第13話『Fランクが消えた夜』
巨大な吸魔器官が東方森林の上へ持ち上がった。
一本だけではない。
土を割って現れた黒褐色の殻、その周囲から伸びる何十本もの半透明の管が夜空へ向かってゆっくりと身体を起こしていく。
最も太いものは大人が両腕を広げても抱えきれないほどだった。
遠目には巨大な生物から無数の触手が生えているようにも見える。
しかしその表面を淡い光が脈打つたび、地面へ突き刺さった別の器官から何かが吸い上げられているのが分かった。
魔力だ。
森の木々、土壌、地下の魔力脈。
あらゆる場所から集められた魔力が地中の器官網を通って中央個体へ流れ込んでいる。
そして今その巨大な器官の先端は三方向へ向けられていた。
ダス。
リュネ。
ヴァル。
街の外へ移動した三者を地下の生物はなおも追い続けていた。
「……こりゃ、近くで見ると余計にでけえな」
エルノア東門の外側。
緩やかな丘の上で、ガルドが顎を上げた。
森まではまだ相応の距離がある。
それでも殻の一部が木々の上へ突き出しているのがはっきりと見えた。
隣に立つダスも同じ方向を眺めていた。
「なあ、ガルド。あれって、どのくらい大きいんだ?」
「知るか。まだ半分も出てねえだろうが」
「じゃあ、全部出たらもっとでかいのか?」
「そりゃそうだろ」
「……すげえな!」
「感心してる場合か!」
ガルドは思わず突っ込んだ。
ダスは笑っていたが目は森から離していない。
近くではヴェルトが地面へ片膝をついていた。
先ほどまで土の下を這っていた細い器官が今は一斉に動きを変えている。
目に見える範囲だけでも複数の地割れが北東と南東へ伸びていた。
「……また来るよ」
ヴェルトが立ち上がった。
ガルドの顔が引き締まる。
「何本だ?」
「分かってるだけで七本。でももっと深いところにもあるね」
「七本……」
ガルドが拳を握る。
ダスは少しだけ後ろへ下がった。
ヴェルトがちらりと彼を見る。
「ダス、そこよりもう少し高いところへ移ってくれる?」
「おう。あの岩の辺りか?」
「うん! 地面が割れたときに逃げやすいから」
「了解!」
ダスは素直に移動を始めた。
ガルドもその背中を確認してから、ヴェルトの隣へ並ぶ。
「……来るぞ」
足元の石が跳ねた。
次の瞬間、丘の斜面が内側から破れた。
土砂を巻き上げ、三本の器官が同時に飛び出してくる。
一番近いものはガルドへ向かわず、その後ろを走るダスを追った。
「させるか!」
ガルドが踏み込む。
身体を捻り、地面すれすれを走る管へ拳を叩き込んだ。
鈍い衝撃が腕へ返ってくる。
器官の表面が大きくへこんだ。
だが潰れない。
「……硬ぇ!」
拳を引いた直後、管の側面から細い器官が伸びてきた。
ガルドは腕を引き、すぐに距離を取る。
先端が袖を掠めた瞬間、身体強化に回していた魔力が僅かに引き抜かれた。
全身の力が一拍だけ抜ける。
その隙へ二本目の器官が迫った。
「ガルド、右!」
ヴェルトの声が響く。
直後、彼女の姿が消えた。
地面を蹴った風圧が遅れて届く。
ヴェルトは二本目の器官の側面へ回り込むと、獣化させた腕を振り抜いた。
鋭い爪が厚い組織の表面を引き裂く。
半透明の管が大きく裂け、内部に流れていた光が飛び散った。
ところが傷口が塞がるより早く、別の器官が地下から現れる。
「……なるほど!」
ヴェルトは笑った。
「一本ずつ倒してたら、きりがないね!」
「笑ってる場合じゃねえぞ!」
「うん。でも分かったこともあるよ!」
彼女は再び地面を蹴った。
今度は器官そのものへ向かわない。
地面へ潜っている根元の位置へ回り込み、周囲の土を巻き込むように強く蹴り上げた。
土砂が吹き飛ぶ。
露出した地下部分は地表へ出た管よりずっと細かった。
「ここ!」
ヴェルトの爪が根元へ食い込む。
重い組織が引き千切れ、巨大な器官が勢いを失って倒れた。
地響きとともに、丘の斜面へ大量の土が転がり落ちる。
「おおっ!」
少し離れた岩陰からダスが声を上げた。
「すげえ!」
「だろ!」
ヴェルトが嬉しそうに答えかける。
その直後、ガルドの怒鳴り声が飛んだ。
「まだだ! 後ろ!」
倒れた器官の下から新しい一本が伸びていた。
ヴェルトは振り返りざまに身体を捻り、先端を避ける。
管が彼女のいた場所を突き抜け、背後の岩へ衝突した。
岩肌が砕け、破片が散る。
ガルドが拳を構え直した。
「……全く、どんだけ出てきやがる!」
ヴェルトは笑みを残したまま、周囲を見渡した。
根元を切れば、器官は止まる。
だが地下にはまだ別の経路がある。
しかもすべてが同じ深さを通っているわけではない。
一本を断ったことで、その周囲へ新しい器官が集中し始めていた。
単純に力で潰すだけでは街への接近を止められない。
「……ガルド!」
「おう!」
「ここは任せていい?」
「何だ、お前は?」
「もう少し広い範囲を見てくる!」
ガルドは一瞬だけ考え、頷いた。
「分かった! ただし戻れなくなるほど突っ込むんじゃねえぞ!」
「大丈夫!」
ヴェルトは笑った。
「ちゃんと帰ってくるよ!」
次の瞬間、彼女は斜面を駆け下りていた。
ガルドはその背中を見送り、短く息を吐く。
「……本当に、楽しそうに戦う奴だな」
「分かる!」
岩陰からダスが答えた。
ガルドは振り返る。
「お前はもっと下がってろ!」
「はい!」
素直な返事が返ってきた。
ガルドは思わず苦笑した。
妙な新人だった。
危険を怖がらないわけではない。
指示には従う。
それなのにあの巨大な化け物を前にして、どこか楽しそうなのである。
もっとも。
今はその理由を考えている場合ではなかった。
ガルドの前で、地面が再び盛り上がった。
彼は拳を握り直し、迫る器官へ向かって走り出した。
*
南東側でも防衛は続いていた。
《城壁》の塔盾へ太い吸魔器官が叩き付けられる。
