第18話『月に一度の帰還と、迷えない道』
ハルメアの武器屋で一本の鉄剣が振り下ろされた。
ひゅっ、と短く風が鳴る。
続けて横薙ぎ。
踏み込み、切り返し、半歩下がって構え直す。
店の奥に設けられた試し振り用の空間でダスは借りた剣を何度か動かしていた。
「……んー」
握りを確かめる。
刃の重さは悪くない。
重心も今使っている剣より少しだけ手元に寄っている。
ただ、気になるところがあった。
「これ、ちょっと柄が太いな」
店主が近寄ってくる。
「そりゃ手の大きさ次第だな。お前さんには、こっちの方が合うかもしれん」
差し出されたのはもう少し細身の剣だった。
ダスは受け取り、改めて構える。
背後ではリュネが武器の陳列棚を眺め、足元のヴァルは退屈そうに尾を揺らしていた。
「……おっ、こっちはいい感じだ」
「だろ? Dランクなら、その辺りの得物を使う奴も増えてくる」
「へえ」
「ただし、剣を替えたからって急に上手くなるわけじゃねえぞ」
「ははっ! そりゃそうだ!」
ダスは楽しそうに笑った。
店主はその様子を見て、ふと首を傾げる。
「……お前さん、変わってるな」
「何が?」
「普通は新しい剣を持つと、もっと強く振ろうとするもんだが。お前さん、さっきから同じ動きばっかり確かめてるだろ」
「ああ。今まで教わったこと、ちゃんとできるか試してるんだよ」
「なるほどな」
店主は少し感心したように頷いた。
「それなら悪い買い物にはならんと思うぞ」
ダスは剣をもう一度眺めた。
フィナから教わった剣の扱い方。
昇格査定で指摘された踏み込み。
昨日のクルゼ洞で《銀梯子》の隊長から受けた助言。
それらを一つずつ思い返し、同じ動きを違う剣で確かめるのは、なかなか楽しかった。
もっとも今の彼が見せているのはあくまで新人冒険者ダスとしての剣技である。
本来の技量を出すなら試し振りだけで何を確かめる必要もない。
だが、それでは面白くない。
決めた条件の中で昨日できなかったことが今日できるようになる。
誰かに教わり、失敗し、練習して、また少し変わる。
その過程を彼は本気で楽しんでいた。
「よし。これにしようかな」
店主に購入を申し出ようとした、そのときだった。
「……ダス」
「ん?」
「今日、何日だったっけ?」
「今日?」
ダスは剣を持ったまま考える。
「……たしか、月末の……」
そこで言葉が止まった。
リュネは少しだけ楽しそうに微笑んでいる。
「……あ」
ダスの目が見開かれた。
「……ああっ!」
「何だ!?」
店主まで驚いて顔を上げる。
「月例戦!! 今日だった!!」
「……何の話だ?」
「いやこっちの話!」
ダスは慌てて剣を返却した。
「あーっ、危ねえ! すっかり忘れてた!」
「朝、何か忘れてないかなって思ったんだけど」
「言ってくれよ!」
「今言ったよ?」
「そうだけど!」
リュネが声を立てて笑う。
毎月一度。
《Das Unendliche im Endlichen》では、各軍の軍団員たちが腕を競う月例戦が開かれる。
順位への挑戦。
技量の確認。
新しい戦法の試験。
軍団員たちがこの一か月で何を積み重ねてきたのかを見せる日だった。
ダスはそれを見るのが大好きだった。
冒険者生活を始めてからも月例戦だけは欠かさず見に戻っている。
「……よし。戻るぞ!」
「うん」
「ヴァルもいいな?」
小さな白龍は顔を上げ、当然だと言いたげにダスを見た。
「……悪かったって」
結局新しい剣の購入は後回しになった。
店主にはまた来ると伝え、三者は武器屋を後にする。
そして人目のない場所へ移動すると、いつもの冒険者の姿のまま、ハルメアから姿を消した。
*
《ディー・ハイマート》。
《Das Unendliche im Endlichen》の本拠地。
外界とは異なる広大な内部空間を持つその場所へ三者が帰還した。
転移先には白髪の老紳士が立っていた。
「お帰りなさいませ、ダス様」
「ただいま、ノワール!」
ダスが片手を上げる。
ノワールはいつもと変わらない丁寧な所作で頭を下げた。
「本日は少々遅いご帰還でしたね」
「いやぁ、危なかった! 完全に日付忘れてた!」
「存じております」
「……ん?」
「今朝の時点で、ご帰還の確認が取れておりませんでしたので。念のため、会場の進行には余裕を設けております」
「……さすが」
「ですが、できれば次回は忘れずにお願いいたします」
「はい……」
ダスが素直に頭を下げると、隣でリュネが笑った。
「ノワール、いつもありがとう」
「いえ。皆様がお戻りになることは予想しておりましたので」
ノワールの視線が足元のヴァルへ向いた。
小さな飛竜の首には同行魔獣としての登録札が付いている。
「ヴァル様。そのお姿のままでよろしいのですか?」
「いや。まず、これを外してくれ」
人目のない本拠地へ戻ったヴァルがようやく口を開く。
ダスが吹き出した。
「ははっ! そんなに嫌か?」
「外界で必要なのは理解している。だがここでまで着けていたくはない」
「まあ、そうだよな」
ダスは屈み込み、首の細い革帯を外してやった。
ヴァルが軽く首を振る。
次の瞬間、小さな白い身体が変化した。
翼が広がり、四肢が伸び、白銀の鱗を持つ本来の龍姿へと戻っていく。
人間の膝ほどしかなかった身体はみるみるうちに巨大な龍となった。
「……やはり、こちらの方が楽だな」
「そりゃそうだろうな!」
ダスは笑いながら、自身の偽装も解いた。
外見は大きく変えない。
ただ人間種の新人剣士という立場に合わせた制限を外す。
ここではDランク冒険者として振る舞う必要はない。
