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ある物語  作者: ある人
第一章 『冒険者編』
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11/19

第11話『何もない宿屋街』

最初に異変へ気付いたのは宿の主人だった。

夜も更け、食堂の片付けを終えた頃である。

明日の朝食に使う食材を確かめようと厨房へ入った主人は足元から聞こえた小さな音に手を止めた。


こつ、こつ。


乾いた木を誰かが爪の先で叩いているような音だった。


「……鼠か?」


食材庫の扉を開けてみたが何もいない。

もう一度、音が鳴る。


今度は厨房の隅だった。

主人が灯りを近付けると床板と壁の隙間から何かが覗いていた。


細い糸のようなものだった。

ただし、糸にしては妙に太く、半透明の表面には薄い筋が走っている。

水に濡れた腸にも似ていたがそれよりずっと滑らかで、何より、ゆっくりと動いていた。


「……何だ、こりゃ」


しゃがみ込んだ主人の目の前でその先端が持ち上がった。

細い管が左右へ揺れる。

そして近くに置かれた魔力灯へ向きを変えた。


灯りがふっと暗くなった。


「……は?」


主人は顔を上げた。

魔力灯の中に残っていた光がみるみる弱まっていく。

それと同時に半透明の管の内部へ、淡い光が流れ込んでいた。


主人はその光景を数秒ほど眺めた。


それから。


「おい、誰か!起きろ!!」


厨房を飛び出した。

普段なら客を起こさないよう気を遣う時間帯だったが、そんなことを考えている場合ではなかった。


東方森林の異変。

魔力を吸う、正体不明の生き物。


ここ数日、街で何度も耳にしていた話が嫌な形で頭の中へ蘇っていた。

主人は階段脇の警鐘へ駆け寄ると力任せに紐を引いた。

けたたましい金属音が静かな宿屋街へ響き渡った。


*


「……ん?」


二階の部屋でダスが顔を上げた。

寝台の端に腰掛け、明日の依頼について考えていたところだった。

机の上には昼間に購入したエルノアの市街地図が広がっている。


その横には今日の配送依頼で受け取った報酬を入れた小さな袋。

ダスは地図の西側へ指を置いていた。


「棚卸しって、この辺だよな?」

「うん。西倉庫だから、朝のうちに出れば余裕だと思うよ」


リュネは荷物をまとめながら答えた。


「よし。じゃあ明日は少し早起きして――」


そこで警鐘が鳴った。

ダスの言葉が止まる。

足元にいたヴァルもすでに頭を持ち上げていた。


「……来たな」


小さな白い飛竜の口から落ち着いた男の声が漏れる。

廊下には誰もいない。


ダスは苦笑した。


「ああ。思ったより早かったな」


リュネは床へ視線を向けていた。


「一階まで伸びてるね。……あ、宿の人が気付いたみたい」

「だな。警鐘も鳴ったし」


ダスは地図を畳み、鞄へしまった。

その動きが普段より少しだけ速い。


リュネが彼を見る。


「どうする?」

「そりゃ、避難だろ」


ダスは当たり前のように答えた。


「今の俺たちはFランクだからな。こんな事件が起きたら、まず安全な場所へ逃げる!」

「ふふっ。模範的だね」

「だろ?」


胸を張った直後、ダスは足元のヴァルへ目を向けた。


「お前もちゃんと大人しくしてろよ。喋るなよ?」

「分かっている」

「あと勝手に焼くなよ?」

「……まだ何もしていないが」

「念のためだ!」


ヴァルは短く息を吐いた。

そのとき廊下を走る足音が近付いてきた。


「お客さん!起きてますか!?」


宿の主人の声だった。


「おう!起きてるぞ!」

「すぐ外へ!床から変なものが出てきて魔力灯が消えちまったんです!」

「分かった!今行く!」


ダスは扉を開けた。

顔を青くした主人が立っている。


手にはまだ警鐘の紐を握っていた。


「下の階で何か動いてるんです!東の森のあれじゃないかって……!」

「落ち着け、親父さん。ほかの客は?」

「今、起こして回ってます!」

「じゃあ俺たちも手伝う。誰か残ってる部屋は?」


