十一、黒衣の君とやみのこころ
相手はナガスネヒコだ。油断はできない。
ナガスネヒコは呪術を使う。闇を操り、光にも似たイワレヒコをすべて飲み込もうとする。そして幽霊を使役する。自分の手足を動かすがごとく、容易に操る。
一方、イワレヒコの頼みの綱はフツミタマだ。フツミタマは闇や穢れに強い。ひとふりすれば、たちまち悪を断ち切る。だが、その強さを最大限引き出すには使い手の腕に左右される。
具体的には、フツミタマを振るう者に迷いがあってはならないということである。その切っ先にわずかでも迷いが生じれば、その切れ味は鈍る。斬られる相手にも必要のない苦痛を与えることとなってしまう。
だから、フツミタマを手にした者は、決して迷ってはいけないのだ。迷いのない真っ直ぐな心が、フツミタマの本来の力を引き出し、すべてを断ち切ることができる。
今のイワレヒコには、それが欠けている。兄イツセに、ナガスネヒコを許せと言われたことが原因だろうか。いや、そんなのは言い訳にすぎない。
ひとえに自分が弱いからだとわかっている。ナガスネヒコに、また誰かを奪われやしないかと不安でしかたがないのだ。
そんな不安など、いつもは感じない。どんな『怪奇』を相手にしても、イワレヒコは迷うことなく臆することなく、立ち向かってきた。『怪奇』を解決するために、恐怖や不安に押しつぶされ切るということはなかった。
とはいえ、『怪奇』解決の仕事を始めたころは、さすがにまだ右も左もわからず戸惑っていることが多かった。依頼者の依頼について詳しく聞くことから始まり、『怪奇』の原因を探るために手探りで国中を駆けまわったり、見たこともない化け物に不意打ちを食らって肝を冷やしたことなど数知れず。
だがそれらは、全て久米をはじめとする従者たちが自分についてきてくれたからだ。至らぬ自分を支えようと、誰もが当たり前のように、自分に手を差し伸べてくれた。彼らの助けがあったから、音をあげることなく、立派に『怪奇』を解決する者として成長できた。
今は、その頼もしくかけがえのない従者たちはいない。フツミタマだけが自分に残されている。
自分はひとりっきりだ。そこで思い知ってしまった。自分はひとりでは何もできなかったのだと。
「つまんなぁい。もっと遊ぼうよ?」
いつの間にかナガスネヒコの右手には、刀身が婉曲した剣が握られていた。
ふわっ、と左手を空に掲げると、それに呼応するかのように幽霊がイワレヒコに襲い掛かって来る。幽霊を斬るのだけは迷いがない。イワレヒコは空から素早く降りて来る幽霊数体を薙ぎ払う。
切り捨てるたびに、幽霊たちの怨念がびりびりと伝わって来る。うらみつらみをすべて受け止めて、イワレヒコは目の前の障害物を斬る。
ひとふりふたふりと、斬っていくうちに、イワレヒコの体が重くなる。フツミタマを使うほどに、持ち主の力は吸われていくというのもあるが、徐々にイワレヒコに迷いが生じていくというのが一番の理由であろう。一旦剣を鞘にしまう。
幽霊を斬るたび、イワレヒコは自分が何も知らぬ人間を斬っているという感覚に陥った。
ナガスネヒコが正義で自分がむしろ悪なのではと、剣筋が彷徨う。
『怪奇』の騒動を解決するためならば何でもする。――たとえ、自分が悪に成り下がろうとも。
そんな決意はとうの昔にできていたはずなのに。
「弱くなったね」
ついにナガスネヒコ自身が動き始めた。剣を構えてイワレヒコの下へと跳んでいく。
イワレヒコと違って、ナガスネヒコは迷いがない。何のためらいも物思いもなく、イワレヒコを真っ二つにすることだけを考える。
