな影が浮かんでいた。
「……おお」
ヴェルトの目が輝く。
ナディアは反射的に海図へ目を向けた。
アルシェも駆け寄ってくる。
船長は望遠鏡を取り、しばらく陸影を観察してから航海士に尋ねた。
「この位置に島の記載は?」
「ありません」
「周辺海域の図も確認しろ」
「はい」
しばらくして、航海士が首を振った。
「少なくとも、本船にある海図では確認できません」
船長は口を引き結んだ。
海図が古いのか、現在位置の推定が違うのか。
今の段階では判断できなかった。
「減帆。見張りを増やせ。沿岸の水深が分かるまで、大きく近付くな」
船長の指示が飛ぶ。
船員たちが帆を調整し、船足を落としていく。
ヴェルトは島から目を離せなくなっていた。
「ねえ、あの島ってさ」
「うん」
ナディアは次に何を言われるか分かっているような顔をした。
「行ってみたい」
「だろうね」
アルシェが吹き出した。
「私もちょっと行きたい!」
「アルシェまで……」
「だって、海図に載ってないんだよ? 見に行かない理由がないじゃん!」
「理由ならいくつもあるよ」
「船が予定航路から外れている。島の沿岸も未確認。乗客も積み荷もある。まず安全を確保しないと」
「うん。だから、ちゃんと確認してから行こう」
「……分かってるんだ」
「そりゃそうだよ。海図にない島が面白いからって、船ごと座礁させたら駄目でしょ」
「それが分かっているならいい」
「でも、安全に行けるなら行く」
「そこは変わらないんだね」
「もちろん!」
◇
一方、カルド火口街ではダスが新しい依頼票を手に取っていた。
「お。これ、面白そうだな」
掲示板の端に貼られていたのは街の西部にある旧採掘坑の調査依頼だった。
かつて鉱石を掘り出していた坑道。
現在は採掘が行われておらず、一部の入口や通路だけが管理されている。
その旧採掘坑の近くで、最近になって不審な物音が報告されるようになったという。
「異音調査、か」
リュネが依頼票を覗き込む。
「崩落の前兆かもしれないね」
「魔物が入り込んだ可能性もあるって書いてあるな」
「どちらにしても、慎重に調べた方がよさそう」
ダスは依頼条件を読む。
対象は旧採掘坑の入口から調査許可区域内。
危険な崩落箇所や、閉鎖された深部への無断進入は禁止。
音の原因を確認できれば記録し、危険な異常を発見した場合は無理に対処せず報告すること。
必要冒険者ランクはD以上。
「おお。俺たち、ちょうど受けられる!」
「Dになってから、そればっかり言ってない?」
「だって嬉しいだろ。前は受けられなかった依頼だぞ」
「そうだね。じゃあ、これにする?」
「うん。ちょっと調べてみよう」
三者が受付で正式に依頼を受けると、職員は坑道の簡単な地図を広げて説明した。
「こちらが現在も使用されている入口です。古い坑道なので、図面と実際の地形が完全には一致しない可能性があります」
「崩落してる場所もある?」
「あります。特に奥の区画は立入禁止です。以前の支柱が残っている場所もありますが、安全を保証するものではありません」
「音がするのは、どの辺りなんだ?」
「入口から少し奥へ入った辺りで聞いたという報告があります。ただ、正確な場所までは分かっていません」
「なるほど。原因不明ってことか」
「はい。魔物、落石、古い設備の破損など、複数の可能性があります」
職員は地図の一部分を指した。
「この先は調査許可区域外です。何か異常があっても、無理に追わないでください」
「了解」
「それと、内部で人の痕跡を見つけた場合も報告をお願いします。廃坑なので、無許可で立ち入る者がいないとは限りません」
「分かった」
