第19話『火山へ向かう道』
ハルメアの南門でダスは自分の腰にある剣を抜いた。
朝日に照らされた刀身を眺め、軽く振る。
一度、二度。
鞘へ戻してから満足そうに頷いた。
「よし。準備万端!」
「剣、結局買い替えなかったね」
隣でリュネが笑う。
「ああ。店主に相談したら、まだ使えるってさ。刃も直してもらったしな」
「気に入ってる?」
「そりゃもう。初めて自分で選んだ剣だからな」
ダスは腰の柄を軽く叩いた。
エルノアで冒険者生活を始め、今ではDランク。
使い始めた頃よりも傷が増え、何度か研ぎ直している。
特別な名剣ではない。
魔力を増幅する仕掛けもなければ、希少な金属が使われているわけでもない。
どこにでもある、量産品の鉄剣だ。
それでも薬草を探して森を歩いた日から初めてのダンジョン探索まで、ずっと一緒だった。
「……まあ、Cになったら新しいのを買うのもいいかもな」
「もうCになるつもりなんだ?」
「当然!」
ダスは笑った。
「次はどんな依頼が受けられるのか、今から楽しみだ!」
その足元で小型飛竜の姿をしたヴァルがゆっくりと尾を揺らした。
首には細い革帯で留められた《同行魔獣》の登録札。
本人は相変わらず気に入っていない様子だが、人前では大人しくしている。
今日はいつもより荷物が多かった。
飲料水、保存食、野営用品に加え、暑い地域へ向かうための装備も揃えている。
目的地はレグナリア王国南東部。
火山地帯へ続く交易路だった。
「……それにしても、火山かぁ」
ダスは街道の先を眺めた。
「溶岩とか見られるかな」
「見られる場所はあると思うけど、近付けるかは別だよ?」
「もちろん! そこはちゃんと調べる!」
リュネは少し意外そうに目を瞬かせた。
「……今回は慎重だね」
「今回も、だろ?」
「ふふっ。そういうことにしておくね」
「おい!」
二人が笑いながら歩き出すと、ヴァルもその後を追った。
背後ではハルメアの大きな城門が少しずつ遠ざかっていく。
ここでは随分と色々なことがあった。
初めてのダンジョン依頼。
《灰枝》との出会い。
Dランクへの昇格。
《余白》というパーティ名の誕生。
そしてノエルが開けてしまったあの扉。
思い出すたびにダスの口元が緩んだ。
「……っ、くく」
「また思い出した?」
「……いやぁ、いい思い出だったな!」
「ノエルにとっては、そうでもなさそうだけどね」
「はははっ! そうだろうな!」
ダスは笑った。
振り返ればハルメアの城壁はまだ見える。
けれど足は止めなかった。
次の街。
次の依頼。
次の未知。
冒険者として行ける場所が増えるたびに、世界が少しずつ広がっていく。
今の彼にはそれが何より楽しかった。
*
南東へ向かう街道はハルメアの周辺とは随分と景色が違っていた。
初めのうちは畑や牧草地が続いていたが日を重ねるにつれて木々が少なくなり、地面には灰色の石が目立ち始めた。
街道沿いの集落では石造りの建物が増える。
風に混じる土の匂いも少しずつ乾いたものへ変わっていった。
その日、三者が立ち寄ったのは小さな街道休憩所だった。
屋根付きの食事場と馬の水飲み場があり、数台の荷馬車が停まっている。
昼食を取ろうと中へ入ったダスは壁に貼られた古い紙へ目を留めた。
「……ん?」
そこには大きな犬のような生き物が描かれていた。
黒い体。
長い脚。
鋭い牙。
そして背中から腹部にかけて走る赤い亀裂。
絵の下には太い文字が並んでいる。
《戦火の獄犬》。
七厄災の一体だった。
「……おお」
ダスの目が輝いた。
「こいつの注意書きがあるのか」
絵の横には遭遇した場合の対応が記されていた。
武器を向けないこと。
進路を塞がないこと。
必要以上に近付かないこと。
無理な討伐を試みないこと。
「……ずいぶん具体的だな」
ダスが呟くと背後から声がした。
「そりゃ、こっちじゃ他人事じゃないからね」
振り返ると休憩所を切り盛りしている年配の女性が立っていた。
腕には布巾を掛け、片手には水差しを持っている。
「七厄災ってのは、普通なら昔話の中で聞くような相手だろ? でも、南の方じゃ目撃報告が出ることもあるからさ」
「へえ。そんなに身近なのか?」
「身近って言い方は嫌だねぇ。あんなのと隣近所になったら、家ごと引っ越すよ」
女性は苦笑した。
ダスも笑う。
「ははっ! そりゃそうか!」
「ただ、不思議なもんでね。あいつ、人間を見つけたら必ず襲うってわけじゃないらしいよ」
「……ほう?」
ダスは椅子へ腰掛けた。
リュネも隣に座り、ヴァルは足元で身体を丸める。
女性は注文を聞きながら話を続けた。
「昔、採掘帰りの連中が遠くで見たって話がある。でっかい黒犬が、道の真ん中に寝そべってたんだと」
「道の真ん中?」
「ああ。馬車が通れなくて困ってたらしい」
「……それで?」
「どうにもできないから、遠くで待ってたんだってさ。そしたら、夕方になって勝手に立ち上がって、山の方へ歩いていったそうだ」
ダスは声を上げて笑った。
