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6/15

見返りのない好意はない

ヘルンの家は畑からそう遠くなかった。


歩いて10分もかからない距離だった。


低い石塀。


木造の小さな家。


その脇には納屋が一つと、鶏が数羽歩き回る囲いが付いていた。


カイルは家の前で立ち止まった。


そしてしばらく何も言わなかった。


(これが家だと?)


東京で暮らしていた自分の家と比べてのことではなかった。


それは比較すること自体が意味をなさなかった。


黒田総一郎の住んでいた家には警備員がいて、地下駐車場があって、庭を管理する人間まで別についていた。


総裁候補になってからは、家の前に取材陣と警護要員までついた。


そんな場所と目の前のぼろい木造家屋を比べるのは滑稽なことだった。


カイルが驚いたのは別の理由だった。


(本当に平凡だな)


ヘルンに自分を引き入れるほどの余裕があるようには見えなかった。


屋根の片側は色が違っていた。


最近木の板を継ぎ足した跡だった。


戸の下も少し歪んでいた。


塀のそばには農具がいくつか整然と並んでいたが、どれも古びて見えた。


余裕のある農家ではない。


かといって極貧でもない。


ちょうど。


食っていける程度の暮らし。


黒田総一郎はそういう人間をたくさん知っていた。


正確には。


たくさん会ってきた。


選挙のたびに。


「入らないで何やってる?」


ヘルンが戸を開けながら尋ねた。


カイルは家を見つめたまま答えた。


「見ていました」


「何を見るものがあるって」


ヘルンは大したことでもなさそうに中へ入っていった。


カイルはもう一度家を見回してから後に続いた。


家の中は外から見るより狭かった。


小さな食卓。


椅子が4脚。


壁際の竈。


古びた棚の上には器がいくつか置かれていた。


そして。


「お父さん?」


若い女の声が聞こえた。


カイルが顔を向けた。


奥の部屋から女が一人出てきた。


20歳を少し超えたくらいだろうか。


茶色い髪を後ろで束ね、袖をまくり上げていた。


手には小麦粉がついていた。


女がヘルンの後ろに立つカイルに気づいた。


目が細くなった。


「誰?」


「森で拾った」


カイルの眉がぴくりと動いた。


「人をきのこか何かみたいに言わないでください」


ヘルンが振り返った。


「拾ったのは事実だろう」


「自分の足で歩いてきました」


「ゴブリンに追われて」


「……」


間違ってはいなかった。


女の視線がカイルの裂けた服と脇腹に向かった。


「怪我してるじゃない」


「大した怪我ではありません」


「血が出てるけど?」


カイルは自分の脇腹を見下ろした。


さっきゴブリンの刃がかすった場所だった。


走っている間は忘れていたが、血が服に少しにじんでいた。


女がヘルンをにらんだ。


「その状態で歩かせたの?」


「よく歩いてたぞ」


「お父さん」


「はいはい」


ヘルンが面倒くさそうに手を振った。


「とりあえず座らせろ」


女はため息をついてカイルに言った。


「ここに座って」


カイルはすぐに座らなかった。


代わりに彼女を見つめた。


女の顔には警戒があった。


ヘルンのように無条件に親しげな態度ではなかった。


むしろこちらの方が理解しやすかった。


初対面の余所者が家の中に入ってきた。


警戒するのが普通だ。


カイルは彼女に集中した。


【観察】


半透明の画面が開いた。


【ミア】


種族 : 人間


年齢 : 22


職業 : 農夫


Lv.3


筋力 : 10


体力 : 12


敏捷 : 13


感覚 : 14


魔力 : 4


状態 : 警戒 / 心配


カイルはごく短く目を閉じて開いた。


(こいつも俺より強いのか)


ここまでくると怒る気にもならなかった。


農夫のヘルン。


農夫のミア。


二人とも自分より身体能力が高かった。


24歳の健康な男の体を手に入れておきながら、農家の娘にすら劣る。


(一体この体は何をして生きてきたんだ)


だがその疑問はすぐに別のものへ移っていった。


カイル・ベルトラン。


この体には過去があるのだろうか?


家族は?


故郷は?


なぜ森の真ん中に一人でいたのか?