ダスが地図を受け取り、リュネと一緒に内容を確かめる。
ヴァルは二人の足元で静かに待っていた。
準備を終えて受付を離れたところで、ダスがふと思い出したように言った。
「そういや、昔ならこういう場所、何も考えずに奥まで行ってたかもな」
「今も行きたそうだけど?」
「行きたいぞ?」
「ふふっ」
「でも、今回はDランクの仕事だからな。調べられる範囲を調べて、危なければ戻る」
「うん。それでいいと思う」
ダスは地図を丸め、冒険者鞄に収めた。
「よし。じゃあ出発!」
◇
交易船が海図にない島へ接近したのは午前のうちだった。
船長は慎重に水深を調べさせ、島の風下側に比較的穏やかな水域があることを確認した。
沿岸には岩礁も見えたため、大型船は岸へ寄せず、安全な距離を保って停船した。
「島の周囲を調べれば、現在位置の手掛かりが見つかるかもしれん」
「ただし、本船の乗客を危険に晒すわけにはいかない。上陸するなら小舟だ。海岸の状態を確認し、戻れる時間を守ってもらう」
「うん。分かった!」
船長は彼女の冒険者証を確認し、少し複雑そうな顔になった。
SSSランク《未踏の獅子》。
船長は冒険者証と、島を前にしたヴェルトの顔を見比べた。
「……くれぐれも、本船の安全を優先していただきたい」
「もちろん。危険なことが分かったら、ちゃんと戻るよ」
「それなら結構です」
船長は小舟の準備を命じた。
ナディアは小舟へ乗り込む前に帰還用の目印と船の位置を確認した。
アルシェは水筒、記録帳、簡単な採取道具を確かめている。
「ねえ、ミオ。船で待っててもいいんだよ?」
「行く」
「そっか。じゃあ一緒に行こう!」
「うん」
小舟は船員の手で静かに海面へ降ろされた。
四人が乗り込むと、船員たちは慎重に岸へ向かって漕ぎ始める。
近付くにつれ、島の輪郭がはっきりしてきた。
海岸は黒っぽい岩と白い砂が混ざり、その奥には密度の高い森が広がっていた。
木々は高く、蔓植物も多い。
沿岸の岩には波による侵食の跡があり、砂浜には漂着した木片や貝殻が散らばっている。
「……普通だね」
「そうだね」
「でも、普通の島だって分かっただけでも面白いよ」
「それはそうだけど」
船員たちが小舟を安全な位置へ寄せ、四人は浅瀬へ降り立った。
ミオは裸足のまま砂浜へ足を下ろす。
少し濡れた砂を踏み、波打ち際を眺めていた。
ナディアは上陸地点と小舟の位置を確かめる。
「まずは海岸周辺。森に入るとしても、戻れる範囲を把握してからにしよう」
「了解!」
「私、植物もちょっと見たいな」
「採取するなら、毒性が分からないものは不用意に触らないで」
「分かってるって」
アルシェはそう言いながら、すでに砂浜の端に生えている植物を観察し始めていた。
ヴェルトも森の方へ歩き出す。
すると、数歩進んだところで彼女が足を止めた。
「……あれ?」
「どうした?」
「道がある」
海岸から森へ続く斜面。
そこに、細い道が一本伸びていた。
最初は獣道のように見えたが、近付いてみると地面に平らに加工された石が埋まっていた。
石はある程度の間隔を保って並んでいる。
「人工の道……?」
アルシェがしゃがみ込む。
石の表面を指でなぞった。
「これ、ちゃんと加工されてる。自然に割れた形じゃないよ」
「人がいた島なのかな」
ヴェルトも隣へしゃがむ。
ナディアは周囲を見回した。
「可能性はある。ただ、今も人が住んでいるかどうかは別だね」
森の奥から人の声はしない。
煙も見えない。
海岸には桟橋も建物もなく、船を係留するための設備も確認できなかった。
アルシェは石の隙間から伸びる細い根を指で避け、顔を近付ける。
