第10話『本部から来た二人』
レグナリア王国、交易都市エルノア。
東方森林の異変が暫定SS相当と判断されてから一夜が明けた。
東門の閉鎖は続いていたが、街の暮らしが完全に止まったわけではない。
市場には朝から買い物客が集まり、西や南から入ってきた荷馬車が倉庫街へ向かっている。
普段より衛兵の巡回が多く、通りのあちこちで東方の異変について話す声が聞こえるものの、店を開ける者は店を開け、働く者はいつものように仕事場へ向かっていた。
冒険者ギルドでも同じだった。
東方調査のために集まった高位冒険者たちが忙しく出入りする一方、低ランク向けの依頼掲示板には相変わらず荷物運びや清掃、商店の手伝いといった仕事が並んでいる。
その掲示板の前でダスは腕を組んでいた。
「……うーん」
右を見る。
左を見る。
もう一度右を見る。
隣でリュネが小さく笑った。
「そんなに悩む?」
「悩むだろ。ほら、これ」
ダスが指さしたのは街内の配送依頼だった。
数軒の商店を回り、指定された品物を届ける仕事らしい。
難しい作業ではないが、時間内に複数の届け先を回る必要がある。
「面白そうじゃないか?」
「うん。いいと思うよ」
「でも、こっちも捨てがたいんだよなぁ」
今度は隣の依頼書を指さす。
《西倉庫・棚卸し補助》。
昨日までの依頼とは違い、荷物を運ぶだけではなく、品目や数量を確認して帳簿と照合する仕事だった。
リュネは両方の依頼書を見比べた。
「今日は配送、明日は棚卸しでもいいんじゃない?」
「……あ」
ダスが顔を上げる。
「それだ!」
あまりにも嬉しそうな反応にリュネは声を出して笑った。
「ふふっ。そんなに難しく考えなくてもよかったね」
「いやぁ、盲点だった!」
「昨日も似たようなこと言ってたよ」
「そうだったか?」
ダスは首を傾げたが、すぐに笑った。
足元にいたヴァルはそんな二人を見上げながら静かに尾を揺らしている。
人間たちに見せている小型飛竜の姿では表情を読み取りにくいものの、付き合いの長いダスにはその反応だけで何となく言いたいことが分かった。
「何だよ。仕事選ぶのも楽しいだろ?」
ヴァルは返事の代わりに顔を背けた。
「……お前まで呆れるなよ」
リュネがまた笑う。
二人が配送依頼を選び、受付へ向かおうとしたところで、ギルドの入口が急に騒がしくなった。
何人かの冒険者が外へ顔を向け、受付にいた職員も手を止める。
「おい、また誰か来たぞ」
「本部の増援じゃないか?」
「昨日、追加要請が出たばかりだろ?」
そんな声が聞こえてきた。
ダスは依頼書を手にしたまま振り返る。
「……お?」
入口から入ってきたのは二人の女性だった。
一人は夜の色を思わせる落ち着いた装いの女性。
必要な装備だけを身につけ、余計な荷物を持たない旅慣れた姿だった。
周囲を確認する視線は自然で、歩きながら出入口や人の流れまで把握しているように見える。
もう一人は狐を思わせる特徴を持つ女性だった。
こちらは対照的に入ってきた瞬間から興味津々といった様子でギルドの中を眺めている。
受付の配置、依頼掲示板、集まっている冒険者たち。
その一つ一つを確かめるように視線が動き、今にも何かを尋ね始めそうだった。
「……へえ。ここがエルノア支部なんだ」
狐の女性が楽しそうに呟く。
「アルシェ。まず受付」
隣の女性が声をかけた。
「分かってるって、ナディア。でもさ、結構広いね。もっと小さい支部かと思ってた」
「話は後でもできるよ」
「はいはい」
アルシェと呼ばれた女性は少しだけ口を尖らせながらも素直に受付へ向かった。
その様子を見たダスは目を瞬かせた。
そしてにやりと笑う。
「……おいおい」
リュネも二人の姿を見つめていたが、やがて楽しそうに口元を緩めた。
「また来たね」
「ああ」
ダスは笑いを堪えながら頷いた。
「まさか、あいつらまで来るとはなぁ」
その声に気付いたのか、アルシェが何気なく顔を向けた。
視線が合う。
一瞬彼女の表情が止まった。
それから目を大きく見開く。
「――あっ!」
勢いよく口を開いたところで、隣から伸びた手が肩を掴んだ。
「アルシェ」
ナディアの声は穏やかだった。
ただし少しだけ低い。
「……あ」