主人が一瞬目を丸くした。


「えっ、いや、でも……」

「こっちは冒険者だからな!」


ダスは胸元の証を軽く叩いた。

そこには、真新しい《F》の文字がある。


「……Fランクですけど」

「だからこそ避難の手伝いだ!」


妙に自信満々な言い方だった。

主人は戸惑ったがすぐに廊下の奥を指さした。


「突き当たりの二部屋が、まだ……!」

「よし!」


ダスが駆け出す。

リュネは主人の肩へ軽く手を置いた。


「階段の方をお願い。慌てると危ないから」

「あ、ああ!」

「荷物は最低限でいいって伝えてね」

「分かりました!」


ヴァルはリュネの後を追いかけた。

床下では無数の吸魔器官がゆっくりと枝分かれしていた。

しかしそれらはすべて同じ方向へ伸びているわけではない。


宿の一階に広がったものの一部は、二階へ向かう階段の下を這っていた。

また別のものは、壁の内部を上へ進んでいる。

そして最も多くの器官が向かっていたのは、先ほどまでダスたちがいた部屋だった。


*


エルノア支部へ最初の通報が届いたのは、宿の警鐘が鳴って間もなくのことだった。

夜間受付の職員が息を切らして会議室へ飛び込む。


「南西宿屋街で異常発生!床下から半透明の管状物が出現、魔力灯の魔力を吸収したとの報告です!」


椅子から立ち上がったのはヴェルトだった。


「場所は?」

「南西第三通りの宿です!」


職員が地図上の位置を示した。

アルシェが机の上へ身を乗り出す。


「……そこ!」


昼間から何度も線を引き直していた地図。

採餌体の向きが収束していた一角。

その中心に近い場所へ職員の指が置かれていた。


「やっぱり、ここだったんだ……!」


アルシェの声には未知の現象を発見した興奮が混じっていた。

しかしナディアの反応は違った。


「宿の中に人は?」

「宿泊客が十数名。従業員もいます。主人が避難を始めていますが、周辺の住民はまだ状況を把握していません」

「なら、まず周囲を空けよう」


ナディアはすぐに地図へ目を落とした。


「逃げ道を一本にしないで。南と西、二方向に出口を作って、路地の奥へ人が溜まらないようにする。足の遅い人を先に通してほしい」


ガルドが頷いた。


「俺が現場へ行く。衛兵にも連絡を回せ」

「私も行く!」


ヴェルトが即座に答える。

ガルドは一瞬彼女を見た。


「お前さんはこの辺りの指揮を取らなくていいのか?」

「指揮はナディアに任せられるよ。私は現物を見たい。それに何か出てきたら止められる人が必要でしょ?」

「……そうだな」


その判断にはさすがのガルドも異論がなかった。

アルシェは記録を掴み、ナディアへ振り返る。


「ねえ。ちょっと試したいことがあるんだけど」

「何?」

「器官が追いかけてるのって、建物じゃないと思うんだよね」


ナディアが視線を上げる。


「……人?」

「まだ分かんない。物かもしれないし、魔力道具かもしれない。でも、場所じゃなくて何か特定のものを追ってるなら、移動させれば反応が変わるかも」


アルシェは地図の上へ指を置いた。


「避難してもらう人たちを何組かに分けて、器官がどっちへ向くか調べたい」

「……危険な実験だぞ」


ガルドの声が低くなった。


「分かってる。だから器官を人へ近付けるつもりはないよ。離れた場所で進路だけ見る。もし追跡されてる人がいたら、早く見つけた方が守りやすいでしょ?」


ナディアは数秒考えた。


「まず全員を安全な場所へ出してからだね。人を分けるのは、護衛を付けられる範囲だけ。地下の動きが速くなったら中止」

「うん!」


アルシェが頷いた。

ヴェルトは地図を見つめていた。

そこが誰の宿なのか、彼女には見当がついていた。


しかしその事実だけで原因を決めつけるわけにはいかない。

もし本当にあの三者の誰かを追っているのだとしたら。

あの生き物は何を見つけたつもりなのだろう。


「……面白いね」


小さく呟く。

すぐに表情を引き締めた。


「でも、まずは街の人を逃がそう」


*


南西宿屋街はすでに騒然としていた。

石畳の通りには寝間着姿の人々が溢れ、宿の主人や商店主が大声で隣近所へ呼びかけている。