「はははっ! そりゃ災難だ!」
「笑い事じゃないよ。荷物の到着が一日遅れたって、商人がえらく怒ってたんだから」
「でも、襲われなかったんだろ?」
「そう。それがまた変な話でね」
女性は水差しを卓へ置いた。
「別の記録じゃ、軍隊を相手に大暴れしたっていうし、負傷した人間を助けた話まである。何を基準に動いてるのか、普通の人間には分からないんだよ」
リュネが口を開いた。
「人間が好きだから助ける、というわけでもないんですね」
「そういうことだろうね。助けてもらった人はいい奴だって言うし、戦って死にかけた連中は化け物だって言う。どっちも間違いじゃないんだろうさ」
女性は肩をすくめた。
「だけど、あたしらからすれば一緒だよ。機嫌を損ねたら町一つじゃ済まないような相手なんだから」
ダスは壁の絵へ目を戻した。
大きな黒犬。
赤い亀裂。
その姿を彼はよく知っていた。
ずっと昔。
まだ何の変哲もない一匹の犬だった頃から。
あの犬は自分より強い相手へ向かっていくことを恐れなかった。
恐怖を感じなかったわけではない。
勝てると思っていたわけでもない。
それでも守りたいものの前から退かなかった。
そんな性質を面白がって、ヴェルデンは一つの能力を与えた。
それから随分と長い時間が過ぎた。
今では人類社会から七厄災と呼ばれ、こうして街道の休憩所にまで注意書きが貼られている。
(……立派になったもんだなぁ)
ダスは少しだけ嬉しくなった。
ただしそれを口にすることはない。
「……なかなか面白い話だった。ありがとな!」
「役に立ったなら何よりさ」
女性は笑った。
「でも、あんたら。面白がって探しに行くんじゃないよ?」
「ははっ! 分かってるって!」
「本当かねぇ」
女性は半信半疑の顔で厨房へ戻っていった。
その背中を見送りながら、リュネが小さく笑う。
「……どう?」
「ん?」
「あの子が、こうして人間たちの間で語られてるの」
ダスは壁の絵を眺めた。
「……面白いよな」
「うん」
「俺が知ってるあいつと、人間たちが知ってるあいつ。ちゃんと同じなのに、全然違う」
リュネは微笑んだ。
長い時間を生きていれば、自分たちが知っている存在の姿も変わっていく。
それをどう受け止めるかは人によって違う。
ダスはその変化を楽しんでいた。
「……まあ、会ったら会ったで面白そうだけどな!」
リュネの目がわずかに細まった。
「……戦いたがるかもしれないよ?」
「だろうなぁ!」
ダスは楽しそうに笑った。
「でも、今はDランク冒険者だからな。七厄災と戦うなんて、無茶もいいところだろ?」
「ふふっ。そうだね」
足元のヴァルが静かに顔を伏せた。
人前でなければ今すぐ何か言っていたに違いなかった。
*
中継都市へ到着したのはそれからさらに数日後のことだった。
南方へ向かう交易路の要所らしく、城門の前には何台もの荷馬車が並んでいた。
荷台には鉱石、加工金属、木材、食料品。
行き交う人々の服装もハルメアより軽装の者が多い。
なかには口元へ布を巻いている者もいた。
「……おお」
ダスは周囲を見回した。
「だいぶ雰囲気が変わったな!」
「うん。荷馬車も大きいね」
「火山地帯へ行く商人が多いんだろうな」
三者は冒険者ギルドへ向かった。
支部の建物は街の中心部にあり、入口の掲示板には通常の依頼情報に混じって、道路状況や周辺の危険情報が貼られている。
ダスが目を留めたのはその一角だった。
《七厄災No.05・戦火の獄犬 確認情報》
大きな見出しの下に地図が掲示されていた。
山道。
火山帯。
交易路。
そして目撃情報が寄せられた場所には印が付けられている。
「……へえ」
ダスは地図を覗き込んだ。
「最終確認地点まで出してるのか」
受付職員が声をかけた。
「はい。ただし、すべての目撃情報が本人と確認されているわけではありません」
「そうなのか?」
「遠方から巨大な黒い獣を見たという報告もありますし、地形や火山性魔物を誤認した可能性が残るものもあります。確認の程度によって区別しています」
「なるほどな」
職員は地図の一角を指した。
「こちらが、比較的信頼度の高い最新の報告です。現在地を示しているわけではありませんので、ご注意ください」
ダスは頷いた。
目撃した場所と今いる場所は違う。
相手は生き物なのだから当然動く。
しかも普通の獣とは比べものにならない速度で移動できる存在だ。
「……それで、もし会ったらどうすればいい?」
ダスが尋ねた。
職員の顔が少しだけ真剣になった。
「可能であれば、気付かれる前に距離を取ってください。進路を塞がず、刺激せず、戦闘を避けることが最優先です」
「気付かれたら?」
「急に走り出したり、武器を構えたりしないことです。周囲に避難できる経路があれば、落ち着いて離れてください」
「それでも襲ってきたら?」
職員は一瞬だけ黙った。
そして。
「……祈ってください」
「…………」
ダスが目を瞬かせた。
「……祈るのか?」
「はい」
職員は実に真面目だった。