アルシェは隣を見る。
ナディアは何も言わず、軽く首を振った。
その仕草で事情を理解したらしい。
アルシェは口を閉じ、もう一度ダスたちへ視線を向ける。
ダスは何食わぬ顔で片手を上げた。
それから胸元の冒険者証を指で叩く。
《F》。
アルシェの耳がぴくりと動いた。
「…………」
彼女はダスを見る。
冒険者証を見る。
リュネを見る。
最後に足元で大人しく座っているヴァルを見た。
「……っ!」
笑いを堪えきれなくなったらしい。
アルシェが慌てて顔を背けた。
ナディアは一度だけ深く息を吐き、その背中を軽く押す。
「受付に行こう」
「……う、うん」
肩を震わせたまま歩き出したアルシェを見送り、ダスは小さく吹き出した。
「……駄目だ、あいつ」
「頑張ってたよ」
「全然頑張れてなかったぞ」
「ふふっ」
ヴァルは二人の足元で静かに目を閉じた。
また面倒なことになりそうだ。
そんな雰囲気だけは十分に伝わってきた。
*
ナディアとアルシェがエルノアへ派遣されたのは昨夜の緊急要請を受けてのことだった。
ナディアは高位の迷宮探索や危険地帯からの帰還支援で知られる冒険者であり、《帰還路》の通称を持つ。
アルシェは《問い狐》。
未知の生物や特殊な環境を調べることを得意とし、現場で見つけた疑問を徹底的に追いかける研究者肌の冒険者だった。
二人とも一般社会ではヴェルトと同じ探索系クランに所属する高位冒険者として知られている。
そのため受付で名前を告げると、職員たちはすぐに事情を理解した。
「お待ちしておりました。ヴェルト様からも、お二人が到着されたら直接お通しするよう伺っています」
「ありがとう。今はどこに?」
ナディアの問いに職員は奥の会議室を示した。
「東方調査の打ち合わせ中です。ご案内します」
「お願い」
ナディアが頷くと、アルシェは周囲を見回しながら後をついていった。
その途中。
「……ねえ、ナディア」
小声で話しかける。
「何?」
「さっきの、見た?」
「見たよ」
「Fだよ?」
「うん」
「しかもヴァルが……」
「アルシェ」
「……はい」
再び口を閉じる。
もっとも好奇心までは収まらなかったらしい。
廊下を歩きながらアルシェは何度も振り返ろうとしていた。
ナディアはそのたびに軽く肩を叩いて前を向かせた。
「今は仕事」
「分かってるよ。でも、あとで絶対聞きたい」
「それは本人に聞いて」
「聞いていいの?」
「向こうがいいと言えばね」
「……なるほど」
アルシェはようやく納得したように頷いた。
しかしその口元にはまだ笑みが残っていた。
*
会議室の扉を開けると、ヴェルトが真っ先に顔を上げた。
「あっ、来た!」
椅子から立ち上がり、嬉しそうに手を振る。
「ナディア! アルシェ!」
「お待たせ」
ナディアが軽く手を上げる。
アルシェは笑顔で部屋へ入ってきた。
「やっほー、ヴェルト! 何かすごく面白いことになってるんだって?」
「うん! すごいよ!」
ヴェルトの表情が明るくなる。
「地下にね、見たことない生物がいっぱいいるの!」
「いっぱいいるって、どのくらい?」
「確認できただけで数百!」
「……数百?」
アルシェは目を輝かせた。
「何それ、最高じゃん!」
その反応にガルドが苦笑する。
「……似た者同士だな、お前ら」
ナディアはすでに卓上の地図へ視線を向けていた。
「まず状況を聞かせて。危険度がSS相当まで上がった理由も含めて」
その一言で会議室の空気が少し引き締まる。
ヴェルトは頷き、これまでの調査経過を説明し始めた。
最初に確認されたのは東方森林の魔力減少だった。
木々や土壌から魔力が失われ、異なる種類の魔物が同じ西方向へ移動するようになった。
調査を進める中で、半透明の膜状物が見つかり、それが魔力を吸収する生物の器官であることが判明した。
さらに奥の谷で小型の殻を持つ個体を発見。
その後、同型個体が十七体確認され、地下では最低でも数百体が存在する大規模な空洞が見つかっている。
「……なるほど」
ナディアは地図を見ながら頷いた。
「地下へ潜るなら、まず地盤の安定性を確認したいね。昨日崩落した場所から直接入るのは避けた方がいい」
「うん。私もそう思う」
ヴェルトが答える。