金属を擦るような音が響き、盾の表面に淡い光が走った。
「……ぬおっ!」
《城壁》は奥歯を噛み締めた。
衝撃そのものは耐えられる。
しかし盾へ込めていた魔力が接触している部分から急速に抜けていく。
器官が離れた瞬間、彼は盾を一度地面へ下ろした。
「……こいつは面倒だな!」
いつもなら、盾と身体強化を組み合わせれば、もっと大きな攻撃にも耐えられる。
だが今回は違った。
受け止めるほど魔力が奪われる。
防げば防ぐほど自分の守りが薄くなる。
しかも敵は正面からだけ来るわけではない。
「左側、二本来るよ!」
ナディアの声が飛んだ。
《城壁》はすぐに盾を斜めへ構え直した。
地面から伸びた管が盾の縁を掠め、そのまま背後へ回り込もうとする。
そこにリュネがいた。
ナディアは短剣を抜き、器官の側面へ踏み込んだ。
刃が滑る。
しかし狙いは切断ではない。
先端の進路を僅かに変えることだった。
半透明の管がリュネの横を通過し、地面へ突き刺さる。
「リュネ、こっち!」
「うん」
リュネはナディアの後ろへ移動した。
その間に《城壁》が盾を横へ振り、器官の根元を地面へ押さえ付ける。
「今だ!」
ナディアが短剣を振り下ろした。
拘束された根元へ刃が通る。
管が裂け、中を流れる魔力が漏れ出した。
完全に切断するには至らなかったが器官は進路を変え、地面へ潜っていく。
《城壁》が肩で息をした。
「……一体何本あるんだ!」
「分からない。でも同じところへずっと留まるのは危険だね」
ナディアは周囲へ目を走らせた。
右手には城壁へ続く固い街道。
左手には緩やかに下がる土の斜面。
足元には新しい亀裂が増えている。
このまま器官が地盤を掘り崩せば、盾で攻撃を止めても立っている場所そのものを失う。
「少し北へ戻ろう。あそこの石畳なら、地面が変形しても動きやすい」
「了解した!」
《城壁》は盾を構えたまま後退を始めた。
リュネもその後ろへ続く。
「……ナディア」
「何?」
「さっきからずっと帰り道を残してるね」
ナディアは少しだけ振り返った。
「うん。前へ出るのはいいけど、戻れなくなったら困るから」
「ふふっ」
リュネが笑う。
「やっぱり、ナディアらしいね」
「……そう?」
「うん」
その答えには素直な親しみがあった。
ナディアは微笑んだがすぐに前方へ視線を戻した。
いま必要なのは知っている相手との会話ではない。
この場所にいる全員を無事に帰すための判断だった。
*
北東側ではアルシェが額の汗を拭っていた。
「……うーん、やっぱり変だなぁ」
彼女の前では《青灯》が魔術を発動させていた。
地面へ走る淡い光が地下を移動する器官の位置を断続的に浮かび上がらせる。
その光が薄れるたび、術式は一度解除された。
出し続ければ、吸魔器官へ魔力を与えることになるからだ。
「右前方、三本」
《青灯》が告げる。
「深さは?」
「一つは浅い位置。残り二つはその下を通っています」
「……そっか」
アルシェは腰を落とし、地面の変化を確かめた。
ヴァルは彼女の横で大人しくしている。
もっともその目は一瞬も森から離れていなかった。
「……ねえ、ヴァル」
アルシェが声を潜める。
「君、怖くないの?」
白い小型飛竜はゆっくり顔を向けた。
「そっか。喋れないもんね」
アルシェは苦笑した。
ヴァルは答えなかった。
いや、答えられないわけではない。
ただ、今は答えないことにしているだけだった。
その選択がそろそろ面倒になってきている。
ヴァルは小さく鼻を鳴らした。
「……ん?」
アルシェが首を傾げた。
「怒った?」
ヴァルは顔を背けた。
「……あ、やっぱり怒った?」
横から《青灯》の声が飛ぶ。
「アルシェさん。正面の地盤が動いています」
「あっ!」
アルシェは慌てて顔を上げた。
地面へ走った亀裂の幅が一気に広がった。
続いて四本の器官が土を突き破る。
アルシェはすぐに後ろへ跳んだ。
《青灯》が術式を切り替え、飛び出した管の位置を照らす。
護衛のAランク冒険者たちが前へ出た。
だが器官は彼らを無視した。
最も細い一本が地面すれすれを滑ってヴァルへ伸びていく。
「ヴァル!」
アルシェが叫んだ。
しかしヴァルは逃げなかった。
先端が白い鱗へ触れる。
次の瞬間、器官が内部から破裂した。
生温かい液体が地面へ飛び散る。
アルシェは目を見開いた。
「……また!?」
ヴァルは前脚を持ち上げ、鱗に付着したものを軽く振り払った。
何事もなかったような態度だった。
だが今度はアルシェもそれだけを見ていなかった。
彼女は破裂した器官の周囲へ視線を巡らせた。
他の三本が一斉に地下へ潜り始めている。
「……あれ?」
先ほどまでヴァルを追っていた管が逃げるように向きを変えた。
しかしその動きは三本だけでは終わらなかった。
少し離れた地面でも亀裂が閉じ、浅い位置を這っていた器官が次々と姿を消していく。
「……全部、戻ってる?」
《青灯》が頷いた。
「地下の流れが変わっています」
アルシェは森を見た。
巨大な中央個体の周囲へ淡い光が集まり始めている。
地中の器官が回収した魔力が再び本体へ送り込まれていた。
「……これ、まずいかも」
珍しく彼女の声から楽しげな響きが消えた。
*
東方森林の巨大な殻がゆっくり開き始めた。
完全に割れたわけではない。
複数の節が僅かに持ち上がり、その隙間から濃い魔力が漏れ出したのである。
地面へ突き刺さっていた器官が一斉に収縮した。
先ほどまで三方向へ伸びていた太い管が中央個体の周囲へ引き戻されていく。
ヴェルトは丘の上からその様子を見ていた。
「……来る」
彼女が呟いた。
次の瞬間、殻の側面から何かが飛び出した。
巨大な吸魔器官だった。
それまで地中を這っていたものとは違う。
地表へ露出した根元から、長い管が勢いよく伸びていく。
目指すのはエルノアの城壁。
ヴェルトは即座に動いた。