「もちろん、可能な限り逃走や防御はしてください。ですが、通常の冒険者が交戦して勝てる相手ではありません」
「……なるほど」
「当支部でも遭遇時の対応は指導しております。ただ、状況によっては、それでも生還が極めて困難になります」
ダスはしばらく考え込んだ。
そしてゆっくりと頷いた。
「……確かに、そうだな」
リュネが隣で微笑む。
職員は続けた。
「逆に、人を助けた記録も存在します。ですが、それを理由に安全な存在と判断してはいけません」
「そうだよな」
「同じ行動を取れば、次も必ず見逃してもらえるという保証はありませんから」
ダスは感心したように掲示板を眺めた。
話が具体的だった。
単に《七厄災は恐ろしい》と言っているだけではない。
目撃情報を分類し、行動傾向を整理し、遭遇したときに何をすべきか考えている。
完全に理解できていなくても理解できた部分を生存へ繋げようとしている。
それは彼が冒険者として旅を始めてから何度も見てきた人間たちの姿だった。
「……ありがとな。参考になった!」
「はい。どうかお気を付けて」
職員が頭を下げる。
ダスも笑って応じた。
そして掲示板から離れようとした、そのときだった。
「おい、そこのDランク」
背後から声がかかった。
振り返ると長槍を肩に担いだ女性が立っていた。
年齢は四十代ほどだろうか。
日焼けした肌。
無駄のない引き締まった体格。
使い込まれた革鎧。
そして右腕には赤い布が巻かれている。
「お前たち、南へ行くのか?」
女性が尋ねた。
ダスは頷いた。
「ああ。火山地帯の方へ行こうと思ってる」
「三人……いや、二人と一体か」
女性はヴァルを一瞥した。
「冒険者パーティか?」
「おう! 《余白》っていうんだ!」
「《余白》ね」
女性は頷いた。
「私は《赤布》。Bランク冒険者だ。これから南へ向かう商隊の護衛を引き受けてる」
「おお、Bランク!」
ダスの顔が明るくなる。
赤布は少しだけ口元を緩めた。
「そんなに珍しいか?」
「いや、Bランクの冒険者がどういう仕事をするのか、興味があってさ!」
「……変わった奴だな」
そう言いながらも赤布の表情は悪くなかった。
「だったら丁度いい。護衛の補助を探してるんだ。Dランク以上で、道中の警戒と荷車の防衛ができる奴をな」
ダスはリュネを見た。
リュネは頷く。
「条件を聞いてから決めようか」
「ああ!」
赤布は笑った。
「それがいい。報酬だけで飛びつく奴より信用できる」
彼女は三者をギルドの奥へ案内した。
そこで詳しい仕事内容を確認し、商隊の進路と荷物、護衛の人数、危険情報、途中で撤退する場合の取り決めを聞いた。
行き先は火山帯手前の《カルド火口街》。
《余白》が目指していた場所でもあった。
「……よし」
ダスは依頼書へ目を落とした。
「これ、受けよう!」
リュネも微笑んだ。
「うん。ちょうどいいね」
赤布は満足そうに頷いた。
「決まりだな。明朝、南門に集合だ」
こうして《余白》はBランク冒険者《赤布》が指揮する商隊護衛へ加わることになった。
*
翌朝、南門の荷捌き場には三台の荷馬車が並んでいた。
先頭の馬車には加工済みの金属部品。
二台目には食料と薬品。
三台目には布や生活用品などが積まれている。
赤布は積み荷を確認しながら、商人と何やら話し込んでいた。
「……だから、予備の水は荷台の奥へ押し込むな。途中で必要になったら取り出せないだろ」
「しかし、上に積むと場所を取りますので……」
「だったら布の方を詰め直せ。道中で必要になるものを、すぐ出せるようにするんだよ」
「は、はい」
商人が慌てて荷物を整理し始めた。
ダスは少し離れた場所でそのやり取りを見ていた。
「……なるほどな」
「どうしたの?」
リュネが尋ねる。
「いや、護衛隊長って戦うだけじゃないんだなって」
「うん。荷物のことも見てるね」
「だよなぁ」
ダスは改めて赤布を眺めた。
彼女は護衛用の長槍を持っている。
戦闘経験も豊富なのだろう。
しかし今、彼女がしているのは槍の手入れでも、戦闘訓練でもない。
荷物の配置を確認し、商人と相談し、途中で問題が起きた場合に備えることだった。
そんなダスへ赤布が声をかけた。
「《余白》!」
「おう!」
「こっちへ来な」
三者が近付くと赤布は地図を広げた。
「今回の道は、前半が普通の街道。後半は火山帯に近い岩地を通る。道幅が狭いところもあるから、そこで馬車が詰まらないようにする必要がある」
「なるほど」
「お前たちは後方を頼む。二台目から三台目の周辺を見てくれ」
ダスが頷く。
「了解!」
「何かあったら、まず知らせろ。戦えるからって勝手に追いかけるなよ」
「ああ!」
「……あと」
赤布の視線がヴァルへ向く。
「この飛竜、戦闘には出すのか?」
ダスは少し考えた。
「基本は警戒役かな。戦闘は俺たちがやるよ」
「それならいい。余計な危険に巻き込まないようにな」
ヴァルが顔を上げた。
その目には何とも言えないものが浮かんでいた。
