第17話『釣り人と《余白》』
冒険者ギルドの受付で自分たちの名前を呼ばれる。
ただそれだけのことがこんなにも楽しいとは思わなかった。
「Dランクパーティ《余白》のお二人、こちらへお願いします!」
「おう!」
ハルメアの冒険者ギルド。
朝の混雑が少し落ち着き始めた頃、受付から声がかかると、ダスは嬉しそうに返事をして窓口へ向かった。
隣にはリュネ。
その足元には小型飛竜の姿をしたヴァルがいる。
「……いいなぁ」
ダスがしみじみと呟いた。
「何が?」
「今のだよ。《余白》って呼ばれただろ?」
「うん」
「何回聞いてもいいな!」
リュネが笑う。
「昨日も同じこと言ってたよ」
「昨日より馴染んできた気がする!」
「そう?」
「ああ! もう完全に俺たちの名前って感じがする!」
ダスは満足そうに頷いた。
パーティ名を登録してからまだ数日。
それまでは単にダスとリュネの二人組として扱われていたが、今では依頼書にも受付の記録にも《余白》という名前が使われるようになっていた。
実際に冒険者として仕事をし、その記録が積み重なっていく。
ダスはその過程そのものが気に入っていた。
「ところで今日は何の仕事?」
リュネが尋ねる。
「ん? 今日はな……」
ダスは受付へ差し出された書類に目を落とした。
そこには普段受けている討伐依頼や採取依頼とは少し違う内容が記されていた。
「……おっ!」
その目が輝く。
「クランの合同調査だって!」
受付職員が頷いた。
「はい。中規模冒険者クラン《銀梯子》が主導する調査です。参加可能なDランク以上の冒険者を募集しています」
「へえ! クランか!」
ダスは興味深そうに依頼書を眺めた。
クラン。
複数のパーティや冒険者が集まり、依頼や探索、装備や物資の管理などを共同で行う組織。
エルノアでも話を聞いたことはあるが実際にクランが主導する仕事へ参加するのは初めてだった。
「場所は?」
「《クルゼ洞》です」
「……おおっ!」
ダスの顔がさらに明るくなる。
「またあそこか!」
受付職員は小さく笑った。
「先日の新規扉の調査結果を踏まえ、第四区画から第五区画にかけての安全確認と経路調査を行う予定です」
例の扉。
第4軍第13位のノエルが外界接続門を閉め忘れたことで起きた騒動。
ダスは思い出しただけで笑いそうになった。
「……っ、くく」
「ダス?」
「いや何でもない!」
リュネは何故笑っているのか分かったらしい。
自分も少しだけ口元を緩めていた。
受付職員は二人の様子を不思議そうに見たが特に追及せず説明を続けた。
「例の扉が確認された周辺では、岩盤の変動も発生していました。現在は扉そのものを確認できなくなっていますが、地形が安定したとは限りません」
「なるほどな」
「そのため、第五区画へ続く経路を含め、崩落箇所や魔物の分布、今後の探索に利用できる退避地点などを調べることになりました」
今回の調査は一般冒険者への立入制限を解除するための最終確認ではない。
ギルドの許可を受けた調査隊だけが一時的に区域へ入る。
危険な状態が続いていれば、立入禁止も継続される。
「参加する場合、《余白》には後方支援と戦闘補助をお願いする予定です。調査そのものの指揮は《銀梯子》が担当します」
「おお! いいじゃん!」
ダスはリュネを見た。
「どうする?」
「私はいいと思うよ。クランの仕事も見てみたいし」
「だよな!」
そこでふと足元のヴァルへ視線を向けた。
「ヴァルは?」
小さな白龍が顔を上げる。
周囲にはほかの冒険者がいるため、言葉は発しない。
ただダスを一度見上げてから依頼書の方へ視線を移した。
それから静かに尾を揺らした。
「よし。決まりだな!」
ダスが受付へ向き直る。
「お願いします!」
こうして《余白》は初めてクラン主導の合同調査へ参加することになった。
*
《銀梯子》はハルメアを中心に活動する中規模の冒険者クランだった。
迷宮探索や地下遺跡の調査を得意としており、複数のパーティが情報を共有しながら依頼を進めることが多いという。
今回の調査に参加する《余白》が集合場所へ到着したときには、すでに何人もの冒険者が装備を点検していた。
地図を広げている者。
荷物を分類している者。
武器の状態を確かめている者。
さらに負傷者を運ぶための道具まで準備されていた。
「……おお」
ダスは目を輝かせた。
「すげえな。もう準備が始まってる」
「集合時間には、ちゃんと出発できそうだね」
「うん。いいなぁ、こういうの!」
ダスは周囲を見回した。
各人が自分の仕事を理解しているらしく、作業に無駄が少ない。
誰かが大声で細かく指示を出しているわけでもないのに、必要な道具が順番に揃っていく。
特にダスの目を引いたのは装備を確認していた二人の冒険者だった。
一人が縄の状態を確かめ、もう一人が予備の留め具を取り出す。
何か短く話したあと互いの荷物から必要なものを交換していた。
「……ああいうの、いいな」
「何が?」
「あの二人。相手が何を持ってるか分かってるみたいだ」
リュネもそちらを見る。
「いつも一緒に仕事をしてるのかもしれないね」
「だよなぁ」
ダスは楽しそうに笑った。
彼自身なら必要な道具を揃えることなど簡単だった。
だが今見ているのはそういう話ではない。