ステータス画面は何も教えてくれなかった。


カイルはその考えをいったん脇に置いた。


今は生き延びることが先だった。


「座ってって言ってるんですけど?」


ミアが再び言った。


「ああ」


カイルは椅子に座った。


ミアは小さな布と水の入った器を持ってきた。


「服、ちょっとめくって」


カイルが彼女を見た。


「自分でやります」


「傷は見えるの?」


カイルは見下ろした。


脇腹だった。


微妙だった。


ミアが手を伸ばした。


「じっとして」


カイルが反射的に彼女の手首をつかんだ。


ミアが固まった。


ヘルンもカイルを見た。


一瞬の静寂。


カイルは手を離した。


「すみません」


ミアが手首をさすった。


「なんでそんなに敏感なの」


カイルは答えなかった。


長年の習慣だった。


体に誰かが急に触れると、まず警護が止めた。


握手一つ。


写真一枚。


誰がどれだけ近づくかも日程チームが管理していた。


そういう生活をあまりに長く送ってきた。


ミアが再び傷口を拭った。


カイルは今度はじっとしていた。


ひりひりした。


「ウッ」


「大げさな」


「刃物で切られたんです」


「浅いわよ」


「刃物で切られたのは初めてなので」


ミアの手が一瞬止まった。


「剣も一度も握ったことないの?」


カイルは口をつぐんだ。


ステータス画面が思い浮かんだ。


剣術F。


「……ほとんど」


ミアがカイルを不思議そうに見た。


「どこかの良い家の子?」


ヘルンが竈の方から言った。


「良い家の子があの格好で森に転がってるわけないだろう」


「それもそうね」


カイルは二人の会話を聞きながら内心思った。


日本にいれば十分に良い家の子扱いを受けていた人間ではあった。


わざわざ説明する必要はなかった。


ミアが傷口に布を巻いた。


「よし」


「ありがとうございます」


カイルが自然に言った。


そして少し不思議な気分になった。


ありがとう。


最近あの言葉を心から言ったのはいつだったか。


よく思い出せなかった。


政治家になってからも数え切れないほど口にした。


ありがとうございます。


感謝します。


国民の皆様に感謝申し上げます。


党員同志の皆様に感謝申し上げます。


いつも笑顔で言っていた。


だがそれは言葉だった。


必要だから言う言葉。


今は。


少し違った。


カイルはその考えを不快に感じて押しのけた。


***


夕食と呼ぶにはまだ早い時間だった。


だがカイルは食卓の前に座っていた。


食卓の上には黒パンが数切れ。


じゃがいものような根菜。


そして豆と肉が少し入ったスープが置かれた。


カイルはスープを見下ろした。


華やかではなかった。


いや。


正直に言えば貧相だった。


前世の自分なら食卓に出ても手をつけなかった食事だった。


大臣になってからは食堂へ行く時も随行チームが事前に確認していた。


議員時代には地元の市場の食べ物も、カメラがある時だけ美味しそうに食べた。


撮影が終われば別の店に移動した。


カイルはスプーンを取った。


スープを口に入れた。


「……」


しょっぱかった。


そして少し焦げていた。


ヘルンが尋ねた。


「どうだ?」


カイルはヘルンを見た。


ミアも見つめていた。


ミアの目には微妙な圧力があった。


カイルは数秒迷った。


「美味しいです」


ミアが笑った。


「嘘」


カイルが止まった。


「なぜそう思うんですか」


「今の顔を見たから」


ヘルンが笑った。


「こいつ、料理はちょっと苦手でな」


「お父さん!」


「事実だろう」


カイルはスプーンを見下ろした。


そしてもう一口食べた。


味は相変わらず微妙だった。


だが。


腹が減っていた。


3口目からは味もあまり感じられなくなった。


カイルは黙って食べ始めた。


早く。


パンをスープに浸して食べ。


根菜を噛んだ。


自分でも気づかないうちに速度が上がった。


ヘルンとミアが何も言わずにその様子を見つめていた。


カイルがその視線に気づいて手を緩めた。


「なぜ見るんですか」


ヘルンが言った。


「よほど腹が減ってたんだな」


「そのようです」


「もっと食え」


ヘルンが自分のパンを一切れカイルの方へ押しやった。


カイルの手が止まった。


ヘルンはすでに自分の分のパンを半分以上食べていた。


カイルはパンを見つめた。