しかしもちろん言葉は発しない。
赤布は特に気にした様子もなく、地図を畳んだ。
「それじゃ、出発するぞ!」
商人たちが馬車へ乗り込む。
護衛の冒険者たちは各自の位置へ移動した。
赤布が先頭。
ほかの護衛が中ほどを守り、ダスとリュネは後方へ。
ヴァルは三台目の車輪から少し離れた位置を歩いていた。
やがて馬車が動き始める。
車輪が石畳を越え、ベルガの城門を抜けていく。
その先には乾いた南方の街道が続いていた。
*
道中、赤布は何度も隊列を止めた。
最初は馬の様子を見るため。
次は車輪の金具が緩んでいないか確かめるため。
そして街道が狭くなる手前では全員の配置を変更するためだった。
昼過ぎ。
赤布が手を上げ、隊列を止めた。
「ここから先は、しばらく道が細くなる!」
大きな声が響く。
「荷馬車同士の間隔を空けろ。先頭が曲がり角を抜けるまで、二台目は入るな!」
ダスは周囲を見回した。
右側には低い岩壁。
左側には緩やかに下る石だらけの斜面。
広い道とは言えない。
しかも馬車が一台通るだけでかなりの幅を使ってしまう。
「……確かに、ここで何か出てきたら大変だな」
ダスが呟く。
リュネも頷いた。
「うん。逃げる場所が少ないね」
「荷馬車も簡単には向きを変えられないしな」
二人は三台目の周囲を確認した。
ヴァルは少し前を歩き、岩陰へ視線を向けている。
そのときだった。
彼の鼻先が微かに動いた。
乾いた岩の匂い。
馬の汗。
積み荷の革や油。
その中に別の匂いが混じっていた。
熱を持った石と焦げた土。
ヴァルは足を止めた。
ダスが気付く。
「……ん?」
小さな白い飛竜が右側の斜面を見つめていた。
ダスもそちらを見る。
赤黒い岩の隙間。
その奥で何かが動いた。
「……赤布!」
ダスが声を上げる。
「右の斜面! 何かいる!」
赤布が即座に振り返った。
「全員、停止!」
鋭い声が響いた。
荷馬車の動きが止まる。
護衛たちが武器を構えた。
次の瞬間。
がらり、と岩が崩れた。
右側の斜面から黒い塊が滑り落ちてくる。
岩のように見えたそれは地面へ落ちると脚を伸ばした。
全身を煤と石殻で覆った、火山地帯に生息する魔物だった。
その身体の継ぎ目には赤い熱が残り、動くたびに細かな灰が落ちる。
「三体!」
赤布が声を飛ばす。
最初の一体が二台目の荷馬車へ向かって走った。
続いて、斜面の上から二体目が飛び降りる。
三体目はすぐには突進せず、岩陰に沿って後方へ回り込もうとしていた。
「ダス! 後ろのを頼む!」
「了解!」
赤布は先頭へ駆けた。
長槍の穂先を下げ、二台目へ向かう魔物の進路を塞ぐ。
魔物が低く跳躍した。
赤布は正面から受けず、半歩だけ身体をずらす。
そのまま槍の石突きを地面へ突き、穂先を斜め上へ走らせた。
硬い石殻へ金属音が響く。
魔物の身体が横へ弾かれ、荷馬車から離れた場所へ転がった。
一方後方ではダスが三体目を迎えていた。
「……おっと!」
魔物が跳びかかる。
ダスは剣を構えたがまともに受けようとはしなかった。
身体を左へずらし、相手の進路から外れる。
しかし魔物はそのまま三台目の車輪へ向かっていった。
「……あ、そっちか!」
ダスは慌てて追おうとした。
だが魔物が前脚を振り上げた瞬間、リュネの声が響いた。
「ダス、待って!」
水の塊が魔物の足元へぶつかる。
熱を持った石殻へ水が触れ、白い蒸気が立ち上った。
魔物は一瞬動きを止める。
その隙にダスが回り込んだ。
「……よし!」
剣を振るう。
しかし刃は外側の石殻へ当たり、浅く削っただけだった。
「……硬いな!」
ダスはすぐに剣を引く。
魔物が身体を捻り、再び突進した。
今度は荷車ではなく、ダス自身へ向かってくる。
彼は一歩退いた。
右側には岩壁。
左側には荷馬車。
ここで下がりすぎれば荷馬車の側面へ押し付けられる。
ダスは足の位置を変え、相手を街道の中央へ誘導した。
「……こっちだ!」
魔物が追ってくる。
その進路を見ながら、リュネが一歩前へ出た。
「今なら、右からいけるよ!」
「おう!」
魔物はダスを追って身体を前へ倒している。
石殻の隙間がわずかに開いた。
ダスは踏み込んだ。
剣先を低く構え、石殻の継ぎ目へ突き入れる。
硬い抵抗。
しかし今度は刃が通った。
魔物が大きく身体を震わせる。
ダスは無理に押し込まず、剣を引いて距離を取った。
魔物がよろめいたところへリュネが再び水弾を放つ。
衝撃で身体の向きが変わる。
ダスはその側面へ回り込んだ。
「……そこ!」
もう一度剣を振る。
今度は深く入った。
魔物の脚が崩れ、地面へ倒れる。
しかしまだ完全には動きを止めていない。
ダスは油断せず、剣を構えたまま様子を見る。
その後ろでは三台目の御者が顔を青くしていた。
「……た、助かった……!」
「まだ終わってないぞ!」
ダスが声をかける。
「馬を落ち着かせてくれ! こっちは俺たちが見る!」
「わ、分かった!」
御者は慌てて手綱を握り直した。
そのとき前方で大きな音が響いた。
がんっ!