何度も同じ仕事を経験し、相手の癖や得意不得意を知り、言葉を交わさなくてもある程度動けるようになる。
そうした積み重ねには単純な強さとは違う面白さがあった。
「お前たちが《余白》か?」
声をかけられ、ダスが振り返る。
そこには丈夫な胸当てを身に着けた男性冒険者が立っていた。
今回の調査を指揮する《銀梯子》の隊長だった。
「おう! ダスだ!」
「リュネです。よろしくお願いします」
リュネが軽く頭を下げる。
ヴァルも二人の足元で顔を上げた。
「同行魔獣も一緒か。申請には書いてあったな」
「ああ。ヴァルっていうんだ」
「分かった。ただし、調査中に勝手に動かさないようにしてくれ。特に崩落の危険がある場所ではな」
「了解!」
隊長は頷いた。
「今回、お前たちは補助班へ入ってもらう。魔物と遭遇した場合は前衛の補助、通常時は荷物の運搬と後方警戒だ」
「おう!」
「第五区画へは入るが、勝手な行動は禁止。何か見つけても、まず報告すること」
「分かった!」
「……それからもう一つ」
隊長はダスの顔を見た。
「分からないことがあったら、その場で聞け。知らないまま動かれる方が困る」
ダスは一瞬だけ目を丸くした。
そして嬉しそうに笑った。
「いいな、それ!」
「……何がだ?」
「いやそういうの大事だよな!」
隊長は少し不思議そうな顔をしたがダスが真面目に頷いているのを見て、それ以上は何も言わなかった。
やがて調査隊の準備が整った。
先頭には盾を持つ前衛と剣士。
その後ろには弓使い、魔術師、地図と記録を担当する者が続く。
ダスとリュネは補助要員として参加し、ヴァルも同行する。
今回の調査に参加する冒険者は七名と、一体。
必要な場合はそれぞれが役割を切り替える。
出発前には撤退時の集合場所と合図も確認された。
「よし。行くぞ!」
隊長の声で一行はクルゼ洞へ向けて出発した。
*
第四区画へ入る頃には洞窟内の空気はかなり冷たくなっていた。
壁面には湿った場所が増え、足元の岩も場所によって滑りやすい。
ダスたちは前回の調査で通った道を進み、やがて第五区画へ向かう通路へ到着した。
今回はその先が目的地である。
「……よし」
ダスは小さく笑った。
前回は第四区画。
そして今日は第五区画。
以前はランクが足りずに入れなかった場所へ今度は正式な調査隊の一員として進んでいる。
それが嬉しかった。
「ダス、楽しそうだね」
リュネが隣で囁く。
「ああ!」
「さっきからずっと前を見てる」
「だって知らない場所だからな」
「うん」
「……早く見たいなぁ」
リュネは小さく笑った。
彼が未知を楽しむ姿は長い付き合いの中で何度も見てきた。
だが冒険者としての制限を守りながら一歩ずつ進む今の楽しみ方も、以前とは少し違っている。
そういう変化を隣で見ていられることが彼女自身にとっても楽しかった。
やがて先頭から停止の合図が出された。
「……ん?」
ダスが足を止める。
前方では隊長と地図担当者が通路の壁を調べていた。
「ここ、前の記録と違うな」
「ええ。右側の岩が少し落ちています」
以前の調査図では通路の右側に小さな窪みがあった。
しかし現在は崩れた岩によって半分ほど塞がっている。
「通れるか?」
「人なら通れます。ただ、荷物を担いだ状態では少し狭いですね」
隊長は現場を確認し、すぐに判断した。
「ここは荷物を一つずつ渡す。無理に通ろうとするな」
全員が頷く。
ダスたちも荷物を下ろし、順に受け渡していった。
その間先頭の前衛は周囲を警戒している。
狭い通路を通る者と荷物を運ぶ者。
それぞれの役割が自然に分かれていた。
ダスはその様子を興味深そうに見ていた。
だが次の瞬間。
彼の視線がふと天井へ向いた。
細い亀裂。
その奥で何かが動いている。
小さな石が一つ、落ちた。
こつん。
「……ん?」
ダスが顔を上げる。
続けて、砂粒がぱらぱらと落ちてきた。
先頭の隊長も気付いたらしい。
「……止まれ」
静かな声だった。
全員が動きを止めた。
そして。
がり。
天井の奥から硬いものが岩を擦るような音が響いた。
ヴァルが顔を上げる。
ダスはゆっくりと剣の柄へ手を伸ばした。
「……何かいるな」
隊長が短く頷く。
「全員、位置を保て。前衛は通路の中央を空けすぎるな」
弓使いが矢をつがえる。
魔術師は発動準備に入った。
リュネも周囲を見回し、ダスとの距離を少し調整する。
そのとき天井の裂け目から一体の魔獣が姿を現した。
四本の短い脚。
硬い外殻に覆われた胴体。
岩の隙間へ身体を押し込めるような形で移動する、小型の魔獣だった。
隊長が低く声を上げる。
「……前方に一体!」
しかし。
「……いや」
ダスは後方へ目を向けた。
「もう一体いるぞ!」
声とほぼ同時に後方の岩陰から別の個体が現れた。
さらにその奥にも二体。
合計四体。
魔獣たちは一斉に飛びかかってきたわけではない。
狭い通路の中をそれぞれ別の方向から近付いてきている。
しかし結果として調査隊は前後から挟まれる形になった。
「……四体か!」
隊長が素早く周囲を確認する。
通路の幅は狭い。
全員が自由に武器を振り回せる場所ではなかった。
しかも今は荷物を受け渡している途中である。
地図担当者の足元にはまだ回収できていない道具が置かれていた。
「後方二名、対応できるか!」
隊長が声を飛ばす。
「いける!」
