第十一話
いきなり聞こえたクラクションに、裕二の心臓は跳ね上がった。
「うおっ! な、何?」
バックミラーを確認すると、白い車がぶつかる寸前まで接近していた。
運転手は、サングラスをかけた若い男。見覚えのない人物だった。
車は再びクラクションを鳴らす。
「おい、何やったんだよ裕二?」
「なんもしてねえよ」
急ブレーキをかけたり、蛇行したりなど、危ない運転はしていないはずだ。
法定速度もきっちりと守っている。
と、そこで気づく。
「もしかして、遅いって文句言ってる?」
この道は長い一本道が続き、信号もほとんどない。
裕二の運転する車の前方に他の車はない。そんな状態で法定速度通り走っていると、確かに遅いと思われても仕方ないかもしれない。
「悪いけど、今日ばかりは法定速度を少しも越えるつもりはないからな」
トランクに大五郎が乗っている以上、警察の世話になるような運転は一切しないと決めている。
しばらくの間、追い越し禁止の車線が続く。後ろの車には我慢してもらうしかない。
少しだけ申し訳なく思いながらも、裕二は車の速度を上げなかった。
それが不満だったのだろう。後方の車はクラクションを何度も鳴らした。
「……うるせえな」
クラクションを鳴らされるたびに、不快な感情が込み上げてくる。こっちは道路交通法をしっかり守って走っているだけなのに、なぜここまで抗議されなければいけないのか。
「まあ裕二落ち着けよ。そのうち諦めるだろ」
しかし健介の予想に反して、クラクションが鳴り止むことはなかった。
それどころか、急接近を何度も繰り返してきた。
「あの野郎、危ねえな!」
近づいてくるたび、ぶつかるのではないかと不安でしょうがなかった。
「ほっとけ。あっちもぶつけてくるほどバカじゃねえだろ」
などと健介は言ったが、どうやらこちらが思っているより、相手の車はバカだったようだ。
急にスピードを上げたかと思うと、黄色いセンターラインを超え、無理やり裕二の車の前方に躍り出た。
「うっそだろ……」
あまりに強引な運転に思わず絶句してしまう。
「ま、まあいいや。このまま先に行ってくれたらーー」
と、ここで前方にでた車が急ブレーキを繰り出した。
「うおっ!」
慌ててこちらもブレーキ。かろうじてぶつかることはなかった。
そしてそのまま走り出す白い車。車の速度は遅く、こちらが追いつくのを待っているように見えた。
「なんだあの野郎?」
裕二が再びアクセルを踏み、前方の車と十分な車間距離を保って走り出す。
そしてまた白い車は急ブレーキ。今度は来るとわかっていたため、こちらは軽くブレーキを踏むだけで済んだ。
どうやら、完全に自分達を煽ることに決めたようだった。
「ま、マジでふざけやがって」
目の前で急ブレーキと蛇行運転を繰り返す白い車を見ていると、怒りが沸々と湧き上がってくる。
「てめえのバカな運転のせいで、こっちの人生は終わるかもしれねえんだぞ? 僕の結婚式を、200万を無駄にする気か?」
あちらが100%悪い状態であっても、ぶつかって警察を呼ぶ羽目になれば、トランクの大五郎が露見して裕二たちが捕まることになるだろう。
絶対にぶつかるわけにはいかない。かつてない緊張感と共に、裕二はハンドルを握り直した。
するとその時、助手席の健介が裕二の腕を叩き、運転席側の窓を指差した。
「おい裕二! 琵琶湖見えたぞ!」
「うるせえな! 今それどころじゃないんだよ!!」
前の車から目を離さず健介を怒鳴りつけた。割と危機的な状況なのに、どこまで呑気なんだこいつは。
「落ち着けって裕二。安心しろ、俺に考えがある」
「考え?」
落ち着き払った健介の態度に、裕二も幾分か冷静になる。
「いいか。しばらく車間距離とってぶつからないように気をつけながら運転しろ」
「わ、わかった」
健介の指示に従い、慎重な運転を続ける。
しばらくヒヤリとする状況を経験しながら走っていると、急に健介が声を上げる。
「ここだ。この交差点を左に曲がれ」
ここまで一本道だったが、久しぶりに信号のある交差点に出た。
「おいでも、こんなとこ曲がったら……」