二台目へ向かっていた魔物が赤布の槍によって岩壁へ叩きつけられたのである。
赤布は間髪入れずに踏み込み、魔物の動きを止めた。
だがもう一体が残っている。
「……二体目は!?」
赤布が声を上げる。
護衛の一人が答えた。
「左の斜面です! 荷台の下へ回ろうとしてます!」
赤布の顔が険しくなった。
魔物は馬車そのものを倒せる位置へ移動しようとしていた。
荷車の下へ潜り込まれれば、車輪や車軸を破損させられる可能性がある。
この狭い道で馬車が動けなくなれば、撤収が難しくなる。
「……ちっ!」
赤布は素早く周囲を確認した。
先頭の護衛は位置が遠い。
中ほどの者は馬の制御を手伝っている。
ダスたちは三台目を守っている。
赤布は自分が動くことを選んだ。
「二台目、動くな! 私が行く!」
長槍を握り直し、斜面へ向かって走る。
魔物が車輪へ近付いた瞬間、彼女は槍を横へ振った。
狙ったのは相手の身体そのものではない。
車輪との間にある空間。
槍の柄を差し込み、魔物が荷台の下へ入り込む進路を塞ぐ。
魔物が反射的に向きを変えた。
その動きを待っていた赤布は足を踏み込み、穂先を低く突き出した。
石殻が砕ける。
魔物の身体が斜面へ弾き出された。
赤布は追いかけない。
荷馬車から離れたことを確認し、その場で構え直した。
「弓! 今だ!」
後方から矢が飛ぶ。
動きを鈍らせた魔物へ命中した。
続けて赤布が槍を突き込み、完全に動きを止めた。
それを確認した瞬間、彼女は振り返る。
「後方は!」
「こっちも終わった!」
ダスが剣を掲げた。
三体目もすでに動きを止めている。
赤布は大きく息を吐いた。
「……よし。全員、そのまま周囲を警戒!」
誰も武器を下ろさなかった。
近くに別の魔物が潜んでいる可能性がある。
襲撃が終わったと判断できるまで油断はできなかった。
それからしばらくしてようやく安全が確認された。
護衛たちは順に武器を収め、荷馬車の状態を調べ始める。
負傷者はいなかった。
ただし二台目の車輪には浅い傷が付き、荷台の側面も少し焦げていた。
「……よかった」
リュネが小さく息を吐く。
ダスも頷く。
「ああ。荷物もほとんど無事みたいだな」
ヴァルは三者の足元へ戻ってきた。
今回も人前で戦闘へ加わることはなかった。
ただ魔物が現れた方向を見失わず、最後まで周囲を警戒していた。
赤布が近付いてくる。
「……お前たち、よくやったな」
「おっ!」
ダスが笑った。
「どうだった?」
「後ろの魔物を荷車から離したのはよかった。あそこで追いかけ回していたら、車輪を壊されていたかもしれん」
「なるほどな」
「ただ、剣はもう少し丁寧に使え。最初の一撃で刃を傷めかけただろ」
「……ああ」
ダスが腰の剣を見る。
先ほど直してもらったばかりの刃には新しい擦り傷が付いていた。
「……また研いでもらわないとな」
赤布は苦笑した。
「まあ、石殻の相手なら仕方ない部分もある。次は継ぎ目を狙え」
「了解!」
彼女はリュネへ顔を向けた。
「魔術も悪くなかった。荷車が近い場所で威力を出しすぎなかったのは正解だ」
「ありがとうございます」
「ただし、熱い相手へ水を使うと蒸気が出る。場所によっては味方の視界を塞ぐから、そこも気を付けな」
「はい。次はもう少し位置を考えます」
リュネは素直に頷いた。
赤布は満足そうに笑った。
「……いい返事だ」
その後彼女は荷馬車の状態を確認し、少し長めの休憩を取ることにした。
ダスたちも水を飲み、装備を整える。
依頼はまだ終わっていない。
ここで勝ったからといって、目的地へ着いたわけではない。
その当たり前のことを赤布は誰よりよく理解しているようだった。
*
再び商隊が動き始めてからしばらく経った頃だった。
前方から一台の荷馬車が急いで戻ってきた。
御者は赤布の姿を見つけると、大きく手を振った。
「おーい! そっち、南へ行くのか!」
赤布が手を上げ、商隊を止める。
「ああ! 何かあったのか!」
「東側の道が止められてる! 《戦火》が出たって!」
その瞬間。
隊列の空気が変わった。
御者たちが顔を見合わせる。
護衛の一人が思わず武器の柄へ手を伸ばした。
赤布は表情を変えず、質問を続ける。
「本人を見たのか?」
「いや、俺は見てない。峠の見張りからの伝令だ! その先の監視所で目撃報告が入ったらしい」
「いつだ?」
「ついさっきだって話だ!」
「場所は?」
御者が地図を取り出し、指で示した。
赤布はすぐに目を落とす。
そこはこの先で商隊が通る予定だった東側の経路に近かった。
ただし直接その場所へ現れたと確定しているわけではない。
目撃された時点からすでに移動している可能性もある。
赤布は少し考えた。
そして。
「……分かった。情報、助かった!」
彼女は御者へ礼を言い、商隊の方へ戻った。
商人たちが不安そうに集まってくる。
「……隊長、どうします?」
赤布は地図を広げた。
「予定変更だ。東側の道は使わない」
「しかし、そちらの方が早く着けます!」