そしてヘルンを見た。


「結構です」


「腹が減ってる顔じゃないぞ」


「もう十分食べました」


ぐう。


腹が裏切った。


ミアが吹き出した。


カイルの顔が強張った。


ヘルンがパンをさらに押した。


「食え」


カイルはパンを取らなかった。


「なぜそうするんですか」


カイルが尋ねた。


「何が」


「一つお聞きします」


「何だよ」


「あなたは俺に何を望んでいるんですか」


ヘルンの手が止まった。


ミアがカイルを見た。


カイルは真剣だった。


「さっきも聞いただろう」


「まともな答えをもらってません」


ヘルンが呆れた表情を浮かべた。


「飯一食食わせるのにまともな答えが必要か?」


「必要です」


カイルがスプーンを置いた。


「俺には金がありません」


「知ってる」


「ここに知り合いもいません」


「それもわかってる」


「力もありません」


その言葉は少し自尊心が傷ついたが事実だった。


「だから今すぐあなたに差し上げられるものはほとんどありません」


ヘルンは黙って聞いていた。


「それでも人は理由なく他人に何かを与えたりしません」


ミアの表情が微妙になった。


ヘルンが尋ねた。


「お前のとこじゃそうなのか?」


カイルは一瞬答えられなかった。


(お前のとこ)


日本。


政界。


そのどちらを基準に言うべきかわからなかった。


結局答えた。


「俺のいたところではそうでした」


「疲れる街だな」


あまりにも単純な答えだった。


カイルの眉が上がった。


「人に良くしてやると、普通は何かを期待するものです」


「そういうこともあるだろうな」


「金でも」


「うん」


「助けでも」


「そうだな」


「後で受け取る好意でも」


ヘルンがうなずいた。


「それで?」


「あなたは何を望んでいるんですか」


ヘルンはしばらくカイルを見つめていた。


そして尋ねた。


「本当にわからなくて聞いてるのか?」


カイルは答えなかった。


ヘルンがため息をついた。


「お前、腹が減ってたじゃないか」


「それは理由になりません」


「なんでならない」


「それは俺の事情であって、あなたの事情じゃないからです」


ヘルンの顔から笑みが消えた。


怒ったわけではなかった。


むしろカイルを少し変な人間を見るような目で見た。


「人は腹を空かせてる人間に飯を食わせることぐらいできるだろう」


「なぜですか」


「……」


今度はヘルンが詰まった。


ミアが割り込んだ。


「単純に可哀想だからじゃないの?」


カイルが彼女を見た。


「それも結局は感情的な見返りじゃないですか」


「何ですって?」


「助けたことで、自分が良い人間だっていう満足感を得るわけですよね」


ミアの口が開いた。


ヘルンも呆れた顔だった。


カイルは自分がおかしなことを言っているとは思わなかった。


政治では常に動機を分析した。


善意を主張する人間ほど、より徹底的に見た。


環境団体は何を望んでいるのか。


市民団体は誰とつながっているのか。


企業はなぜ寄付するのか。


メディアはなぜ特定の記事を後押しするのか。


すべての行動の裏には利害関係があった。


それを見つけ出すのが政治だった。


ヘルンはしばらくカイルを見つめてから突然笑い出した。


「本当に変な奴だな」


「……」


「お前な」


ヘルンが自分の胸を指で叩いた。


「腹を空かせた人間に飯を食わせれば、気持ちが少し楽になることはある」


「それならやはり……」


「だがな」


ヘルンがカイルの言葉を遮った。


「それの何が問題なんだ?」


カイルが止まった。


ヘルンは大したことでもなさそうに言った。


「お前は腹を満たす」


「……」


「俺は人一人飢えさせずに済んで気分がいい」


ヘルンが肩をすくめた。


「両方いいならそれでいいだろう」


カイルは何も言えなかった。


論理があまりにも単純だった。


単純すぎて反論の言葉を見つけられなかった。


ヘルンが再びパンを押した。


「だから食え」


カイルはパンを見つめた。


まだ受け取るべき理由を探していた。


その瞬間、ミアが言った。


「食べないなら私が食べるけど」


カイルの手がすぐに動いた。


パンを取った。


「食べます」


ミアがくすりと笑った。


ヘルンも笑った。


カイルだけが笑わなかった。


だがパンを一口かじりながらも考え続けた。


(本当にそれだけなのか?)


