第12話『三十分』
エルノアの夜はすっかり様変わりしていた。
いつもなら酒場から酔客の笑い声が漏れ、夜警の足音が石畳に響く時間である。
だが今、東側の大通りを行き交っているのは武装した衛兵と冒険者ばかりだった。
通りに面した家々では窓が閉められ、荷車が路肩へ寄せられている。
慌ただしく運び出された水桶や食料箱が避難所の入り口に積み上げられていた。
それでも街全体が恐慌に陥っているわけではない。
住民を誘導する者がいる。
負傷者の手当てをする者がいる。
東門から届く報告を整理し、次の指示を出す者がいる。
冒険者ギルドと衛兵隊は街を守るために動き続けていた。
その中心でナディアが地図を広げていた。
「三十分」
彼女が言った。
机を囲む冒険者たちが顔を上げる。
「東側の防衛区域を整理して、住民の避難を終わらせるまでに必要な時間だよ。今の報告なら、それ以上はかけられないと思う」
「百体以上が動いてるんだろ?」
ガルドが尋ねた。
「うん。しかも三つの群れに分かれてる」
ナディアは地図の東側へ三本の線を引いた。
その先にはダス、リュネ、ヴァルの現在位置を示す印がある。
「地下の器官も三者を別々に追っている。だから街の中に留めておけば、採餌体が市街地へ入ってくる可能性が高い」
「……そりゃまずいな」
ガルドが腕を組んだ。
アルシェが地図へ身を乗り出す。
「でも逆に言えばさ!」
「うん?」
「三者が街の外へ出れば、採餌体の向きも変わるかもしれないんだよ!」
言いながら東門の外側を指さした。
「もちろん絶対じゃない。でも今までの追跡反応を見る限り、試す価値はあると思う」
ヴェルトが頷いた。
「街へ入ってくる前に、外で止められるならその方がいいね」
ガルドは顎を撫でた。
「問題はあいつらを連れていく道だな」
東門はすでに閉鎖されている。
門の向こうでは採餌体の群れが接近しており、普段の街道をそのまま使うことはできない。
かといって、別の門から外へ出て大きく回り込めば、移動中に地下器官を市街地へ引き寄せる時間が長くなる。
ナディアはその両方を考えたうえで答えた。
「東門を一時的に開けてもらおうと思う」
「……正面から出すのか?」
「周囲の住民を退避させて、防衛線を二重に敷く。三者が門を抜けたらすぐ閉じる。そのあと、それぞれ北東、東、南東へ分かれてもらう」
地図の上で三本の線が城壁の外へ伸びた。
「その動きに採餌体が反応するか確認する。もし街へ向かい続けるなら、誘導は失敗。すぐ別の方法へ切り替える」
説明を聞いていた《城壁》が豪快に頷いた。
「門を開けてる間は俺が前を守ろう!」
「助かるよ。リュネの護衛もお願いできる?」
「任せろ!」
続いて《青灯》が口を開く。
「私は三地点の魔力流を監視します。ただ、相手が魔力を吸収する以上、術式を長時間維持するのは難しいでしょう」
「だから観測は断続的にする」
アルシェが答えた。
「前にヴェルトが見つけた吸収周期も使えそう。ずっと術式を出しっぱなしにしなければ、消耗も抑えられるはずだよ」
「それなら可能です」
《青灯》が頷く。
ヴェルトは地図を覗き込みながら少し考えていた。
「……ねえ、ナディア」
「何?」
「ダスたちにはもう説明してあるの?」
「まだ。協力してくれるかは本人たちに聞くよ」
「そっか!」
ヴェルトは笑った。
「じゃあ、まずそこからだね」
当然のようなやり取りだった。
しかし三人が別の立場でも互いをよく知っていることを、ガルドたちは知らない。
だからこそガルドは妙に感心していた。
SSSランクを含む高位冒険者がFランクの新人へ危険な役目を頼む。
そのうえで断られる可能性まで最初から考えている。
自分ならどうするだろうか。
少し考えた末、ガルドも頷いた。
「……そうだな。あいつらの意思を聞くのが先だ」
ナディアは地図を畳んだ。
「それじゃ、準備を始めよう」
残された時間は三十分。
ただしそれは敵が待ってくれる時間ではない。
人間側が自分たちで決めた猶予だった。
*
「……街の外?」
説明を受けたダスが目を丸くした。
西側の大通り。
ガルドとヴェルトの前で、彼は腕を組んでいた。
「そう!」
ヴェルトが頷く。
「君たちが街から離れれば、あの生き物も街を通らずに追いかけてくるかもしれないんだ」
「ほほう」
ダスは真面目な顔で考え始めた。
ガルドが補足する。
「危険な役目だ。俺たちが護衛に付くとはいえ、何が起きるか分からねえ。嫌なら断っていいぞ」
「……なるほどなぁ」
ダスは視線を落とした。
確かに普通のFランク冒険者なら断ってもおかしくない提案だった。