「早く着けても、死んだら意味がないだろ」
赤布は即答した。
「西側の迂回路へ入る。少し時間はかかるが、そっちの方が安全だ」
商人の一人が顔をしかめた。
「……納期が遅れます」
「だったら、遅れると先方へ伝えろ」
「ですが……」
赤布は静かに男を見た。
「荷物が届かないよりはいいだろ?」
男は黙った。
赤布は続ける。
「今回の護衛契約は、荷物と人間を可能な限り無事に届けるためのものだ。私が七厄災を討伐する契約じゃない」
誰も反論しなかった。
ダスはそのやり取りを黙って見ていた。
Bランク冒険者。
Dランクよりも上の階級。
当然、戦闘能力も高い。
だが今、赤布が示しているのは強さだけではなかった。
何を守るべきか。
何を優先するべきか。
どこで危険を避けるべきか。
それを決める役割だった。
「……なるほどな」
ダスが小さく呟く。
リュネが隣へ寄る。
「どうしたの?」
「いや、Bランクって面白いなと思ってさ」
リュネは赤布を見た。
「うん。判断することが増えるんだね」
「ああ」
ダスは少し笑った。
「強いだけじゃ駄目なんだな」
そのとき赤布が二人へ顔を向けた。
「《余白》! お前たちも異論はないか!」
「もちろん!」
ダスが即答する。
「迂回路で行こう!」
赤布は頷いた。
「よし!」
その後商隊は進路を変更した。
東へ続く道を避け、西側の岩地へ向かう。
荷馬車の速度は落ちた。
到着予定も少し遅れることになる。
しかし誰も無理に急ごうとはしなかった。
七厄災。
たった一体の生き物。
その存在が街道を通る商人たちの行動を変える。
冒険者の判断を変える。
街と街の間を流れる荷物の動きまで変えてしまう。
ダスはその光景を面白そうに眺めていた。
自分が昔出会った一匹の犬が今では世界の中でこんなにも大きな存在になっている。
それは彼にとって何とも感慨深いことだった。
ただし。
そのとき彼の目が僅かに細まった。
「……ん?」
南の山並み。
遠く、黒い岩肌が続く稜線の向こう。
そこに微かな違和感があった。
普通の冒険者なら気付かない。
魔力の揺らぎなのか、それとも単なる熱気の変化なのか、遠くからでは判別できないほどのものだった。
ダスは少しだけ顔を上げた。
リュネもその方向へ目を向ける。
二人の視線が合った。
声に出して確認することはしない。
ただ互いに何かを感じ取ったことだけは分かった。
(……近いのか?)
ダスは小さく笑った。
だがそこで足を止めなかった。
今は商隊の護衛中だ。
未知の気配を追いかけるために、荷物や人を置いていくわけにはいかない。
彼は前へ向き直った。
「……よし。行こうか!」
リュネも頷く。
「うん」
ヴァルが小さく尾を揺らす。
三者は再び、商隊の後方を歩き始めた。
*
その頃。
ヴェルト、ナディア、アルシェ、そしてミオの四人は、山を下りた先の小さな集落にいた。
超越者を探す特別訓練はすでに達成している。
《箱庭のセト》を発見し、会話も交わした。
しかもその帰り道で新たな超越者ミオと出会い、今では一緒に旅をしている。
順調だった。
少なくとも課題そのものは。
「……ねえ、ナディア」
宿の食堂でヴェルトが地図を眺めながら口を開いた。
「私たち、今どこへ向かってたっけ?」
「……ダスを探してたんだよ」
「そうだった!」
ヴェルトが笑った。
アルシェは卓の上に広げた記録へ何かを書き込んでいる。
ミオは出された夕食を静かに食べていた。
「……いや、でもさ」
アルシェが顔を上げる。
「そろそろおかしいと思わない?」
ヴェルトが首を傾げた。
「何が?」
「私たち、もう何回もダスの居場所を探そうとしてるよね?」
「うん」
「でも、そのたびに別のことしてない?」
ヴェルトは少し考えた。
昨日はダスの行き先を調べるつもりで街道の分岐へ向かった。
しかし途中で珍しい植物を発見してしまい、結局その生育地を調べることになった。
その前は宿場で情報を集める予定だった。
ところが気付けば近くの古い橋について調べていた。
橋そのものは面白かった。
だがダスの居場所とは何の関係もなかった。
「……確かに!」
ヴェルトが笑った。
「全然探せてないね!」
「いや、笑い事じゃないよ!」
アルシェは頭を抱えた。
「私だって、あの橋は面白かったけどさ! 何で急に橋の構造を調べ始めたのか、今考えると分からないんだよ!」
ナディアが静かに頷く。
「……私も気になってた」
ヴェルトが顔を向ける。
「ナディアも?」
「うん。移動経路の記録を確認してみたんだけど、ダスの情報を集めようとするたびに予定が変わってる」
「……予定?」
「例えば、宿場へ向かう途中で別の道を選んだり、情報を聞こうとした相手が不在だったり。そういう小さなことが続いてるんだよね」
ナディアは地図へ指を置いた。
「一つ一つなら、普通に起こることだと思う。でも、全部合わせると少し不自然かな」
ヴェルトはゆっくりとミオへ目を向けた。
少年は相変わらず夕食を食べている。