***


食事が終わった後。


カイルは初めてこの世界について質問し始めた。


あまりにも露骨に何も知らないふりはできない。


記憶が曖昧だという言い訳をずっと利用した。


「ここはどこだと言いましたっけ」


ヘルンが椅子を後ろに傾けながら答えた。


「ラベルンの近く」


「ラベルン」


初めて聞く地名だった。


カイルは頭の中に書き留めた。


「村ですか?」


「村だ」


「規模は?」


ヘルンが変な顔をした。


「急にそんなことなんで聞くんだ?」


「記憶を確かめてみようと思って」


嘘だった。


ヘルンは特に疑わずに答えた。


「家が200軒ちょっとあるはずだ」


カイルは内心計算した。


一軒あたり平均4、5人。


(1000人くらいか)


「一番近い都市は?」


「カルセン」


「どれくらいかかりますか」


「歩いて3日」


カイルの表情がわずかに変わった。


3日。


思ったより遠かった。


「ラベルンは誰の土地ですか」


今度はヘルンが明らかに変な顔をした。


「それも覚えてないのか?」


カイルは平然とうなずいた。


ヘルンはしばらくカイルの頭を心配そうに見てから言った。


「セルバン伯爵領だよ」


伯爵。


カイルはその単語を噛みしめた。


貴族制。


少なくとも現代社会ではない。


「伯爵は直接ここに住んでるんですか?」


「まさか」


ミアが代わりに答えた。


「伯爵様はカルセンにいらっしゃいます」


「では村は誰が管理してるんですか」


カイルの関心が少し上がった。


「村長」


「村長は誰が任命するんですか」


ヘルンが笑った。


「記憶を探してる奴が、やけに細かいこと聞くな」


カイルは平然とスープの器を片付けた。


「思いついたことを聞いてるだけです」


「数年前までは村人たちが選んでたな。今の村長は伯爵家から承認を受けた人間だ」


カイルの目つきがわずかに変わった。


村。


村長。


貴族。


そして衛兵隊。


さっきデリックが言っていたことまでつながった。


組織がある。


権力がある。


人々がいる。


だとすれば。


政治もある。


カイルは自分でも気づかぬうちに口角を少し上げた。


ヘルンがそれを見つけた。


「何笑ってる?」


「何でもありません」


政治力99という数値が、初めてほんの少し現実的に感じられた。


人のいない森では何の役にも立たなかった。


だが人が集まる場所なら話は別だった。


黒田総一郎は生涯、人の間で生きてきた。


一人が二人になり。


二人が10人になり。


10人が組織になれば。


10人が組織になれば。


その時から力が生まれる。


力が生まれれば利害関係が生まれる。


そして利害関係が生まれた瞬間。


それは自分の知る世界だった。


「明日、村に行ってみたいです」


ヘルンが答えた。


「そのつもりだった」


「え?」


「お前の正体が何なのかも調べないとな」


「正体とは」


「行方不明になってる人間がいるかもしれないし」


カイルは一瞬固まった。


そこまでは考えていなかった。


もし元々『カイル・ベルトラン』という人物が実在していたら?


家族がいたら?


誰かが探していたら?