夜間巡回の衛兵も駆け付けていたが、何が起きているのか分からず、最初は警鐘の鳴った宿だけを封鎖しようとしていた。


その判断が変わったのは別の建物から悲鳴が上がったからだった。


「こっちにもあるぞ!」


道を挟んだ食料品店の床下。

さらにその隣の建物の排水溝。

半透明の器官があちこちから姿を現し始めていた。


どれも太さは指ほどしかない。

だが引き抜こうとした男が一本を掴んだ瞬間、手にまとっていた簡易な防護魔術が消えた。


「うわっ!?」


慌てて手を離すと管は何事もなかったように地面の隙間へ潜り込んだ。

それを目撃した衛兵の顔色が変わる。


「触るな! 全員、通りから離れろ!」


避難が本格的に始まった。

ダスたちは宿の客と一緒に通りへ出ていた。

リュネは足の悪い老人へ肩を貸し、ダスは荷物を抱えた男の背中を押している。


「おいおい、その箱も持ってくのか?」

「店の売上が入ってるんだよ!」

「そりゃ大事だな!」


ダスが笑うと男は必死の顔で頷いた。


「そうだろ!?」

「でも命の方が大事だぞ。ほら、貸せ!」


箱を一つ預かり、ダスは人の流れへ合流した。

その足元をヴァルが歩いている。

小さな白い飛竜はあくまで大人しい従魔のふりを続けていた。


ただ、時折地面へ向ける視線だけが鋭い。

石畳の奥から器官が追ってきている。

それも避難する人の流れに合わせるように。


ダスも気付いていた。

しかし何も言わない。


いま大声で地下の進路を言い当てたところで、それを普通のFランク冒険者がどうやって知ったのか、説明する方が面倒だった。

その代わり彼は前を歩く衛兵へ声をかけた。


「なあ!ここ、もっと右へ寄った方がよくないか?」

「何だ?」

「ほら、あそこ。細い路地へ人が集まってる。詰まりそうだぞ」


衛兵が顔を向ける。

確かに道幅の狭い場所で人の流れが滞り始めていた。


「……そうだな!おい、そっちへ行くな!大通りを使え!」


声が飛ぶ。

避難民の列がゆっくりと向きを変えた。


「ちゃんと冒険者してるね」

「だろ?」

「棚卸しより忙しくなっちゃったけど」

「……あっ」


ダスが顔をしかめた。


「そうだった!」

「明日の依頼、まだ受けてないから大丈夫だよ」

「いや、そうなんだけどさ……」


ダスは少し残念そうに眉を下げた。


「せっかく帳簿の見方、覚えようと思ってたのになぁ」


リュネはとうとう吹き出した。

街を揺るがす異変の真っ最中にそんなことを気にする人間はそう多くない。


もっともダスがふざけているだけでないことも、彼女はよく知っていた。

荷物を抱える腕には余裕がある。

前を歩く老人の足取りも、周囲の人の動きも見ている。


そして地下の器官が誰かへ触れそうになれば、すぐに動ける位置を選んで歩いていた。


楽しんでいることと、何も考えていないことは違う。

リュネも同じだった。

彼女は老人へ歩幅を合わせながら、近くで泣いている小さな子供へ柔らかく声をかけた。


「大丈夫。お母さん、すぐそこにいるよ」


子供が顔を上げる。


「……ほんと?」

「うん。ほら、見える?」


少し先で振り返った女性が子供の名前を呼んでいた。

子供はぱっと顔を明るくし走り出そうとした。


「ゆっくりね」


リュネが声をかける。

女性は駆け寄ってきた子供を抱き締め、何度も頭を下げた。

その横をヴァルが静かに通り過ぎていった。


*


避難区域の外側に臨時の集合場所が設けられた。

最初に集められた住民と宿泊客は二百人を超えていた。

宿に滞在していた旅商人、夜遅くまで働いていた店員、近隣の家に住む家族連れ。


突然の警鐘で起こされた人々は事情を理解しきれないまま不安そうに周囲を見回している。

そこへ、ヴェルトとガルドが到着した。


「みんな、聞いて!」


ヴェルトの声が響いた。

彼女の姿を認めた何人かが驚いたように顔を上げる。


「《未踏の獅子》だ……!」

「本当に来てるのか……」


ヴェルトは人々へ向けて、できるだけ落ち着いた声で話した。


