第1話 終業式
七月二十五日。終業式。
その日は、朝から気怠い雰囲気が満ちていた。終業式に出たら大掃除をして、終わったら昼前に帰宅する。登校する必要性すら感じないようなその内容をどうにかこなしながら、秋人は階段を昇る。
大掃除の、秋人の担当は中央校舎の最上階、図書室前の廊下だった。
掃除場所につくと、鹿島が寄って来る。
「秋人。場所一緒だな」
「怠い。適当に終わらせよーぜ」
きちんと終わらせようとそうでなかろうと、あと数時間経てば夏休みが始まるのだ。なら、それなりにやって終わらせたほうがいい。
やっているフリと、怒られない程度の成果は必要だ。秋人と鹿島はロッカーから掃除用具を取り出し、距離を保ちながら適当に箒を振る。
こんこん。
図書室の窓が向こうから叩かれた。見ると果歩がこちらに笑顔を向けている。手を振ると出入口のほうを示して歩き去ったので、秋人もそっちに向かえば、図書室から果歩が出て来た。
「秋人! すぐ近くだったんだ」
「そっちは図書館? 図書館の掃除ってなにすんの」
「机拭いたり、窓拭いたりだって。まあ、私はしないけど」
「どゆこと?」
図書室に促されるので入っていく。上靴で踏む、絨毯張りの床の感触が気持ち悪い。
室内は異様に静かだった。行儀よく整列する本棚のあいだを縫って果歩についていく。辿り着いた先には見知った顔があった。寺西夢乃と木戸央路。ふたりは掃除用具を持ってはいるが掃除はせず、楽しそうに話している。
掃除をしているのは他の、女子三人だけだ。
机を拭いたり、窓を拭いたり。
なるほど、真面目にやる奴らにまかせて、果歩は適当にぶらついていたのだ。
秋人は掃除している人のなかに、湯之原真凪の姿を見つけた。彼女は窓枠に掴まって身を乗り出し、外側の硝子を拭いている。
「あ、湯之原さん、久しぶり」
真凪とは一年生のときに同じクラスで、委員会も同じだった。彼女は肩をビクつかせて、振り向くことなく「あ、うん」と答えた。
「わ、涼しいー! いいな図書室」
いつの間にか鹿島も来たようだ。
「お前は掃除してろよ」
「いいじゃん、さっき先生来てどっか行ったよ」
鹿島とじゃれていると、果歩の声が飛んできた。
「あ、湯之原さん危ないよ!」
真凪はより遠くの窓ガラスを拭こうと窓から乗り出し、上半身がほとんど窓の外にでている。爪先立ちのその背中は不安定にゆらゆら揺れていた。その指の先には、ぽつんと黒い汚れがあった。几帳面な彼女のことだ、それを綺麗に取りたいのだろう。
別にそこまでしなくていいんじゃないの、と秋人が言う前に、果歩がどこか楽し気な声音で提案した。
「秋人、手伝ってあげてよ」
彼女は面倒な恋人で、そんなところも可愛いと秋人は思っている。
美人で頭がよくてはっきりした性格。そんな果歩のことを秋人が誇りに思っているように、果歩も秋人のことを誇りに思っている。
だから時折こうして、秋人を試すのだ。
果歩が言うのなら仕方がない。
秋人は窓側に歩み寄る。手を伸ばし、真凪の腰に手を当てて支えた。小柄な真凪はそれだけで安定を得る。
後ろから抱き締めるような形になり、ふたりの身体は密着している。
「大丈夫、これで落ちないから」
鹿島がなにやらひゅーひゅー言っているので、うるせえよと応酬していると、腕の中の真凪が小声で言う。
「秋人くんって――」
ふたりにしか聞こえない声だ。
果歩も、鹿島も、誰も聞こえない。
聞こえてはならなかった。
空白。
果歩の悲鳴が聞こえる。
秋人は視線を彷徨わせた。
そこにあったはずの真凪の姿がない。
秋人は窓の桟に縋りついて下を見た。
湯之原真凪が落ちていく。肩で揃えられた髪が、夏の白いセーラー服が、さらさらとはためく。
真凪は花壇の上に顔面から落下した。
果歩の悲鳴は、背後でまだ続いている。中庭にいた生徒が駆け寄り、真凪を仰向けにする。
額が陥没し、そこから血が溢れて顔面を侵していく。眼窩に溜まるそれは目尻から流れ落ち、まるで涙のように頬を滑る。
浮かぶのは、丸い二つの眼球。
落下の衝撃でめくれ、眼球が零れそうになった左瞼。ぱっくりと割れた右眼。見開かれた、もう閉じない目で。ぬらぬらと血に浸かったそれで。
こちらを強く、凝視している。