《Das Unendliche im Endlichen》を率いるヴェルデンとして、仲間たちの前に立てる。
もっともダスとヴェルデンが別人なわけではない。
どちらも彼自身だ。
「さて!」
ヴェルデンは楽しそうに両手を合わせた。
「今月は誰が面白いことしてくれるかな!」
「皆様、本日へ向けて準備を重ねておられます」
ノワールが微笑む。
「特に第2軍では、前月から戦い方を見直している者が複数おります」
「おっ、ラーカンのところか!」
「はい」
「そいつは楽しみだ!」
ヴェルデンは歩き出しかけ、ふと首を傾げた。
「そういや、ヴェルトたちは?」
「まだ帰還しておりません」
「ああ、そうか。あいつら、まだ探してるんだな」
「正確な現在地については、こちらでも確認しておりません」
「まあ、今回はそういう訓練だからな」
課題は超越者を一人発見し、接触して会話すること。
軍団やダスの名前を使わず、自分たちで情報を集め、自分たちで辿り着く。
そのための時間も手段もヴェルト、ナディア、アルシェに任せてある。
ヴェルデンは三人がすでに優れた冒険者であることを知っていた。
それでも簡単には見つけられない未知へ自力で挑む経験には価値がある。
「ま、ちゃんと見つけてくるだろ」
「はい。なお、月例戦の欠席者につきましては、従来どおりの扱いとなります」
「俺との直接戦闘だな?」
「はい」
ヴェルデンはにやりと笑った。
「じゃあ、帰ってきたら相手してやらないとな。あいつら、どんな顔するかな!」
「その前に、まずは無事に戻られることですね」
「そりゃそうだ!」
この訓練でどこまで進んだか、ヴェルデンはまだ知らない。
だから今は帰還を楽しみにしていればよかった。
「……ところでノワール」
「はい」
「ノエル、どうしてる?」
その質問にノワールは一瞬だけ沈黙した。
リュネが隣で笑いを堪える。
「……通常の職務へ復帰しております」
「ははっ! そうか!」
「外界接続門の管理手順についても、再確認を終えております」
「そりゃよかった」
「今回の件を受け、管理記録の点検も徹底いたしました。本人も今後は閉鎖確認を怠らないと申しております」
「……くくっ」
「ダス様」
「……はい」
「笑い事ではございません」
「分かってる! 分かってるんだけどさ!」
ヴェルデンは口元を押さえた。
「扉開けたら俺がいたときの顔、思い出すと……!」
「……ダス様」
「はい! もう笑いません!」
その直後、リュネが小さく吹き出した。
ノワールは静かに目を閉じる。
「……まったく」
声には呆れと長年仕えてきた主への親しみが混じっていた。
*
第3《戦界》。
大闘技場にはすでに多くの軍団員が集まっていた。
広大な闘技場を囲む観覧席には各軍の所属者たちが座り、中央の戦闘区画では装備の確認が行われている。
月例戦の中心となるのは各軍の内部順位を懸けた昇格戦だ。
第12位から第2位までの通常軍団員は事前の承認を受け、自軍の上位者へ挑むことができる。
軍を跨ぐ順位挑戦は認められず、第1位を務める四天の席も対象外。
四天が戦う場合は別枠の対戦となる。
ただ月例戦の意味は順位の入れ替えだけではなかった。
技量を確かめるための対戦もあれば、普段とは異なる戦法を試す場面もある。
順位挑戦の対象にならない第13位の軍団員が通常の訓練成果を披露することもできる。
その場合、勝敗がそのまま軍団の順位を変えることはない。
前月より速く動けるようになったか。
以前は通じなかった相手へ今月は一撃でも届くか。
自分が培ってきた技術を違う状況で使えるか。
ヴェルデンはそうした変化を見るのが何より好きだった。
「おっ、来たな!」
闘技場へ入ると男が声をかけてきた。
ラーカンだ。
人間種。
第2軍第1位。
四天の一人にして剣という技術を極め続ける男。
「よう、ラーカン!」
「今月も楽しみにしてたぞ!」
「ああ。そっちも楽しそうだな」
「そりゃもう!」
ラーカンは軽く笑った。
だがその視線がヴェルデンの腰へ向く。
「……で、剣は?」
「ん?」
「最近使ってる剣だよ」
「ああ。宿に置いてきた」
「……そうか」
ラーカンは少し考え、腕を組んだ。
「お前、最近わざと雑な剣を振ってるだろ」
「……ははっ! 分かるか?」
「分からんわけないだろ。刃筋が甘い。踏み込みも悪い。あれじゃ無駄に剣を傷める」
「そこが新人らしくていいんだよ!」
「よくねえ」
「厳しいなぁ!」
「お前が誰より剣を使えると知ってるから余計にな」
ラーカンは顔をしかめた。
「下手な剣士を見るだけなら別に構わん。だがお前があれをやってると腹が立つ」
ヴェルデンは声を上げて笑った。
「はははっ! 悪かったって!」
「まあ、楽しんでるのは分かるけどな」
ラーカンも苦笑する。
彼にとって剣は単に敵を倒すための道具ではない。
何度も振り、磨き、極めていくものだった。
そのため意図的に未熟な剣を振るヴェルデンの姿には複雑な気持ちになるらしい。
「今度、ダスとしての剣も見てくれよ」
「……俺に?」
「ああ。今の実力に合わせて、何が悪いか教えてほしい」
ラーカンは一瞬だけ黙った。
それからふっと笑った。
「……いいぞ」
「おっ!」
「ただし、本気で直す気があるならな」
「もちろん!」
「だったら、まずその変な踏み込みをどうにかしろ」
「まだ見せてもいないだろ!」
「前に見た分で十分だ」
二人が笑っていると背後から柔らかな声がした。
「随分と楽しそうですね」
振り返るとセラフィナが立っていた。