危険度は暫定SS相当。
街を揺るがす異変の中心に、自分から近付くことになる。
しかも自分が追われているらしいと分かっているのだから。
しばらく考えてからダスは顔を上げた。
「……一つ聞いていいか?」
「おう」
「俺たちが外へ出れば、街の人は安全になるのか?」
ガルドは即答しなかった。
少しだけ眉を寄せて答える。
「絶対とは言えねえ。でも今のままじゃ街の中へ引き込む可能性が高い。外へ誘導できれば、防衛はやりやすくなる」
「そっか」
ダスは頷いた。
「じゃあ、行こう!」
「……早いな、お前」
「だって、その方がいいんだろ?」
「まあ、そうだが……」
「それに!」
ダスは胸を張った。
「SSSランクとAランクが護衛してくれるんだぞ! Fランク冒険者としてはすげえ贅沢な依頼じゃないか!」
ガルドは口を開けた。
次いで腹を抱えて笑い始める。
「がはははっ! お前は本当に変な奴だな!」
「何でだよ!」
「普通は怖がるだろうが!」
「怖いって! でも頼りになる人がいるからな!」
ダスは当然のように答えた。
その言葉にガルドの笑い声が少しだけ収まった。
「……そうか」
彼はダスの肩を叩いた。
「なら、任せとけ」
ヴェルトは二人のやり取りを隣で見ていた。
普段ならすぐにダスへ話しかけたくなる。
けれど今は彼の冒険者生活を邪魔したくなかった。
だから少しだけ笑って言った。
「うん。私たちが守るからね!」
「おう! よろしく頼む!」
その返事があまりに楽しそうだったのでヴェルトは危うく吹き出しそうになった。
*
一方、南側。
リュネはナディアの説明を聞き終えると、静かに頷いた。
「分かった。私も協力するよ」
「ありがとう。ただ、外へ出たら街の中より危険になると思う」
「うん」
「採餌体は魔力を吸う。だから護衛がいても普通の防御魔術だけには頼れないんだ」
ナディアは地図を広げ、予定している経路を示した。
「私たちは南東へ向かう。《城壁》が前を受け持って、私は退路を確保する。もし街の方へ敵が向きを変えたら、すぐ移動を止めるよ」
リュネは地図を覗き込んだ。
「……ちゃんと戻る道も考えてるんだね」
「うん。出る方法だけ決めても帰れなかったら意味がないから」
「ふふっ。そうだね」
その言葉にリュネは少しだけ嬉しそうに笑った。
ナディアは昔からそうだった。
未知の場所へ進むことより、無事に帰るための方法を重視する。
もちろん臆病だからではない。
戻る道があるからこそ、もっと遠くへ行ける。
そういう考え方を持った人物だった。
「頼りにしてるね、ナディア」
「……うん」
ナディアは一瞬だけ目を細めた。
いつもとは立場が逆だった。
けれどリュネが自分の仕事を本当に評価していることは分かる。
「任せて」
それだけ答え、彼女は再び経路の確認へ戻った。
*
北側ではアルシェがヴァルをじっと見つめていた。
「……ねえ、ヴァル」
白い小型飛竜は顔を上げた。
「君、ちゃんと私の言ってること分かってるよね?」
ヴァルは動かなかった。
アルシェは腕を組む。
「いや、分かってるのは知ってるんだけどさ。どこまで分かってるのかなって」
彼女の隣で《青灯》がため息をついた。
「……アルシェさん。今はその子の知能を調べる時間ではありませんよ」
「分かってるって!」
「さっきから、そればかり気にしているように見えますが」
「だって!」
アルシェはヴァルを指さした。
「私たちが三方向に分かれるって説明したら、こっちへ歩いてきたんだよ! しかも自分の移動経路までちゃんと理解してる!」
「賢い従魔なのでしょう」
「賢いで済ませていいのかなぁ……」
ヴァルは小さく息を吐いた。
いつまでこの話をするつもりなのだろうか。
もちろん彼女が観察好きなのは知っている。
ダスの軍団員として、未知の生物や現象へ強い関心を持っていることも。
だが自分をいつまでも珍しい生き物として眺められるのは少々居心地が悪かった。
ヴァルは立ち上がると、アルシェの横を通り過ぎた。
「あっ」
アルシェが振り返る。
彼は少し先で立ち止まりこちらを見返した。
「……行こうってこと?」
ヴァルは一度だけ頷いた。
「やっぱり分かってる!!」
アルシェが嬉しそうに声を上げた。
《青灯》は額へ手を当てた。
「……もう行きましょう」
*
東門の開門準備は予定より早く整った。
門の内側では衛兵たちが避難済みの通りを再確認している。
民家や商店に取り残された者がいないか。
荷車や瓦礫が退路を塞いでいないか。
建物の地下へ伸びる器官が新たに出現していないか。