「崩れたところ、まだ周囲の土が動いてたから」
「それに、吸魔器官が地盤の中へ広がっているなら、個体が移動するだけで地形が変わる可能性もある」
ナディアは地図上の亀裂へ指を置いた。
「帰り道を一つに絞るのは危険だね。最低でも複数の退路が必要になる」
「了解!」
ヴェルトは素直に頷いた。
その隣でアルシェはすでに別の資料へ手を伸ばしていた。
「……ねえねえ、これ」
採餌体の観察記録を広げる。
「この十七体って、最初から街へ向かってたの?」
「今のところ、そう見えるね」
ヴェルトが答えた。
「でも、何が目的なのかは分からない」
「ふうん……」
アルシェは記録を眺めた。
そこには採餌体が観測された地点と、そのとき身体を向けていた方向が細かく記されていた。
「……これ、変じゃない?」
彼女が呟く。
ガルドが顔を上げた。
「何がだ?」
「だってさ、全部西へ向かってるって言うけど、実際には少しずつ角度が違うんだよ」
アルシェは紙を回し、隣の地図へ重ねた。
「ほら。森の北側にいた個体は南西寄り。谷の南にいた個体は北西寄り。真ん中の個体はほぼ西向き」
ヴェルトが身を乗り出す。
「……あ、本当だ」
「ね?」
アルシェは楽しそうに笑った。
「これ、単に西へ移動してるだけじゃないんじゃない?」
ナディアも地図を覗き込んだ。
「方向が一点へ集まっている?」
「そうそう!」
アルシェは頷いた。
「まだ正確には分からないけど、ちょっと計算してみたいな」
彼女は机の端に置かれていた筆記具を借り、記録に残された方角を一本ずつ地図へ延長し始めた。
最初の数本はエルノアの東側で交差した。
しかし別の地点から線を引くと、交差位置は少しずつ西へ移動する。
「……あれ?」
アルシェが首を傾げた。
もう一度観測地点を確認する。
「これ、観測した時間が違うね」
「うん。十七体を全部同時に測ったわけじゃないから」
ヴェルトが答えた。
「最初の報告から、少しずつ数が増えていったんだ」
「なるほど……」
アルシェは頷き、記録を時間順に並べ直した。
そのうえで同じ時間帯に測定された個体の方向だけを抜き出していく。
「……よし」
しばらくして地図上に複数の線が引かれた。
それらは完全に一点へ重なったわけではない。
観測誤差もある。
しかし全体として明確な傾向が現れていた。
「……やっぱり」
アルシェの目が輝く。
「これ、エルノア全体を狙ってるんじゃないよ」
ガルドが眉を上げた。
「どういうことだ?」
「もっと狭い範囲へ向かってる」
彼女は地図の一角を指さした。
「ここ。街の南西側」
ヴェルトが覗き込む。
「……南西?」
「うん。たぶん、何か特定のものを探してる」
その言葉に会議室が静まり返った。
*
昼過ぎ。
ダスたちはようやく配送依頼を終えていた。
最初の二件までは順調だったが、三件目で少し時間を取られた。
届け先の商店が移転していたのである。
依頼書には古い住所が記されており、指定された場所へ行ってみると、そこはすでに別の店になっていた。
「……いやぁ、参ったな!」
ダスは笑いながら最後の荷物を依頼主へ渡した。
「まさか店が引っ越してるとは思わなかったぞ」
商店主は申し訳なさそうに頭を下げた。
「本当にすみません。依頼を出したとき、ギルドへの住所変更がまだ済んでいなかったみたいで……」
「いやいや、見つかったから問題ないさ!」
「ありがとうございます。助かりました」
受領の証明を受け取り、二人は店を後にした。
リュネが隣で笑う。
「最初、ずっと違う店の前にいたね」
「ああ。あそこの店主、困ってたな」
「そりゃそうだよ。頼んでない荷物を持ってきたんだから」
「はははっ!」
ダスは楽しそうに笑った。
「でも、道を教えてもらえて助かった」
「うん。次からは依頼書の住所も、少し確認した方がいいかもね」
「そうだなぁ」
街を歩きながらダスは改めて周囲を見渡した。
交易都市エルノアには様々な店がある。
大きな商会から個人の小さな露店まで、扱う品物も仕事も違う。
今日のように荷物を届けるだけでも、普段なら入らないような路地や商店へ足を運ぶことになる。
「……いやぁ、やっぱり面白いな」
ダスが呟く。