長い髪を美しく整え、品のある装いを身に着けている。
リュミエラ森王国の女王であり、第3軍を率いる四天の一人だ。
表情にはいつもの余裕ある微笑みが浮かんでいた。
「よう、セラフィナ!」
「お帰りなさいませ、ダス」
セラフィナは自然な仕草で近付き、ヴェルデンの顔を覗き込む。
「冒険者生活はいかがですか?」
「最高だぞ!」
「それは何よりです」
「そうだ! 聞いてくれ!」
ヴェルデンが嬉しそうに冒険者証を取り出した。
「見ろ! Dランクになった!」
セラフィナの動きが止まった。
「…………D?」
「ああ!」
差し出された証には確かに《D》の文字が刻まれている。
数秒の沈黙。
「……ダス」
「ん?」
「……似合いませんね」
ラーカンが吹き出した。
ヴェルデンも笑い出す。
「ははははっ! だろ!? でもそこがいいんだよ!」
「……私には、まだ理解が追いつきません」
セラフィナは額へ指を当てた。
「世界でも最高峰の存在が、Dランクの冒険者証を嬉しそうに見せてくるなんて……」
「しかも次はCを狙ってるぞ!」
「……C」
「おう!」
セラフィナは小さく息を吐いた。
だが彼が楽しそうにしている姿そのものは決して嫌いではなかった。
むしろその笑顔を見ると自然と表情が柔らかくなる。
「……では、次にお会いするときにはCランクでしょうか」
「かもな!」
「そうですか」
セラフィナはほんの少しだけ身体を寄せた。
「それなら、昇格した際は私にもお祝いをさせてくださいね」
「いいぞ! 何してくれるんだ?」
「ふふっ。それは、そのときのお楽しみです」
隣にいたリュネが静かに微笑む。
「セラフィナ、ずいぶん楽しそうだね」
「ええ。ダスのお祝いですもの」
「そうだね」
二人が微笑み合う。
ヴェルデンはそのやり取りを見て首を傾げた。
「……ん?」
ラーカンが肩を叩いた。
「お前、そろそろ試合始まるぞ」
「おっ、そうだった!」
ヴェルデンはあっさりと意識を闘技場へ戻す。
セラフィナはそんな彼を見て小さく笑った。
*
最初にヴェルデンの目を引いたのは第2軍の試合だった。
挑戦者はカイ。
第2軍第10位。
半魚人種の槍使いで水中戦闘を得意としている。
対するは第8位のシオン。
鬼人種の剣士だ。
二人は闘技場の中央で向かい合い、武器を構えた。
カイは槍。
シオンは剣。
試合開始の合図が響く。
先に動いたのはカイだった。
低い姿勢から一気に踏み込み、槍の穂先をシオンの胸元へ突き出す。
シオンが剣で受け流した瞬間、カイは手元を返し、今度は下段へ槍を走らせた。
速い。
しかもただ突いているわけではない。
長い間合いを維持したまま相手の足を止め、次の攻撃へ繋げている。
シオンは横へ身体をずらした。
槍の穂先が足元を掠めていく。
カイは踏み込んだ勢いを殺さず、連続して突きを放った。
シオンはすべてを正面から受け止めようとはしない。
最小限の動きで軌道を外し、ときおり剣で穂先を払う。
しかし簡単には近付けなかった。
カイの槍が巧みに距離を保っている。
「……ほう」
ラーカンが小さく呟く。
ヴェルデンも頷いた。
「カイ、間合いの取り方が上手くなってるな」
「ああ。前より無駄な踏み込みが減った」
カイが本領を発揮するのは水中だ。
だがここは陸上の闘技場。
水の抵抗も浮力も頼れない。
その条件で戦えるよう、槍の間合いと足運びを磨いてきたらしい。
カイが大きく踏み込んだ。
鋭い突き。
シオンは半歩下がってかわす。
そこへカイが追撃した。
しかし。
「……あ」
ヴェルデンが小さく声を漏らした。
シオンの動きが変わった。
それまで槍をかわすたびに、身体を大きく逃がしていた。
ところが今度は違う。
必要な分だけ肩を引き、穂先をわずかな距離で通過させた。
足の位置はほとんど変わらない。
槍が戻る前にシオンは前へ出た。
踏み込みは一歩。
剣が槍の内側へ滑り込む。
カイは柄を引いて対応しようとしたが間に合わない。
シオンの剣先がその胸元へ届いた。
試合終了の合図が響く。
勝者、シオン。
観覧席から拍手が起こった。
カイは一度息を吐き、槍を下ろす。
悔しさは顔に出ていたが取り乱してはいない。
シオンも剣を収め、二人は短く言葉を交わしていた。
この試合による順位の変更はなかった。
「……なるほどなぁ」
ヴェルデンは二人を見つめながら笑う。
「シオン、前より動かなくなったな」
「ああ」
「でも遅くなったわけじゃない」
「むしろ逆だな」
ラーカンは腕を組んだ。
「今までは避ける必要のない攻撃まで大きく避けていた。あれじゃ次の一撃が遅れる」
「だよな」
「今月は、必要な分しか動いてない」
ヴェルデンは満足そうに頷いた。
勝敗も大事だ。
だがそれ以上に面白いものがある。
一か月前にはなかった変化。
ほんのわずかな重心の移動。
余計な一歩を捨てたことで生まれた、次の一撃。
「……よくなったなぁ」
ラーカンが少し笑う。
「まだまだだ」
「そりゃそうだろ」
ヴェルデンも笑った。
「だから次が楽しみなんじゃないか」
ラーカンは答えなかった。
ただ楽しそうに口元を緩めていた。
その後も各軍の試合は続いた。
第1軍第7位のロイドは相手の攻撃を引きつける距離を以前より細かく調整していた。
剣を振る速度そのものは大きく変わっていない。
それでも相手が攻撃を決断する位置を巧みに作り、自分の次の動きへ繋げている。
第3軍第5位のグランは巨体を活かした正面突破だけではなく、相手の術式準備を見て進路を切り替える判断を見せた。
大きな身体を動かす以上、急な方向転換にも相応の負担がある。