「今、地面の下を何かが動いてる。東の森で調べてた生き物と関係してる可能性が高いけど、まだ全部は分かってないんだ。だから、しばらくこの区域には戻らないでほしい」


人々の間にざわめきが広がる。


「家はどうなるんだ!?」

「荷物を置いたままだぞ!」

「魔物が街に入ったってことか!?」


次々と質問が飛ぶ。

ヴェルトは一つずつ耳を傾けた。


「家のことは危なくなくなってから確認しよう。荷物も今は取りに戻らないで。怪我してる人はいる?」


何人かが手を上げる。

ガルドが衛兵へ指示を飛ばし怪我人を別の場所へ案内させた。

その間にナディアとアルシェが現場へ合流する。


アルシェは地下器官の位置を示した報告を受け取るなり目を細めた。


「……やっぱり動いてる」

「人が移動した後も?」


ナディアが尋ねる。


「うん。宿そのものへ集まってたはずなのに今はここへ向きを変え始めてる」


アルシェは集合場所を示した。

そこにいたのは避難してきた二百人以上の人々だった。


当然ダスたちもいる。

ナディアはしばらく地図を眺めた。


「……全員をここへ集めておくのは危険だね」

「うん。だから、やってみたい」


アルシェは顔を上げた。


「何を追ってるのか、確かめよう」


*


避難民の移動が始まった。

最初は単なる安全確保のためだと説明された。

大勢を一か所に集めると地下から何かが現れたときに逃げ道が塞がる。


そこで人数を分け、離れた複数の広場や施設へ避難させることになったのだ。


その説明は嘘ではなかった。

ただギルド側にはもう一つ目的がある。

地下の器官がどの集団を追うか確かめることだった。


街の監視に当たっている冒険者たちは器官が地表近くへ現れた場所と、そこから向きを変えた方向を随時報告していた。

危険な場所へ人を近付けることはしない。

動かすのはすでに避難区域から出た人々だけ。


護衛が足りない区画には移動させず、器官の反応が急激に強まればすぐに作戦を中断する。

ナディアはその条件を何度も確認した。


「人数を絞ることが目的じゃないよ。追われている人がいるなら、その人をほかの避難民から離して守るために調べる。そこを間違えないで」

「分かってる!」


アルシェが答えた。

そして最初の報告が届く。

四つに分かれた避難集団のうち、地下器官が明確に進路を変えたのは一つだけだった。


人数は三十二人。


「……三十二人か」


ガルドが腕を組む。


「ずいぶん絞れたな」

「まだ偶然の可能性もあるよ」


アルシェは記録を見直しながら答えた。


「でも、こっちの集団が南へ移動したとき器官も少し遅れて南へ向きを変えてる」


地図上でその線が重なっていた。

ヴェルトが顔を覗き込ませる。


「じゃあ、その三十二人の中に何かある?」

「そうかもしれない。でも、一人とは限らないし、荷物を追ってる可能性もある」

「なるほど!」


ヴェルトは素直に頷いた。

ナディアが次の指示を出す。


「その三十二人は護衛を増やして、さらに二組へ分けよう。片方は動かさず、もう片方だけ移動してもらう」


再び、人々が移動した。

ダスたちは追跡されているらしい集団の中にいた。


「……なあ、リュネ」

「うん?」

「俺たち、何か変なことになってないか?」

「なってるね」

「だよなぁ」


ダスは周囲を見回した。

自分たちの近くにいた避難民の数が先ほどより明らかに少なくなっている。

しかもギルドの高位冒険者たちが頻繁にこちらを見ている。


リュネは少しだけ楽しそうに笑った。


「目立ってるよ」

「いや俺たち何もしてないぞ?」

「何もしてないからこそ、困ってるんじゃない?」

「……それもそうか」


ダスは納得したように頷いた。

ヴァルは足元で黙っている。

もっともその瞳は呆れたように細くなっていた。


何もしていないのは事実だ。


だが何もしていなくても追われる原因にはなり得る。


それを一番よく理解しているのは三者自身だった。


*


次の報告で対象集団は十二人になった。

さらに移動と観測を重ねる。

時間を置き、地下の器官が実際に向きを修正したことを確かめてから、次の判断を下す。


