第5話 白い着物の女
階段を上がりながら、啓介はため息をつく。
刑事課の面々に最後に会ったのは育休から復帰した日だ。自分の私物を地域課のデスクに移動させるときに、軽い挨拶だけをした。
もっとも、ほとんどが出払っていたが。
気まずい別れ方をしたわけではない。訪ねれば笑って挨拶くらいは交わせるだろう。ただ啓介が勝手に――惨めな気分を味わうだけだ。
かつて見慣れていた、灰色の扉。摺りガラス越しには人影が見えない。ノックをすると、若い声で疲れたような返事があった。
「あれ? 七雲さんだ」
扉を開けて出てきたのは後輩の里田だ。交番勤務のときからの部下であり、育休に入った啓介の代わりに刑事課へ異動となった。地域課にいたときは小綺麗で端正な若者だったのに、いまではぼさぼさのあたまに無精ひげで、もう何日も帰っていないようだ。
「……映像が、できたって」
「はい、預かってますよ」
戻る里田の背中越しに室内が見えた。パソコンに向かい映像を見ているのがひとりいるだけだ。見知った顔は誰もいない。胸を撫でおろす。
署内は禁煙のはずだがここだけはいつもタバコ臭い。家に帰ったら、理央に触れる前に風呂に入ろう。
部屋の奥のデスクから里田が持ってきたのは一枚のCD-ROMだ。
「はい、これです」
「ありがとう。貰っていくよ」
「七雲さん、奥様はお元気ですか?」
「うん、ああ。おかげさまで、息子も以前よりはよく寝るようになったよ。それで復帰して……お前は? 家、帰れてるか?」
「いーえ全然。もう自宅のマンション解約したいくらいです。家賃がもったいない」
「身体は壊すなよ。若いから大丈夫か」
「七雲さんこそお大事にしてくださいよ。パパまで倒れたら大変でしょう?」
嫌味に聞こえるのは自分の耳が悪いせいだ。絶対にそうだ。彼はいつだって啓介を気遣い、気にしないでくださいと笑う男だ。
ただ実際、里田が自分との入れ替わりの異動をどう思っているかは分からない。彼の口から刑事になりたいなんて一言も聞いたことがなかった。
刑事になりたいのだと、語っていたのは啓介だけだ。
父と同じように刑事になりたかった。
地域課での交番勤務を経て、念願の刑事課に異動になったのは去年の四月のこと。裕香は妊娠中だった。それから理央が生まれて――すぐに裕香が体調を崩した。ノイローゼのようなものだと精神科医は言った。
理央はよく泣き、あまり寝ない子供だ。相慈も育児は経験がない。まして生まれたての乳児など。触れるのさえ躊躇っていた。だから手伝うことも難しく――啓介が、仕事を休んで裕香と理央の世話をすることにしたのだ。
約半年の育児休暇を終えて戻ってきたら、籍は地域課に置かれていた。自分の代わりに後輩が刑事になっていた。それを恨むつもりはない。仕方がない。刑事課での仕事は夜勤も突発的な呼び出しもある。戻されたところでそれまでのような仕事は難しかっただろう。
ただ、きっともう、刑事にはなれない。
啓介自身が納得できていないだけだ。それが惨めさを連れてくる。
もっと違う人生はなかったのか。うまい転がし方はなかったのか。
仕方がないと言い聞かせる。
自分の腕は二本だけ。時間は誰もが一生分。掴めるものには限りがある。
「七雲さんって、例のお方の付き人をやってるんですか?」
「もう刑事課まで噂が行ってるのか?」
「そらもう。町にすっげー綺麗な顔面の人がいるって噂をまず聞いて、えっ署にいるんだけど!? ってなって、あれ誰? って周りにちょっと聞いたら……もう知れ渡ってますよ」
「どこの人間だって?」
「それは知らないです。政府から来た偉い人ってことだけ。話しかけられない限り話すなって、お達しが出てます」
情報量は啓介も同じだった。
綺麗すぎる顔、目を惹く風貌、謎の所属。
「そのうち都市伝説になりそうだな。八上町の美丈夫、とかで」
「はは、ありそうですね。あ、都市伝説と言えば……その映像」
里田は、啓介の手の内にあるCD-ROMを指した。
「見るとき気を付けてくださいね。ちょっと怖いんで」
「おかえりなさい」
謎の美丈夫に迎えられ、啓介は地域課の自席に戻って来た。
「戻りました。映像、すぐ見ますか?」
「ええ、お願いします」
パソコンに外付けドライブを繋げて、映像の再生を待つ。
「これ、なんの映像なんですか?」
「関連するかもしれない人物の防犯カメラ映像です。行方不明者の足取りを追っていて、不審な人物が映りこんでいたと報告があったもので、切り出してもらいました」
再生が始まる。
映し出されたのは閑散とした大きな道路だった。白線で確保された道をスウェット姿の青年が歩いている。画面奥からやってきて、スマホを見ながら手前へと歩いて来る。捜査資料で見た顔だった。
「木戸央路ですか。コンビニに行く途中で消えたという」
啓介にも見覚えがある場所だ。八郷山にほど近く、麓と言っていい地区だ。画角には入っていないが道路の片側は山に接しており、のり面がコンクリートで固められている場所のはずだ。
「ここです」
夏梅が指さしたのは画面の奥。目を凝らしてよくよく見れば、街灯の陰に人が立っている。首から下が足元まで白い。画質が荒くて判別が難しいが、ロングのワンピースを着た女性に見える。
彼女はじっと、木戸の背中を見ていた。そして――。
「うわっ」
地に四つん這いになり、獣のような動作で道路を渡って行った。
「ここからは、彼女を追っても見つからなかったそうです。進行方向で考えれば山に入ったのでしょう。あそこののり面は、頑張れば登れないことはない、と聞いています」
「た、確かにそうですが……」
夏梅がパソコンを操作し、別の画像を見せた。
「画像を鮮明にしたのがこちらです。それでも荒くて人相の判別はできませんが……」
画面を凝視する。うっすらだが合わせが見える。ワンピースではない。白い着物だ。
白い着物を着た女。
「『富士子さん』のようですね」
夏梅の言葉を、冗談として受け取りたかった。けれどそんなつもりで言ったのではないことを、この数時間で啓介は理解してしまっていた。
『富士子さん』はただの都市伝説だ。
夜になると現れるという、白い着物の女――。
まさか本当に、怪異の仕業だとでもいうのか。