ナビはまだまだ真っ直ぐ走ることを指示している。
「いいんだ。少し遠回りになるが、しばらく走ったら元の道に戻れる」
健介の言葉を信じ、交差点を左に曲がる。
ようやく煽り運転から解放されたかと思いほっとしたのも束の間、バックミラー越しにあの白い車が追いかけてくるのが見えた。
「嘘だろ!? あの車Uターンして追いかけてきやがった!」
その執念深さに驚愕する。
しかし、健介はこの状況でもまだ落ち着いていた。
「大丈夫だ。ああいうバカは追いかけてくるってわかってた。計算通りだ」
「計算通りって……」
白い車は猛スピードで裕二の車を追い抜き、再び強引に前に出た。
そしてやはり、こちらを煽ってくる。
「健介、どうすればいいんだ?」
こんなの、いつ事故を起こしてもおかしくない。別の道を進んだのに追いかけてくるような車だ、いつまでも付き纏ってくるだろう。
こうなると健介の考えとやらに縋るしかない。
「このままぶつからないよう気をつけて道なりに進め。法定速度はオーバーするなよ? なんなら少し遅くてもいい」
「……本当に大丈夫なんだろうな?」
不安だが、今は信じるしかない。
ほんの少しも気の抜けない運転を続けてしばらく経ったその時だった。
脇道から急に黒い車が現れ、裕二の車の後ろにつく。
なんだろう。バックミラー越しにチラリと後ろの車を見ると、なんとその上部には赤いランプが。
覆面パトカーだ。
一瞬、心臓を掴まれたような感覚を覚える。まさか自分たちを追って?
と、思いきや。覆面パトカーはサイレンを鳴らしながら裕二の車を追い抜き、煽り運転を繰り返していた白い車に向かって、止まるようにスピー
カーで勧告。
白い車は路肩に止まった。
その横を追い越しながら、裕二は歓声をあげた。
「ッシャア、オラア!! ざまー見ろ、ばーーーか!!」
これまで溜まっていた鬱憤が解消され、最高にスカッとした気分だった。
「健介! これがお前の考えか! やるなあ!」
「ああ。あの道、いつも覆面パトカーが見えないところで待ち伏せてるんだ。俺も何度捕まったことか」
「そうかそうか! お前がクズで助かった!」
「…………おう」
微妙な表情を浮かべる健介に気付かず、裕二はガッツポーズを繰り出す。
「次の信号右に曲がって、その次も右に曲がればさっきの道に戻れるはずだ」
「オッケー」
「もうちょい走れば、道の駅だぞ」
そういえば、元々道の駅で仮眠をとるという話だった。
気がつけば眠気はどこかへ行っていたが、煽り運転のせいですっかり神経が削られていた。
少し休憩を取りたい。
「なら、そこで休憩だな」
そして裕二達は元の道へ戻り、道の駅まで車を走らせた。
「結構綺麗なところだな」
寄った道の駅はこぢんまりとした施設だが、比較的新しいものに見えた。
「さっき走ってきた道もここ数年で開通したものだからな。その道に合わせて作ったんだろうよ」
車からおりた健介が伸びをしながら解説する。
敷地内にはキッチンカーがあり、そこでたこ焼き、近江牛のコロッケ、ケバブなど美味しそうな物が色々と売られていた。
現在、午前11時30分。少し早いが、昼飯時だ。
思えば、昨日飲んでから何も食べていない。何やら香ばしい匂いが漂ってきて、途端にお腹が空いてきた。
「なあ、裕二。披露宴って何時からだっけ?」
「午後6時から」
「……それまで何も食えないのか」
仕方ないだろう。何せ自分たちは無一文。後6時間半我慢するしかない。
これ以上は目の毒だ。後ろ髪を引かれながらキッチンカーから目を逸らした。
「道の駅好きだから、ゆっくりしたんだけどね」
店内では地元の特産品でも売られているだろう。こんな時でもなければゆっくり見て回りたいところだが、流石にそんな余裕はない。
「僕トイレ行ってくる」
「俺も」
というわけで、二人してトイレに向かう。
随分と清潔感に溢れるトイレだった。新しい、というのもあるだろうが、清掃が行き届いているのだろう。
「じゃあ、ちょっと失礼」
健介は個室に入った。
裕二は小用を済ませ、手を洗って健介を待つ。
その間、鏡越しに自分の顔をじっくりと見た。
酷い顔だった。