地面を蹴り、空中へ跳び上がる。
獣化した腕を振り抜くと、管の途中へ深い裂け目が走った。
続けてもう一撃。
器官が千切れ、地面へ落下する。
轟音とともに土砂が跳ねた。
「……よし!」
だが切断された先端の向こうから、新しい器官が伸びてきた。
一本ではない。
さらに二本。
続いて三本。
巨大な殻の側面が開くたび、別の管が射出されていた。
ヴェルトは次々と切り落としていく。
一本目を避け、二本目の根元へ回り込み、三本目を蹴り上げる。
その動きは速い。
地上へ出た器官だけなら、切断自体は難しくなかった。
だがいくら切っても新しいものが伸びてくる。
しかも狙いが一つではない。
ダスたちを追う管。
街の地下へ伸びる管。
周囲の魔力を吸い上げる管。
それぞれが別の方向へ動き始めていた。
「……ああ、そういうことか」
ヴェルトは空中で身体を捻り、迫る先端を避けた。
敵は一体ずつ相手にしているわけではない。
地下の器官網全体を使い、広い範囲へ同時に手を伸ばしている。
ならば、こちらも目の前の一本だけを見ていてはいけない。
ヴェルトは通信具を取った。
「ナディア! アルシェ!」
すぐに返事が届く。
『うん見えてる』
『こっちも! 地下の流れが一気に変わった!』
「地上の器官を切っても別の経路から伸びてる! 街の地下を確認して!」
アルシェの声が返ってきた。
『……待って』
少しの間。
『……あっ』
その声が急に低くなった。
『……まずい!』
*
エルノア東門の内側。
避難を終えたはずの通りで、石畳が突然持ち上がった。
街の外側では高位冒険者たちが巨大な器官を相手に戦っている。
だが地下へ伸びていた管の一部はその戦闘を避けるように城壁の下を通過していた。
古い排水路。
建物の基礎。
魔術設備の下を通る細い空洞。
そこを伝って、器官は市街地へ侵入していたのだ。
警備に当たっていた衛兵が地面の異変へ気付いた。
「……何だ?」
石畳の継ぎ目が開く。
半透明の管が内側から押し上げてきた。
「……敵だ!」
衛兵が叫ぶ。
「東門内に侵入! 応援を――」
その言葉が終わる前に、地面が大きく割れた。
何本もの器官が飛び出し、通りの両側へ伸びていく。
一本は魔力灯へ絡み付き、光を吸い尽くした。
別の一本は道路沿いの魔術設備へ突き刺さった。
周囲の灯りが次々と消えていく。
衛兵たちは剣を抜いた。
しかし細い器官を切断しても地中からさらに新しいものが現れる。
魔術で焼こうとすれば、その魔力すら吸われる。
しかも器官は一定の方向へ伸び続けていた。
避難民が集められている、街の内側へ。
「……くそっ!」
衛兵長が歯を食い縛った。
「内側へ通すな!」
しかし地面の下を進む敵を剣だけで止めることはできなかった。
*
「……突破された?」
ナディアが通信具を握り締めた。
市街地の地下へ器官が侵入したという報告だった。
現在避難民は複数の施設へ分散させている。
そのうちの一つが地下器官の進路に近かった。
まだ直接の被害はない。
だがこのまま進めば、避難所の地下へ到達する可能性がある。
「……《城壁》!」
「おう!」
「私たちは街へ戻るよ。リュネの護衛は続けながら、内側の防衛を手伝う」
《城壁》は頷いた。
「分かった!」
リュネも少し離れた場所から報告を聞いていた。
彼女は街の方角を見つめる。
東門の内側ではいくつもの魔力灯が消えていた。
先ほどまで静かだった市街地へ再び警鐘が響き始めている。
「……ナディア」
「何?」
「避難所にも器官が近付いてるんだよね」
「うん。まだ距離はあるけど、このままなら危ない」
リュネは静かに頷いた。
それからいつもの柔らかな声で答える。
「……分かった」
短い返事だった。
だが彼女の表情は先ほどまでとは違っていた。
楽しげに笑ってはいない。
遠くにいる人々のことを真剣に考えていた。
*
北東側でもアルシェが立ち上がっていた。
「……だめだ。これ以上は街へ入る」
彼女は地図を畳み、通信具へ声を送った。
「ヴェルト! 地下器官が東門の内側へ入った! 避難所の方へ進んでる!」
『分かった!』
「こっちの採餌体も戻ってきてる。数が多すぎて、全部は止められない!」
返事まで僅かな間があった。
『……うん。こっちも同じだよ』
アルシェは唇を噛んだ。
研究者としては目の前の生物をもっと観察したい。
だが今は違う。
自分たちが知らないものを知るために、街の人々を危険へ晒していいわけではない。
彼女はヴァルへ目を向けた。
白い小型飛竜は静かに東の森を見つめていた。
「……ヴァル」
アルシェがしゃがみ込む。
「ごめんね」
ヴァルが顔を向ける。
「君たちを守るつもりだったんだけど……ちょっと、思ったより大変になっちゃった」
その声には珍しく悔しさが混じっていた。
ヴァルはしばらく彼女を見ていた。
それからゆっくりと立ち上がった。
アルシェが首を傾げる。
「……どうしたの?」
ヴァルは小さく鼻を鳴らした。
彼女の足元へ一度だけ身体を寄せる。
そして背を向けた。
「……ヴァル?」
少し先で、彼は振り返った。
まるでここから先は自分で行くと言っているようだった。
*
ダスは東門へ続く丘の上から街を眺めていた。
ガルドが器官を迎え撃ち、ヴェルトは森の方で新しい経路を断とうとしている。
通信具からは避難所へ接近する器官の報告が絶えず届いていた。
ダスはその内容を静かに聞いていた。
「……ガルド」
「ああ!?」
器官へ拳を叩き込んでいたガルドが振り返る。
「お前、まだそこにいたのか! もっと下がれ!」
「いや、一つ聞きたくてさ」
「何だ!」
ダスはいつもの調子で尋ねた。
「今、街の中も危ないんだよな?」
「……ああ」
ガルドの表情が変わった。
「地下へ入り込まれた。こっちを止めても全部は防げねえ」
「……そっか」