「……ミオ」
「ん?」
「もしかして、君の能力?」
ミオは口の中のものを飲み込み、少し考えた。
「……たぶん」
アルシェが顔を上げた。
「……やっぱり!?」
ミオは小さく頷いた。
「うん」
「……でも、何で!?」
「……探してるから」
ヴェルトが首を傾げる。
「ダスを?」
「うん」
ミオは短く答えた。
「……その人に、着きたいんでしょ」
ナディアがはっとした。
「……そういうことか」
アルシェも記録へ目を落とす。
《迷途》。
何かへ到達しようとする経路を迷わせる能力。
その対象は場所だけではない。
人物でも答えでも理解でもいい。
ミオが《到達先》として認識したものへ向かおうとするなら、その経路は迷わされ得る。
つまり。
「……私たち、ダスを探すこと自体が引っかかってるんだ」
ナディアが呟いた。
ヴェルトは少し考えた。
「……じゃあ、ダスを探すのをやめたら?」
アルシェが顔を上げる。
「……え?」
「探すのをやめて、普通に旅するの」
「……いや、でも、それじゃ報告できないじゃん!」
「そうだけどさ」
ヴェルトは笑った。
「今、無理に探しても辿り着けないんでしょ?」
アルシェは黙った。
確かにその通りだった。
ミオの能力は絶対ではない。
必ず到達できなくなるわけでもない。
だが無理に突破しようとすれば、かえって目的地を見失う可能性がある。
そもそも今の四人には急いで報告しなければならない事情もなかった。
ヴェルトは少しだけ笑みを深めた。
「……だったら、いいんじゃない?」
「……何が?」
「普通に冒険するの!」
アルシェが目を瞬かせた。
ナディアも顔を上げる。
「……冒険?」
「うん! せっかくミオも一緒なんだし、まだ行ったことのないところへ行こうよ!」
ヴェルトは地図を指した。
「ダスを探すのは、また今度でいいじゃん!」
ナディアは少し考えた。
そしてゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
アルシェが驚く。
「ナディアも!?」
「うん。今の状況なら、無理に捜索を続ける必要はないと思う」
「……でも、課題の報告が……」
「課題そのものは達成してるよ。報告を急ごうとして危険な移動を続ける方が、ダスも嫌がると思う」
アルシェはしばらく黙っていた。
そして。
「……確かに」
小さく頷いた。
ヴェルトが嬉しそうに笑う。
「じゃあ決まり!」
「……ちょっと待って!」
アルシェが慌てて手を上げた。
「一つだけ聞きたい!」
「ん?」
「ミオの能力って、目的地を決めると何でも迷うんじゃないの!?」
ヴェルトもミオへ顔を向けた。
少年は少し考えた。
「……何でもじゃないよ」
「……そうなの?」
「うん」
ミオは短く答えた。
「……僕が、そこに着く場所だと思ってるもの」
アルシェはゆっくりと頷いた。
確かに彼の能力は世界中のあらゆる目的を無差別に妨害するものではない。
ただしどこまでを《到達先》と認識するかは、ミオ自身の感覚にも左右される。
「……じゃあ、普通に旅するだけなら?」
アルシェが尋ねる。
「……いいんじゃない?」
ミオはあっさり答えた。
アルシェは少し考えた。
そして顔を上げる。
「……よし!」
ヴェルトが笑う。
「決まった?」
「決まった!」
アルシェは地図を広げた。
「だったら、行き先を考えよう!」
「おー!」
ナディアが小さく笑った。
結局行き先を考えること自体は好きなのである。
*
それから数日。
四人は海へ向かう街道を進んでいた。
ダスの居場所を探すことは一旦やめた。
代わりに普通の旅として周辺の街や土地を見て回る。
途中で珍しいものがあれば立ち寄り、気になる話を聞けば調べる。
もちろん必要な物資や宿泊先についてはナディアが確認していた。
無計画に危険な場所へ踏み込むわけではない。
ただ旅そのものを楽しむ。
そう決めてからは不思議なほど移動が安定していた。
「……ねえ、ナディア」
ヴェルトが笑った。
「何か、普通に進めるね!」
「うん。今のところはね」
ナディアも頷く。
「でも、ミオの能力が消えたわけじゃないから、今後も注意は必要だよ」
「もちろん!」
アルシェは少し離れた場所でミオと歩いていた。
「……ねえ、ミオ」
「ん?」
「君さ、自分の能力で迷ったことってある?」
「……あんまり」
「……あんまり?」
「うん」
アルシェは考え込んだ。
「……やっぱり、目的地がないから?」
「……たぶん」
ミオは淡々と答えた。
「行きたいところがないと、迷いにくい」
「……なるほどなぁ」
アルシェは感心したように呟く。
そしてふと首を傾げた。
「……でもさ」
「ん?」
「今、私たちと一緒に旅してるでしょ?」
「うん」
「それって、目的じゃないの?」
ミオは少し考えた。
「……別に」
「……別に?」
「うん」
彼は前を向いた。
「一緒に歩いてるだけ」
アルシェはその答えを聞いて黙った。
しばらくして笑う。
「……そっか」