「……変だな」
「何が?」
「ここの石、表面はあまり傷んでないんだよね。最近置いたみたいに見える」
彼女は道の脇にある木へ目を向けた。
「でも、こっちの根を見て」
太い根が石の間へ入り込み、その一部を押し上げていた。
根の周囲には古い土が詰まり、苔も生えている。
「道が古いってことじゃない?」
「それなら、もう少し表面が傷んでてもよさそうなんだけど……」
アルシェは別の石も確認した。
「全部じゃないんだよ。古そうなところと、妙に新しそうなところが混ざってる」
ナディアもしゃがみ、石の配置を観察する。
「途中で補修された可能性は?」
「ある。でも、そう考えるには気になるところがあるんだよね」
「例えば?」
「石の継ぎ目。新しく見える方にも古い根が入り込んでる」
アルシェは記録帳を取り出し、簡単な図を描いた。
「これだけじゃ年代は分からないけど、少なくとも見た目ほど単純じゃなさそう」
「じゃあ、少し先まで見てみようか」
「待って」
「先に帰り道を確認する」
四人は一度海岸へ戻り、上陸地点と小舟の位置を確かめた。
船はまだ沖合に停泊している。
海も穏やかだった。
ナディアは道の入口近くに分かりやすい目印を残し、時間を確認した。
「よし。森の中を少し調べよう。日が傾く前には海岸へ戻る」
「了解!」
ヴェルトが先頭に立ち、道へ入った。
木々の隙間から差し込む光はまだ明るい。
しかし森へ数十歩進むと、海岸の波音が少しずつ遠くなっていった。
◇
カルド西部の旧採掘坑へ向かう道は街の中心部とは随分と雰囲気が違っていた。
鍛冶工房の音が遠ざかり、代わりに乾いた風が岩場を抜ける音が聞こえる。
道の脇には古い鉱石運搬用の車輪や、使われなくなった木材が積まれていた。
ところどころに、かつて荷車が行き来していたらしい轍の跡も残っている。
「随分と静かだな」
「採掘をやめた場所だからね」
「でも、道はまだ使われているみたい」
彼女が指した先には比較的新しい車輪の跡があった。
ヴァルは小型飛竜の姿で歩きながら、時折鼻先を地面へ向けていた。
昼過ぎ、三者は旧採掘坑の入口が見える岩場へ到着した。
山肌を切り開いた大きな坑口。
入口付近には古い木製の支柱が立ち、脇には危険を知らせる看板が設置されている。
看板の文字は比較的新しく、管理区域であることと立入制限が明記されていた。
「ここか」
ダスは地図を取り出す。
「依頼の場所で間違いないね」
坑道の入口には崩れ落ちた岩が散らばり、奥へ続く暗い空間からは冷たい風が吹き出している。
外の乾いた暑さとは違い、内部は少し湿っているようだった。
「まず入口周辺を見てみよう」
「うん」
ダスが先に進みかけたところで、ヴァルが立ち止まった。
白い頭を低くし、地面をじっと見ている。
「ん?」
そこにはいくつかの足跡が残っていた。
古い岩粉が薄く積もった地面に、比較的新しい靴底の跡が付いている。
「……人が来てるな」
ダスはしゃがみ込んだ。
靴底の形は少なくとも普通の人間が履く靴に近い。
坑道入口へ向かったらしい足跡と、途中で向きを変えたように見える跡が混ざっていた。
「管理の人かもしれないね」
「そうだな。でも、こっちは……」
ダスは少し離れた場所へ目を向けた。
岩の脇に、細い筋が残っている。
何かを引きずったような跡だった。
さらに、その近くには赤黒い染みがある。
「血?」
リュネもしゃがんで確認する。
乾きかけた赤い染み。
鉄に似た匂いが、わずかに残っていた。
「血液の可能性は高いね」
「人間のか?」
「ここだけでは分からないかな」
「だよな」
血のような染みと足跡と引きずった跡。