だからこそ先を見て動く意味が大きい。
ヴェルデンはどの試合も楽しそうに眺めていた。
やがて正式な順位挑戦の進行が一段落すると、技量確認のための対戦が始まった。
順位を懸けない試合だが見せるものが少ないわけではない。
自分の苦手を補おうとする者にとってはむしろ試したい動きを思い切って使える場でもある。
そして次の組み合わせが告げられたとき。
「……おっ!」
ヴェルデンの目が輝いた。
「ノエルじゃん!」
闘技場に小柄な女性が現れた。
先日、クルゼ洞の扉から出てきた本人である。
第4軍第13位、ノエル。
対するのは同じ第4軍第12位のセイン。
斥候としての技術に優れた猫獣人だった。
第13位のノエルには今回の月例戦で上位へ順位挑戦する資格はない。
だが採集専門の彼女が戦闘技術を磨く意味は十分にある。
今回の対戦は互いの技量を確かめるための模擬戦として組まれたものだった。
ノエルは短剣を構え、深く息を吸う。
セインが軽く姿勢を落とした。
開始の合図。
先に動いたのはセインだった。
低い姿勢から素早く距離を詰め、ノエルの正面を押さえにかかる。
ノエルは受けようとしない。
小柄な身体を活かして横へ抜け、そのまま相手の死角へ回ろうとする。
しかしセインも斥候だ。
視線だけで追っているわけではない。
砂利を踏む音、衣擦れ、身体の向き。
そうした情報からノエルの位置を捉え、すぐに振り返った。
ノエルが低い姿勢から短剣を突き出す。
セインはかわして反撃。
ノエルが後退する。
体格も間合いも違う。
正面から斬り合い続ければ、ノエルの方が不利だった。
それでも彼女は無理に打ち勝とうとはしなかった。
足元の砂利の硬さ。
互いの距離。
相手が視線を向ける先。
わずかな違いを拾いながら、何度も立つ位置を変え、隙を探している。
「……あいつ、頑張ってるな」
ヴェルデンが笑う。
隣でノワールが頷いた。
「採集や探索で培った地形把握能力を、対人戦へ応用しようとしておりますね」
「ああ。いいじゃん」
ノエルは採集専門の冒険者だ。
戦闘は主な仕事ではない。
だが採集を続けるには危険な場所から無事に戻る必要がある。
地形を読む技術や、狭い足場で身体を動かす経験は戦闘でも活かせるはずだった。
ノエルは相手の足運びを見て、横へ抜けた。
セインが追う。
その瞬間ノエルはわずかに足を止め、相手を先に動かそうとした。
「……おっ」
ヴェルデンが身を乗り出す。
先ほどまでより良い間合いだった。
だがセインは誘いに乗り切らなかった。
半歩だけ重心を移し、ノエルが踏み直そうとした側へ先に回る。
ノエルが振り返るより早く、その腕を捉えた。
「……っ!」
短剣を制される。
試合終了の合図が響いた。
勝者はセイン。
ノエルは悔しそうに息を吐いた。
それでもすぐに姿勢を正し、対戦相手へ礼をする。
セインも頷いて応じた。
順位の変動はない。
ただしノエル自身には確かな収穫があった。
「……ふむ」
ノワールが記録を確かめる。
「前月より、かなり落ち着いて対応できております」
「だな。最初の一歩はよかった」
ヴェルデンが頷く。
「相手がセインじゃなければ、もう少し通用したかもな」
ラーカンは腕を組んだ。
「最後の切り返しが甘かったな。あそこで焦らなきゃ、まだ粘れた」
「そうだな。でもあいつの専門は採集だろ? 自分の得意な技術を使おうとしてたのは悪くない」
「まあな」
そのときノエルが観覧席へ顔を上げた。
ヴェルデンと目が合う。
彼女の表情がほんの一瞬だけ固まった。
ヴェルデンはにやりと笑う。
ノエルが慌てて顔を逸らした。
「……っ」
リュネが小さく吹き出す。
ノワールは静かに咳払いをした。
「……ダス様」
「何もしてないぞ?」
「その表情をお控えください」
「……はい」
ヴェルデンは笑いを堪えながら、もう一度闘技場へ視線を向けた。
試合を終えたノエルは仲間に声をかけられていた。
負けたことを悔しがりながら、自分の動きを身振りで説明している。
何が通用したか。
どこで失敗したか。
次はどうするか。
本人は真剣そのものだった。
つい先日、門を閉め忘れて大騒ぎを起こした女性。
今は闘技場で自分の技術を磨こうとしている。
失敗して指導され、試合に負けて。
それでも次へ進もうとしている。
ヴェルデンはそういう姿を見るのが好きだった。
*
月例戦が一段落したあと。
ヴェルデンは闘技場脇の休憩空間でノエルを見つけた。
彼女は小さな椅子に座り、先ほどの試合を振り返っているところだった。
「よう、ノエル!」
「……ひゃっ!」
声をかけられた瞬間、ノエルが跳び上がる。
振り返った先にはにこにこ笑っているヴェルデン。
その隣にリュネ。
さらに後ろにはノワールまでいた。
「……ダ、ダス様!」
「お疲れ! いい試合だったぞ!」
「……あ、ありがとうございます!」
ノエルは慌てて立ち上がった。
ヴェルデンは手を振る。
「そんな畏まらなくていいって。今、試合の話してたんだろ?」
「……はい」
「どうだった?」
ノエルは少し考えた。
「……まだ、近付かれた後の対応が下手だなって思いました」
「ほう」
「最初は距離を取れていたんですけど、相手が動き方を覚えてからは、私の方が先に焦ってしまって……」
ヴェルデンが頷く。
「でも前より自分の得意な動きができてただろ?」
「……はい!」
ノエルの表情が少し明るくなった。
「採集の仕事では、足場の悪いところを歩くことが多いので。それを戦闘でも使えないかなと思って、最近練習してたんです」
「なるほどな!」
