第七話
父が通っている理容室の前には古き良きサインポールが置かれている。
赤、青、白の縞模様がくるくると回っていて、一目でその店が理容室だとわかる。
涼子が扉を開けると、カランコロンとベルの音が鳴った。
「……もしかして涼子ちゃん?」
この店の主人である、ふくよかな男性が驚いたような表情を浮かべた。
「お久しぶりです」
「へー。涼子ちゃんこんな綺麗になって。今日結婚式だって?」
「はい」
「おめでとうね。お父さんさっき自慢してたよ。だから今日はとびっきり男前にしてくれって」
主人は朗らかな笑みを浮かべた。
「どうしたの? まさか切りに来たわけじゃないよね?」
「あ、いえ。違います」
今日のヘアセットは、式場のスタイリストにお願いしている。
幼い頃はこの店で髪を切ってもらっていたが、小学校を卒業して以来母の行きつけの美容院に通うようになったため、少し気まずい。
「お父さん、まだ家に帰ってきてなくて」
「新ちゃんが?」
父、新之助のあだ名だ。
「新ちゃん、30分ほど前に帰ったけど?」
「そうですか」
やはりこの店にはいない。それもそうだ、長居ができるような店ではない。
「あ、でも。結婚式まで時間あるから、少しのんびりするって言ってたよ」
「のんびり、ですか?」
「うん。コロコロでも行ったんじゃない?」
コロコロとは、同じくこの商店街にある喫茶店で、父の行きつけだ。
「ありがとうございます。行ってみますね」
「はーい。またね」
手を振る主人に見送られながら店を出る。
喫茶店コロコロは理容室から少し離れたところにあるため、またしばらく歩かなくてはならない。
「もう。お父さんったら」
娘の結婚式の日に、連絡も取れない状態で何をやっているのか。少なくとも、何かのトラブルに巻き込まれたわけではないようなので安心したが。
まあいい。別にこちらも急いでいるわけではないので、お嫁に行く前に思い出の道をのんびり辿ろうではないか。涼子はそんなことを考えた。
おもちゃ屋で誕生日プレゼントを買ってもらった。
あの駄菓子屋は流石に潰れてしまったか。お店のお爺さん、結構な年だったもんな。
あんなところにソフトクリームを売っている店なんてあったのか。前はたばこ屋だったはずだが。
酒屋さんまでビール瓶を返却しに行ったな。父の車に積んだビール瓶を下ろすのを手伝った記憶がある。
そうやって思い出に浸りながら商店街を歩く。意外と子供の頃のことは覚えているようで驚いた。
しかし、しかしだ。
時々、目の前の光景と記憶の中の光景が奇妙にずれる。先ほどの肉屋の記憶のように、ぼやけて重なる時がある。
まるで左右の目で別の景色を見ているような、そんな感覚を覚えた。
単純な記憶違いだろうか? いや、どうにも違う気がする。
うまく言語化できない違和感を抱えたまま、喫茶店コロコロに辿り着いた。
この店に来るのも、ずいぶんと久しぶりだ。
「いらっしゃいませ」
静かで落ち着いた雰囲気の店内に入ると、初老のマスターに迎えられる。
父はいなかった。代わりにカウンターで昼前にもかかわらず酒を飲んでいる男性が一人いた。
マスターは涼子の顔を見て、わずかに目を見開いた。
「あれ、涼子ちゃん? どうしたの?」
「マスター、知ってる子?」
酒を飲んでいた男性がマスターに問いかける。
「新ちゃんとこのお嬢さんだよ。ほら、今日結婚する」
「君が! へー!」
赤ら顔の男性に無遠慮な視線を向けられ、涼子は少したじろいだ。
「涼子ちゃん何飲む?」
「え、私はーー」
断ろうとして、喫茶店に来て何も頼まないのは失礼だと気づく。涼子はカウンターに座り、メニューを開いた。
その時、懐かしいものを見つける。
「ミックスジュースをお願いします」
子供の頃、ミックスジュースは涼子の憧れだった。
きっかけは、教育番組で流れていたミックスジュースの歌。