「何が?」
「こういう仕事。街のこと、ちょっとずつ分かってくるだろ?」
リュネは微笑んだ。
「そうだね」
「今度は別の区画も回ってみたいなぁ」
「ふふっ。街の地図でも買う?」
「……それだ!」
ダスは勢いよく振り返った。
「地図!」
「うん?」
「そういえば、ちゃんとした街の地図って持ってなかったな!」
「そうだね」
「よし、帰りに買おう!」
リュネが笑う。
「また出費が増えちゃうね」
「冒険には必要な投資だ!」
「ふふっ。そうだね」
そんな会話を交わしながら二人はギルドへ向かって歩いていた。
その途中だった。
「……あっ」
ダスが足を止めた。
少し先の通りをナディアとアルシェが歩いていたのである。
二人はどうやら調査に必要な物資を確認しているらしく、地図と書類を見比べながら商店を回っていた。
アルシェが先に気付いた。
「……あ!」
またしても目を輝かせる。
今度はナディアもすぐに気付いたらしい。
二人の視線が一瞬だけ交わる。
ナディアは小さく頷き、何事もなかったようにダスたちへ近づいてきた。
「こんにちは。冒険者の人たち?」
ダスは笑顔で答えた。
「おう。Fランクのダスだ!」
「私はリュネ。よろしくね」
「ナディアだよ。こっちはアルシェ」
「よろしく!」
アルシェが元気よく答える。
その目は明らかに楽しそうだった。
「……へえ、Fランクなんだ?」
「おう!」
「二人とも?」
「そうだぞ」
「……ふふっ」
アルシェが笑った。
ナディアが横から声をかける。
「アルシェ」
「分かってるって!」
そう答えながらもアルシェはダスの冒険者証をじっと見つめていた。
「……いやぁ、いいねぇ」
「何が?」
ダスが首を傾げる。
「Fランク!」
「おう!」
ダスは嬉しそうに頷いた。
「一昨日上がったんだ!」
「……っ!」
アルシェが顔を背けた。
肩が震えている。
ナディアは小さくため息をついた。
「……ごめんね。ちょっと変わった人で」
「いや、面白い人だな!」
ダスは笑った。
「俺も結構好きだぞ、こういうの」
「……そう」
ナディアはほんの少しだけ目を細めた。
その横でアルシェが今度はヴァルへ視線を向ける。
小さな白い飛竜。
犬ほどの大きさで、ダスの足元に大人しく座っている。
「……ねえ」
アルシェがしゃがみ込んだ。
「この子、従魔?」
「おう。ヴァルっていうんだ」
「へえ……」
アルシェはじっとヴァルを見る。
ヴァルも黙って彼女を見返した。
「……触っていい?」
その問いにダスは足元のヴァルを見た。
「本人次第だな」
アルシェは手を伸ばさず、少しだけ首を傾げる。
「ヴァル、触ってもいい?」
ヴァルはしばらく彼女を見ていた。
そしてゆっくり顔を背ける。
「……あ」
アルシェが笑った。
「断られちゃった」
「こいつ、結構気難しいからな」
ダスが答える。
「そうなんだ?」
「おう」
「……ふふっ」
アルシェの笑みが深まる。
ヴァルはその様子を見て小さく尾を動かした。
ナディアがアルシェの肩へ手を置く。
「そろそろ行こう。まだ確認するものがあるよ」
「あ、そうだった!」
アルシェは立ち上がった。
「じゃあね、ダス! リュネ! ヴァル!」
「おう!」
「またね」
二人が去っていくのを見送り、ダスは楽しそうに笑った。
「……いやぁ、あいつも相変わらずだな」
リュネが頷く。
「うん。でも、ちゃんと我慢してたね」
「……してたか?」
「一応」
「はははっ!」
二人は笑いながら歩き出した。
その後ろでヴァルは小さく息を吐いた。
あの狐はいつか本当に何かを口走りそうだ。
そう思ったが、今のところ問題は起きていない。
少なくとも表向きには。
*
夕方。
エルノア支部の会議室ではアルシェが新たな調査結果を報告していた。
「……やっぱり、これおかしいよ」
彼女は卓上に広げた地図を指さした。
「採餌体が向いてる方向を全部重ねると、街の南西側へ集まるんだけど……」
ヴェルトが身を乗り出す。
「うん。それは昼間も見たよね」
「そう。でも、さっき街を歩いて確認したら、もっと変なことが分かったの」
アルシェは別の地図を広げた。
そこにはエルノア市街の主要施設が記されている。