ヴェルデンは嬉しそうに笑う。
「だったら、その方向で磨いてみるといい。次はもっと面白い動きができそうだ」
「……はい!」
ノエルも笑った。
その様子を見ていたノワールが穏やかに頷く。
しかし。
「……ところでさ」
ヴェルデンが口を開く。
ノエルの肩がぴくりと揺れた。
「……はい?」
「門の管理、もう大丈夫か?」
「…………!」
一瞬で顔が赤くなった。
「だ、大丈夫です!!」
「本当か?」
「はいっ!!」
「もう閉め忘れない?」
「忘れませんっ!!」
ヴェルデンが声を上げて笑う。
「ははははっ!! 分かった、分かった!」
ノエルは真っ赤な顔で俯いた。
リュネが笑いながらヴェルデンの腕を軽く叩く。
「もう、その辺で許してあげよう?」
「ははっ! そうだな!」
ヴェルデンはようやく笑いを収めた。
「まあ、何だ。失敗したことはちゃんと覚えとけ。でもそれで仕事が嫌になったりするなよ」
「……はい」
「お前の採集技術は、本当に役に立ってるんだからさ」
ノエルが顔を上げた。
ヴェルデンはいつもの気楽な調子で笑っている。
「これからも頼むぞ!」
ノエルは一瞬だけ目を丸くした。
それから深く頭を下げる。
「……はい! 頑張ります!」
返事には先ほどまでの怯えとは違う、はっきりした力があった。
*
月例戦が終わる頃には闘技場にも穏やかな空気が戻っていた。
ヴェルデンはノワールから各軍の記録を受け取り、今回の試合についてしばらく話した。
シオンが余計な動きを減らしたこと。
カイの槍が陸上でも安定してきたこと。
ロイドが相手の反応を引き出す位置取りを磨いていたこと。
グランが巨体を活かすだけでなく、判断の精度を上げていたこと。
ノエルが採集技術を戦闘へ応用し始めたこと。
ノワールは必要なところへ補足を加え、ラーカンは剣士たちの細かな動きについて意見を述べた。
セラフィナは戦場全体の位置取りや、各人の判断について自分の見方を伝える。
勝敗だけなら結果を記録すれば終わる。
だが彼らが見ているのはそれだけではない。
それぞれが何を目指し、何を変え、何を試したのか。
前月には選べなかった一手を今月は選べるようになったか。
積み重ねこそが月例戦の大切な意味だった。
「……よし!」
ヴェルデンは記録を閉じた。
「今月も面白かった!」
「それは何よりです」
ノワールが微笑む。
「来月も楽しみだな!」
「はい。皆様も、次の試合へ向けて準備を進められることでしょう」
ヴェルデンは満足そうに頷いた。
その後彼はリュネとヴァルを連れ、第6《環》へ向かった。
食事や休息、娯楽の施設が集まる共用区域である。
リュネが食事を選び、ヴァルは広い場所で翼を休めた。
ヴェルデンは今日の試合を思い出しながら、楽しそうに話し続ける。
冒険者としての旅も面白い。
だがこうして戻ってくる場所があることも彼には大切だった。
長い年月を共に過ごしてきた仲間たち。
それぞれの場所で成長を続ける者たち。
そしてまた新しいことを始めようとしている自分自身。
変わらないものと変わっていくもの。
その両方が彼の周囲にはあった。
「……さて」
食事を終えたあとヴェルデンが地図を広げた。
「次は火山だな!」
「もう決めたの?」
「ああ! ハルメアでも、そろそろ一通り見たいところは見たしな」
「まだ行ってないダンジョンもあるよ?」
「それはまた今度でいいだろ!」
ヴェルデンは地図の南東を指す。
「こっち、面白そうなんだよなぁ」
「……火山地帯?」
「ああ。しかも、ダンジョンもあるらしい!」
「ふふっ。楽しみだね」
「だろ?」
ヴァルがゆっくりと尾を動かした。
「……火山か」
「ん? どうした?」
「いや。久しぶりに高温地帯へ行くのも悪くないと思ってな」
「おっ、賛成か!」
「ああ。ただし、現地で余計な騒ぎを起こすなよ」
「俺がいつ騒ぎを起こしたって?」
ヴァルは黙って見つめる。
リュネも微笑んだまま、何も言わない。
「…………」
ヴェルデンは少し考えた。
「……まあ、たまにはあるか」
「たまに?」
リュネが聞き返す。
「……結構あるかもな!」
三者の笑い声が広い共用区域へ響いた。
それから必要な準備を整え、三者は再びハルメアへ戻る。
冒険者としての生活を続けるために。
そして次の未知へ向かうために。
*
同じ頃。
ヴェルト、ナディア、アルシェの三人は山間の道を歩いていた。
《箱庭のセト》と別れてから二日が経っている。
超越者を一人発見し、接触して会話する。
ヴェルデンから与えられた課題はすでに達成した。
あとは報告するだけ。
問題はその報告相手がどこにいるのか分からないことだった。
「……ねえ、アルシェ」
ヴェルトが振り返る。
「この道、さっきも通らなかった?」
「……え?」
アルシェは足を止めた。
手には周辺の地形を記した地図がある。
現在地を確認し、進むべき方向を調べていたところだった。
「……いやそんなはずないよ」
「そう?」
「うん。さっきの分かれ道を右へ進んだから、今は尾根の東側に出てるはずなんだけど……」
そこでアルシェの声が止まった。
前方に大きな岩があった。
表面には縦に長い亀裂。
根元には折れた枝が一本落ちている。
「…………」
アルシェは岩を見つめ、ゆっくり振り返った。
「……これ、さっき見たやつだ」
ナディアが頷く。
「うん。私も覚えてる」
三人はしばらくその岩を眺めていた。
一本道を進んだはずだった。
途中に大きな分岐はない。
崖沿いの細い道を歩き、緩やかな坂を下り、森へ入った。
それなのに元の場所へ戻っている。