鞘から抜くより早く、ナガスネヒコとの剣とフツミタマがかちりと触れ合った。
火花が散る。耳障りな音が重なる。
イワレヒコはナガスネヒコを押しのけて距離を無理やり作る。こちらはまだフツミタマを鞘におさめたままだというのに。
抜刀したとして、それがナガスネヒコを追い詰める一撃たりえるかはさておくとしても。
呪術だけかと思ったら、ナガスネヒコは剣技も優れていた。
幽霊による目くらましでイワレヒコを陽動しながら、その剣筋は確実にイワレヒコの首を狙っている。イワレヒコが首の守りを強くしたら、今度は心臓を狙ってきた。それも弾いたらまず動けなくさせようと足へと狙いを定める。
イワレヒコはというと、まだフツミタマを抜けずにいる。ナガスネヒコの攻撃が激しいうえに隙がないのだ。
うまく隙を見つけて抜刀できたとしても、その迎撃が万一ナガスネヒコに当たってしまったら、ナガスネヒコを殺しかねない。兄イツセに言われたことを実行するまでは、ナガスネヒコを殺すことはできないのだ。
ナガスネヒコの純粋に素早い剣技と幽霊の使役により、はっきりと差がつけられている。イワレヒコはナガスネヒコの攻撃を今のところはすべて弾き続けているが、完璧に相手のペースに巻き込まれてしまっている。反撃の余裕がない。
ナガスネヒコが剣をふるうたび火花が散る。金属のこすれる音が耳に届く。
冷や汗が止まらない。ナガスネヒコの虚ろに笑った眼差しがと自分の目が合うと背筋が凍る思いがした。また奪われるのではないかと。自分がここでしんだら、久米も道臣も、篠たちもおしまいだ。その重圧を糧に、イワレヒコは必死になる。だがフツミタマはまだ抜けず。
「おそい」
ナガスネヒコが言う。彼はいったん後方へ飛び、幽霊に自分を隠させ姿を消す。
イワレヒコは好機とばかりに鞘を抜こうとした。だが結局かなわなかった。
「ここだよ」
足元から声がした。無慈悲なナガスネヒコの声。はっとしてイワレヒコが気づいてももう遅い。
下から飛び上がるように、ナガスネヒコが剣を振り上げた。
どうにか攻撃を受けることは阻止できた。代わりに、フツミタマを手放してしまった。
とっさにフツミタマを前に出して攻撃に備えていたのは幸運だったのか不幸だったのか。
がきんっ、と大きな音がして、フツミタマが弾かれる。その衝撃に巻き込まれて眼鏡まで飛ばされた。フツミタマは宙を舞い、イワレヒコは後ろへバランスを崩す。
「しーめた」
(まずい……ッ!)
目の前に迫ったナガスネヒコは、上目づかいでイワレヒコの肩をがっちりつかむ。肩を掴んだ腕を前へ押し込むようにして、イワレヒコを雪で積もった地べたに押さえつけた。
背中に強い衝撃が走って、イワレヒコはむせる。喉からせり上がる何かを飲み込んで、ナガスネヒコから逃れようと身をばたつかす。
「げほ……っ」
「捕まえた。ようやく捕まえた」
「……っく」
後方で、二つ音がした。一つはフツミタマががらんと地に落ちる音。もう一つは眼鏡がかしゃんと壊れる音。
首根っこを掴まれ、馬乗りさせられた状態になる。手はがら空きで、身を守るものは何もない。
「ほぉらよく見てよ」
「……!?」
ナガスネヒコの手が暖かい。これは本当に死人の手なんだろうか。
イワレヒコは、偶然か必然か、ナガスネヒコの目を裸眼で見てしまった。ナガスネヒコが、目をそらさせないようご丁寧にイワレヒコの頬をぴったりと押さえつけて。
「どうなのさ? おまえにはどう視えるのさばけもの」
イワレヒコは、ナガスネヒコの目を通して、彼の心を視た。