ミオにとって、誰かと一緒に歩くことは何かへ到達するための手段ではないのかもしれない。
ただ今は一緒にいる。
それだけ。
彼の在り方はやはり普通の人間とは少し違っていた。
「……面白いなぁ」
アルシェが呟く。
「……そう?」
「うん!」
ミオは小さく頷いた。
特別に嬉しそうな顔はしない。
だがアルシェの話を嫌がっている様子もなかった。
そんな二人をヴェルトが楽しそうに眺めていた。
*
四人が海辺の港町へ到着したとき、空には薄い雲が広がっていた。
港には大小の船が並び、荷役作業をする人々の声が響いている。
帆を畳んで停泊している船。
荷物を積み込む船。
修理のため岸壁へ寄せられた船。
その光景を見た途端、ヴェルトの耳がぴんと立った。
「……船!」
アルシェも顔を輝かせる。
「うわぁ、結構大きいね!」
「うん!」
ヴェルトは嬉しそうに港を見回した。
すると少し離れた場所に航路案内の掲示板があることに気付いた。
「……あれ、見て!」
三人が近付く。
ミオもその後へ続いた。
掲示板には各地へ向かう交易船や旅客船の予定が記されていた。
その中の一つを見て、ヴェルトが目を輝かせる。
「……サルディア!」
ナディアも顔を向けた。
「……サルディア大陸?」
「うん!」
ヴェルトは笑った。
「行ってみない?」
アルシェが地図を広げる。
「……サルディアかぁ」
砂漠。
荒野。
火山地帯。
鉱物資源に恵まれた土地。
そしてまだ調べていない地域も多い。
「……いいね!」
アルシェが頷いた。
「私も行ってみたい!」
ナディアは少し考えた。
「……そうだね。船便もあるみたいだし、情報を確認してみようか」
「うん!」
ヴェルトは今度はミオへ顔を向けた。
「ミオは?」
少年は首を傾げた。
「……何が?」
「サルディア! 一緒に行く?」
「……うん」
「いいの?」
「……別にいいよ」
ヴェルトは笑った。
「やった!」
アルシェが小さく吹き出す。
「……ミオ、何でもいいんだね」
「……うん」
本人はまったく気にしていなかった。
こうして四人はサルディア行きの交易船について調べることになった。
ナディアが運航予定と安全情報を確認し、アルシェは航路の資料を眺めている。
ヴェルトはどんな景色が見られるのか楽しそうに話していた。
ミオはその隣で港を眺めていた。
海。
船。
人々の行き交う岸壁。
そのどれにも特別な感想はないらしい。
だが今は四人でそこにいる。
それで十分だった。
*
その日の夕方。
レグナリア王国南東部では三台の荷馬車が西側の迂回路を進んでいた。
商隊の移動は予定より遅れている。
しかし今のところ全員無事だった。
赤布は先頭を歩きながら、何度も周囲の地形を確かめていた。
少し後ろではダスとリュネが並んで歩いている。
「……なあ、リュネ」
「ん?」
「今日は結構面白かったな」
「うん。商隊の護衛って、色々あるんだね」
「ああ」
ダスは前方の赤布を眺めた。
戦う。
守る。
危険を見極める。
そして進むべき道を選ぶ。
冒険者としての仕事には思っていた以上に多くの判断が必要だった。
「……俺、Bランクも楽しみになってきた」
リュネが笑う。
「まだCにもなってないよ?」
「分かってるって!」
ダスも笑った。
「でもさ。Dになったら行ける場所が増えただろ? Cになったらもっと増える。Bになったら、今度は人をまとめる仕事もできるかもしれない」
「うん」
「……そういうのも、面白そうだなって」
リュネは少しだけ目を細めた。
ヴェルデンはもともと大勢の者を率いている。
《Das Unendliche im Endlichen》。
その頂点に立ち、四天や軍団員たちと共に長い時間を過ごしてきた。
だから人をまとめる経験がないわけではない。
むしろその逆だ。
けれど今、ダスが興味を持っているのは冒険者という世界で、一つずつ経験を積んだ先にある役割だった。
上に立つからこそ分かること。
その立場へ至るまで歩いた者だからこそ分かること。
同じように見えて、きっと違う。
「……楽しみだね」
リュネが言った。
「ああ!」
ダスは笑った。
そのとき前方から赤布の声が飛んできた。
「おーい! 《余白》!」
「おう!」
「そろそろ野営場所だ! 着いたら荷物を下ろすのを手伝ってくれ!」
「了解!」
ダスは軽く手を上げた。
そのまま足を速め、先頭の荷馬車へ向かう。
リュネも彼の後へ続いた。
ヴァルは静かに尾を揺らしながら歩いている。
遠くの山並みには夕日が差していた。
黒い岩肌の向こうで薄い煙が空へ伸びている。
火山地帯。
その先にはまだ見ぬ街とダンジョンが待っていた。
そしてどこかには。
人類から七厄災と呼ばれる、一匹の黒い犬がいる。
ダスはその方向を一度だけ眺めた。
それから楽しそうに笑った。
「……さて。明日も頑張るか!」
今の彼はDランク冒険者。
今日の仕事は商隊の全員を無事に目的地へ届けること。
七厄災との再会はまた別の話だった。