ダスが返事をした。
「リュネ!」
「うん!」
二人は後方の魔獣へ向き直った。
ヴァルは荷物の脇へ下がり、周囲の状況を見守る。
前方では盾を持つ冒険者が一体目の突進を受け止めた。
硬い音が響く。
外殻と盾がぶつかり、前衛の足がわずかに後退する。
「……重いな!」
「押し返せ!」
隊長が剣を構えた。
その横を抜けようとしたもう一体へ弓使いが矢を放つ。
矢は外殻に弾かれたものの、魔獣の進路が逸れた。
剣士がその隙を逃さず、露出した脚の付け根へ刃を差し込む。
一体が倒れた。
だが残る魔獣たちは止まらない。
後方では一体がダスへ向かって駆けてきた。
「……おっと!」
ダスは身体を横へずらし、剣を振った。
しかし相手の外殻が硬く、浅く当たっただけでは刃が通らなかった。
「……硬っ!」
思わず声が出る。
魔獣はそのまま壁際へ逃れ、身体を反転させた。
ダスは追わなかった。
追いかければ通路の狭い場所へ入り込むことになる。
しかももう一体が後方から近付いている。
「……リュネ、右!」
「うん!」
リュネが短く魔術を発動した。
水の塊が魔獣の頭部へ当たり、その動きをわずかに鈍らせる。
威力そのものは高くない。
だが進路を逸らすには十分だった。
ダスはその隙に一歩踏み込み、剣を振り下ろした。
刃が外殻の継ぎ目へ入る。
魔獣が短く身体を震わせ、その場へ倒れた。
「よし!」
だが安心する暇はなかった。
もう一体が荷物の置かれた場所へ向かっていたのである。
そこには地図担当者がいた。
彼は足元の道具を回収しようとしていたが魔獣の接近に気付き、慌てて立ち上がった。
しかし通路が狭い。
後退しようにもすぐ後ろには岩壁があった。
「……まずい!」
ダスが動いた。
魔獣を追いかけるのではなく、地図担当者の前へ入る。
その肩を掴み、空いている側へ押し出した。
「下がって!」
「うわっ!」
地図担当者がよろめきながら離れる。
直後、魔獣が飛びかかってきた。
ダスは剣を横へ向け、相手の頭部を受け止める。
硬い衝撃。
足元の砂利が滑り、身体が少し後退した。
「……おおっ!」
剣を押し込もうとするが外殻が硬く、簡単には通らない。
そこで無理に斬ろうとするのをやめた。
刃を斜めに当て、魔獣の力を横へ流す。
相手の身体が岩壁へぶつかった。
その瞬間。
「ダス!」
リュネの声が響く。
「左に避けて!」
「了解!」
ダスは素早く身を引いた。
直後、リュネの水弾が魔獣の露出した腹側へ命中する。
魔獣が横転した。
そこへ前方の戦闘を終えた隊長が駆けつける。
「……そこだ!」
剣が振り下ろされた。
最後の一体が倒れる。
通路に静けさが戻った。
隊長はすぐに周囲へ目を向けた。
「全員、無事か!」
「前衛、問題なし!」
「後方も大丈夫です!」
リュネが答える。
地図担当者も少し息を乱しながら頷いた。
「……助かりました」
ダスは笑った。
「おう! 怪我なくてよかったな!」
「ええ。本当に……」
隊長は倒れた魔獣を確認し、それからダスへ視線を向けた。
「……お前、よく気付いたな」
「ん?」
「後方の二体目だ。あの位置なら、荷物を運んでる奴からは見えなかったはずだ」
「ああ、たまたま見えたんだよ」
ダスは肩をすくめた。
「後ろの壁からも音がしたからな」
隊長は頷いた。
「なるほど。だがよく報告してくれた。助かった」
「どういたしまして!」
すると剣を確認していた隊員が笑った。
「それにしても、お前の剣、妙に危なっかしいな」
「……ああ」
ダスが苦笑する。
「よく言われる!」
「動きは悪くないんだけどな。斬り込むときの角度がちょっと甘い」
「やっぱりか!」
「……いやそんな嬉しそうに言われても困るんだが」
ダスは笑った。
この数週間、剣の練習も続けている。
フィナから教わったことを意識しながら、冒険者としての仕事で経験を積んでいる。
もちろん本来の自分なら何の苦労もなく扱える武器だ。
だが今の自分は《新人剣士ダス》である。
その条件の中で技術を身につけていくことも冒険者生活の楽しみだった。
リュネが隣へ来る。
「よかったね、また教えてもらえたね」
「ああ!」
「帰ったら練習する?」
「もちろん!」
その二人のやり取りを聞いて、隊長が小さく笑った。
「……お前ら、なかなか面白いな」
ダスは満面の笑みを浮かべる。
「だろ?」
「……自分で言うのかよ」
調査隊の中に小さな笑いが起きた。
だが隊長はすぐに表情を戻した。
「よし。魔獣が入り込んでいる以上、周辺の安全確認が先だ。先へ進むかどうかは、それから決める」
ダスも頷いた。
「ああ。それがいいな」
その言葉には先ほどまでの軽さとは違う、自然な真剣さがあった。
*
結局調査隊は予定していた第五区画の奥までは進まなかった。
前後から魔獣が現れたことで通路の安全性に問題があると判断されたためである。
ただしここまでの調査が無駄になったわけではない。
第四区画から第五区画へ続く通路の変化。
新しく崩れた岩壁。
魔獣が通行できる裂け目。
荷物を運ぶ際に危険となる狭い場所。
そして退避可能な空間の位置。
そうした情報を記録し、地図を更新した。
今回の調査で分かったのは第五区画への道が以前より危険になっていることだった。
だからこそ通常の探索を再開する前に補強や追加調査が必要になる。