カイルは自分の手を見つめた。


ステータス画面では確かに自分の名前をカイル・ベルトランと言っていた。


だがそれ以外は何もわからなかった。


ヘルンが席を立った。


「それにデリックがゴブリンの話を衛兵隊にしただろうから、明日は少し騒がしくなるかもな」


カイルが尋ねた。


「ゴブリンってそんなに珍しいんですか」


「ゴブリン自体は珍しくない」


「では?」


ヘルンの表情が少し強張った。


「森の奥にいる奴らが畑まで出てくるのは珍しい」


第5話でも聞いた話だった。


カイルは覚えておいた。


同じ情報が2度出てきた。


それは偶然ではない可能性が高い。


「魔物はよく現れるんですか」


ミアが笑った。


「本当に何も覚えてないみたいね」


「そのようです」


ミアは少し気の毒そうな表情でカイルを見た。


その視線は気に入らなかったが我慢した。


「魔物なんてどこにでもいますよ」


「どこにでも?」


「村の外なら」


カイルの表情が強張った。


ミアは何でもないことのように話を続けた。


「それでも衛兵隊が周りを片付けてくれるから普通は大丈夫。森の奥深くに入らなければ」


普通は。


カイルはその単語が引っかかった。


「たまに大丈夫じゃない時もあるということですか」


ミアの顔から笑みが少し消えた。


ヘルンが代わりに言った。


「それは明日話そう」


「なぜですか」


「今日は食って休め」


カイルはさらに聞こうとして止めた。


情報を得るにも順序がある。


初対面の相手にあまりに多くの質問を投げれば疑われる。


今日はもう十分だった。


ラベルン。


人口およそ1000人。


セルバン伯爵領。


村長。


衛兵隊。


魔物。


カルセンまで3日。


現在自分が持っている情報にしては悪くなかった。


ヘルンが小さな部屋を一つ指差した。


「あそこで寝ろ」


カイルは部屋の中を見た。


ベッドと呼ぶには小さな木の枠の上に藁と布を敷いた程度だった。


だが森の地面よりはずっとましだった。


「いくらですか」


ヘルンが振り返った。


「何が」


「宿泊費です」


「ない」


「では明日畑仕事でも……」


「怪我人にどんな仕事させるんだ」


カイルはまた言葉を失った。


ヘルンが面倒くさそうに手を振った。


「いいから寝ろ」


そして自分の部屋に入っていった。


ミアもその後を追いかけようとして立ち止まった。


カイルを一度見た。


「お父さん、もともとちょっとそういう人なの」


「どういうことですか」


「人を簡単に信じるの」


ミアはしばらく考えた。


「だからいつも損してる」


カイルは彼女を見つめた。


その時ようやく少し理解できた。


「なるほど」


やはりあった。


見返りのない好意の結果。


損。


カイルにとってはむしろその言葉の方がずっと自然だった。


ミアが小さく笑った。


「でも不思議なことに」


「何がですか」


「そんな生き方をしてても、まだ潰れてないのよね」


彼女は自分の部屋に入っていった。


カイルだけが残った。


***


夜。


カイルはなかなか寝つけなかった。


見知らぬ天井。


見知らぬベッド。


見知らぬ体。


窓の外からは虫の鳴き声が聞こえた。


彼は手を上げて見つめた。


若い手。


まだ自分のものだとは思えなかった。


「カイル・ベルトラン」


小さく名前を呼んでみた。


違和感があった。


黒田総一郎。


その名前で60年以上生きてきた。


人々は自分を議員先生と呼んだ。


大臣。


総裁候補。


最後には総理と先に呼んでいた者もいた。


だが今は。


何者でもなかった。


カイル。


24歳。


レベル1。


剣術F。


魔法F。


政治力99。


そして今日初めて会った農家の家で、ただで飯を食わせてもらい、寝床まで借りている。


黒田総一郎だったらありえないことだった。


カイルは目を閉じた。


するとヘルンの言葉が思い浮かんだ。


お前は腹を満たす。


俺は人一人飢えさせずに済んで気分がいい。


両方いいならそれでいいだろう。


カイルは眉間にしわを寄せた。


「馬鹿げたことを」


世の中はそんなに単純ではない。


人には常に目的がある。


欲がある。


見返りがある。


それを知らない人間は利用される。


黒田総一郎はそう信じてきた。


そしてその信念で総理の座の直前まで行った。


(結局は落ちたが)


藤堂修一の顔がふと頭に浮かんだ。


カイルはすぐに目を開けた。


「……」


気分が悪くなった。


その考えはしないことにした。


代わりに明日のことを考えた。


ラベルン。


村。


人々。


そこへ行けば、この世界のことがもう少しわかるだろう。


もしかしたら自分が何者なのかも。


そして。


生きていく方法も。


カイルは再び目を閉じた。


一つだけ確かなことがあった。


森では政治力など何の役にも立たなかった。


だが村なら。


人が100人。


1000人集まっている場所なら。


話は違った。


(人が住んでいる場所なら)


カイルの口角がほんの少し上がった。


(結局は全部似たようなものだろう)


***


翌朝。


その考えがどれほど早く裏付けられるか。


カイルはまだ知らなかった。


ヘルンについてラベルンへ向かってから間もなく。


村の入り口の前で荒々しい声が聞こえた。


「止まれ」


カイルが顔を上げた。


革の鎧を着た男が3人、道を塞いでいた。


腰には剣が下がっていた。


その中の一人がカイルを上から下まで眺めた。


「見ない顔だな」


カイルは男の目を見つめた。


男が手を差し出した。


「余所者なら金を出せ」


カイルはゆっくりとその手を見下ろした。


そして思った。


(そうか)


ひどく見覚えのある感覚だった。


場所が変わっただけで。


人の住む場所は。


やはり大して変わらなかった。

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