第2話 七雲家
帰宅したのは早朝だった。
誰も起きていないと思ったが、手を洗い着替えてから居間に行けば、赤子を抱く妻の姿があった。振り返る彼女の目があまりに疲れていたので、啓介は反射的に笑みを作る。
「裕香」
音を立てないように近づく。息子は寝ていた。
「お帰りなさい。やっと寝た……」
「うん、ありがとう。朝の支度はおれが全部やるから、君は寝なさい」
「ご飯は仕掛けてて、冷蔵庫に魚があるから焼いて……あとは、考えてなくて」
「分かった、ありがとう」
居間を後にして台所に向かう。啓介の実家であるこの家は古い日本家屋だ。居間と台所は廊下で隔てられているし、母屋とは別に離れがあるし、昔は便所さえ外にあった。無駄に広くて隙間風が吹いて今どきではなく不便なところもあるが、啓介は好きだった。
コンロのグリルでサバを三つ焼いていると、起きて来た父、相慈が手を洗ってシンクについた。エプロンをつけながら、
「あとは?」
簡潔に問われる。
「……味噌汁、いま具を煮てる」
「はいよ。お前さんも寝なさい。夜勤明けで火なんて扱うものじゃない。それとも、食べてから寝るかい?」
「いや、作ったら寝るけど。大丈夫? できる?」
「それくらいできるわ。心配なら見ときなさい」
相慈は七十を過ぎた。啓介が子どものときの彼は家事なんてからっきしだったし、やるつもりもないように見えた。しかし啓介の母が、脳卒中の後遺症で思うように料理ができなくなったとき、抵抗なく台所に立ったのが相慈だったという。
二年前に母が死に、ひとりになった相慈と一緒に暮らし始めたときは驚いた。一通りのことは自分でできたのだ。啓介がこの家にいたときから考えれば、あり得ない姿だった。
台所に置いてある椅子に腰かけ、啓介は父を見守る。野菜室を開けてほうれん草を取り出した。おひたしを作るようだ。
「裕香さんは?」
居間を振り返ると、まだ赤子を抱いて座っていた。移動できるほど寝入っていないのかもしれない。
「理央を抱いてまだ居間にいるよ。父さんは眠れた?」
「老人はそもそも眠れん。なにをするわけでもないから、寝なくても構わん」
「そんなこと言って」
息子の理央が生まれてから、父は出来る家事をすべて受け持つようになった。啓介が帰らなくても、起きて裕香から仕事を奪っていただろう。
「父さん、変わったよなあ。台所に立って普通に料理してるなんて」
「料理は認知症に良いらしいぞ」
「父さんは大丈夫でしょう」
「みんな自分の仕事があるのに、俺だけなにもせんわけにはいかんよ」
グリルからサバを出せば、焼き魚の匂いが広がる。理央をベビーベッドに置いた裕香が台所に顔を出した。
「お義父さん、すみません」
「なに、大抵のことは裕香さんと啓介がやっとる。成果だけもらった形だな」
笑いながら相慈が炊飯器を開けると、炊き立ての白米の匂いが上がる。
「食べるかね、寝るかね」
「お腹空いちゃった。食べます」
「おれも寝ようかと思ったけど、こんな匂い嗅いだらなあ」
手を洗いに行くよう裕香を促して、啓介は相慈のよそったご飯や味噌汁を盆に載せていく。
ふと、相慈が尋ねてきた。
「お前、あの事件には関わっとるんか?」
「あの事件って?」
「テレビでようやっとる、この町の住民がいなくなっとるあれよ」
「ああ、あれね。どっちにしろ言えないよ。分かってるだろ」
警察官が事件の内容を家族にすら話せないことを、かつて刑事だった相慈もよく分かっているはずだ。珍しい、どうしたのだろうと相慈を見ると、険しい顔をしている。
「あれは『神隠し』じゃなかろうか」
啓介は首を傾げる。普段はそんなオカルトなこと、口にも出さない父だ。
「神隠し? なんでそんなこと。似たような事件でもあったの?」
「いや、近所のじじいどもが言っとるだけだ」
言って、相慈はサバの皿を持ってさっさと居間に行ってしまった。
三人で食卓を囲む。以前裕香に贈られたエプロンを外しながら定位置に座る相慈は、なんだか嬉しそうに見えた。
――――――――――
食事を終えて眠った啓介は、夢を見た。
悪夢だ。
啓介はある山村にいる。汚いボロ布の着物を着て、ある建物に閉じ込められている。古い時代なのだろうか、土間と座敷だけの簡素なつくりだ。扉も雨戸も閉じられている。確認しなくても分かる。それらは完全に固定されていて、開けようとしても自分の力では開かないのだ。隙間から漏れ入る、細い太陽光が啓介を嘲笑っていた。
土間の隅で膝を抱えて座っている。対角線上、座敷の端に同じようにして女が座っている。話しかけたほうがよいかと思案する。女は怯えたように、自身を壁に埋めるように固く壁側に寄っていて、啓介が身じろぎをするたびに怯えた様子でこちらを窺った。
扉がガタガタと音を立てて、つっかえ棒が外されたようだ。乱暴に開かれて日光が洪水のように責めて来る。入って来たのは複数人の男だった。啓介ほどではないにしろ、誰もがボロの着物を着ている。手にはクワや竹槍が握られていて、あからさまにこちらに敵意を持っていた。
女が悲鳴をあげるが、男たちが向かってきたのは啓介のほうだった。取り囲まれて、何事かを怒鳴られる。歯がないようで、また古い言葉なのか方言なのか、なにを言っているのかあまり聞き取れなかった。芳しくない啓介の反応に彼らは憤った。髪をひっつかまれ、座敷へと引き摺られる。男たちはまだ何事かを叫んでいる。
啓介は、女の息のかかるような至近距離まで取り立てられた。
聞き取れないので、なにをしろと言われているか分からない。戸惑っているあいだにクワで頭を叩かれた。血が流れる感覚。痛みに起き上がれないでいると、また殴られる。
啓介は抵抗ができなかった。
そんなこと、しても無駄だと散々に思い知らされていた。幼いころから自分はそんな運命だった。この家に生まれたことが悪いのだとは思えなかった。ただ、この世に生まれた自分が悪い。なにより自分が悪く。
けれど――怨みの感情は胸の奥で悲鳴を上げていた。




