十二、黒衣の君のきみょうなめ
ナガスネヒコの目から読み取れたものは、この上ない悲しみだった。
憎しみも怒りも羨望も、彼の目からはうかがえない。狂ったような笑いと、イワレヒコを見下す態度は表面的なものでしかなかったのだ。
「……!!」
イワレヒコは目をそらせない。ナガスネヒコの悲しみに引き寄せられて、そのまま飲まれそうになるのに必死で抗った。
額から嫌な汗がたらたらと流れる。心臓が早鐘を打つ。両手が震えて、足ががくがくとすくむ。
下卑た笑いを浮かべてイワレヒコを見下ろす彼の心の底は、狂おしい程に悲しみで満ちていた。
『……どうして』
「……え?」
イワレヒコの頭に、泣きそうな声が響いて来た。それがナガスネヒコの声だと、なぜか直感で理解できた。
これは心の声だ。本来、声まで聞こえることはない。よっぽど、ナガスネヒコの心が強い悲しみに囚われているのだろう。
『どうして、どうして? 僕を置いていっちゃうの? そんなにワカミケヌの方が大事? 僕はいらないの?』
ニギハヤヒがイワレヒコに従うと宣言した時のことだ。ニギハヤヒは天つ神である。同時にイワレヒコもその血を引いていた。
ニギハヤヒは、不要な争いを避けるために、イワレヒコに下った。もちろん、イワレヒコであれば日本を平安へと導くことができるという確信あってのものであろうが。
『行かないで、行かないでよ……。僕にはハヤヒしかいないんだ。僕ひとりじゃ国をまとめることはできない。おねがいだ、戻ってきてよ……。行かないで……』
絶望が視える。ぐるぐると渦のようにかきまぜられた絶望は黒と鮮やかな紫と藍に染まりゆく。毒々しい色合いに、イワレヒコは吐き気を覚えた。
『嫌だ!! 行かないで! 僕にはニギハヤヒしか……貴方様しかいないのに!!』
悲痛な叫びが耳をつんざく。必死に手を伸ばして、喉がつぶれるほど声を張り上げて、大嫌いな男のもとへと下ってゆく唯一の味方を取り戻そうとして、ナガスネヒコはずっと抗っていたんだ。
『嫌だよぉ……。どうして一人にするの? 僕が嫌いなの? そいつの方が大事なの? いつまでたってもべったりな僕にはうんざりだったの……? もう何もわがまま言わないよ。何も欲しがらないよ。何も望まない、何も願わないから……だから、』
――おいてかないで。
ナガスネヒコの心が、イワレヒコに視えた。
カムヤマトイワレヒコには、奇妙な力がある。
それは彼の『眼』だ。
その目は人の心を視ることができる。
その人の目を視ると、心が分かるのだ。
目が、その人の全てを物語る。どんな過去を歩んできたか、どんな者と関わって来たか、どんな気持ちを抱いて来たか。すべてがわかってしまう。
その力を自覚したのは、幼いころだった。兄が健在で、日向でのんびりとすごしていたころからすでにその力は目覚めていた。
従者の心も友人の心も、兄弟の心も八百万の神々の心さえイワレヒコには筒抜けだった。視ることができた心は、きれいなものばかりではなかった。
腹に一物抱えたどす黒い心がうかがえたこともあった。嫉妬に狂った女官たちの毒々しい心がはっきりと目に映ったこともあった。
いつの日か、自分の目のことが周りに知られるようになった。そうするとだんだん誰もが自分を忌み嫌うようになった。恐れるようになった。信頼していた部下が、慕っていた女官が、心を見透かされるのを恐れて遠ざかった。
人が離れてゆくのは耐えられた。耐えられなかったのは、人の心が視えてしまうこの目だ。
瞼を開いていたら、否が応でも人の心が視界に入って来る。目を閉じたまま生活などできやしない。人と関わらずにひとりで生きてゆくことだってできない。
毎日が苦痛だった。醜い心ばかりが視界に入り込んで、目を通してイワレヒコを苛んだ。心を持った生物はこれほどまでに醜いのだと。自分の周りにいる者たちの笑顔はすべてまやかしだと。
力が告げるのだ、イワレヒコに人の醜さを見せつけて。
その中で救いの手を差し伸べたのは、イツセだった。
裸眼で見てもイツセの心は変わらなかった。イツセを包む水色の心は澄みきった空のようで、目が癒される思いだった。
どれほど目を凝らしても、イツセの心は、イツセだけは醜さがなかった。
晴れ渡る空のような心は、偽りでも見せかけでもまやかしでもなんでもなく、イツセそのものだった。
『大丈夫か、ワカミケヌ』
イワレヒコの目は人の心を視透かすと知っていてもイツセの心に変化はなかった。
『心が視えてしまうのか。おまえに隠し事はできんなぁ』
そういってイツセは困ったように微笑んだ。
『目と風景の間を何かで遮ってみるのはどうだ? 天津麻羅様に造っていただいたのだ』
イツセがイワレヒコに、視力矯正のための器具を渡した。それに度は入っていない。ただのガラスでできたそれが、イワレヒコを救う手立てとなった。
眼鏡と呼ばれる道具を装着すると、イワレヒコの世界がもとに戻った。
人の心は視えなくなった。眼鏡をつけている限り、イワレヒコの視界は穏やかになった。イツセの心まで遮られてしまうのは、ちょっとだけ寂しかった。