大規模な倉庫。
魔術関連の施設。
商会の保管庫。
公共の魔力設備。
アルシェはそれらの位置を順番に指さした。
「普通、魔力を大量に集めたいなら、こういう場所を狙いそうじゃない?」
「そうだね」
ヴェルトが頷く。
「でも、採餌体の向きとは一致しないんだよ」
アルシェは地図の南西側を示した。
そこには宿屋や商店が集まる区画があった。
「……宿屋街?」
ガルドが呟く。
「うん。しかも、この辺り」
アルシェが指さした場所は宿屋街の一角だった。
大きな魔術施設があるわけでもない。
特別な魔力貯蔵庫が存在するわけでもない。
普通の宿と商店が並ぶ、ごく一般的な街区だった。
「……何でそこなんだ?」
《城壁》が首を傾げる。
アルシェは腕を組んだ。
「それが分からないんだよね」
「……ただの偶然じゃねえのか?」
ガルドが尋ねる。
「それも考えた。でも、違う地点で観測した採餌体の向きが、何度も同じ辺りへ集まってるんだ」
アルシェは記録を一枚取り出した。
「それと、もう一つ」
そこには、昨日、地表から行った器官追跡で得られた魔力流の記録があった。
「吸魔器官って、ただ魔力を吸ってるだけじゃないと思う」
ヴェルトが顔を上げた。
「……どういうこと?」
「周囲の魔力が濃い場所に近付くと、器官の伸びる方向が変わってるんだよ」
アルシェは記録の一部を指さした。
「最初は土壌に沿って広がってるだけに見えたんだけど、魔力源が近くにあると、そっちへ伸びていく傾向がある」
「……探してる?」
ヴェルトが呟く。
「そう!」
アルシェは嬉しそうに頷いた。
「たぶん、この器官には魔力源を探す働きもあるんだと思う」
ナディアが地図を見た。
「だとすると、街へ向かっている理由も説明できるかもしれないね」
「うん。ただ……」
アルシェは少し考えた。
「普通の魔力源じゃない気がするんだよね」
「……普通じゃない?」
「だって、街にはもっと魔力が濃い場所があるんだよ。それなのに、採餌体はそっちを向いてない」
彼女は宿屋街の一点へ指を置いた。
「ここに、もっと大きな何かがあるのかもしれない」
その言葉に会議室が静かになった。
ヴェルトは地図を見つめていた。
南西部。
宿屋街。
見覚えのある場所だった。
「……あれ?」
彼女が小さく呟く。
ナディアもその位置を見て目を細めた。
アルシェは二人の反応に気付く。
「……ねえ」
声を潜める。
「これって、もしかして……」
ヴェルトが顔を上げた。
三人の視線が交わる。
そしてほとんど同時に理解した。
「……あ」
アルシェが口元を押さえた。
「……そっか」
ヴェルトは少し困ったように笑った。
「……なるほどね」
ナディアだけは静かに地図を見つめていた。
「……まだ決めつけない方がいい」
落ち着いた声だった。
「今分かってるのは、採餌体が宿屋街の一角へ向かっているということだけ。そこに誰がいるかまでは、まだ直接確認できてない」
「……うん」
ヴェルトが頷く。
アルシェも少しだけ表情を引き締めた。
「そうだね」
三人ともある可能性へ辿り着いていた。
しかしそれが正しいかどうかは、まだ分からない。
*
同じ頃。
エルノア南西部の宿屋街ではダスたちが夕食を終えていた。
「……いやぁ、今日もいい一日だった!」
ダスは満足そうに伸びをする。
リュネが笑った。
「うん。配送も無事に終わったしね」
「そうそう。明日は棚卸しだな!」
「ふふっ。覚えてたんだ」
「当たり前だろ!」
ダスは胸を張った。
「……あと、地図も買ったしな!」
机の上には今日購入したエルノア市街の地図が広げられていた。
彼はそれを眺めながら今日歩いた道を指で辿っている。
「……ここが最初の商店で、こっちが二件目だろ?」
「うん」
「で、三件目が……」
ダスの指が止まった。
「……あれ?」
リュネが覗き込む。
「どうしたの?」
「……道、一本間違えて覚えてた」
「ふふっ」
「いやぁ、やっぱ地図って大事だな!」
ダスは笑った。
その足元ではヴァルが静かに横になっている。
部屋には穏やかな空気が流れていた。
しかし。
そのときだった。
ヴァルの耳が僅かに動いた。
続いてリュネが顔を上げる。
ダスも地図から視線を外した。