一つひとつ確かめた報告がナディアの手元へ集まっていた。
「東門前の住民、退避完了!」
「周辺三通り、通行止め完了!」
「北側の退路、確保しています!」
ナディアは地図の印を消していく。
最後の報告を受け取ると、ヴェルトへ頷いた。
「準備できたよ」
「うん!」
ヴェルトが門を見上げる。
分厚い扉の向こうには夜の東方街道が続いている。
その先の森では百体を超える採餌体が接近中だった。
「じゃあ、行こう!」
衛兵長の合図で重い門がゆっくりと開き始めた。
石畳の上を冷たい風が吹き抜ける。
街の中にいた三者は護衛を伴って順番に門を抜けた。
ダスはヴェルトとガルド。
リュネはナディアと《城壁》。
ヴァルはアルシェと《青灯》、そして複数のAランク冒険者。
門の外に出てから、三組はあらかじめ決められた方向へ分かれた。
西から東へ延びる街道を中心に、北東と南東へ護衛隊が広がっていく。
遠くには森から続く低い丘が見えていた。
その斜面に小さな黒い点が幾つも動いている。
「……あれか」
ダスが呟いた。
隣のガルドが頷く。
「ああ。まだ距離はあるが油断するなよ」
「おう」
ダスは素直に答えた。
ヴェルトは周囲を見渡した。
土が乾いている。
風は北から。
左右には低い灌木があり、街道を少し外れると地面が緩やかに下がっている。
地下器官が伸びてきた場合、地表へ出る場所は限られない。
だからこそ彼女は足元の微かな変化まで注意を向けていた。
「……来るね」
ヴェルトが言った。
ガルドが拳を握る。
「もうか?」
「うん。地下の方が先みたい」
その直後。
街道脇の土が僅かに盛り上がった。
*
細い器官が地面を破った。
半透明の管が風に揺れる草の間から持ち上がる。
「下がれ!」
ガルドが前へ出た。
ダスも後ろへ下がる。
少なくとも周囲の目にはそう見えた。
だが器官はガルドへ向かわなかった。
彼の横を抜け、まっすぐダスへ伸びる。
「……おいおい!」
ダスが身を引いた。
ガルドが腕を振り、管を掴もうとする。
その瞬間、器官の先端がダスの袖口へ触れた。
布が引っ張られる。
続いて露出した手首へ半透明の先端が張り付いた。
「ダス!」
ガルドが叫んだ。
だが次の瞬間。
ぼんっ!
鈍い破裂音が響いた。
半透明の管が内側から弾け飛んだ。
水を詰めすぎた袋が破れるような音だった。
細かな破片が宙へ散り、地面へ落ちる。
「……は?」
ガルドが固まった。
ダスも自分の手首を見下ろしていた。
皮膚には傷一つない。
魔力を吸われたような消耗も見られない。
ただ、袖口が少し濡れていた。
「……うわ」
ダスが顔をしかめる。
「何だこれ。気持ち悪いな!」
「お、お前……」
ガルドが言葉を失った。
「痛くねえのか!?」
「いや、全然」
「魔力は!?」
「……ん?」
ダスは首を傾げた。
「特に変わんないぞ?」
ヴェルトが素早く足元へしゃがみ込んだ。
破裂した器官の破片を確認する。
半透明の組織はすでに形を失い始めていた。
「……変だね」
彼女が呟いた。
「普通なら、魔力を吸ってもこうはならないと思うんだけど」
ガルドがダスを見た。
本人は相変わらず、袖口を気にしている。
「……何で破裂したんだ?」
「知らん!」
即答だった。
「俺が聞きたいわ!」
ガルドは頭を抱えた。
ヴェルトは顔を上げた。
彼女だけは少し違うことを考えていた。
ダスに触れた器官が何かを受け取ろうとした。
そして処理できなかった。
そう考えるのが自然だった。
ただ、それをどう説明すればいいのか。
少なくとも今の観測結果だけでは分からない。
「……とりあえず」
ヴェルトは笑った。
「ダスが無事でよかった!」
「おう!」
ダスも笑った。
ガルドだけが納得していなかった。
「……本当に何なんだ、お前」
「ただのFランク冒険者だぞ?」
「それは知ってる!」
*
ほぼ同じ頃。
南東側の道ではリュネが足を止めていた。
「……ナディア」
「うん。気付いてる」
彼女たちの前方で、地面に細い亀裂が走っていた。
亀裂は一直線ではない。
土の緩い部分を探すように蛇行し、少しずつこちらへ近付いている。
《城壁》が塔盾を下ろした。
「来るぞ!」
大きな盾が地面へ突き立てられる。
直後、数本の吸魔器官が飛び出した。
一本は盾へ叩き付けられ、残りは左右へ分かれる。
「右側!」
ナディアの声が飛んだ。
《城壁》が盾の角度を変える。
しかし別の一本が地面すれすれを這い、リュネの足元へ回り込んだ。
彼女は半歩下がった。
その動きに合わせて、管の先端が跳ねる。
足首へ触れた。
途端に。
ぱんっ!