『苦しくはないか? そうか。これで俺も、堂々と隠し事ができるというものだ。あはは』
そういう兄の冗談に、イワレヒコはつられて笑った。
あの眼鏡は、兄が贈ってくれたものだった。ずっと大昔に兄がくれた。有名な鍛冶職人・天津麻羅様のお力を借りて、最高の装飾品を用意してくれたのだ。ときどき修理や定期点検に出すことはあれど、イワレヒコはそれを買い替えるということをついぞしなかった。
あの現実ではない空間で、イツセが『まだつけていたのか』と苦笑していたのは、きっと長く使われていると思っていなかったからなんだろう。
「……っく」
イワレヒコは上半身を勢いよく起こした。自分の額とナガスネヒコの額ががちんっ! とぶつかり合う。
「い……っ!」
至近距離からの頭突きはさすがのナガスネヒコにもこたえたらしい。ナガスネヒコが怯んだのを見逃さず、イワレヒコはナガスネヒコを突き飛ばして身を自由にする。吐き気と頭痛に見舞われた状態で、ふらふらしながらどうにかこうにかフツミタマを取り戻す。
必死で鞘に納め、近くの木陰に隠れる。上がった息を急いで整える。
「どこにいるのさ、ワカミケヌ」
ナガスネヒコの低い声に、少しだけ戦慄した。
イワレヒコはぎっと歯を食いしばる。
――自分は、何て馬鹿だったんだ。
恨んで憎んで嫌悪し続けた相手を、あんな風にしてしまったのは、他でもない自分だったのだ。
自分がニギハヤヒを奪ったから、ナガスネヒコはああして憎悪に囚われた塊と化したのだ。
――どうして気づかなかったんだろう。人の心をよく知る自分が、どうしてナガスネヒコの心に気づいてやれなかったんだろう。どうしてもっと赦しの心を抱くことができなかったんだろう。
私が、私こそが本当の悪だったんだ。イワレヒコはうずくまってフツミタマを握り締める。
頭上を、幽霊一体がかすめた。ナガスネヒコが放ったんだろう。
はっとして気を引き締める。顔を上げて、陰からナガスネヒコをうかがう。
醜く歪んだ笑みで、こちらへ近づいてくる。あの憎しげな笑いは表面上のものでしかない。その奥底は、海より深い悲しみが広がっている。それに気づくことができたのは幸運だったかもしれない。イツセが、ナガスネヒコの心を視ろと言ったのはそういうことだった。
ふと、左手にじんわりした温かみが生まれた。イワレヒコはそれを見下ろす。
フツミタマだ。
フツミタマが、言葉なくも自分に語りかけている。
裸眼でフツミタマをじっと見つめても、心は視えなかった。さすがに武器の心は視えないようだった。
――信頼してくれと言っているのか。
心が視えなくとも、イワレヒコにはフツミタマの意思が分かった。
フツミタマは迷いと悪を断ち切る。逆に言えば、善は斬ることができない。
少しでも、ナガスネヒコ自身に善の心があるならば、ナガスネヒコを救うことができるかも知れない。
そのためには、イワレヒコの心に迷いのないことが大前提となって来る。
フツミタマの力を信頼し、己の剣筋から迷いを捨て、一心にナガスネヒコを救おうとする心がなければ、成功はしないだろう。
――わかったよ。君を、信じよう。
フツミタマには、幾度となく救われてきた。支えられてきた。
だから今回も、君の力を信じよう。
イワレヒコは陰から踊り出る。
フツミタマを握り締め、目の前のナガスネヒコを真っ直ぐ見据える。
ナガスネヒコの手によって放たれた幽霊が、イワレヒコに襲い掛かる。鋭い風となってそれらはイワレヒコの身を裂いたが、イワレヒコは気にしない。どうせ体はぼろぼろなのだ。いまさら傷つくことなど些細なことだ。
目を伏せて、左手のフツミタマに精神を集中させる。
闇の霧が手足に絡みついても気にしない。
迷いなど捨てろ。断ち切れ。この太刀筋にすべてをかけるのだ。
今はただ、ナガスネヒコを救うのだ。それだけだ。
幽霊の陽動や襲撃が意味をなさないと気づいたナガスネヒコは、ついに彼自身でイワレヒコをうたんと動いた。華奢な右手にふわっと細身の剣が握られる。刺突用のその剣をきらめかせ、ナガスネヒコが来る。
イワレヒコは一度ふっと目を伏せる。一瞬だけでいい、少しだけ精神を落ち着ける。
「しんじゃえ」
ナガスネヒコの声が間近で聞こえる。イワレヒコは目を開いた。
鍔を親指でぐっと上げる。今だ。
其の瞬間、ナガスネヒコの剣が身に刺さるより速く、イワレヒコはフツミタマを引き抜いた。
疾風迅雷のごとく、フツミタマでナガスネヒコの『悪』を断ち切る。
真っ直ぐな太刀筋が、確かに『悪』と迷いを真っ二つに斬った。
その感覚は鮮やかで、肉を斬ったというより空を裂いたものに近かった。
フツミタマはナガスネヒコの胴を確かに斬った。手ごたえがイワレヒコにも伝わって来る。
後方で、どっとナガスネヒコが倒れる音がした。イワレヒコは振り向かず、静かにフツミタマを仕舞う。
きん、と心地良い音がした。
ナガスネヒコの安否を確認する前に、イワレヒコは体力を使い果たして、その場にばたんと倒れた。