「……なるほどなぁ」
ダスは地図担当者が記録を書き込む様子を眺めていた。
魔獣を倒したことだけが成果ではない。
進んだ場所。
危険だった場所。
通れなかった理由。
そして次に来る者が何を知っておくべきか。
それらが残ることにもちゃんと意味がある。
「……面白いな、クランの仕事って」
ダスが呟いた。
隣にいた隊長が顔を向ける。
「ん?」
「いや何ていうかさ。みんな、自分がやることをちゃんと分かってるんだなって」
「……まあ、長く一緒に仕事をしてるからな」
「やっぱり、何度も組んでると違うもんか?」
「ああ。誰がどこまでできるか、危険なときにどう動くか、そういうのは一度や二度じゃ分からん」
隊長は地図を畳みながら続けた。
「もちろん、慣れてても失敗はする。だからこそ、互いに声をかける必要があるんだ」
ダスは頷いた。
「……いいな、それ」
「お前たちも、なかなか悪くなかったぞ」
「おっ!」
「少なくとも、さっきの戦闘では勝手な判断で隊列を乱さなかった。後方の魔獣も早く見つけたし、負傷者も出なかった」
隊長はリュネにも顔を向けた。
「魔術の使い方もよかった。狭い場所で無理に威力を出さず、味方が動けるようにしていたな」
「ありがとうございます」
リュネが微笑む。
「ただし、剣の扱いはまだ練習が必要だな」
隊長がダスへ視線を戻す。
ダスは即答した。
「分かった!」
「……素直だな」
「だって上手くなりたいしな!」
隊長は少し笑った。
「……その調子なら、Cランクもそう遠くないかもしれんぞ」
「……C!」
ダスの目が輝いた。
リュネが小さく笑う。
「また始まったね」
「おう! Cか!」
「まだDになったばかりだよ?」
「分かってるって!」
ダスは楽しそうに笑った。
少し前まではGランクの冒険者証を手放したくないと言っていた。
それが今ではCランクになることまで楽しみにしている。
リュネはそんな彼を眺めながら微笑んだ。
変わらないようで少しずつ変わっていく。
彼らしい変化だった。
*
ハルメアへ戻ったのはその日の夕方だった。
調査隊はギルドへ報告書を提出し、持ち帰った記録と地図を整理した。
魔獣との戦闘で大きな負傷者は出なかった。
ただし通路の状態が変化していることが確認されたため、第五区画への一般探索は引き続き制限されることになった。
ダスたちも補助任務を無事に終えたとして報酬を受け取った。
「……よし!」
ダスは硬貨の入った小袋を手に、嬉しそうに笑った。
「また稼いだな!」
「うん。今回は結構いい報酬だね」
「そうだな! やっぱりDランクになると違うなぁ」
リュネが笑う。
「でも装備も少し整えた方がいいんじゃない?」
「……あ」
ダスが腰の剣へ目を向ける。
今日の戦闘で刃の一部に小さな欠けができていた。
普段の手入れだけでは少し心許ない。
「……そうだな。研いでもらうか」
「うん」
「ついでに新しい剣も見たいな」
「買うの?」
「いや見るだけ!」
そう言った直後。
ダスは少し考えた。
「……いやいいのがあったら買うかも」
リュネが笑い出した。
その足元ではヴァルが呆れたように目を細めている。
冒険者として金を稼ぐ。
装備を整える。
また依頼を受ける。
そんな当たり前の循環が今のダスにはたまらなく楽しかった。
しかし武器屋へ向かおうとしたところで先ほどの調査隊長に呼び止められた。
「おい、《余白》!」
「ん?」
「よかったら、少し付き合わないか?」
隊長はギルド併設の酒場を指した。
「今回の反省会だ。堅苦しいものじゃないが、ほかの連中とも話しておくといい」
「……おお!」
ダスが笑った。
「いいな! 行く!」
リュネも頷く。
「うん。私も」
こうして三者は《銀梯子》の冒険者たちと一緒に酒場へ入った。
その後ダスがこの誘いを受けたことを後悔する場面は一度もなかった。
ただし。
「お前、酒は飲めるのか?」
「もちろん!」
「結構いける口か?」
「ははっ! まあな!」
「よし! じゃあ乾杯だ!」
開始早々、妙に盛り上がってしまった。
リュネは隣で笑っていた。
ヴァルは椅子の下へ入り、静かに周囲を眺めている。
酒場では今回の調査について様々な話が飛び交った。
危険だった場所。
魔獣の動き。
判断が遅れた場面。
そして次に同じ場所へ入るなら何を準備するべきか。
隊長は今日の戦闘で後方に魔獣が現れたことについて、自分の確認が足りなかったと振り返った。
「前方ばかり警戒していたな。あの裂け目なら、後ろから回り込まれる可能性もあった」
「でも前の記録にはなかったんでしょう?」
リュネが尋ねる。
「ああ。だからこそ、現場で確認し直す必要があった。地図が正しいとは限らん」
ダスは頷いた。
「そうだよなぁ。今日みたいに岩が動いてたら、前の地図と違うこともあるもんな」
「そういうことだ」
隊長は酒を一口飲んだ。
「迷宮やダンジョンに慣れてる奴ほど、昔の記録を信じすぎることがある。自分が何度も通った場所だから大丈夫だってな」
「……へえ」
「もちろん経験は大事だ。だが昨日安全だった場所が今日も安全とは限らん」
ダスは感心したように笑った。
「……いいなぁ、そういうの」
「お前、そればっかりだな」
「だって面白いだろ?」
隊長は苦笑した。
「まあ、楽しそうで何よりだ」