乾いた音が響いた。
半透明の器官が弾け、白い液体のようなものが地面へ飛び散った。
「……っ!」
《城壁》が盾を動かし飛散物を受け止める。
ナディアもすぐにリュネへ駆け寄った。
「大丈夫!?」
「うん。平気だよ」
リュネは自分の足首を確かめた。
靴も衣服もほとんど傷んでいない。
魔力の消耗もない。
それどころか、本人は驚くほど落ち着いていた。
ナディアは破裂した器官へ視線を向ける。
「……吸収しようとした瞬間に壊れた?」
「そう見えたね」
リュネが答える。
ナディアは彼女を見た。
もちろん知っている。
リュネがどれほど異常な存在なのか。
だがだからといって、今の現象の理由をすべて理解できるわけではない。
まして自分たちの知らない生物が何を感じ、何を吸収しようとしたのかなど、現時点では判断できなかった。
「……変だね」
ナディアは呟いた。
リュネが微笑む。
「そうだね」
その返事があまりに穏やかだったためナディアは少しだけ困った顔をした。
「……もう少し驚いてもいいと思うよ」
「ふふっ。じゃあ、驚いた方がいい?」
「演技する必要はないけど……」
《城壁》が振り返った。
「おいおい! 今のを見て、二人とも落ち着きすぎじゃないか!?」
リュネとナディアは顔を見合わせた。
そして揃って笑った。
《城壁》はますます分からなくなった。
*
北東側。
「……ん?」
アルシェは地面へ視線を落とした。
ヴァルが立ち止まっている。
白い小型飛竜は前方の石混じりの土をじっと見つめていた。
アルシェもその方向を確かめる。
「……あ、来てる!」
彼女が声を上げた瞬間、地面から一本の器官が伸びた。
細い管は左右へ揺れることなく、一直線にヴァルへ向かう。
《青灯》が杖を掲げた。
「離れてください!」
青白い光が地面を照らす。
器官の位置を示すための術式だった。
しかし管はその光にも反応せず、ヴァルだけを追っていた。
「……あれ?」
アルシェの表情が変わる。
普通なら、近くで魔術が発動すれば吸収器官が反応するはずだった。
ところが今回の器官は別の魔力源を無視している。
ヴァルは一歩だけ横へ動いた。
器官も向きを変える。
次の瞬間、先端が彼の前脚の鱗へ触れた。
ばちっ!
短い音がした。
直後。
ぼふっ!
