第5話 影
始業式では校長から注意喚起があったらしい。一人で下校するなとか、念のため八郷山には近づくな、とか。ホームルームが終わり帰宅の時間となったが、果歩と鉢会わないよう、秋人は男子トイレに隠れた。
時間を持て余しスマホを開く。予想通り、果歩から所在を尋ねる連絡が山のように来ていた。秋人はため息をつく。
連絡を疎ましく思うことなんて、なかったのに。
夏休み前までは確かに好きだった。
自慢の彼女だ。誰にでも紹介できた。誰もが羨ましがった。愛情をかければかけるほど喜んでくれて、いつもはツンとしたクールな顔が、二人のときだけ甘えるように綻ぶのがなにより可愛かった。
夏休み中もずっと連絡を取り、通話を繋げて、よく二人で出かけていたのに。
同じ大学に行こうと言い合っていた。
果歩は成績が良い。都会のトップクラスの大学を志望していて、秋人も一緒に行きたくて努力していた。夏期講習だってそのために申し込んだのだ。
もう、同じ大学でなくていいなと、思い始めている。
そんなことは、彼女には言えない。
いつからだったろう、と、記憶を手繰ろうとした秋人の脳裏に浮かぶのは、あの、未鈴を助けた夜だった。
髪をどけて、その顔を見た瞬間――。
そのときからなんだか、おかしいのだ。
……未鈴はどこに進学するのだろうか。
ショートメールを開く。やり取りは、昨日で止まっている。
『いまどこ?』
送信してみる。五分待っても、返信はなかった。
開け放たれたトイレの窓から野球部の号令が聞こえた。秋人はようやく個室から出て、窓からグラウンドを見下ろす。野球部も陸上部もすっかり練習に熱が入っている。校門辺りも人が捌け、いまなら面倒に巻き込まれず帰れそうだった。
廊下を歩きながら、別れを切り出す算段を考える。果歩は分かりやすく面倒な女だ。おしゃれで可愛くて嫉妬深く独占欲が強い。そういう、意思の強いところが好きだった。ラインひとつで、なんて納得しないだろう。
(いや、その前に)
岩倉未鈴をどうにかする必要があった。確実なものとしてから、果歩と別れるべきだ。次が確定していないのに別れる必要はない。
二人で出かけるのも楽しそうにしていたし、嫌われてはいないだろうと思う。
もう少し、押せば。
通りがかった教室から、覚えのある匂いがした。
こもった土のような、乾いた獣のような。
見れば、カーテンがぶわりと舞い上がるところだった。窓際に座った誰かが布に呑まれていく。逆光にさらされて陰が見えた。一人ではない。真ん中にひとり、周囲を囲むように数人、いる。
秋人の目を奪ったのはそのうちの一人だ。
肩までの髪、小さな体、見覚えのある横顔のシルエット。
(あれは)
――違う。
岩倉未鈴だった。
風とともに引いていくカーテンの裾から、岩倉未鈴の後頭部がでてきた。
誰もいない教室。窓際の席で一人、窓の向こうを見ている。
錯覚だったのだろうか。彼女はやっぱり一人だったし、あの匂いはもう、しなかった。
ゆっくりと近づいた。手の届く距離になって、未鈴はようやくこちらに気が付いた。
「秋人くん」
「いま、メールしたんだけど」
ええ? と驚いたあと、未鈴ははにかむ。
――こんな子だったっけ。
こんな、風に、笑う、人だったっけ。
……夏休み前の彼女は。
「スマホ持ってきてないよ。持ち込み禁止でしょ?」
「誰も守ってないよそんなの」
未鈴の目前の椅子を反転させ、座る。机ひとつを挟んだだけの距離は、動物園で食事をしたときより近く、彼女の顔がよく見える。
果歩のように、素顔で派手な顔立ちではない。しかしちゃんと見ると細部が整っていて、化粧で薄くでも装飾を足せばとんでもない美しさになるだろう。
やっぱり、綺麗だ。
「未鈴はひとり? 誰か待ってる?」
「私? ちょっと用事があって……ひとり、かな。結構いつも、そう」
新品のようなセーラー服、しっとりした肩までの黒髪。つるんとした白い肌は健康そのもの。
「秋人くんくらいだよ。こうやって話しかけてくれるの」
未鈴は可憐に、笑った。
秋人にはそう見えた。
「じゃあ、またおれとどっか行こうか」
スマホが震えた。果歩からの連絡を知らせる。秋人はそれを確かめた上で、通知を削除した。