アルシェは途中から笑わなくなっていた。

調べれば調べるほど、ある可能性が強まっていく。

避難した人々の中に、異常な魔力を持つ人物がいるのかもしれない。


しかし簡易の魔力測定ではそれらしい反応が見当たらない。

大きな魔力道具を持っている者もいなかった。

念のため荷物を別の場所へ移してみたが、器官は荷物を追わなかった。


「……変だなぁ」


アルシェが呟く。

隣でヴェルトが首を傾げた。


「何が?」

「普通、魔力を吸う生き物なら、魔力が多い方へ行くと思うんだよね。でも、こいつら、そうじゃない」


記録の上へ指を滑らせる。


「魔力灯にも反応するし、魔力が濃い土にも伸びる。なのに、それよりずっと強く追ってるものがある」

「……見えてるものが違うのかな?」


ヴェルトの言葉にアルシェは顔を上げた。


「それ!」

「え?」

「そういう可能性もあるよね!」


目が輝く。


「人間の測定で見える魔力とこいつらが餌として感じるものが同じとは限らない!」

「……あ、そっか!」


二人が同時に身を乗り出した。

その様子を見ていたガルドが、頭を掻く。


「お前ら、楽しそうだな……」


アルシェははっとした。


「あ、ごめん」

「いや。調べるのが仕事なんだろうが……」


ガルドは広場の隅で不安そうに座る避難民へ目を向けた。


「追われてるのが誰か分かったら、まず守る方法を考えてくれよ」

「もちろん!」


アルシェは即答した。

ヴェルトも頷いた。


「うん。そこは絶対だよ」


*


十二人が四人になった。


広場の一角。


臨時の灯りが置かれた場所に残されたのは背の曲がった老婆とFランク冒険者の男女二人。


そして小さな白い飛竜だった。


「……え?」


ダスが周囲を見回す。


「俺たちだけ?」

「みたいだね」


老婆は不安そうに両手を握っていた。


「わ、私は何か悪いことをしたんでしょうか……」

「いやいや!」


ダスが慌てて首を振る。


「そんなことないぞ、婆さん!」

「でも、皆さんは別の場所へ行ってしまって……」

「大丈夫。たぶん何か調べてるだけだって!」


そこへナディアが歩み寄ってきた。


「お待たせしてごめんね」


老婆の前にしゃがみ、視線を合わせる。


「怖い思いをさせてしまったね。でも、誰かが悪いわけじゃないよ。今は少しだけ、別の場所へ移動してもらいたいんだ」

「……私だけですか?」

「うん。護衛の人が一緒に行くから、安心して」


老婆はダスたちを見た。

ダスは大きく頷く。


「気を付けてな、婆さん!」

「あ、ありがとうねえ……」


護衛に付き添われ老婆が歩き出した。

ナディアは立ち上がると少し離れたところで待つアルシェへ目を向けた。

アルシェは地図と報告書を交互に見つめていた。


老婆が移動する。

地下の器官はしばらくそれまでの方向を保ったままだった。


だが次に進路を変えたとき。

老婆の移動した方角ではなく広場に残された三者へ向かっていた。


「……違う」


アルシェが呟いた。


「お婆さんじゃない」


ガルドが眉を寄せた。


「ということは……」


三者を見る。


ダス。

リュネ。

ヴァル。


全員が何事もなかったような顔をしていた。

ダスに至っては胸元のFランク証を気にしている。


「……おい、ダス」

「おう! ガルド!」

「お前ら、何か心当たりはないか?」

「心当たり?」


ダスは首を傾げた。


「うーん……」


考える。

その横でリュネが彼を見ていた。

ヴァルはあえて何も言わない。


「……ないな!」


ダスは明るく答えた。

ガルドの眉間に皺が寄った。


「お前なぁ……」

「いや本当に分かんないんだって!」


正確には心当たりがないわけではない。

ただし、何が原因で追われているのかはダスにもまだ分からなかった。

本来の力を抑え、人間の姿で過ごしている。


リュネも同じ。

ヴァルも龍としての魔力や気配を隠している。

それでも地下の生き物は何かを感じ取っているらしい。


その理由まではまだ確かめようがない。

ガルドは頭を掻いた。