そのとき近くの卓にいた年配の冒険者が話へ加わった。
「……昔の記録といえば、七厄災の話もそうだな」
「七厄災?」
ダスが顔を向ける。
その言葉には思わず反応してしまった。
男は頷いた。
「ああ。《灰の蟲》の話だ」
周囲の空気が少し変わった。
別に誰かが騒ぎ始めたわけではない。
ただその名前を聞いた冒険者たちがそれぞれ微妙な表情を浮かべた。
「……ああ、あいつか」
隊長が低く呟く。
ダスは興味深そうに聞いた。
「何かあったのか?」
「いや最近現れたって話じゃない。昔の討伐記録の話だ」
年配の冒険者は酒の入った杯を置いた。
「五つの国が軍を出して、一体の魔物を包囲したっていう有名な話があるだろ?」
「ああ。聞いたことあるな」
「そいつだ。《灰の蟲》」
男は声を少し落とした。
「昔は、ただの魔虫だったって話もある。まあ、どこまで本当かは知らんがな」
ダスは黙って聞いていた。
男は続ける。
「討伐軍は、完全に包囲したつもりだった。逃げ道も塞いで、あとは倒すだけだってな」
「……それで?」
「全滅だよ」
男は短く答えた。
「討伐軍が、ほとんど壊滅した」
周囲の冒険者たちも頷いた。
この話は決して珍しいものではないらしい。
七厄災について少しでも調べたことがある者なら、一度は聞いたことのある事件だった。
「ただな」
男が続けた。
「面白いのは、その後だ」
「……ん?」
「《灰の蟲》は、軍が崩れて逃げ道ができた途端、戦うのをやめて去ったっていうんだ」
ダスは少しだけ目を細めた。
「……へえ」
「普通、そこまでやったら最後まで殺すと思うだろ? でもそうじゃなかったらしい」
隊長が頷く。
「……結局、何を考えてるか分からん相手だからな」
別の冒険者が口を挟んだ。
「いやむしろ逃げたかっただけなんじゃないか?」
「そうだとしても、あれだけ人を殺したんだぞ?」
「殺したことと、最初から戦いたかったかどうかは別だろ」
卓の中で意見が分かれた。
しかし誰も断言はしなかった。
実際にその場にいた者はいない。
残っているのは古い記録と伝聞である。
ダスはそれが面白かった。
人類側から見た《灰の蟲》。
討伐できなかった災害級の魔物。
数多くの人命を奪った、恐ろしい存在。
それは間違いではない。
ただし本人の側にはまた別の事情があった。
あの蟲にとって重要なのは何よりも自分が生き延びることだ。
逃げられるなら逃げる。
逃げられないなら戦う。
相手が人間かどうかなど、本人には大して関係がない。
そんな生き物が長い年月をかけて生き続けた結果、今では七厄災の一体として恐れられている。
「……ははっ」
ダスは小さく笑った。
「なるほどなぁ」
隊長が顔を向ける。
「どうした?」
「いや何でもない。面白い話だなと思って」
「……面白いか?」
「ああ」
ダスは頷いた。
「同じ出来事でも、見る側によって全然違うんだなって」
隊長は少し考えた。
「……まあ、そうかもしれんが、だからって近付きたいとは思わんぞ」
「はははっ! そりゃそうだ!」
ダスは声を上げて笑った。
その反応を見て、隊長も笑った。
「七厄災はな、強いからって勝負を挑む相手じゃない。見つけたら、まず生きて帰ることを考えろって教わるもんだ」
「うん。大事だよな、それ」
リュネも頷いた。
ヴァルは椅子の下で静かに目を閉じている。
ダスは杯を持ち上げた。
「……よし! 生還に乾杯だ!」
「おっ、いいな!」
「乾杯!」
笑い声が広がった。
その夜、《余白》の三者は《銀梯子》の冒険者たちと遅くまで語り合った。
そして翌朝。
ダスはまた新しい依頼書を眺めながら嬉しそうに笑っていた。
冒険者生活はまだまだ始まったばかりだった。
*
一方、その頃。
遠く離れた湖畔では三人の冒険者が一人の釣り人を前にしていた。
ヴェルト。
ナディア。
アルシェ。
三人はダスから与えられた特別訓練の最中だった。
課題は単純。
《超越者を一人発見し、接触して会話すること》。
ただしダスや軍団の名前を利用することはできない。
手掛かりも与えられていない。
自分たちで探し、見つけ、相手と話さなければならなかった。
そして今。
三人の目の前には何とも気の抜けた男が座っていた。
「……こんにちは!」
ヴェルトが明るく声をかけた。
男は釣り竿を持ったまま顔を上げた。
「……ん?」
ゆっくりとした動作。
眠そうな目。
どこにでもいそうな、のんびりした雰囲気の男だった。
「……こんにちは」
男が返事をした。
ヴェルトが笑う。
「釣りしてるんですか?」
「うん」
「何が釣れるんですか?」
「魚」
「……魚!」
アルシェが思わず笑った。
「いやそりゃ魚だろうけど!」
男は不思議そうに首を傾げた。
「……ほかに何か釣れるの?」
「いやそういう意味じゃなくて!」
アルシェが笑いながら手を振る。
男は少し考えた。
「……ああ。魚の種類?」
「そうそう!」
「……いろいろ」
「……いろいろ!」
ヴェルトも笑った。
ナディアはそんな二人を見ながら小さく息を吐いた。
どうやら、話が進むまで少し時間がかかりそうだった。
「……失礼します」
ナディアが穏やかに口を開く。
「私たちは、この辺りを調べている冒険者なんです。少し、お話を聞いてもいいですか?」
男は頷いた。
「……いいよ」
「ありがとうございます」
