第4話 山姫神②
――いまよりずっと昔、八郷山の麓には一つの村があった。あるとき飢饉が起きて、小さな村は滅びかけた。村長は八郷山の山神に乞うた。夏にも冬にも飢えることがないよう、お守りくださいと。
村人たちは一年に一度、採れた作物を山に供えた。
村人たちは三年に一度、獲れた動物を山に供えた。
村人たちは八年に一度、村の娘を山に供えた。
村にあった家が、交代で供え物を用意した。
その年は『さえ』という美しい娘の番だった。それまでに供物となった女たちは一人も帰ることがなかったため、さえは祭事の前日に恋人との別れを惜しんだ。
翌日、山の禁域に差し出されたさえは、やはりいつまで経っても戻らなかった。
さえの恋人であった男は別の娘と結婚し、二人の子を授かった。
あるとき男は不治の病にかかった。いまにも死にそうな男の家の戸を叩いたのはさえであった。さえが山に入ってから、二十年が経っていた。
あの日と同じままうら若く美しい姿のさえは、男の妻に言った。
「この人を連れて行かせてください。山の奥にあるわたしの家では誰も死にません。この病もきっと治ります」
そして、許しを乞うた。
「帰せぬことを、お許しください」
妻の返事を待たずに、さえは男の枕元に寄り額を撫でた。すると、さえと男は幻のように消えた。
あとにはたくさんの作物と、たくさんのしめられた動物があった。
村人は山の奥の奥、禁域の手前まで捜索したが、さえも男も、その家も、それらの痕跡もなかった。
その後からだ。山に入ると時折、遠く声が聴こえる。出所を探しても一向に見つからぬそれは、若い男女の楽しそうな笑い声だった――。
そう。確かにそんな話だった。
地元の夏祭りではなぞらえた歌が流されたり、道の駅に置かれる地元の菓子のパッケージになったりしている。
八上の子供であれば小学生で習う。噂話の好きな年頃の子供たちが、それを下敷きに様々な話を作って広めたのだとしても不思議ではない。
「よくご存じですね。ものすごくローカルな伝説ですよ」
「ここに来てから調べたのです。役場の図書館に資料がありました」
「何故、そんな話を調べるんですか」
夏梅は薄く笑う。それがどうしてか気味悪く見えて、啓介は身震いした。
「組織的な誘拐事件でないならなんだって言うのだと、七雲さんはおっしゃいましたね」
「ええ」
「この行方不明事件を、『神隠し』と言っている者もいるようです」
――あれは『神隠し』じゃなかろうか。
相慈の言葉が思い起こされる。啓介は内心でかぶりを振った。
そんなわけがない。
「冗談でしょう。民間人の噂話を信じるんですか?」
「では」
なんなのでしょう? と夏梅は問う。
「人が消えている。まるで自分から消えたみたいに忽然と。痕跡も身代金要求もなく、死体も出ない。戻って来た者は健康体そのもので、しかし消えていた間の記憶がない。それは、『神隠し』以外のなんなのですか?」
啓介は口を閉じるほかなかった。神隠しであると思ったからではない。なにも分からないからだ。
これがなにであるのかが分かっていれば、捜査本部もこんなに迷走してはいないのだ。
しかし『神隠し』とは。
いくらなんでも突飛過ぎやしないか。比喩として言うのならともかく。
いや――本気なのだろうか?
啓介は違和感を覚えた。この土地に、ではない。
夏梅自身に、だ。
冗談で言っているようには見えない。本気でその可能性を語っているのだろう。
『国のお偉いさん』と上司は言った。所属がどこかは知らない、とも。
なんの根拠もなくそんなことを言うわけはないのだから、恐らく上司も、さらに上の役職から指示を受けたのだろう。
そんな『お偉いさん』が、くだらない都市伝説や伝承を捜査に持ってくる。
彼は何者だろうか? 本当に、『国のお偉いさん』なのか?
尋ねられるわけもない。
啓介は大人しく、資料を読み込むことにした。何も考えずに与えらえた仕事に徹していればいいと思い直したのだ。
こんなところで揉めていては、さらに立場が悪くなるだけだ。刑事課に戻るなど夢のまた夢だろう。
夏梅から返してもらった『八上町都市伝説』を開き、文字を追って行く。
懐かしい、と言えば懐かしい。
学生時代に聞いたような話がいくつかあった。
啓介は清峰小学校の出身だ。トイレの花子さんの噂はたしかにあった。
旧校舎四階の女子トイレ、一番奥の個室を三回ノックし「はーなこさん」と呼びかけると、「はあい」と返事がある、というのだ。おそらくスタンダードな内容だろう。
出るのが女子トイレということで試したことはないが、同級生の女子生徒がやってみて、なにも起きなかったとがっかりしていた記憶がある。
八郷山の黒い彼岸花。これは単純に、八郷山に登って黒い彼岸花を見つけると帰り道で死ぬ、というものだ。
実際に見つけたという話は聞かないが、自生している赤い彼岸花に黒いスプレーが撒かれているのは見たことがあった。誰かの悪戯だろう。
夜に出現する富士子さん。
高校生のときに流行った気がする。
富士子さんはいつも真っ白な着物を着ている女だ。夜に外出していると、突然前方に現れる。
遭遇した者が女であれば、富士子さんに惨く殺される。遭遇した者が男であれば、富士子さんに山へ連れ帰られる。山奥にある富士子さんの家で、生きたまま食われるのだという。
夏梅のスマホが鳴った。素早く取ると「はい」とだけ言い、切った。
啓介に向き直り、
「刑事課に行って来ていただけませんか」
啓介は返事に迷った。刑事課。できることなら近づきたくはない。
けれど夏梅はすらすらと言葉を続ける。聞き取れなかったとは言えない、明瞭で透き通った声だ。
「映像を焼き増ししてもらったので、それを取ってきてほしいのです」
嫌とも言えず、啓介は席を立った。
刑事課は三階にある。