「……面白いね!」
ヴェルトが笑う。
アルシェも目を輝かせた。
「面白いけど、ちょっと待って! これ、普通じゃないよ!」
「うん。だから面白い!」
「それはそうだけど!」
ナディアは二人のやり取りを聞きながら、周囲を確認した。
足元の土。
木々の位置。
風の向き。
そして地図。
どれも先ほど確認したものと大きく違わない。
「……一度、整理しよう」
三人は道端の平らな場所へ移動し、地図を広げた。
アルシェが現在地を示す。
「ここが、さっきの大岩。ここから東へ進むと、山裾の街道へ出るはずなんだよね」
「でも戻ってきた」
「そう! しかも歩いてきた感覚は普通だった。急に景色が変わったり、転移したような感覚もなかった」
ナディアが考え込む。
「……道を間違えた可能性は?」
「もちろんある。でも私たち三人とも同じ道を見てたんだよ?」
「うん。それに私は後ろも確認してた」
ナディアは帰還経路の把握に長けている。
未知の迷宮や危険地帯でどこを通り、どう戻るかを判断する能力は高い。
そのナディアですら、今回の経路には違和感があった。
「……もう一度試してみようか」
ヴェルトが言った。
「ただし、今度はちゃんと印を残そう」
「うん。そうしよう」
アルシェが大岩の位置を記録し、ナディアが帰路を確認する。
ヴェルトは周囲に危険な気配がないことを確かめた。
次に進む方向は東。
最初の尾根を越え、そこから街道へ下りる。
途中で異常があれば、すぐに止まる。
「よし。行こう!」
ヴェルトが先頭を歩き始めた。
ナディアは後方を見守り、アルシェが地図へ記録を書き込んでいく。
道は確かに東へ続いていた。
左手には山の斜面。
右手には谷。
木々の隙間からは遠くの山並みも見える。
間違いなく東へ進んでいる。
そのはずだった。
しばらくして。
「……あれ?」
ヴェルトが足を止める。
前方に大きな岩があった。
縦に長い亀裂。
根元の折れた枝。
先ほどの場所だった。
「…………」
三人は黙った。
最初に口を開いたのはアルシェだった。
「……何で?」
「戻ってきちゃったね」
ヴェルトが笑う。
「いやだから何で!?」
アルシェは地図を確かめた。
記録は間違っていない。
進んだ方向も途中の景色も確認した。
それでも戻っている。
「……うーん」
ナディアは考えた。
「次は、私の《帰路》を使って確認してみる」
「うん。お願い」
ナディアが自身の固有能力を用いる。
《帰路》。
帰還という行為を支える、彼女の力だ。
三人は一度、確実に通過した場所へ戻った。
問題なく辿り着ける。
「……帰ることはできるね」
ナディアが呟いた。
「うん。でもそこから街道へ向かおうとすると……」
「また戻るかもしれない」
ヴェルトが言葉を引き取る。
どうやら、単純に道を忘れているわけではない。
戻るべき場所へは戻れる。
だが目指す場所へ進もうとすると、経路が狂う。
「……これ、道そのものが変わってるのかな?」
アルシェが尋ねた。
「まだ分からないね。地形が動いている可能性もあるし、私たちの認識が狂っている可能性もある」
「じゃあ、確かめよう!」
ヴェルトが嬉しそうに言う。
ナディアは頷いた。
「うん。ただし、無理に進む必要はないよ。危険だと判断したら、すぐ戻ろう」
「分かってる!」
アルシェはすでに新しい記録を取り始めていた。
こういう未知の現象は彼女の大好物だった。
ただし面白いからといって無闇に踏み込むわけではない。
まずは何が起きているかを知るための調査だ。
*
それから三人は何度か経路を変えてみた。
東へ進む。
南へ下る。
尾根を迂回する。
近くの林へ入る。
しかし、街道へ向かおうとすると、不自然な回り道が生じた。
正しいはずの分岐を選んでもいつの間にか別の場所へ出る。
必ず大岩へ戻るわけではない。
別の尾根へ出ることも元の休憩場所へ戻ることもあった。
反対に行き先を決めずに周囲を歩いていると、異常が起きにくかった。
「……ねえ」
アルシェが地図から顔を上げる。
「これ、変じゃない?」
「最初から変だよ?」
ヴェルトが笑う。
「いやそうじゃなくて! 私たち、街道へ行こうとすると迷うんだよね。でも途中の地形を調べるだけなら普通に歩けることがある」
ナディアが頷いた。
「うん。私も気になってた」
「つまりさ……目的地を決めること自体が、何かに関係してる可能性がない?」
ヴェルトの耳が動く。
「……目的地?」
「そう。場所が悪いんじゃなくて、そこへ行こうとすることが問題になってるとか」
ナディアは地図を見つめた。
「……あり得るね」
まだ仮説にすぎない。
けれどここまでの観測結果とは矛盾しなかった。
「……じゃあさ」
ヴェルトが顔を上げる。
「一回、どこにも行こうとしないで歩いてみない?」
「……どこにも?」
「うん。目的地を決めないで、適当に歩くの」
ナディアは少し考えた。
「それなら、帰還できる範囲で試そう」
「了解!」
三人は荷物を確認し、再び歩き始める。
今度は街道へ行こうとはしない。
山を越えようともしない。
ただ周囲の地形を見て、歩きやすい方へ進む。
すると。
「……あれ?」
ヴェルトが足を止めた。
前方に小さな草地が広がっていた。
その中央に一人の少年が座っている。
灰色がかった黒髪。
簡素な白い服。
裸足。
荷物も武器も持っていない。
見た目は十五、六歳ほどだろうか。
少年は草の上に寝転がるような姿勢で空を眺めていた。
「……人?」
アルシェが呟く。
ナディアが周囲を確かめた。
魔力の異常な集中は見えない。