ナディアは周囲へ目を向けた。
湖は静かだった。
水面には小さな波紋が広がり、岸辺には草木が生えている。
少し離れたところには古い大木も立っていた。
ただし特別な魔力反応や明確な危険は確認できない。
普通の湖。
普通の森。
普通の釣り人。
少なくとも見た目だけならそうだった。
「この辺りには、長く住んでいるんですか?」
ナディアが尋ねる。
「うん」
「どれくらいですか?」
男は少し考えた。
「……長いよ」
「……長い?」
「うん」
それ以上、続かない。
アルシェが身を乗り出した。
「えっと、何十年とか?」
「……もっと」
「何百年?」
「……たぶん」
アルシェが固まった。
「……たぶん!?」
男は首を傾げた。
「数えてないから」
「いやいやいや! 数百年住んでるって、普通じゃないよ!?」
「……そう?」
「そうだよ!」
アルシェが勢いよく答える。
男は少し考えたあとのんびりと笑った。
「……まあ、そうかも」
ヴェルトはそのやり取りを楽しそうに眺めていた。
男に敵意はない。
何かを隠しているようにも見えない。
ただ時間の感覚が普通の人間とは大きく違っているようだった。
「……ねえ」
ヴェルトが尋ねた。
「この湖、すごく綺麗だね」
「うん」
「昔からこんな感じなの?」
男は湖へ目を向けた。
「……そうだね。少しずつ変わってるけど」
「……へえ」
「川の流れも、木の場所も、昔とは違うよ」
ヴェルトは周囲を見回した。
確かに川が流れ込む場所には古い土砂の跡が残っている。
岸辺の一部には新しく生えたらしい若木もあった。
長い時間の中で湖の環境は少しずつ変わっている。
しかし。
アルシェは手元の古い地図へ目を落とした。
「……それでも、結構似てるんだよね」
彼女は男へ地図を見せた。
「これ、古い記録を参考にした地図なんだけど。この湖、昔から形があんまり変わってないみたいなんだ」
男は地図を覗き込んだ。
「……ああ」
「知ってる?」
「うん」
「この場所、昔から変わってないの?」
「……変わってるよ」
男はゆっくりと答えた。
「でも急には変わらないようにしてる」
アルシェの耳がぴくりと動いた。
「……え?」
男は釣り竿を少し持ち上げた。
「川が大きく削ったら、土が崩れないようにする。木が倒れたら、次の木が育つようにする。水が少なくなったら、流れを整える」
淡々とした説明だった。
特別なことを話している様子はない。
まるで庭の草木を手入れする話でもしているようだった。
「……それ、全部あなたが?」
ナディアが尋ねる。
「うん」
「……一人で?」
「……うん」
ヴェルトはゆっくりと湖を見渡した。
広い水面。
周囲の森。
川。
草地。
それらを長い年月をかけて少しずつ整えてきたという。
もし本当なら単なる魔術師の仕事ではない。
まして普通の人間ができる規模でもなかった。
「……すごいね」
ヴェルトが素直に呟いた。
男は顔を上げた。
「……そう?」
「うん。だってこんなに広い場所をずっと見てるんでしょう?」
「……まあ、住んでるからね」
男は再び湖へ目を向けた。
「住むところは、住みやすい方がいいでしょ」
あまりにも自然な答えだった。
ヴェルトは一瞬だけ黙った。
そして笑った。
「……そうだね!」
男も少しだけ笑った。
*
それから三人は男と一緒に湖畔を歩いた。
釣り竿は男が持ったままだったが釣り糸は一度巻き取られている。
別に急ぐ様子もない。
誰かを案内することに慣れているわけでもなさそうだった。
ただ三人が見たいと言ったので近くを歩いている。
それだけだった。
「……ここ、ちょっと変わってるね」
アルシェが足を止めた。
彼女が見つめているのは岸辺の土だった。
普通なら水の流れで少しずつ削られていく場所。
しかしそこには草木の根が複雑に張り巡らされ、土をしっかりと支えていた。
「……自然にこうなったの?」
アルシェが尋ねる。
男は首を傾げた。
「……少し手伝った」
「……少し?」
「うん」
アルシェはその根の広がりをもう一度見た。
この規模を《少し》と言うのか。
何とも言えない顔になる。
ナディアはさらに周囲の魔力を確認していた。
何か大規模な術式が発動しているようには見えない。
ただ土地全体の魔力の流れが極めて自然に安定していた。
無理やり押さえ込んでいるわけではない。
過剰に供給しているわけでもない。
長い時間をかけて、その土地に合った状態へ整えられている。
「……これは」
ナディアが小さく呟く。
男が顔を向けた。
「……どうしたの?」
「いえ。少し、気になることがあって」
「……そう」
男は頷いた。
特に説明を求めることもない。
ヴェルトはその様子を見て笑った。
「ねえ、あなたって、冒険とか好き?」
「……冒険?」
「うん! 知らない場所へ行ったり、見たことのないものを探したり!」
男は少し考えた。
「……あんまり」
「……あんまり?」
「うん」
ヴェルトが目を丸くした。
「……何で?」
「ここにいる方がいいから」
男は当然のように答えた。
「……ここ?」
「うん。この湖、まだ手入れするところあるし」
「……でも外にはもっといろんな場所があるよ?」
「……そうだね」
「見てみたいと思わない?」
男はしばらく考えていた。
そして。
「……別に」
あっさり答えた。