「……まあいい。お前らが悪いと決まったわけじゃねえしな」

「おう」

「ただ状況が状況だ。しばらく勝手に動くなよ」

「分かった!」


ダスは素直に頷いた。

ガルドは少しだけ意外そうな顔をした。


「……今日は聞き分けがいいな」

「いつもいいだろ?」

「そうだったか?」

「ひどい!」


リュネが笑った。

その様子を見ていたナディアはほんの少しだけ息を吐いた。

こんな状況でも三者は相変わらずだった。


けれどその場で理由もなく特別扱いをするわけにはいかない。

今の彼らは危険な現象に追われているかもしれない避難民なのだ。

ナディアはそう判断し、ほかの住民と同じように説明を続けた。


「これから、もう一つだけ確認したいことがあるんだ。危険が増えるようならすぐ中止するからね」


*


「……三方向?」


ガルドが聞き返した。

アルシェは頷いた。


「うん。今のままだとダスとリュネとヴァル、どれを追ってるのか分からないでしょ?」


彼女は地図へ三本の線を引いた。


「だから短い距離だけ別々に動いてもらう。もちろん、全部護衛付き。地下の器官がまだ来てない場所を使うよ」

「従魔を一人で動かすのか?」

「いや、人が付き添う。それと――」


アルシェはヴァルへ目を向けた。


「この子、すごく賢いよね?」


ヴァルはじっと彼女を見返した。

ダスは頷く。


「おう。結構頭いいぞ」

「じゃあ、少しだけ別の人と歩ける?」


ヴァルはしばらく動かなかった。

それからゆっくり立ち上がる。

アルシェが嬉しそうに笑った。


「……おお、分かってる!」


ナディアが横から声をかけた。


「アルシェ。遊ばない」

「遊んでないって!」


ガルドは三者へ向き直った。


「お前ら、どうする?危険な確認だ。無理に協力しろとは言わねえ」


ダスは少しだけ目を細めた。

高位冒険者たちはただ珍しいものを追いかけているわけではない。

数百人を避難させ、何度も観測し、危険が増えない範囲を選んでいる。


しかも原因かもしれない自分たちへ、最後の判断を任せてくれた。

ダスはそのことが少し嬉しかった。


「……いいぞ」

「俺たちも何が起きてるのか知りたいしな」


リュネも頷いた。


「うん。協力するよ」


ヴァルは一度だけダスを見上げた。

ダスが笑う。


「大丈夫だって。ちょっと別々に歩くだけだろ?」


ヴァルは顔を背けた。

別に心配しているわけではない。

そう言いたげな態度だった。


*


三者は別々の方向へ歩き始めた。

ダスはガルドとともに広場から西へ伸びる大通りへ。

リュネはナディアに付き添われ南側の石畳の道へ。


ヴァルはアルシェと衛兵の一人に連れられ、北側の広い通りへ。

距離を取りすぎないよう、それぞれ決められた場所で足を止める。

周辺の建物にはすでに避難指示が出され、人の姿はほとんどない。


離れた場所ではヴェルトが地下からの接近に備えていた。

もし器官が急に地上へ現れても、避難民へ届く前に止めるためだった。

アルシェは三地点から届く報告を待っていた。


最初の連絡は西側からだった。


「西の地中で器官が移動!対象は大通り側へ進んでいます!」


アルシェが顔を上げる。


「……ダスの方?」


次に南側。


「こちらも反応あり!地下の管状物が南へ分岐しています!」

「……リュネも?」


さらに北側。


「北の排水路で反応!新しい器官が伸びています!」


アルシェは口を開いたまま固まった。

地図へ目を落とす。


三つの地点。

三つの方向。

地下の器官はそのすべてへ向かっていた。


「……え?」


もう一度、報告を読み直した。

勘違いではない。

同じ一本の器官が途中で迷っているわけでもない。


複数の器官が明確に分かれて動いている。

しかも、三地点ともそこにいるのは一人――あるいは一体の対象と、その護衛だけだった。


アルシェはゆっくり顔を上げた。


「……三つとも?」


近くにいたヴェルトが頷く。


「うん。こっちでも確認できたよ」


ナディアからも連絡が入った。

リュネのいる南側へ、器官が向かっているという。