器官の根元近くまでが一斉に破裂した。
「うわっ!?」
アルシェが飛び退く。
《青灯》も杖を下げた。
地面には細かく砕けた半透明の組織が散らばっていた。
ヴァルは前脚を持ち上げた。
鱗には傷一つ付いていない。
しばらく眺めた後面倒そうに脚を振る。
「……え?」
アルシェが固まった。
そして。
「……ええええっ!?」
夜の街道へ大きな声が響いた。
「ちょっと待って! 今の何!?」
ヴァルは黙っていた。
「触れた瞬間に破裂したよね!? しかも魔力の反応、ほとんど出てなかったのに!」
《青灯》が顔をしかめる。
「……こちらでも確認しました。吸収器官の内部だけで急激な魔力変動が起きています」
「だよね!?」
アルシェはヴァルへ詰め寄りかけた。
だが途中で足を止めた。
相手は何も答えられない小型飛竜の従魔。
少なくとも周囲の人間の認識ではそうだった。
「……むう」
彼女は腕を組んだ。
ヴァルが顔を背ける。
「……絶対何かある」
アルシェが呟いた。
《青灯》は冷静に記録を取っていた。
「現時点では対象の身体に異常があるのか、吸収器官側の欠陥なのか、判断できませんね」
「うん……」
アルシェは地面に散った破片を見つめた。
「でもこれで三つとも同じなら……」
そのとき通信具が鳴った。
ダスの地点。
リュネの地点。
そしてヴァルの地点。
三か所すべてで、吸魔器官が接触直後に破裂したという報告だった。
アルシェはしばらく黙っていた。
それから。
「……やっぱり!!」
嬉しそうに叫びかけて途中で口を押さえた。
今は喜んでいる場合ではない。
そう分かっている。
分かっているのだが。
「……これ、すっごく調べたい……」
思わず本音が漏れた。
ヴァルは深々と息を吐いた。
*
三地点からの報告を受け、臨時指揮所では議論が続いていた。
「測定値は正常なのに、接触した器官だけが壊れる……?」
ガルドが記録を睨んだ。
「意味が分からねえな」
「うん。私もまだ分かんない」
アルシェは素直に答えた。
机には三地点の記録が並べられている。
どこでも共通しているのは吸魔器官が対象へ接触したこと。
そして接触直後に内部で急激な変化が起き、破裂したことだった。
「……例えばさ」
アルシェが指を立てる。
「水を少しずつ吸う管があるとして、そこへ一気に大量の水が流れ込んだらどうなると思う?」
「壊れるな」
ガルドが答えた。
「そう。今回のもそれに近いのかもしれない」
《青灯》が首を傾げる。
「ですが対象から流れ込んだ魔力量は私たちの測定では確認できていません」
「そこなんだよね!」
アルシェは机を軽く叩いた。
「人間の測定では普通。でも吸魔器官は三者を異常に強く追いかける。しかも実際に触れたら壊れる」
「……つまり?」
「……分かんない!」
即答だった。
ガルドは額を押さえた。
「お前なぁ……」
「だってまだ分かんないんだもん!」
アルシェは不満そうに頬を膨らませた。
「ただ一つ言えるのはあの生き物が感じているものと、私たちが測ってるものは同じじゃないかもしれないってこと」
ナディアが頷いた。
「それは大事な違いだね」
ヴェルトは記録を眺めていた。
三者が異常であること自体は彼女にとって何も不思議ではない。
むしろ不思議なのは吸脈殻虫の方だった。
なぜ、本来の力を隠している三者を見つけられたのか。
なぜ、接触した瞬間に器官が壊れるのか。
そしてなぜそこまでして追うのか。
「……もっと知りたいね」
小さく呟く。
アルシェが勢いよく頷いた。
「でしょ!?」
ナディアが二人を見た。
「調査は続けよう。ただし街へ危険を近付けないことが先だよ」
「うん!」
二人は素直に答えた。
その直後だった。
東方監視隊から新たな報告が届いた。
「採餌体の群れに変化あり!」
通信具から緊迫した声が響く。
「三群とも進行停止! ……いえ、違います!」
短い沈黙。
「撤退しています!」
*
エルノア東方森林。
百体以上の採餌体が一斉に方向を変えていた。
硬い殻が地面を擦り、四本の短い脚が土を掻く。
それまで街へ向かっていた群れが突然東へ戻り始めたのだ。
監視員たちは呆然としていた。
「……何だ?」
「逃げてるのか……?」
採餌体は互いにぶつかることなく移動していた。
規則性がある。
先頭にいた個体が向きを変えると、後続も同じ方向へ転じる。
しかしすべてが同じ速度ではなかった。
地面へ器官を伸ばしていた個体はそれを収縮させるのに時間がかかる。
別の個体はその場で腹部を地面へ押し付け、地下へ潜り始めた。