ダスは頷いた。
ガルドは拳を構え直しながら続けた。
「だがまだ終わったわけじゃねえ! ナディアたちが戻ってる。ヴェルトだっている!」
「うん」
「お前は新人らしく、まず自分の命を守れ!」
ダスは少しだけ笑った。
「……ありがとな」
「あ?」
「いや。ちゃんと守ってくれて、ありがとなって」
ガルドは一瞬、面食らった。
それから鼻で笑う。
「……当たり前だろ」
短い返事だった。
ダスは頷いた。
そして今度は街の方へ視線を向けた。
逃げ遅れた人を探す衛兵。
負傷者を運ぶ冒険者。
地面の異変へ怯える住民たち。
どれも彼ら自身の生活だった。
明日になれば店を開き、荷物を運び、食事を作り、仕事へ出かける。
ダスがここ数日、心から楽しんでいたものと同じだった。
知らない街。
知らない仕事。
そこで出会った、知らなかった人々。
彼はその全部が好きだった。
だからこそ思った。
これ以上は駄目だ。
自分たちが追われていることで、彼らの生活を壊してしまうなら。
ただのFランク冒険者でいることを理由にはできない。
「……なあ、ガルド」
「今度は何だ!」
「俺、ちょっと移動するわ!」
「はあ!?」
ガルドが目を剥いた。
「馬鹿! 勝手に動くなって言っただろうが!」
「大丈夫! 危ない方には行かねえから!」
「そういう問題じゃ――」
そこへヴェルトが戻ってきた。
「ガルド!」
「おう!」
「東門の防衛に戻って! 内側の器官を止める方が先!」
「……分かった!」
ガルドは即座に頷いた。
しかしダスへ目を向ける。
「こいつはどうする!」
ヴェルトは一瞬だけダスを見た。
彼の表情を確かめる。
それだけで何を決めたのか分かった。
「……私が見てるよ」
「……本当だな?」
「うん!」
ガルドは短く息を吐き、街へ向かって駆け出した。
ダスはその背中を見送った。
「……いい奴だなぁ」
ヴェルトが頷く。
「うん。すごく頼りになるよ」
「だな!」
二人は笑った。
そのあと、ヴェルトの表情が少しだけ変わった。
「……ダス」
「おう」
「……もう、駄目そう?」
ダスは街を見た。
そして静かに頷いた。
「ああ。もうちょい遊んでたかったんだけどな」
ヴェルトは少しだけ残念そうに笑った。
「そっか」
「でも十分楽しかったぞ」
「……うん」
ダスは胸元の冒険者証を指で弾いた。
《F》。
真新しい文字が灯りを受けて僅かに光る。
「さて」
彼は笑った。
「ちょっと行ってくるわ!」
ヴェルトは頷いた。
「うん。気を付けてね!」
その言葉を聞き、ダスは丘の反対側へ歩き出した。
そこには街道から外れた低い窪地があった。
土砂が崩れ、岩が重なった場所。
周囲からは見通せない。
人目がないことを確かめダスは足を止めた。
それから。
「……あーあ」
楽しそうに呟く。
「Fランク、結構気に入ってたんだけどなぁ」
笑いながら、肩を回した。
そして人間の姿がゆっくりと崩れ始めた。
*
リュネもほぼ同じ頃に判断していた。
街道の脇。
ナディアが《城壁》へ指示を出している間に、彼女は一歩だけ下がった。
「……ナディア」
「うん?」
「私、少しだけ離れるね」
ナディアが振り返る。
リュネの表情を見て、すぐに理解した。
「……分かった」
「ごめんね。護衛してもらってたのに」
「ううん」
ナディアは首を振った。
「気にしないで。こっちは任せて」
リュネが微笑む。
「うん。ありがとう」
それだけ言い彼女は街道から外れた岩場へ歩いていった。
《城壁》は少し離れた場所で器官を押さえ込んでいたため、その姿を見ていなかった。
リュネは岩陰へ入り、周囲を確かめた。
人の気配はない。
遠くでは街の鐘が鳴っている。
彼女はゆっくりと息を吐いた。
「……もう少し、一緒に冒険者していたかったね」
その声は少しだけ名残惜しそうだった。
だがすぐに笑みが戻る。
「……まあ、明日からまたできるかな」
次の瞬間、彼女の姿が変わった。
髪の色。
顔立ち。
身体の輪郭。
身に着けている衣服。
そのすべてが先ほどまでのFランク冒険者とは異なるものになっていく。
そこに現れたのは見知らぬ一人の女性だった。
*
ヴァルはアルシェたちから少し離れた場所へ向かっていた。
最初はただ周辺を確認しているだけに見えた。
しかし次第に速度が上がる。
そして低い丘の向こうへ姿を消した。
「……あれ?」
アルシェが顔を上げた。
「ヴァル?」
返事はない。
《青灯》が周囲を見渡す。
「……見失いましたか?」
「……うん。でもあの子なら……」
アルシェは言いかけて、口を閉じた。
自分たちが知らないことがある。
それはずっと分かっていた。
ヴァルが普通の小型飛竜ではないことも。
ダスたちが本当にただのFランク冒険者なのか疑わしいことも。
それでもここまで一緒に行動してきた。
だからこそ。
今は追わない方がいい。
アルシェはそう判断した。
その頃丘の向こうでは。
ヴァルがようやく声を出していた。
「……まったく」
低く落ち着いた男の声だった。
「長かったな」
彼は小さく首を回した。
久しぶりに、人前で黙り続ける必要がなくなった。
それだけでも随分と気が楽になる。
「……やっとか」
小さく呟く。
その直後。
白い身体が膨れ上がった。
犬ほどだった胴体が見る間に巨大化する。
四肢が太く伸び、首が長く持ち上がる。
背に畳まれていた翼が大きく広がり、周囲の空気を押し退けた。
白い鱗が月明かりを受ける。
やがて丘の向こうから巨大な龍が姿を現した。
*
エルノア東門の防衛線は崩れかけていた。
街の地下へ侵入した器官を止めようと、ガルドたちが懸命に戦っている。
《城壁》は盾を構え、飛び出してくる管を押し返した。
《青灯》は短い術式を繰り返し、地下器官の位置を味方へ伝えている。
ヴェルトは街道と城壁の間を駆け回り、地表へ現れた太い器官を次々と切断していた。