危険な魔物の気配もない。
ただ山中の草地で裸足の少年が一人、のんびり寝転がっている。
状況そのものは十分に不自然だった。
「……こんにちは!」
ヴェルトが明るく声をかけた。
少年が顔を向ける。
「……ん」
「こんなところで何してるの?」
「……休んでる」
「休んでるんだ?」
「うん」
少年は起き上がる様子もなく、三人を眺めている。
「私たち、ちょっと道を調べてるんだけどさ。この辺り、詳しい?」
「……別に」
「……別に?」
「うん」
アルシェが首を傾げた。
「この近くに住んでるわけじゃないの?」
「住んでない」
「じゃあ、どこから来たの?」
「……分かんない」
「……分かんない!?」
少年は小さく頷く。
困っている様子はない。
「じゃあ、今からどこかへ行くの?」
ヴェルトが聞いた。
「……別に」
「……目的地は?」
「ない」
アルシェが固まった。
「……目的地がない!?」
「うん」
少年は当然のように答えた。
ヴェルトは少し目を細める。
行きたい場所も帰りたい場所もない。
ただそこにいる。
「……ねえ。もしかして、君がこの辺りの道を変にしてる?」
少年はしばらく三人を見つめた。
「……たぶん」
あっさり答える。
「……たぶん!?」
アルシェが思わず声を上げた。
「……僕のせいだと思う」
「えっ、じゃあ、どうやって!?」
「……何が?」
「だから道が変になるやつ!」
少年は少し考えた。
「……迷う」
「……迷う?」
ヴェルトが首を傾げる。
「うん」
「誰が?」
「……行きたいところがある人」
アルシェの目が大きく開いた。
「……え」
少年は続ける。
「どこかへ行こうとすると、迷う。誰かを探そうとしても、迷う」
声はどこまでも淡々としていた。
「……答えとかも」
「……答え?」
ナディアが顔を上げる。
「うん。何かを知ろうとしても、迷うことがある」
三人は黙った。
場所だけではない。
人も答えも目的も。
何かへ辿り着こうとする行為そのものに、影響が生じるらしい。
「……なるほど」
アルシェが呟く。
「だから街道へ行こうとすると……」
「……うん」
「でも目的地を決めなければ?」
「……迷いにくい」
ヴェルトがゆっくり笑った。
「……へえ。すっごい能力だね!」
「……そう?」
「うん!」
普通の魔法や魔術とは明らかに違う。
道を塞ぐわけではない。
空間を必ず曲げるわけでもない。
ただ到達するための経路が狂わされる。
しかも本人は何かを意識的に発動している様子もない。
「……ねえ、名前は?」
「……ミオ」
「ミオ?」
「うん」
「私はヴェルト! こっちがナディアで、こっちがアルシェ!」
ミオは三人を順番に見て、小さく頷いた。
ナディアが穏やかに尋ねる。
「ミオさん。その能力、名前はありますか?」
「……ある」
「教えてもらえますか?」
「……《迷途》」
アルシェが小さく息を呑んだ。
「……迷途」
ミオは頷いた。
何かへ辿り着こうとする道を迷わせる力。
そして本人はそもそも辿り着きたい場所を持たない。
ヴェルトにはその在り方が妙に面白く感じられた。
「……ねえ、ミオ。君って、超越者?」
少年は少し考えた。
「……うん」
何でもないことのように答えた。
三人は顔を見合わせる。
《箱庭のセト》を発見したばかりだというのに、今度は別の超越者に出会ってしまった。
「……すごいね」
ナディアが小さく笑う。
「うん! まさか、こんなところで二人目に会えるなんて!」
ヴェルトは嬉しそうだった。
アルシェは早くも記録用の紙を取り出していた。
「ちょっと待って! 聞きたいことがいっぱいある!」
「……そう」
「まず、その《迷途》って、どこまで作用するの!?」
「……分かんない」
「分かんない!?」
「うん」
アルシェは頭を抱えた。
ナディアが少し笑い、ヴェルトはますます楽しそうだった。
*
それから三人はミオとしばらく話をした。
ただし話が順調に進んだわけではない。
ミオは基本的に短い言葉しか返さない。
知らないことを知っているふりもしない。
そして本人が自分の能力の詳しい仕組みへあまり執着していなかった。
「……つまり」
アルシェが地面へ図を描く。
「私たちがここから街道へ向かおうとすると、ミオの能力で迷う可能性があるんだよね?」
「……うん」
「でも全部の道が曲がるわけじゃない?」
「……うん」
「じゃあ、何も考えずに歩いたら?」
「……普通に着くこともある」
「……なるほど!」
アルシェは嬉しそうに記録を取った。
「じゃあ、例えば……ミオを攻撃しようとしたら?」
ナディアが少し顔を上げる。
ミオは特に驚いた様子もなく答えた。
「……当たらないことがある」
「……当たらない?」
「うん。僕に当てようとすると、迷う」
アルシェは考え込んだ。
「でも無条件に全部防げるわけじゃないよね?」
「……うん」
「例えば、周囲一帯をまとめて攻撃されたら?」
「……危ない」
ミオは短く答えた。
ナディアが頷く。
「……なるほど。絶対防御ではないんですね」
「……うん」
アルシェはさらに質問を続けようとした。
だが途中で何度か言葉に詰まった。
何を聞こうとしていたのか分からなくなる。
質問の順序を入れ替え、同じことを二度尋ねかける。
「……あれ?」
ヴェルトが顔を向ける。
「どうしたの?」
「……いや今、何聞こうとしてたっけ?」
ミオが小さく首を傾げる。
「……僕のこと?」
「……あっ!」
アルシェが顔を上げた。
「……もしかして!」
ナディアも気付く。