ガルドの方からも同じ報告が届いた。

アルシェの目が大きく見開かれる。


「……そっか」


最初は宿屋街の何かを追っていると思っていた。

次に避難民の誰か。

そして最後まで残った三者のうち、一人。

そう考えていた。

だが違った。


「……一人じゃなかったんだ」


ヴェルトが隣で静かに頷く。


「うん」


アルシェは地図へ視線を落とした。

三つの道の先。


Fランク冒険者の青年。

同じくFランクの女性。

そして小型飛竜系の従魔。


地下の生き物はそのすべてを追っている。


「……三者全員」


アルシェが呟いた。


「全部、餌だと思ってるんだ……」


*


同じ頃。

エルノア東方森林の監視地点では異常が起きていた。

地中から殻を持つ生物が次々と現れている。

四本の脚。

硬い外殻。

腹部から伸びる半透明の吸魔器官。


それらはこれまで確認されていた《吸脈殻虫》の採餌体と同じ特徴を持っていた。

ただし、その数が違う。


「……三十……四十……」


監視員が数を数えていた。

森の斜面。


倒木の陰。

昨日まで何もなかった場所から次々と殻が姿を現す。


「五十……待て、向こうにもいるぞ!」


別の監視員が叫んだ。

暗闇の向こうで硬い殻が幾つも擦れ合う。


採餌体同士は争わない。

押し合うこともない。

それぞれが一定の距離を保ち、何かの合図を待つように動きを止めている。


そして。

一斉に身体の向きを変えた。

西へ。

南西へ。

さらに別の西寄りの方向へ。

エルノアの街へ向かって三つの大きな群れが分かれ始めていた。


「……おい」


監視員の一人が声を震わせる。


「これ、街を狙ってるんじゃ……」


隣の男が数えかけていた記録板を握り締めた。


「増援を呼べ!」


彼は叫んだ。


「確認数、百体を超えた!まだ増えてる!!」


*


西側の大通り。


ダスはガルドの少し後ろで立ち止まっていた。

街の夜気は冷たく、遠くから警鐘と衛兵の声が聞こえてくる。

ガルドは通信を受け険しい表情を浮かべた。


「……百体以上?」


ダスが顔を上げる。


「何だって?」

「東の森で、あの殻の化け物が大量に出てきたらしい」

「……へえ」


ダスは少しだけ驚いた顔をした。


「十七体じゃなかったのか?」

「増えたんだよ。しかも、こっちへ向かってやがる」


ガルドは舌打ちした。

それからダスの肩を軽く叩く。


「お前は勝手に動くな。何か出てきたら、まず俺の後ろへ下がれ」

「おう!」


ダスは頷いた。

ガルドが前へ向き直る。

その背中をダスは少しだけ眺めていた。


Aランク冒険者。

自分よりずっと経験を積んだ、街の人々から頼りにされる男。

本来の力を比べればもちろん話にもならない。


だがそんな比較は今のダスには何の意味もなかった。

ガルドは自分が危険を引き受けるつもりで前へ立っている。


それは疑いようのない事実だった。


「……なあ、ガルド」

「あ?」

「頼りにしてるぞ」


ガルドは一瞬振り返った。

そして鼻で笑う。


「当たり前だろ。お前はFランクなんだからな」

「ははっ!」


ダスは笑った。

胸元の冒険者証へ、指先が触れる。


真新しい《F》。


この街で手に入れた今の自分の立場だった。


できることなら、もう少しだけこの立場で過ごしていたい。

誰かに守られる新人として。


誰かから仕事を教わる冒険者として。

まだ知らないものを一つずつ知っていく旅人として。


だがその願いだけで街の人々を危険へ晒すつもりもなかった。

ダスはゆっくりと東の空へ目を向けた。


城壁の向こう。

百を超える採餌体が三つの群れに分かれ始めている。

その進路がどこへ向かっているのか、今の彼にはよく分かっていた。


「……まったく」


小さく笑う。


「俺たちそんなに美味そうに見えるのかねぇ」


もちろん、その声がガルドへ届くことはなかった。


*


南側の通りではリュネがナディアとともに報告を聞いていた。


「……三者全員?」


ナディアが静かに確認する。

通信先から、肯定の返事が届いた。