それでも敵の数が多い。
一本を止めれば、別の場所から二本が伸びる。
地下の網全体が繋がっている限り、地表の器官だけを倒しても終わらない。
「……くそっ!」
ガルドが拳を振り抜いた。
目の前の管が裂ける。
しかし背後で別の器官が地面を破った。
その先は避難所へ続く通りだった。
「……まずい!」
ガルドが振り返る。
だが間に合わない。
器官は地面の隙間へ潜り込み、そのまま建物の下へ伸びていった。
次の瞬間。
空気が震えた。
低く重い音が響いた。
風が一斉に東から吹き付ける。
衛兵たちが顔を上げる。
冒険者たちも思わず動きを止めた。
東方森林の上空に巨大な白い龍がいた。
「……何だ、あれ……」
誰かが呟いた。
龍は大きく翼を広げていた。
その身体は城壁の上から見ても圧倒的だった。
白い鱗が夜空の下で鈍く光り、長い尾がゆっくりと揺れている。
衛兵たちの中には思わず膝をつく者までいた。
ガルドは目を見開いた。
「……龍?」
その声へ答える者はいない。
巨大な龍は森の地下へ視線を向けた。
そして。
深く息を吸い込んだ。
*
龍息が放たれた。
白い光が東方森林の地面へ向かって走る。
しかしそれは森全体を焼き払うような攻撃ではなかった。
光は地表の一点へ落ちると、そこから複数の方向へ分かれた。
地下へ伸びていた吸魔器官の経路を正確に追っていく。
土の中で無数の管が切断された。
魔力の流れが途切れる。
地中に張り巡らされた網が次々と機能を失っていった。
森の斜面では地下器官が千切れるたびに土が盛り上がった。
しかし龍息は必要以上に地面を抉らない。
器官へ沿うように進み、接続部分だけを破壊していく。
まるで絡み合った糸を一本ずつ切っているかのようだった。
「……嘘だろ」
ガルドが呟いた。
先ほどまで自分たちが苦労して切断していた器官。
その網全体が目の前で次々と断たれている。
しかも龍息を放った白い龍はまだ余裕を残していた。
ヴェルトが顔を上げる。
「……わあ」
彼女の口元に、笑みが浮かんだ。
「……すごいね!」
隣にいたガルドが思わず振り返る。
「お前、あれ見てよく笑えるな!?」
「だって、すごいんだもん!」
ヴェルトは素直に答えた。
ガルドは頭を抱えかけた。
しかしその直後。
森の奥から巨大な器官が新たに持ち上がった。
切断された網のさらに奥。
中央個体の殻から直接伸びている器官だった。
白い龍はゆっくりと顔を向けた。
「……まだ残っているか」
その声が夜空へ響いた。
ガルドの目がさらに大きくなる。
「……喋った!?」
*
中央個体の器官が再び街へ伸びようとしていた。
地下の網は切断された。
しかし巨大な殻の周囲にある器官はまだ活動している。
その一本が直接城壁へ向かって伸びた。
ヴェルトが地面を蹴る。
ガルドも前へ出ようとした。
だがその前に。
見知らぬ女性が城壁の外側へ現れた。
いつ来たのか、誰も分からなかった。
長い髪。
落ち着いた表情。
冒険者証も目立つ武器も持っていない。
その女性はただ静かに立っていた。
「……危ない!」
ガルドが叫ぶ。
巨大な器官が女性へ向かって伸びる。
直撃する。
誰もがそう思った。
だが。
届かなかった。
「……は?」
ガルドが声を漏らす。
器官は確かに女性へ向かっていた。
距離も縮まっているように見えた。
しかしどれだけ伸びても最後の僅かな距離が埋まらない。
女性は動かない。
ただ、目の前へ迫る巨大な管を静かに眺めていた。
さらに一本。
別の方向から器官が伸びる。
それも届かない。
続いて中央個体の周囲から何本もの管が伸びてきた。
だがどれも同じだった。
近付いているはずなのに、届かない。
女性はほんの少しだけ首を傾げた。
「……これで、いいかな」
柔らかな声だった。
次の瞬間。
中央個体から街へ伸びていた器官の動きが変わった。
伸びている。
確かに伸びている。
しかし街へ近付かない。
距離が縮まらなくなった。
森から城壁までの間。
その空間に、奇妙な隔たりが生まれていた。
《アキレスと亀》。
リュネの固有能力が街へ向かう本体と採餌体の到達を阻んでいた。
ただしその名前を知る者は戦場にほとんどいない。
ガルドは目の前の光景を理解できずにいた。
「……何が起きてやがる……?」
ヴェルトは少し離れた場所から女性を見ていた。
その正体を彼女は知っている。
しかし当然ながら口には出さない。
「……すごいね」
それだけ言った。
*
東方森林の中央個体が激しく身体を動かした。
地下器官網は切断され、街への到達は阻まれている。
だが吸魔器官そのものはまだ活動していた。
周囲の魔力を吸い上げながら、新しい経路を探すように動き続けている。
採餌体も森の中で方向を変え始めていた。
その数は百体どころではない。
地下の巣からさらに多くの個体が現れている。
地面が割れ、殻を持つ小さな生物が次々と這い出していた。
その光景を見て、ガルドは顔をしかめた。
「……まだ増えるのかよ!」
《城壁》が盾を構え直す。
「数だけなら、さっきの倍以上はいそうだな!」
《青灯》も杖を握り締めた。
「地下の反応はまだ相当数残っています……!」
アルシェは地図と記録を見比べていた。
しかし途中で手を止めた。
目の前の現象を既存の知識だけでは説明できない。
巨大な龍が地下網を断ち切った。
正体不明の女性が街への到達を阻んだ。
どちらも通常の魔術や身体能力では説明できない現象だった。
「……ねえ」
アルシェが呟く。
「……これ、どうやって調べたらいいんだろ」
ナディアが隣へ来た。
「……今は調べなくていいよ」
「……うん」
アルシェは素直に頷いた。
今は街が守られている。
それだけで十分だった。
だが。
まだ、終わってはいなかった。
*
森の奥。