それだけで誰かが襲われたと決めつけるわけにはいかない。
ダスは跡を踏まないように立ち上がった。
「思ってたより、面白い依頼になりそうだな」
「面白いけど、少し注意した方がいいね」
「うん。ここから先は慎重に行こう」
今のところ人の声も物音も聞こえない。
ダスは地図で許可区域をもう一度確認した。
「依頼の目的は異音の調査。危険があれば戻る。奥で変なものを見つけても、勝手に深追いしない」
「うん。それでいいよ」
ヴァルも二人の隣へ静かに並ぶ。
三者は足跡と血痕の位置を記録してから、薄暗い坑道へと足を踏み入れた。
◇
海図にない島の森は想像していたよりも歩きやすかった。
少なくとも最初のうちは。
「これ、完全に道だね」
ヴェルトは足元の石を軽く踏んだ。
海岸で見つけた細い道は森の中へ入るにつれて少しずつ幅が広がっていた。
ところどころ植物に覆われているものの、人が歩くことを想定したような平らな場所が続いている。
「かなり古い道にも見えるけど……」
「やっぱり変。さっきの場所より、こっちの石の方が新しく見える」
「後から直したんじゃない?」
「そうかもしれない。でも、直した人がいるなら他にも痕跡があってよさそうなんだよね」
ナディアは道の端へしゃがみ込む。
地面には落ち葉が積もっていた。
しかし、その下の石は綺麗に並んでいる。
道の幅も歩く方向も大きく乱れていない。
人が頻繁に歩いた形跡は見つからなかった。
「……妙だな」
「何が?」
ヴェルトが振り返った。
「道そのものより、道の周囲が気になる」
ナディアは少し後方を指した。
「さっき通った場所、覚えてる?」
「うん。大きな木があったところでしょ」
「そう。その右側」
四人は少し戻った。
アルシェが足を止める。
そこでアルシェが、ぴたりと足を止めた。
「……あれ?」
大きな木の右側。
そこには細い石畳の道が一本伸びていた。
先ほど通ったとき、この道はあっただろうか。
ヴェルトは首を傾げた。
「……あった?」
「私は見てない」
アルシェが答える。
「私も、右側は木と藪だったと思う」
「でも、見落とした可能性もある」
四人は道の入口を調べた。
石には苔が生えている。
周囲の根は太く、長い年月をかけて伸びたように見えた。
最近造られた道には見えない。
「……これさ」
アルシェがゆっくりと顔を上げる。
「私たちが道を間違えたのかな。それとも……」
ナディアもすぐには答えない。
「ミオ」
少年は少し離れた石の上に立っていた。
少年は少し離れた場所で、石の上に立っていた。
「ん」
「これ、君の《迷途》?」
ミオは道を見た。
それから、少しだけ首を横に傾ける。
「違うと思う」
「そうなの?」
「うん」
アルシェが隣へ寄る。
「どうしてそう思うの?」
「ぼく、道を増やしてない」
「……なるほど」
「いや、説明としては足りないんだけど」
「そう?」
「うん。すごく足りない」
ミオは少し考えた。
「じゃあ、分かんない」
「潔い!」
ナディアも小さく息を吐く。
ナディアは記録していた帰路を確認した。
来た方向と上陸地点の位置関係はまだ把握できている。
「この道は、まだ進まない方がいい」
「うん。今の道をもう少し見てみよう」
「いやあ、来てよかったなぁ」
「まだ何も分かってないよ?」
「だからだよ」
「知らない場所で、知らないことが起きてる。こんなに面白いこと、そうそうないでしょ」
「それは……まあ、そうだけど」
ナディアは二人を見て、軽く肩をすくめた。
「面白がるのはいいけど、帰る時間は忘れないでね」
「はーい!」
四人は元の道へ戻り、さらに森の奥へ進んだ。