「分かった。こちらもその前提で動くね」


連絡を終え、リュネへ向き直る。


「どうやら、あなたたち三人とも追われているみたいなんだ」

「……そうなんだ」


リュネは少し困ったように笑った。


「何か思い当たることは?」

「ううん。特には」


その答えを聞き、ナディアは頷いた。

追及することはしなかった。

今は理由を聞き出すより先にやるべきことがある。


「分かった。じゃあ、しばらく私と一緒にいてね。ほかの避難民からは離れて、なるべく広い道を使おう」

「うん。よろしくね」


リュネは素直に答えた。

その表情は柔らかい。

しかし彼女の視線もまた、地面の奥へ向けられていた。


器官は近付いている。

そしてその向こうではさらに多くの採餌体が目を覚ましていた。


*


北側の通り。


アルシェはヴァルの横にしゃがみ込んでいた。


「……ねえ、ヴァル」


小さな白い飛竜が顔を向ける。


「君も追われてるんだって」


ヴァルは黙っていた。

アルシェはその反応をしばらく眺めていた。


「……すごいねえ」


何がすごいのか。

声にはしなかった。

代わりに少しだけ笑う。


「でもさ、今は大人しくしててね。ちゃんと守るから」


ヴァルはゆっくり瞬きをした。

その言葉に嘘はない。

アルシェは本当に自分を守るつもりでいる。


その気持ちだけは十分に伝わった。

ヴァルは静かに顔を上げた。

そしてほんの少しだけ、アルシェの方へ身体を寄せた。


「……えっ」


アルシェが固まる。


「ちょっと待って。もしかして、懐かれた?」


ヴァルは何も言わない。

ただ、尾を一度だけ動かした。


「……っ!」


アルシェは口元を押さえた。


「やばい。かわいい」


その直後。


通信を受けた衛兵が顔を青くして駆け寄ってきた。


「アルシェ様! 東方監視隊から緊急報告です!」

「……うん?」


彼女が顔を上げる。


「採餌体、百体以上! 三つの群れに分かれて街へ接近中!」


アルシェの表情が変わった。

ゆっくり立ち上がる。


「……三つ?」

「はい!」


彼女は東の方角を見た。

次いで、ダスのいる西側。


リュネのいる南側。

最後に足元のヴァル。

すべてが繋がった。


「……なるほど」


好奇心からではない、真剣な声が漏れる。


「向こうもちゃんと三つに分けたんだ」


地下の器官だけではない。

採餌体そのものが、三者を別々に追い始めていた。

街を襲うためではない。

そこにいる三者を喰うために。

アルシェはすぐに通信具を取った。


「ナディア!ヴェルト!聞こえる!?」


応答が返る。


「採餌体が三群に分かれた!地下だけじゃなく、地上も三者を追ってる!」


少しの沈黙。

それからナディアの声が聞こえた。


『分かった。三者をそれぞれ守れる位置に置こう。街の中をこれ以上追わせたくない』


ヴェルトも答えた。


『うん。まず街へ入れないようにしよう。でも、もし追ってくるなら……』


そこで一度言葉を切る。


『街の外へ誘導するしかないかもしれないね』


アルシェは頷いた。


「……そうだね」


地図の上には三つの地点が記されている。


ダス。

リュネ。

ヴァル。


その三者へ向かって街の地下から無数の器官が伸びていた。

さらに東方では百体を超える採餌体が動き始めている。

何も特別な施設のない、普通の宿屋街。


大きな魔力貯蔵庫も、重要な魔術設備も存在しない場所。


だからこそ、最初は誰も理解できなかった。

なぜ、そこが狙われたのか。

だが今、その答えの一部だけは分かっていた。


あの生き物たちが探していたものは宿屋街の地下にも、建物の中にもなかった。

そこへ泊まっていた、三者だった。


そして。


追われている当人たちはまだ何もしていない。

ただのFランク冒険者と一体の小さな従魔として。

自分たちを守ろうとする人々のそばに静かに立っていた。


夜のエルノアへ、再び警鐘が響いた。

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