巨大な中央個体の周囲で、空間が僅かに揺れた。
最初は風によるものに見えた。
しかし違う。
地面の一部が黒く染まっていた。
そこから何かが現れようとしている。
最初に見えたのは腕だった。
黒い腕。
人間に似た形をしているが関節の位置も長さも普通ではない。
続いて別の腕が伸びる。
さらに一本。
十本。
百本。
数え切れないほどの腕が地面の黒い部分から伸び始めた。
「……何だ、あれ……」
監視員の一人が呟いた。
黒いものはゆっくりと身体を持ち上げた。
人の形に近い部分もある。
だがその輪郭は絶えず変わっていた。
肩から別の腕が伸び、背中に新しい関節が生まれる。
胴体の一部が膨らみ、また元へ戻る。
異形だった。
しかも先ほどの龍とも謎の女性とも違う。
見ているだけでどこが身体の中心なのか分からなくなるような姿だった。
黒い異形は巨大な中央個体を見上げた。
「……おお」
その声は妙に楽しそうだった。
「近くで見ると、本当にでけえな!」
*
黒い異形――ダスは巨大な殻の周囲を眺めていた。
地下器官網。
採餌体。
そのさらに奥に広がる巣。
大量の魔力を蓄積した中央個体。
すべてが複雑に繋がっている。
「……なるほどなぁ」
彼は感心したように呟いた。
「よくもまあ、こんだけ広げたもんだ」
その声へ答える者はいない。
中央個体は黒い異形へ向かって器官を伸ばした。
しかし先端が近付く前に、周囲の空間が僅かに歪んだ。
管は何かを掴もうとするように動いたが対象へ触れることができない。
ダスはその様子を眺めていた。
そしてふと笑った。
「……で、どうするかな」
討伐するのは簡単だった。
中央個体を破壊し、採餌体をすべて消し去ればいい。
それで少なくとも今回の事件は終わる。
だがダスは少し考えた。
目の前の生物は何か特別な悪意を持って街を襲っているわけではない。
大量の魔力を求めて移動し、そこへ近付こうとしている。
人間にとっては災害でも生物自身にとっては生きるための行動なのかもしれない。
もちろんそれだけを理由に街の被害を許すつもりはなかった。
だが。
倒す以外の方法があるのなら、そちらを選んでもいい。
「……よし」
ダスは頷いた。
「引っ越しだな!」
黒い身体からさらに多くの腕が伸び始めた。
一本一本が地面へ向かって広がっていく。
中央個体の周囲。
採餌体の群れ。
地下へ続く巣。
そして地中に眠る幼体たち。
そのすべてを巨大な黒い腕が囲み始めた。
ただし街の地下へ伸びていた器官はすでにヴァルによって切断されている。
リュネによって、街への接近も阻まれている。
だからこそ今は本体と巣へ集中できた。
「……いやぁ、助かるねぇ」
ダスが笑う。
「二人とも仕事が早い!」
黒い腕がさらに深い地中へ伸びた。
周囲の岩盤。
巣を支える土壌。
採餌体が潜んでいる空洞。
どこまでが今回の生物群の活動範囲なのかを確かめながら、取り残しがないように包み込んでいく。
中央個体は激しく身体を動かした。
器官が次々と伸び、黒い腕へ絡み付こうとする。
しかしその動きはダスにとって大した妨害にならなかった。
「おっと」
一本の器官が顔へ向かって伸びる。
ダスは軽く首を傾けて避けた。
「そう慌てるなって!」
黒い腕がその器官を掴む。
続いて別の腕が中央個体の殻へ回り込んだ。
さらに別の腕が地下の巣を包み込む。
それは戦闘というより巨大な荷物を丁寧にまとめているような動きだった。
「……よし」
ダスは満足そうに頷いた。
「全部、揃ったな!」
その瞬間。
周囲の空間が大きく変化した。
*
東門の防衛線では誰もが森を見ていた。
黒い異形が巨大な中央個体を無数の腕で包み込んでいる。
その光景だけでも十分に異常だった。
だが次の瞬間。
巨大な殻が消えた。
「……は?」
ガルドが間の抜けた声を出した。
目の前から数十メートル級の殻が消えた。
無数の採餌体も。
周囲へ伸びていた太い器官も。
地下の巣に繋がっていた部分も。
まとめて、何もなくなった。
森の地面には巨大な空洞が残っていた。
だがそこに敵の姿はない。
土砂が崩れ始める前に、周囲の地盤が静かに動き、空洞の一部が埋まっていく。
黒い異形はその変化を眺めていた。
「……うん」
少し考える。
「こんなもんか!」
彼は満足そうに頷いた。
そして地面の黒い部分へゆっくりと沈んでいく。
無数の腕が消える。
身体の輪郭が崩れる。
最後に残った顔らしき部分も暗闇へ溶けるように消えていった。
その場には誰もいなくなった。
*
エルノア東門。
しばらくの間、誰も喋らなかった。
巨大な中央個体が消えた。
採餌体もいない。
地下器官の動きも急激に弱まっている。
あれほど激しかった魔力の吸収反応が今はほとんど確認できなかった。
「……終わった?」
誰かが呟いた。
アルシェは地図へ目を落とした。
そこにはこれまで何度も書き込んできた地下器官の位置が記されている。
しかし今、その反応が消え始めていた。
「……うん」
彼女は顔を上げた。
「少なくとも……あの本体はもうここにいない」
《青灯》も頷いた。
「魔力の流れが止まっています。地下の吸収反応も急速に消失中です」
《城壁》が盾を下ろした。
「……ははっ」
大きく息を吐く。
「……何だったんだ、今のは」
ガルドは森を見たまま動かなかった。
白い龍。
謎の女性。
黒い異形。
その三存在が現れた途端、街を滅ぼしかねなかった事件が終わってしまった。
「……意味が分からねえ」
正直な感想だった。
ヴェルトはその隣で静かに笑っていた。
「……でも街は助かったね」
「……ああ」
ガルドは頷いた。
しばらくしてようやく拳を開く。
「……そうだな」
自分たちだけではあの巨大な生物を止めきれなかった。
その事実は悔しい。
しかし同時に。
街が守られたことも確かな事実だった。
ガルドは深く息を吐いた。