三者の間に短い沈黙が落ちる。
「……ん?」
ダスが呟く。
「……何だ、これ」
リュネは窓の外へ目を向けた。
「……東の方から、何か来てるね」
ヴァルが静かに起き上がった。
「地中だな」
その声は外部の人間には聞かせない本来の声だった。
ダスは床へ視線を落とした。
足元のさらに下。
街を支える石畳や地盤の奥。
そこに無数の細い何かが広がっている。
「……へえ」
ダスは少しだけ目を細めた。
「こりゃ、結構近いな」
リュネが頷く。
「うん。もう街の下まで来てる」
ヴァルは静かに口を開いた。
「……こちらへ向かっているぞ」
ダスが顔を上げる。
「……俺たちに?」
「まだ断定はできん。だが、方向はそうだ」
三者は互いに顔を見合わせた。
それから。
ダスが少し困ったように笑った。
「……おいおい」
リュネも小さく笑う。
「向こうから来ちゃったね」
「だなぁ」
ダスは椅子へ身体を預けた。
「……これ、ちょっとまずいか?」
ヴァルが答える。
「少なくとも、普通のFランク冒険者が相手にするものではないな」
「……だよな」
ダスは天井を見上げた。
少し考える。
そしてにやりと笑った。
「……まあ、まだ何とかなるだろ」
リュネが微笑む。
「うん。ヴェルトたちも動いてるしね」
「そうそう」
ダスは頷いた。
「せっかくFランクになったばっかりなんだ。もう少し楽しませてくれよなぁ」
ヴァルはそんな彼を見て静かに首を振った。
しかし三者とも分かっていた。
今回の異変はこれまでとは少し違う。
自分たちが関わらなくても、事件は勝手に進んでいた。
だからこそ今まで普通の新人冒険者として過ごせていた。
だが、もし異変そのものが自分たちを狙い始めたのなら。
その前提は、いずれ崩れることになる。
*
エルノア地下。
城壁の東側を越えたところで半透明の器官が急激に伸び始めていた。
地中の魔力を吸収しながら、幾筋もの細い管が土壌の隙間へ入り込んでいく。
それらは石の隙間を通り、古い排水路の周囲へ絡みつき、さらに西へ向かって伸びていた。
一部の器官は途中で魔力の濃い場所へ反応する。
しかしすぐに向きを変え、再び特定の方向へ進み始めた。
何かを探している。
それも、普通の魔力源ではない。
もっと大きく、もっと濃い何か。
地中の器官は、まるで匂いを追う獣のように進路を修正し続けていた。
やがて。
複数の器官が、ある場所で同時に止まった。
その先にあったのは宿屋街だった。
地下の魔力がごく僅かに変化する。
器官の表面が収縮した。
次の瞬間。
無数の器官が同じ方向へ一斉に伸び始めた。
それまでとは比較にならない速度だった。
石を押し分け、土を掘り進み、古い基礎の隙間を縫うように進んでいく。
城壁の下を越えたそれらはついに宿屋街の地下へ侵入した。
その中心にある、一軒の宿。
二階の一室には三者がいた。
Fランク冒険者。
同じくFランクの《リュネ》。
そして、小型飛竜系の従魔。
地下の器官は迷うことなくその部屋へ向かっていた。
*
「……あーあ」
ダスが呟いた。
机の上には今日買ったばかりの街の地図が広がっている。
彼はその地図を眺めながら少しだけ笑った。
「……明日くらいには、ただのFランクでいられなくなるかもな」
リュネが静かに頷く。
「そうかもしれないね」
「……まったく」
ダスは天井を見上げた。
そして少しだけ残念そうに笑う。
「せっかく楽しくなってきたところなのになぁ」
ヴァルが低い声で答えた。
「……お前が何もしなくても、向こうは止まらんぞ」
「分かってるさ」
ダスは頷いた。
「……まあ、できるところまでは普通の冒険者でいようぜ」
リュネが微笑んだ。
「うん」
ダスは満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、明日の棚卸しのためにも今日は寝るか!」
「ふふっ。そうだね」
三者はいつも通りの夜を過ごそうとしていた。
しかしその足元では。
城壁の下を越えた無数の吸魔器官がついに宿の基礎へ到達していた。
石と土の隙間を縫い、ゆっくりと上へ伸びていく。
一階。
二階。
その先にあるただ一つの部屋を目指して。