「……撤退してるぞ!」
監視員の一人が叫んだ。
「街から離れていく!」
その言葉に周囲から安堵の声が上がった。
だが一人だけ、地面を見つめたままの男がいた。
先ほどから、足元に微かな振動が伝わっていたのである。
最初は採餌体の移動によるものだと思っていた。
だが、違う。
振動は群れが離れても弱まらなかった。
むしろ少しずつ強くなっていた。
「……おい」
男が呟いた。
「何だ?」
「地面……揺れてないか?」
隣の監視員が足元を見た。
小石がかたかたと音を立てていた。
その瞬間。
森の奥から低い音が響いた。
岩盤の深い部分が擦れ合うような重い音だった。
監視員たちは一斉に顔を上げた。
*
エルノア東門の外。
ガルドは採餌体撤退の報告を聞いて眉を寄せた。
「……逃げた?」
ダスが隣で首を傾げる。
「何だ、もう終わりか?」
「まだ分からねえ。追いかけるなよ」
「分かってるって!」
ダスは笑って答えた。
ヴェルトは東の森を見ていた。
確かに地表の採餌体は戻っている。
地下器官もこれまでのように激しく伸びてこない。
しかし。
「……変だね」
彼女が呟いた。
「何がだ?」
ガルドが尋ねる。
「逃げてるようには見えるんだけど……」
ヴェルトは少しだけ言葉を探した。
「自分たちで嫌になって帰ってる、って感じじゃないんだよね」
「……どういうことだ?」
「分かんない。でもみんな一斉に向きを変えすぎてる」
ガルドは眉を寄せた。
確かに不自然だった。
百体以上いるはずの生き物が突然揃って撤退を始める。
危険を察知したとしてもこれほど統一された反応をするものだろうか。
そのとき通信具が鳴った。
アルシェの声だった。
『ヴェルト! ちょっとおかしい!』
「うん。こっちでも見てるよ」
『採餌体が撤退してるのに、地下の魔力流が止まってない!』
ヴェルトの表情が変わった。
「……どこへ流れてるの?」
『森の地下! 前に見つけた空洞の、もっと奥!』
ガルドも通信へ耳を傾ける。
『しかも流れが太くなってる! 採餌体から戻ってる魔力もあるみたい!』
ナディアの声が割り込んだ。
『全員、街道から離れて。
地盤の変化を確認してる。
東側の低地には近付かないで』
ヴェルトはすぐに答えた。
「分かった!」
そしてガルドへ振り返る。
「ダスを連れて、少し高い方へ移動して!」
「おう!」
ガルドは即座に頷いた。
理由を聞き返すことはしない。
ヴェルトがこういう声を出すときは何かを見つけたときだ。
そして大抵、その判断は正しい。
「ダス! こっちだ!」
「おう!」
二人が移動を始める。
ヴェルトはもう一度東の森を見た。
遠くの木々が僅かに揺れていた。
風は強くない。
揺れているのは木々の根元だった。
「……あ」
ヴェルトが呟いた。
その直後。
地面が大きく持ち上がった。
*
エルノア東方森林の外縁。
最初に崩れたのは低い丘の斜面だった。
土が盛り上がり、地表に大きな亀裂が走る。
木々が傾き、根を露出させた。
その下から硬いものが現れた。
黒褐色の殻だった。
最初は巨大な岩に見えた。
しかし岩にしては表面が滑らかすぎた。
しかも土の下から現れた部分にはいくつもの節が走っている。
「……何だ、あれ……」
監視員の一人が呟いた。
返事をする者はいなかった。
殻はまだ動いている。
地面を押し上げ周囲の土砂を崩しながら、ゆっくりと姿を現していた。
十メートル。
二十メートル。
それでも全体は見えない。
さらに大きな部分が地中へ埋まっている。
斜面のあちこちから、半透明の器官が伸び始めた。
一本一本の太さがこれまでのものとは違っていた。
小型個体の器官が人の指ほどだったのに対し、目の前に現れたものは成人の胴ほどもある。
何本も。
何十本も。
殻の周囲から伸び、地面へ突き刺さっていく。
監視員たちはようやく理解した。
今まで見ていたものは異変の一部にすぎなかったのだ。
「……退避!」
誰かが叫んだ。
「全員、退避しろ!!」
監視員たちが走り出す。
背後で巨大な殻がさらに持ち上がった。
地面が割れ、土砂が崩れ落ちる。
その振動が遠く離れたエルノアの城壁にまで伝わった。
*
「……おいおい」
ガルドが立ち止まった。
高台から見える東の森が大きく変形していた。
木々の間から巨大な殻が突き出している。
夜空を背景にしたその輪郭はあまりに大きかった。
「……冗談だろ」
ガルドが呟いた。
ダスも隣で森を見ていた。
「……でっけえなぁ」
その声はいつもより少しだけ低かった。