「能力の仕組みを理解しようとすること自体が、影響を受けている可能性がありますね」
「……うん」
ミオは頷いた。
場所へ辿り着けない。
人へ辿り着けない。
答えへ辿り着けない。
そして理解へ辿り着けない。
何とも厄介な能力だった。
だがここまでに分かったこともある。
絶対に到達できないわけではないし、誰もが常に同じように迷わされるとも限らない。
「……ねえ、ミオ」
ヴェルトが声をかけた。
「ん?」
「それって、自分で止められるの?」
ミオは少し考える。
「……うん」
「本当?」
「……着いていいと思えば」
ヴェルトは頷いた。
「……なるほど」
少し考えて、にこりと笑う。
「じゃあさ!」
ミオが顔を向けた。
「私たちと友達にならない?」
アルシェの手が止まる。
ナディアも顔を上げた。
ミオはしばらくヴェルトを見つめる。
「……友達?」
「うん! せっかく会ったんだし、もっと話してみたいなって!」
ミオは少し考えた。
「……いいよ」
あっさり答えた。
「……いいの!?」
アルシェが驚く。
「うん」
「……そんな簡単に!?」
ミオは首を傾げた。
「……駄目なの?」
「いや駄目じゃないけど!」
アルシェが思わず笑う。
ヴェルトも嬉しそうだった。
「やった!」
彼女はミオの前へしゃがみ込んだ。
「じゃあ、よろしくね!」
「……うん」
ミオが小さく頷く。
ナディアはその二人を見ながら微笑んだ。
超越者。
通常生命の尺度から外れた存在。
その一人が今、目の前で友達になろうと誘われ、あっさり了承している。
だがヴェルトにとっては特別なことではなかった。
強いから友達になりたいのではない。
超越者だから仲良くしたいのでもない。
ただ面白そうな相手だった。
もっと話してみたかった。
だから誘った。
それだけだ。
「……そうだ!」
ヴェルトが顔を上げる。
「ミオ、これからどうするの?」
「……別に」
「……予定ない?」
「うん」
「じゃあ、一緒に来ない?」
ミオは少し考える。
「……どこへ?」
「……えっと」
ヴェルトが固まった。
ナディアが苦笑する。
「……それ、私たちもまだ決めてないね」
「あっ、そうだった!」
アルシェが笑い出した。
「ダスを探すんじゃなかったの!?」
「そうなんだけど、どこにいるか分からないんだよね!」
ミオは三人を眺める。
「……じゃあ、どこでもいい?」
「うん! とりあえず一緒に行こう!」
「……いいよ」
ミオは立ち上がった。
裸足のまま草地を歩き始める。
荷物も武器もない。
行きたい場所もない。
ただ、今は三人と一緒に歩くことにした。
「……面白い旅になりそう!」
ヴェルトが笑う。
ナディアも頷いた。
「うん。ただし、まずは安全に山を下りようね」
「了解!」
アルシェは記録を片付けながら、まだ興奮していた。
「……いやぁ、まさか二人目の超越者まで見つかるなんて!」
ミオが首を傾げる。
「……二人目?」
「うん! さっきまで別の超越者と会ってたんだよ!」
「……そう」
「《箱庭のセト》って人なんだけど!」
「……知らない」
「……知らないんだ!?」
「うん」
アルシェが笑う。
ヴェルトもつられて笑った。
ナディアは三人を眺め、静かに息を吐く。
とんでもない課題だった。
けれど終わってみればなかなか楽しい旅だったと思う。
もっともまだ報告は終わっていない。
今から一緒に歩く少年が旅をどんなものにしてしまうのかも、三人はまだ十分に理解していなかった。
*
夕方。
山の斜面を下りながら、ヴェルトはふと立ち止まった。
「……ねえ、ミオ」
「……ん?」
「君って、今までずっと一人だったの?」
ミオは少し考える。
「……たぶん」
「……たぶん?」
「うん」
ヴェルトは少しだけ笑った。
「寂しくなかった?」
「……別に」
「そっか」
それ以上、無理に聞こうとはしなかった。
ミオは自分の過去にあまり執着していないようだった。
どこから来たのか。
何歳なのか。
どこへ行きたいのか。
そうしたことを本人は重要だと思っていないらしい。
ヴェルトには少し不思議だった。
彼女は知らない場所へ行くことが大好きだ。
まだ見たことのないものを探し、危険な場所へ挑み、自分の知らない世界を知りたいと思っている。
目的地を持たないミオの感覚は簡単には理解できない。
でも理解できないからといって嫌だとは思わなかった。
むしろそんな相手と一緒に歩くことが面白かった。
「……ねえ」
ヴェルトが笑う。
「今度、面白い場所を見つけたら一緒に行こうね!」
「……うん」
「約束!」
「……うん」
ミオは小さく頷いた。
ヴェルトは嬉しそうに笑う。
その後ろではナディアとアルシェが地図を確認していた。
山を下りる経路。
次に寄る街。
そしてダスの居場所を探すための情報収集。
やることはまだ沢山ある。
だが今は四人になった。
それぞれが違う考え方を持ち、違うものに興味を示している。
それでも一緒に歩くことはできる。
ヴェルトはその当たり前のことが少し嬉しかった。
「……よし!」
彼女は前を向く。
「行こう!」
「うん」
ナディアが頷き、アルシェも地図を畳んだ。
「了解!」
ミオは三人の後へ続く。
目的地を持たない少年。
未知を追い求める獣人。
帰る道を知る探索者。
答えを探し続ける研究者。
四者の旅がここから始まった。
そして彼女たちはまだ知らない。
《迷途》が単に道を迷わせるだけの能力ではないことを。
何かへ辿り着きたいと願う行為そのものがミオの近くでは思いもよらない形で狂ってしまうことを。
それに気付くのはもう少し先の話だった。