ヴェルトが固まった。
「……えっ」
アルシェが吹き出す。
「……ふふっ!」
ナディアも少し笑った。
ヴェルトは慌てて続ける。
「いやでも! ほかの土地とか、違う生き物とか、知らないものとか!」
「……うん」
「気にならない?」
「……あんまり」
「……あんまり!」
ヴェルトは思わず笑った。
「……すごいなぁ」
男は首を傾げた。
「……何が?」
「いや私だったら絶対に見に行きたくなるから!」
「……そうなんだ」
「うん!」
男は少し考えたあとゆっくりと頷いた。
「……それもいいと思うよ」
ヴェルトはその言葉に少し驚いた。
自分とはまったく違う価値観。
知らない場所へ行きたい自分。
一つの場所で暮らし続けたい男。
どちらが正しいという話ではない。
ただこれほど違う考え方をしている相手と話すのは何だか新鮮だった。
「……面白いね」
ヴェルトが笑う。
「……そう?」
「うん!」
男は少しだけ笑った。
*
湖畔を一回りしたあと四人は再び釣りをしていた場所へ戻ってきた。
男は慣れた様子で釣り糸を水面へ垂らした。
ヴェルトたちも少し離れた場所へ腰を下ろす。
しばらくは静かな時間が流れた。
風が草木を揺らし、水面に小さな波が立つ。
遠くで鳥が鳴いた。
男は相変わらず釣り竿を持ったまま動かない。
その様子を眺めていたアルシェがふと口を開いた。
「……ねえ」
「……ん?」
「あなた、名前は?」
男は顔を上げた。
「……セト」
「……セト?」
「うん」
アルシェはゆっくりと目を見開いた。
「……え」
ナディアも顔を向ける。
ヴェルトは首を傾げた。
「……セト?」
アルシェが勢いよく地図と記録を取り出した。
「……ちょっと待って!」
紙を何枚かめくる。
そこには古い土地の記録が残っていた。
何百年もほとんど形を変えない湖。
周囲の環境が妙に安定しているという伝承。
そして。
その土地に長く暮らす、一人の人物についての記述。
「……まさか」
アルシェが顔を上げた。
「あなたって……《箱庭のセト》?」
男は少し考えた。
「……ああ」
「……ああ!?」
「そう呼ばれることもあるね」
アルシェは口を開けたまま固まった。
ナディアもゆっくりと息を吐く。
ヴェルトは男をじっと見つめた。
「……《箱庭のセト》」
男は釣り竿を持ったまま頷いた。
「……うん」
あまりにもあっさりしていた。
超越者。
通常生命の尺度から外れた存在。
その一人が今まさに目の前で釣りをしている。
しかも何とも眠そうな顔で。
「……えええっ!?」
アルシェがようやく声を上げた。
セトは少しだけ驚いたように顔を向けた。
「……どうしたの?」
「いやいやいや! どうしたのじゃないよ!」
アルシェは立ち上がりかけ、慌てて座り直した。
「……本当に!?」
「……うん」
「本当に《箱庭のセト》なの!?」
「……うん」
アルシェは今度こそ完全に頭を抱えた。
「……見つけたぁ……!」
ヴェルトが笑い出す。
「ははっ! やったね!」
ナディアもようやく笑みを浮かべた。
「……うん。やっとだね」
三人はしばらく互いの顔を見合わせていた。
何度も情報を集めた。
古い記録を調べた。
意味の分からない噂にも足を運んだ。
そしてようやく辿り着いたのがこの湖だった。
まさか、釣り人がその本人だとは思わなかった。
もっとも。
セト本人は三人の反応を不思議そうに眺めていた。
「……何か、探してたの?」
ヴェルトが頷く。
「うん!」
「……僕を?」
「そう!」
セトは少し考えた。
「……何で?」
ヴェルトは口を開きかけた。
しかしその前にナディアが小さく手を上げた。
「……説明してもいいけど、一つだけ条件があるんです」
「……条件?」
「私たちは、ある人から特別な訓練を受けています。その内容は、超越者を一人見つけて、接触して、会話することなんです」
セトは頷いた。
「……へえ」
「ただし、誰から命じられたのかは話せません」
「……そうなんだ」
セトはそれ以上聞こうとしなかった。
アルシェが目を丸くする。
「……気にならないの?」
「……何が?」
「誰から言われたのか!」
セトは少し考えた。
「……別に」
「……別に!?」
ヴェルトが笑った。
「ははっ! やっぱり面白い!」
ナディアも苦笑する。
普通なら誰に命じられたのか尋ねたくなるだろう。
まして超越者を探し出すという特殊な課題だ。
だがセトにはそこまで興味がないらしい。
「……じゃあ」
セトが釣り竿を少し動かした。
「もう終わったの?」
ヴェルトが頷く。
「うん!」
「……よかったね」
セトはのんびりと笑った。
それだけだった。
特別な祝福もない。
何かを授けられるわけでもない。
大仰な言葉をかけられることもない。
ただ。
見つけた。
話した。
そして互いの存在を知った。
課題はそれで達成だった。
「……ねえ、セト」
ヴェルトが笑いながら尋ねた。
「また遊びに来てもいい?」
セトは少し考えた。
「……いいよ」
「本当!?」
「うん」
「やった!」
ヴェルトは嬉しそうに笑った。
ナディアもセトへ軽く頭を下げる。
「今日はありがとうございました。突然訪ねてきたのに、色々教えていただいて」
「……うん」
アルシェも笑った。
「ありがとう! すっごく面白かった!」
セトは釣り竿を持ったまま頷いた。