ヴェルトが二人へ追いつく。
「二人とも無事?」
「おう!」
ダスが答える。
ガルドは頷いた。
「こっちは問題ねえ。だがあれは……」
「うん」
ヴェルトも森を見た。
「たぶん、地下にいた大きな個体だと思う」
それ以上は断定しなかった。
確認できたのは巨大な殻が地上へ現れ始めたことだけ。
それがどんな生物で、どれほどの力を持ち、何をするのか。
まだ分からない。
ただし。
明らかなことが一つあった。
殻の周囲に伸びた器官が三方向へ向きを変え始めていたのである。
北東。
東。
南東。
三者がいる方向へ。
*
「……ああ」
南東側の道で、リュネが小さく呟いた。
彼女も巨大な殻を見ていた。
ナディアが素早く周囲を確認する。
「《城壁》、後ろの退路は?」
「確保してある! ただ、これ以上地盤が動くなら、別の道を考えた方がいいな!」
「うん。街道脇の斜面は使わないで。城壁沿いの固い地面へ戻ろう」
判断が早かった。
リュネはそのやり取りを聞きながら、少しだけ目を細めた。
どちらも自分の仕事を分かっている。
《城壁》は盾を構え、ナディアは帰り道を確保する。
目の前に巨大な敵が現れても二人は自分の役割を見失っていなかった。
「……リュネ」
ナディアが振り返る。
「まだ動ける?」
「うん。大丈夫だよ」
「じゃあ、私の後ろへ。しばらく位置を変えるね」
「分かった」
リュネは素直に従った。
その視線がほんの一瞬だけ遠くのダスがいる方向へ向けられる。
彼ももう気付いているはずだった。
そして何をするべきか考え始めているはずだった。
*
北東側ではアルシェが完全に言葉を失っていた。
目の前の森から、数十メートル級の殻が現れている。
しかもその周囲へ伸びる器官の数は小型個体とは比較にならない。
《青灯》が隣で杖を握り締めた。
「……あれが地下の中央個体……?」
「……たぶん」
アルシェはようやく答えた。
「でもまだ全部出てきてない」
ヴァルは二人の足元で静かに森を見ていた。
巨大な殻。
無数の器官。
大量の魔力を必要とする生物。
そのどれもが彼にとっては大した脅威ではなかった。
しかし周囲の人間にとっては違う。
目の前の存在は街の防衛力を上回る可能性がある。
しかもその生物が追っているのは自分たちだ。
ヴァルはゆっくりと目を細めた。
いつまでも大人しい従魔を演じていればいい状況ではなくなりつつあった。
*
再び、臨時指揮所。
巨大な中央個体出現の報告が届くと場の空気が一変した。
「……数十メートル級?」
支部の職員が青ざめる。
「それだけでも今までの個体とは規模が違いすぎます……!」
「まだ全体は見えてないよ」
アルシェが通信越しに答えた。
『だからもっと大きい可能性もある』
職員が絶句した。
ナディアの声が続く。
『採餌体は撤退中。
ただし中央個体の器官が三方向へ伸び始めてる。
三者への追跡が終わったとは考えない方がいい』
ヴェルトも報告した。
『今のところ、街へ直接攻撃してる様子はないよ。
でもあの大きさなら城壁まで器官が届く可能性がある』
ガルドが通信具へ顔を近付けた。
『……こっちは護衛を続ける。
必要なら前へ出るぞ』
支部長は机の上へ両手を置いた。
迷っている時間はない。
「……各門の防衛を強化しろ。東門は閉鎖継続。周辺住民の避難範囲を広げる」
職員たちが走り出す。
「高位冒険者は中央個体の動きを警戒。無理に討伐へ向かうな。まずは器官の進路を確認しろ!」
指示が次々と飛ぶ。
しかし誰もが分かっていた。
これはこれまでの調査とは違う。
採餌体の数が多いという問題ではない。
地下に眠っていた巨大なものがついに動き始めたのだ。
*
東方森林では巨大な殻がゆっくりと持ち上がり続けていた。
その動きに合わせて地下から魔力が流れ込む。
長い年月をかけて集められた魔力。
採餌体が広い範囲から吸い上げてきた魔力。
それらが中央個体の内部へ集まっていた。
殻の表面に走る節が僅かに開く。
内部では何かが動いていた。
しかしそれが眼なのか、口なのか、それとも別の器官なのかは分からない。
ただ、外へ伸びた半透明の管だけは明確な方向を示していた。
三方向。
三者。
街の外へ誘導された、三つの対象。
採餌体が追っていたものを、今度は中央個体そのものが追い始めていた。
*
ダスはその様子を遠くから眺めていた。
ガルドが前に立ち、ヴェルトは周囲の地盤を確かめている。
少し離れた場所では衛兵が負傷した監視員を運んでいた。
街の方角からは避難を知らせる鐘の音が聞こえる。