今でこそコンビニやスーパーで気軽に買えるだろうが、涼子が子供の頃はミックスジュースが身近に売られておらず、テレビでその歌が流れるたびに、飲んでみたいという思いに駆られた。
そんな時に父に連れられて来たにのがこの喫茶店だ。幼い涼子はメニューにミックスジュースと書かれてたのを発見すると迷わず注文した。
初めて飲んだ時の衝撃と言ったら。バナナの味がかなり強く、ミックスジュースとはバナナの味がするんだと驚いたものだ。
懐かしさに身を任せ、子供の時と同じように注文する。
「ミックスジュースね。少々お待ちください」
マスターは冷蔵庫の中から様々なフルーツを取り出し、カットし始める。
涼子はその手際をじっと見ていたが、この喫茶店来た理由を思い出した。
「あ、あの。お父さん来てませんでした?」
「新ちゃん? さっきまでいたんだけど」
「コーヒー一杯だけ飲んで帰ったよ」
どうやら入れ違いになったらしい。
「お父さん探しに来たの?」
「はい。電話が繋がらなくて」
「ははは、過保護じゃない?」
男性が酒の入ったグラスを傾けながら、戯けたように笑う。
「お父さん、最近ちょっと様子が変だったんです。何か悩み事があるように見えて、心配で」
涼子が何気なくそう言った時だった。マスターと男性の顔が強張り、意味深に目配せを交わした。
わずかなやり取りだったが、涼子は見逃さなかった。
「……もしかして何か知ってるんですか?」
涼子が詰め寄ると、マスターは気まずそうに目を逸らした。
「い、いや。別に何も……」
すぐに嘘だとわかった。涼子は誤魔化されないと言わんばかりにマスターを無言でじっと見つめる。
しばらくして、視線に耐えきれなくなったマスターが苦虫を噛んだような表情でポツリと呟く。
「……僕から聞いたって言わないでね」
「はい」
「関係あるかどうかわからないけど、前に新ちゃんがこの店で男の人と二人で来たことがあったんだ」
「男の人?」
「ありゃ多分、この街の人間じゃないな。見たことねえもん」
男性がそう呟く。
「年は、50代くらい。あまり人相のいい人ではなかったかな。で、新ちゃんとその人がそこのテーブルでしばらく話してたんだけど……なんて言うかな」
マスターは言い辛そうに頭をかいた。
「その時の新ちゃんの顔がえらく険しくてね。それに……」
「それに?」
「新ちゃん。その男にお金渡してたみたいなんだよね」
「え?」
驚きの声をあげる涼子に、マスターは慌てて手を振る。
「い、いやわかんないよ? そう見えたってだけで、実は別の何かだったかもしれないし!」
「いやー。あれは金っぽかったけどな。しかも結構な額に見えたぞ」
「と、とにかく。その時のこと新ちゃんに聞いても何も教えてくれなくて。様子が変だったって言われると、それかなーって思ったんだ」
「お父さんが、お金を……」
涼子は信じられない思いで呟く。
まさか借金? いや。父は真面目な人間だ。借金なんてするわけがない。
「ま、まあ関係ないかもしれないよ! 仕事のお金かもしれないし」
「……そうですね」
釈然としないが、ひとまずマスターの言葉を肯定する。
しばらく考え込んでいると、目の前にグラスが置かれた。
「はい、涼子ちゃん。ミックスジュース」
「あ、ありがとございます」
涼子はぼんやりとグラスに口をつける。
しかし、一瞬で現実に引き戻される。
「っ!」
驚愕。もう一度ミックスジュースを口に含む。
味を確かめて、マスターに問いかける。
「あ、あの! このミックスジュース、作り方変えました?」
「へ?」
「使っている果物、昔と違ったりしませんか?」
「……うちは創業当時から、レシピ変えてないけど?」
怪訝そうなマスターの言葉に、涼子は呆然とする。
「……このミックスジュース。バナナが入ってない」
ありえない。初めてこの店で飲んだミックスジュースには、確かにバナナの味がしたのだ