「……どういたしまして」
そのとき。
水面が小さく揺れた。
釣り竿の先がぴくりと動く。
「……あ」
セトが呟いた。
「……ん?」
ヴェルトが顔を向ける。
セトはゆっくりと釣り竿を持ち上げた。
すると。
小さな魚が一匹、水面から飛び出した。
「……釣れた」
セトが言った。
ヴェルトは一瞬だけ黙った。
そして。
「……やったね!」
満面の笑みで祝福した。
セトは少しだけ嬉しそうに笑った。
「……うん」
超越者を発見した三人と。
ようやく魚を一匹釣り上げた男。
その日の成果は互いに違っていた。
だがどちらも本人たちにとってはなかなか悪くない一日だった。
*
湖を離れる頃には空が夕焼けに染まり始めていた。
ヴェルトたちはセトへ別れを告げて森の道を歩いていた。
「……いやぁ」
ヴェルトが楽しそうに笑う。
「面白かったね!」
「うん。まさか、あんな普通に会えるとは思わなかった」
ナディアが頷く。
アルシェはまだ興奮が収まらない様子だった。
「しかも《箱庭》だよ! あの湖だけじゃなくて、周囲の森まで長い時間をかけて調整してるんだよね!」
「……そうみたいだね」
「すっごいなぁ! もっと調べたかった!」
アルシェは手元の記録を見ながら笑っていた。
しかし。
しばらく歩いたところでナディアが足を止めた。
「……あ」
ヴェルトが振り返る。
「どうしたの?」
「……一つ、問題がある」
「問題?」
ナディアは少しだけ困った顔をした。
「……ダスの居場所、分かる?」
ヴェルトが固まった。
「…………」
アルシェも顔を上げた。
「…………」
三人の間に短い沈黙が流れた。
そして。
「……あれ?」
ヴェルトが首を傾げた。
「……ダス、今どこにいるんだっけ?」
ナディアが苦笑した。
「……分からない」
「……えっ」
アルシェが地図を広げる。
「……ちょっと待って。最後に会ったのって、エルノアだよね?」
「うん」
「でももう出発してるんでしょう?」
「そうだね」
「……どこへ?」
再び沈黙。
ヴェルトはしばらく考えた。
そして明るく笑った。
「……ははっ!」
ナディアが目を細める。
「……ヴェルト?」
「……見つけないと!」
「……そうだね」
アルシェが頭を抱えた。
「……また探すの!?」
ヴェルトは笑った。
「うん!」
ナディアは小さく息を吐いた。
超越者を見つけるという、途方もない課題を達成した。
その相手と会話もした。
しかも誰も負傷せず、問題も起こさなかった。
それなのに。
今度は課題を出した本人の居場所が分からない。
「……まあ、仕方ないね」
ナディアが地図を広げた。
「まずは、最後に確認できた場所から情報を集めよう」
「うん!」
「……よし! 次はダス探しだ!」
アルシェが勢いよく宣言した。
ヴェルトも拳を握る。
「おー!」
ナディアはそんな二人を眺めながら小さく笑った。
……本当に忙しい旅である。
しかし。
三人はまだ知らなかった。
この後自分たちが別の意味で《目的地へ辿り着けない》という経験をすることになるとは。
*
一方、その頃。
ハルメアの宿ではダスが新しく整備した剣を眺めていた。
「……よし!」
刃を確認し、鞘へ戻す。
リュネは寝台へ腰掛け、今日の依頼報告書を読んでいた。
ヴァルは窓際で身体を丸めている。
「……なあ、リュネ」
「ん?」
「次はどこ行こうか?」
リュネが顔を上げた。
「もうハルメアを出るの?」
「いやまだ決めてないけどさ」
ダスは地図を広げた。
「せっかくDランクになったし、もっと色んな場所へ行きたいなと思って」
「……そうだね」
リュネも地図を覗き込む。
ハルメア周辺にはまだ行ったことのないダンジョンが幾つもある。
さらに南へ進めば、気候や地形も変わっていく。
東には森林地帯。
南東には火山地帯へ続く交易路もあった。
「……あ」
ダスが地図の一角へ指を置いた。
「ここ、どうだ?」
リュネが覗き込む。
「……火山?」
「ああ!」
ダスの目が輝く。
「火山ダンジョンとか、面白そうじゃないか?」
「うん。行ってみたいね」
「だろ!?」
ダスは嬉しそうに笑った。
しかしすぐには決めなかった。
まだ確認していない情報がある。
街道の状態。
依頼の種類。
必要な装備。
そして現地の危険情報。
「……よし。明日、ギルドで聞いてみよう!」
「うん」
「火山かぁ……」
ダスは地図を眺めながら笑った。
エルノアで冒険者生活を始めた頃には薬草を三十本集めるだけでも大騒ぎしていた。
それが今では次に行く土地のことを考えている。
知らないものを見たい。
新しい仕事をしてみたい。
冒険者としてもっと先へ進みたい。
その気持ちは少しも衰えていなかった。
むしろ日に日に強くなっている。
「……楽しみだな!」
ダスが呟いた。
リュネはそんな彼を見ながら微笑んだ。
「……うん。私も」
窓の外にはハルメアの夜景が広がっている。
遠くの通りからはまだ酒場の賑やかな声が聞こえていた。
ヴァルは静かに目を閉じた。
次は火山。
その先にはきっとまた別の未知がある。
彼らの冒険はこれからも続いていく。
そして同じ世界の別の場所では。
超越者を探し終えた三人が今度は自分たちの主を探していた。
それぞれがそれぞれの旅を楽しんでいる。
そんな日々がこれからも続いていくのだった。