ダスはそのすべてへ目を向けた。
自分たちが街の外へ出たことで、地下器官は一度、街から離れる方向へ動いた。
誘導は一定の効果を上げている。
それでも事件は終わらなかった。
むしろもっと大きなものが出てきた。
「……参ったなぁ」
ダスが呟いた。
ガルドが振り返る。
「どうした?」
「いや……」
ダスは胸元の冒険者証へ目を落とした。
《F》。
つい昨日、手に入れたばかりのランクだった。
その文字を見るたび、彼は少し嬉しくなった。
Gランクから始めて、一つずつ仕事を覚える。
失敗したら教わり、できることが増えたら喜ぶ。
自分より経験豊富な冒険者に守られながら、知らなかった世界を知っていく。
そんな日々が本当に楽しかった。
今日だって、できれば明日の棚卸しのことを考えていたかった。
だが。
遠くで衛兵が叫んだ。
負傷者を運ぶ荷車が石畳を軋ませながら走っていく。
ダスはそれを見送った。
自分たちが狙われていなければ、この街が襲われずに済んだのか。
その答えはまだ分からない。
地下の生物は以前から活動していた。
五十二年前にも同じような事件が起きている。
だから今回の異変そのものを自分たちが引き起こしたとは限らない。
ただ。
今、あの生物が三者を追っていることだけはもう疑いようがなかった。
そしてそのせいで街の人々が危険に晒されている。
それも事実だった。
「……なあ、ガルド」
「あ?」
「もしあいつが俺たちを追って街へ入ろうとしたら、どうする?」
ガルドは東の森を見た。
「止めるさ」
「……あの大きさでも?」
「でけえからって街へ入れていいわけじゃねえだろ」
即答だった。
ダスは顔を上げた。
ガルドは拳を握り、肩を回した。
「まあ、俺一人じゃどうにもならんだろうがな。ヴェルトもいる。《城壁》も《青灯》もいる。ほかの連中だって、ただ見てるわけじゃねえ」
「……そっか」
「それに街の連中は俺たちに任せて逃げてるんだ。なら、任された側が仕事しねえとな」
ガルドは笑った。
いつもの豪快な笑い方だった。
ダスもつられて笑った。
「……いいなぁ、それ」
「何がだ?」
「いや。やっぱ冒険者って、いいなって思ってさ」
「……は?」
ガルドは呆れた。
「お前、今さら何言ってんだ?」
「はははっ!」
ダスは笑った。
そのあと、もう一度東の森を見た。
自分が手を出せば、あの巨大な生物をどうにかすることはできる。
けれどそれをする前に、ガルドたちが何を選び、どう戦うのか。
今はまだ、その答えを見ていたかった。
彼らが無力だと思っているからではない。
むしろ逆だった。
自分たちの街を守ろうとする人々には自分たちの力と判断がある。
それを最初から奪いたくはなかった。
ただし、そのために誰かが犠牲になっても仕方がないとは思わない。
ダスは冒険者証を指で軽く叩いた。
「……ま、そうだな」
小さく呟く。
そして少しだけ笑った。
「できるところまではFランクだ」
その目が巨大な殻へ向けられる。
「……でも俺たちのせいで街が危なくなるなら話は別だな」
声は小さかった。
ガルドには届いていない。
ただダス自身の中ではすでに線が引かれていた。
新人冒険者として楽しむ時間。
そして本来の自分が責任を取るべき時間。
その境目が今夜は思っていたより近くにあった。
*
東門の防衛塔で、衛兵が時刻を確認した。
作戦開始から、三十分。
避難は完了している。
三者は街の外へ移動し、護衛も配置についた。
採餌体の群れも一度は撤退した。
予定していた作業だけを見れば、作戦は成功していた。
だが誰も勝利を喜んでいなかった。
東方森林の外縁には巨大な殻がそびえている。
地中から伸びる半透明の器官が周囲の土へ次々と突き刺さっていた。
そして殻の奥で何かが動く。
重い音が響いた。
先ほどまでの地鳴りとは違う。
内側から硬い殻を押し広げるような音だった。
ヴェルトが顔を上げる。
ナディアが退路を確かめる。
アルシェが記録を握り締める。
ガルドが拳を構え、《城壁》が塔盾を地面へ突き立てた。
《青灯》の杖先に、淡い光が灯る。
そして。
三者のいる場所へ向かって巨大な吸魔器官がゆっくりと持ち上がった。
ダスはそれを見て少しだけ笑った。
「……さて」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「こっからどうなるかねぇ」
三十分。
人々が作り出した猶予はそこで終わった。
エルノアを守るための本当の戦いが始まろうとしていた。