疲労が蓄積し、目元にクマができている。昨日シャワーを浴びていないせいで髪が脂っぽく、無精髭が生えている。
「式場ってシャワー借りれたっけ? せめて髭くらい剃らないとな」
スタイリストに髪型をバッチリ決めてもらい、衣装もしっかりしたものを着ているのに、顔だけくたびれている新郎なんて目も当てられない。
そんなことを考えているその時だった。
「おい」
背後からドスの効いた声がかけられる。
振り返ると、ニューヨークヤンキースのベースボールキャップに黒いマスクの男が立っていた。
「……あ」
ショッピングモールの駐車場で、裕二の車の近くをうろついていた怪しい男だ。
そのことを思い出すとともに、男の手に何かが握られているのに気づく。
ナイフだった。
男は鈍く光る刃物を、こちらに向けている。
「ヒッーー」
「騒ぐな!」
男に脅され、上がりそうになっていた悲鳴を咄嗟に押し込める。
男はナイフをちらつかせながら、裕二を追い詰めてくる。
「車の鍵を渡せ」
「え?」
何を言われたのかがわからず、聞き返す。
「車の鍵だ! 持ってんだろ!」
男はイラついたようにナイフを裕二の顔の近くに寄せる。
裕二は動けなかった。
男の体格はそれほど大きくはない。裕二と比べて随分と小柄だ。帽子とマスクの間から覗く顔を見る限り、還暦近い歳のようだ。おそらく、単純に腕力だけなら裕二の方が上だろう。
しかし、動けなかった。
決して大きくはないナイフのはずなのに、刃物を向けられているという事実が裕二の足を竦ませる。理不尽な恐怖に体が凍りついたようだった。
「あ……うっ……」
「何やってんだ、早くしろ!」
男に怒鳴られ、反射的にズボンのポケットに入れた車の鍵に手が伸びる。
ダメだっ!
取り出そうとしたその瞬間、自身の理性がストップをかけた。
ここで車の鍵を渡してしまえば、いよいよ式場に辿り着けなくなる。どんなことをしてでも叶えると誓った、涼子の祖母に花嫁姿を見せるという願いが叶わなくなってしまう。
渡すことなんてできない、絶対に。そう心に決める。
だが、どれだけ決意を固めようと、ナイフを向けられている現実は変わらない。
裕二は目の前にあるナイフのせいで逃げることもできず、ただ固まっていた。
「よこせっ!」
やがて、痺れを切らした男が裕二のポケットに手を伸ばした。取り出そうとした動きのせいで、鍵の位置がバレていたようだ。
体をよじって逃げようとしたが、動こうとするとナイフを突きつけられる。
そして、男の手がポケットの中に入ってくるその瞬間ーー
「おー、待たせて悪いな裕二。実はさっきからずっと我慢しててさ。ショッピングモールで行けばよかったんだけど、その時は全然そんな感じしなくて。でもさ、福井まで急いでいる中で、トイレ行かせてくれ。なんて流石に頼みづらいだろ? いやー助かった助かった。これ以上我慢してたら俺ーー」
健介が、この状況にそぐわないバカみたいなことを言いながら個室から出てきた。
裕二も男も不意を突かれ、唖然と健介に目を向ける。
「……あれ? 裕二、何やってんの?」
先に動いたのは裕二だった。
位置関係的に、男が後ろを振り返る形になっていたのも大きい。男の動きは一瞬だけ遅れた。
裕二行ったのは、原始的な防衛反応。自身の両手をただ前に突き出すだけだった。
それでも、不意を完全についた。振り向きざまの男の顔にヒットし、体格差から男は地面に倒れ込んだ。ナイフが音を立てて転がり落ちる。
男の帽子が取れて顔があらわになる。裕二の手に、男の黒いマスクが引っかかっていた。
その時、裕二は気づく。男の頬に赤い3本線、比較的新しい傷があった。
「健介逃げるぞ!」
「お、おう」
じっと男の顔を観察している場合ではない。裕二はまだ事態が飲み込めていない健介に向かって叫び、トイレから飛び出す。
そしてそのまま車に乗り込み、急いで車を発進させた。
なんだあの男は? 一体何が目的だったんだ?
ナイフを突きつけられた恐怖がぶり返してきて、体が震え出した。
「あ。手洗ってねえや」
混乱している中、健介の呑気そうな声だけがやけに耳に残った。