やがて木々の間から、石造りの構造物が見え始めた。
最初は崩れた壁だった。
その次に、地面へ半ば埋まった柱。
さらに奥には自然の岩とは明らかに異なる、直線的に切り出された石材が並んでいる。
「……遺跡?」
ヴェルトが足を止めた。
木々に囲まれた広い場所。
そこには古い石造りの建物が残っていた。
屋根の一部は崩れ、壁には植物が絡みついている。
しかし、建物の中心部分はまだ形を保っていた。
柱の表面には何かの模様が刻まれていたが、苔と風化によって細部が分かりにくくなっている。
「うわぁ……」
「本当にあった」
「これは、かなり大きな遺跡だね」
「海岸からは全然見えなかったのに」
ナディアはまず足場を確かめた。
崩れた石材。
植物に隠れた段差。
今にも倒れそうな外壁。
「中へ入るのは、まだやめよう」
「うん。まず外側から見てみようか」
四人は建物の周囲を調べ始めた。
アルシェは柱の模様を写し取り、ナディアは倒壊箇所と安全に歩ける場所を記録した。
ヴェルトは建物の全体像を確かめようと、少し離れた位置から見上げていた。
ミオは近くの平らな石へ腰を下ろしている。
しばらくして、アルシェが呼んだ。
「ヴェルト! こっち!」
「どうしたの?」
「扉がある!」
建物の奥。
崩れた外壁の間を抜けた先に、それはあった。
巨大な石の扉。
大人が何人も横に並べるほどの幅があり、高さも周囲の柱を大きく上回っている。
表面には複雑な模様が刻まれ、中央には円形の窪みがあった。
扉の前には崩れた石材が散乱していたが、扉そのものはほとんど形を失っていない。
「……大きいね」
「かなり頑丈そう」
ナディアも近付き、扉と周囲の壁を観察する。
「開閉する構造なのは分かるけど、どう動かすんだろう」
「中央の窪みが関係してるのかな」
「可能性はあるね」
アルシェが記録帳へ形を書き写そうとした、そのときだった。
――ゴン。
四人の動きが止まった。
「……今、聞こえた?」
「うん」
ヴェルトは扉を見つめた。
――ゴン。
今度は石の扉の向こうから、何かが叩いたような音がした。
ナディアが一歩前へ出る。
「全員、扉から距離を取って」
その声に、ヴェルトとアルシェはすぐ従った。
ミオも石から降り、三人の方へ歩いてくる。
――ゴン。
扉の前に積もっていた細かな砂がわずかに震えた。
「……中に、何かいる?」
「分からない」
「少なくとも、音を出している何かがある。それ以上はまだ判断できない」
ヴェルトは扉から視線を離さなかった。
「……どうする?」
アルシェが尋ねる。
ヴェルトは扉を見上げた。
扉の奥は気になる。だが、船には帰りを待つ人々がいる。
「……まずは、戻って報告しようか」
「賛成。位置と入口の様子は記録できた。今は無理に開ける必要はない」
「そっか。そうだよね」
アルシェも記録帳を閉じた。
ミオは扉をぼんやり見上げていた。
そのとき。
――ゴンッ!
石の扉全体がわずかに震える。
ヴェルトはすぐにアルシェの前へ出た。
ナディアも退路を確かめながら身構える。
ヴェルトは巨大な石の扉を見据えたまま、静かに笑った。
「……これは、帰ってからも気になるやつだなぁ」
アルシェは笑いかけた口元を引き締めた。
四人は扉から距離を取り、来た道へ向けて後退し始めた。
――ゴン。
そして静かになった。
森の中には鳥の声も聞こえず、風が木の葉を揺らす音だけが残っていた。
船が予定どおりサルディアへ進んでいれば、誰もこの島を訪れなかっただろう。
ヴェルトは最後に一度だけ振り返り、巨大な扉を目に焼き付けた。
仲間たちとともに、森の道を引き返していった。