「……ありがてえ話だ」
そしてすぐに顔を上げる。
「よし! 全員、気を抜くな! まだ地下に残ってるものがあるかもしれねえ!」
その声で、冒険者たちが再び動き始めた。
事件が終わったかどうか。
それを確かめるのも自分たちの仕事だった。
*
人里から遠く離れた、とある広大な荒野。
そこには長い年月をかけて魔力が蓄積した土地が広がっていた。
周囲に街はない。
人間の集落もない。
主要な交易路からも大きく外れている。
その地中へ巨大な中央個体と地下巣が現れた。
採餌体。
幼体。
巣を支える土壌。
それらは一つのまとまりとして移されていた。
中央個体はしばらく動かなかった。
やがて周囲の地面へ吸魔器官を伸ばし始める。
そこには人間の街ではなく、広い土地に蓄積した自然の魔力があった。
新しい場所で巨大な生物の活動が再び始まろうとしていた。
ダスはその様子を遠くから眺めていた。
黒い異形の姿はすでに消えている。
今はいつもの人間の姿だった。
「……よし」
満足そうに頷く。
「ここなら、しばらく大丈夫だろ」
もちろんこれで永遠に問題が起きないとは限らない。
新しい土地へ移した以上、その場所でどう生きるのかは今後も確かめる必要がある。
ただ、少なくとも今夜、エルノアを襲った危険は去った。
ダスは大きく伸びをした。
「……いやぁ、疲れた!」
実際のところ力を使ったことによる疲労はほとんどない。
ただ、久しぶりに本来の姿で動いたため、妙に気分がすっきりしていた。
「……さて」
彼は笑った。
「Fランク冒険者に戻りますか!」
*
エルノアの避難所へ三者が戻ってきたのはそれからしばらく後のことだった。
ダス。
リュネ。
ヴァル。
全員がいつもの姿だった。
ダスは少し疲れたような顔をしていたが傷はない。
リュネも普段通り。
ヴァルは小型飛竜系の従魔へ戻り、大人しく二人の足元を歩いていた。
「……いやぁ、参ったな!」
ダスが伸びをする。
「何か、すごいことになってたらしいぞ!」
リュネが笑う。
「うん。白い龍が出たんだって」
「へえ! 龍か!」
ダスは目を輝かせた。
「見たかったなぁ!」
足元のヴァルが尾で彼の足を叩いた。
「痛っ!」
ダスが振り返る。
「何だよ!」
ヴァルは顔を背けた。
リュネが吹き出す。
「ふふっ。きっと、見たかったんじゃなくて、見せたかったんだよ」
「……何を?」
「さあ?」
ダスは首を傾げた。
そのとき。
「……おい!」
聞き覚えのある声が響いた。
ガルドだった。
彼は三者を見つけると、大股で近付いてきた。
「お前ら! どこ行ってやがった!」
「……おう! ガルド!」
「おう、じゃねえ!」
ガルドはダスの肩を掴んだ。
「途中で見失ったって聞いたぞ! 無事だったのか!?」
「おう!」
「怪我は!?」
「ない!」
「魔力は!?」
「元気!」
「……元気って何だよ!」
ガルドは頭を抱えた。
リュネは隣で笑っていた。
「ごめんね。ちょっと移動してたんだ」
「ちょっとで済む状況じゃなかっただろうが!」
「そうだね」
リュネは素直に頷いた。
ガルドは二人の顔を見比べた。
どちらも怪我はない。
ヴァルも無事。
それを確かめると、彼はようやく肩の力を抜いた。
「……まったく」
大きく息を吐く。
「……無事なら、それでいい」
ダスは笑った。
「ありがとな!」
「……もういい。今日は休め」
ガルドは手を振った。
そしてふと足を止める。
「……お前ら、あれ見たか?」
「……何を?」
ダスが尋ねる。
「白い龍と、変な女と、黒い化け物だよ!」
ダスは目を丸くした。
「……えっ!?」
リュネも少し驚いたような顔をする。
「三体もいたの?」
「ああ! しかもとんでもねえ力だった!」
ガルドは興奮気味に話し始めた。
ダスは真剣な顔で頷く。
「……ほほう!」
リュネも相槌を打つ。
「……すごいね」
足元のヴァルだけが静かに目を閉じていた。
自分の話を自分の目の前でされるというのは何とも妙な気分だった。
しかも。
「特にあの龍だ!」
ガルドが声を張り上げる。
「白くて、でっかくて、しかも喋りやがった!」
ヴァルの耳が僅かに動いた。
ダスは満面の笑みを浮かべた。
「……へええ! 喋る龍!?」
「おう!」
「すげえなぁ!」
ヴァルはダスの足をもう一度尾で叩いた。
「痛っ!」
リュネがとうとう笑いを堪えきれなくなった。
ガルドはその様子を見て首を傾げた。
「……何がおかしいんだ?」
「……いや、何でも!」
ダスは笑いながら答えた。
そんな三者を見て、ガルドは深々とため息を吐いた。
「……本当に、変な奴らだなぁ」
*
その夜。
エルノア支部では事件の調査報告が続いていた。
地下器官はほぼ活動を停止。
中央個体の反応は消失。
採餌体も大部分が確認できなくなっていた。
避難民の帰宅は地下の安全確認が終わるまで見合わせることになった。
崩れた地面や破損した施設の確認も必要だった。
ただし街の壊滅的な被害は避けられた。
その事実に、支部職員たちは安堵していた。
一方。
ヴェルトナディア、アルシェの三人は支部の奥にある小さな部屋へ集まっていた。
そこにはすでにダスがいた。
リュネとヴァルも一緒だった。
「……いやぁ、お疲れ!」
ダスが片手を上げる。
ヴェルトは嬉しそうに笑った。
「ダス! お疲れさま!」
ナディアも静かに頷く。
「街は助かったよ。ありがとう」
アルシェはもう少し違う反応だった。
「……ねえ、ダス」
「ん?」
「さっきの、すっごく気になるんだけど!」
「何が?」
「黒いやつ!」
アルシェが身を乗り出す。
「腕がいっぱい出てたでしょ!? あれ、どうやって動かしてたの!? しかも地下の巣ごと全部消えたし!」
「……お前なぁ」
ダスが苦笑した。
「事件が終わって最初に聞くこと、それか?」
「だって気になるんだもん!」
ヴァルが低い声で呟いた。
「……相変わらずだな」
アルシェが振り返る。
「……あっ!」
目を輝かせた。
「ヴァル! やっぱり喋れるんだ!」
「……今さらか」
「いや、分かってたけど! でも実際に聞くとやっぱり違う!」
ヴァルは面倒そうに顔を背けた。
リュネが笑った。
「ふふっ。さっきまで我慢してたからね」
「……本当に、長かったぞ」
ヴァルは真顔で答えた。
ダスが笑い始める。
「はははっ! お前、結構気に入ってただろ!」
「誰がだ」
「お手とか!」
「……あれは二度とやらん」
アルシェが今度はヴァルへ身を乗り出した。
「えっ! お手できるの!?」
「……アルシェ」
ナディアが静かに呼ぶ。
「……あ、はい」
アルシェは大人しく座り直した。
ダスは笑いながら、そのやり取りを眺めていた。
やはり、この三人は面白い。
ヴェルトは未知へ飛び込み、ナディアは帰り道を考え、アルシェは分からないものを調べたがる。
それぞれ違う。
だからこそ三人で動くと面白い。
しばらくしてダスは椅子へ深く座り直した。
「……さて」
その声で三人が顔を上げる。
「今日はよく頑張ったな」
ヴェルトは少し照れたように笑った。
「うん。でも最後はダスたちに助けてもらっちゃった」
「そうだな」
ダスは頷いた。
「でも俺たちが動くまで、ちゃんと街を守ろうとしてただろ?」
ナディアが静かに答える。
「……うん。できる限りは」
「それでいい」
ダスは笑った。
そして少しだけ声を落とした。
「たださ。今日、あの生き物に勝てなかった理由って、単純に力が足りなかっただけじゃねえと思うんだよな」
三人は黙って聞いていた。
「知らないものに出会ったとき、何を調べるか。どこまで踏み込むか。どうやって帰るか。……そういうの、もっと色々できると思うんだ」
ヴェルトの目が輝いた。
「……うん!」
ナディアも頷いた。
アルシェは少し考えている。
「……つまり、もっと未知のものを調べろってこと?」
「そう!」
ダスは笑った。
「というわけで、三人に特別訓練をやってもらおうと思う!」
「……特別訓練?」
ヴェルトが首を傾げる。
ダスは楽しそうに頷いた。
「おう!」
そして指を一本立てた。
「超越者を一人、見つけてこい!」
部屋が静かになった。
「……え?」
ヴェルトが目を丸くする。
アルシェは口を開けたまま固まった。
ナディアだけが少しだけ眉を上げた。
「……超越者?」
「そう!」
ダスは頷く。
「俺や軍団の名前は出すな。手掛かりも貰うな。自分たちの足と頭で探して、見つけて、接触して、話してこい!」
ヴェルトが身を乗り出した。
「……それって、どこにいるかも分かんないんだよね!?」
「おう!」
「……どんな人かも?」
「おう!」
「……会ってくれるかどうかも?」
「分からん!」
ヴェルトの顔がぱっと明るくなった。
「……面白そう!!」
即答だった。
ダスも嬉しそうに笑う。
「だろ!?」
ナディアは少しだけ考えた。
「……期限は?」
「ない!」
「……帰還条件は?」
「超越者を一人見つけて、ちゃんと話をすること!」
ナディアは頷いた。
「……なるほど」
アルシェがゆっくり手を上げた。
「……ねえ」
「ん?」
「……もし、見つけた超越者がすっごく変な人だったら?」
ダスは少し考えた。
そして笑った。
「……それはそれで面白いだろ!」
「……だよね!!」
アルシェの目が輝いた。
ナディアがため息を吐く。
「……二人とも楽しそうだね」
ヴェルトが振り返る。
「ナディアは楽しくない?」
「……楽しいよ」
ナディアは微笑んだ。
「ただ、ちゃんと帰ってこられるように考えないとね」
その返事にダスは満足そうに頷いた。
「……うん。やっぱり、お前ら三人だな!」
ヴェルトは笑った。
アルシェもすでにどこから調べるか考え始めている。
ナディアは二人の顔を見て、もう一度小さくため息を吐いた。
それでも口元には笑みがあった。
ダスはその様子を眺めながら思った。
今日の事件は確かに危険だった。
街の人々を巻き込むところだった。
だからこそ自分たちは動いた。
だがそれだけで終わらせる必要はない。
今日見つけた未知。
今日できなかったこと。
今日、知ることができた他者の判断。
それらは次の冒険へ繋がっていく。
「……よし!」
ダスは勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、今日は解散!」
ヴェルトが笑う。
「うん!」
アルシェも立ち上がる。
「……あっ、でもダス!」
「ん?」
「黒いやつの腕の話、まだ聞いてない!」
「……また今度な!」
「えええっ!?」
部屋に笑い声が響いた。
その夜。
エルノアの街では三つの正体不明の存在について、すでに噂が広まり始めていた。
巨大な白い龍。
攻撃が届かない謎の女性。
無数の腕を持つ黒い異形。
そのどれも正体は分かっていない。
しかし街を救ったことだけは多くの人が目撃していた。
一方で。
事件の中心にいたはずのFランク冒険者二人と、小さな従魔一体。
彼らもまた、無事に帰還していた。
そして何事もなかったように翌日の予定を話していた。
「……なあ、リュネ」
「うん?」
「明日の棚卸しって、まだできるかな?」
リュネは少し考えた。
「……たぶん、無理じゃない?」
「……だよなぁ!」
ダスは笑った。
ヴァルが小さく息を吐く。
「……お前は本当に、そんなことばかり気にしているな」
「だって、楽しみにしてたんだぞ!」
「……そうか」
リュネが笑った。
「ふふっ。じゃあ、また別の街でやろうか」
ダスは顔を上げる。
「……おっ!」
そして嬉しそうに笑った。
「それもいいな!」
エルノアの夜はようやく静けさを取り戻しつつあった。
だが三者の冒険はまだ始まったばかりだった。




