話の通じない奴は御免だ
政治力99。
元経済産業大臣。
衆議院議員四回。
総裁候補。
その経歴の全てのうち。
今すぐ自分の命を救えるものは何一つなかった。
「キイィィッ!」
ゴブリンが駆けてきた。
5歩。
4歩。
カイルは本能的に体を回した。
前方には畑があった。
そして畑の真ん中に。
鍬を持った男が立っていた。
「助けてくれ!」
カイルが叫んだ。
男の目が見開かれた。
「なんだと!」
初めて聞く言葉だった。
確かに初めて聞く言語だった。
なのに。
理解できた。
カイルはその事実を不思議がる余裕もなかった。
「後ろだ!」
男が叫んだ。
カイルは反射的に頭を下げた。
ヒュッ!
頭の上を錆びた刃が通り過ぎた。
ゴブリンが近すぎた。
カイルはそのまま前に体を投げ出した。
土の地面を転がった。
「くそっ!」
男が鍬を放り出した。
そして畑の端へ駆けていった。
(逃げるのか?)
カイルは思わず罵声を上げそうになった。
だが男は逃げたのではなかった。
柵に立てかけてあった長い柄の道具をつかんだ。
先端に古びた鉄の刃がついていた。
槍。
いや。
正確には、農作業用の熊手を長く改造したものに近かった。
男がそれを両手で構えた。
「こっちに来い!」
カイルは考える間もなく男の方へ走った。
ゴブリンも追ってきた。
「キイッ!」
男の顔が強張った。
緊張していた。
手も少し震えていた。
戦士には見えなかった。
だが逃げはしなかった。
カイルが男の脇を通り過ぎる瞬間。
「かがめ!」
カイルが体を低くした。
男が熊手を前に突き出した。
ズブッ。
ゴブリンの肩に鉄の刃が突き刺さった。
「キアアッ!」
奴が悲鳴を上げた。
男の顔が歪んだ。
「くそ、外れたか!」
ゴブリンが熊手をつかんだ。
力で押し返した。
男の体が前に引きずられた。
「うおっ!」
カイルの目が見開かれた。
(あの人間も圧倒的に強いわけじゃない)
男が歯を食いしばった。
ゴブリンが錆びた刃を振り上げた。
カイルの頭が素早く回転した。
戦うか?
だめだ。
自分は剣術F。
筋力7。
あの男一人で抑えられなければ、二人とも危険だ。
その瞬間。
遠くから声が聞こえた。
「ヘルン!」
男が顔を上げた。
「ここだ!」
森の反対側から一人の人物が駆けてきていた。
弓を持っていた。
中年の男。
背中には小さな狩猟袋が下がっていた。
彼は走りながら矢を取り出した。
弦を引いた。
ヒュン。
矢が飛んだ。
ズブッ!
ゴブリンの首に突き刺さった。
「ケルッ!」
奴の体が揺れた。
矢がもう一本飛んできた。
今度は胸だった。
ゴブリンが数歩よろめいて地面に倒れた。
ばたり。
そして動かなくなった。
静寂。
カイルはしばらくその光景を見つめていた。
息が荒かった。
胸が狂ったように打っていた。
本当に死んだ。
さっきまで自分を殺そうと追いかけてきた存在が。
矢2本で。
「ふう」
熊手を持っていた男が大きく息を吐いた。
そこでようやく手の力を抜いた。
「こんな近くまで下りてくるとはな」
猟師がゴブリンの死体の方へ近づいた。
「森から追われてきたのか?」
男がカイルを見た。
「そのようだ」
二人の会話を聞きながら、カイルはふとあることに気づいた。
【観察】
目の前の猟師に集中した。
半透明の画面が現れた。
【デリック】
種族 : 人間
年齢 : 42
職業 : 猟師
Lv.8
筋力 : 18
体力 : 17
敏捷 : 21
感覚 : 26
魔力 : 3
状態 : 警戒
カイルはしばらく言葉を失った。
(レベル8)
自分はレベル1。
さらに呆れたのは能力値だった。
敏捷21。
自分は9。
感覚は26。
自分は11。
カイルは内心で舌打ちした。
(猟師でこの程度なら)
戦士と呼ばれる連中はいったいどれほど強いのか。
続けて熊手を持っていた男を見た。
【ヘルン】
種族 : 人間
年齢 : 48
職業 : 農夫
Lv.4
筋力 : 15
体力 : 17
敏捷 : 10
感覚 : 12
魔力 : 1
状態 : 緊張 / 疲労
カイルのまぶたがかすかに震えた。
(農夫)
もう一度確認した。
職業 : 農夫。
なのに筋力15。
カイルは7。
体力も自分の倍以上高かった。
カイルは思わず苦笑した。
「これはまた」
ヘルンが彼を見た。
「何だ?」
「何でもない」
平凡な農夫にすら力で負ける体だった。
総裁候補から農夫以下へ。
人生の落差にしては大きすぎた。
デリックがゴブリンの首から矢を抜いた。
血のついた矢じりを草で拭った。
「一人だったのか?」
カイルはその言葉が自分に向けられたものだと少し遅れて気づいた。
「はい」
「森からか?」
「そうです」
デリックとヘルンが同時にカイルを見つめた。
不思議に思うのも当然だった。
ぼろぼろの服。
武器もない。
荷物もない。
森から一人で歩いて出てきた。
ヘルンが尋ねた。
「どこから来た?」
カイルは口を開いた。
そして止まった。
この質問は予想しておくべきだった。
どこから来たか。
日本の東京。
そう答えるわけにはいかない。
(この世界の地名すら知らないのに)
嘘にも最低限の材料が必要だ。
黒田総一郎は嘘をたくさんついてきた。
正確に言えば。
相手が信じたい形に事実を整えることを、数え切れないほどやってきた。
だが今は材料がなかった。
「それが」
カイルが少し言葉を選んだ。
「記憶が曖昧なんです」
ヘルンの眉が上がった。
デリックがカイルを上から下まで見た。
「記憶が?」
「気づいたら森の中でした」
完全な嘘ではなかった。
「その前のことは?」
カイルは首を振った。
「よくわかりません」
都合の良い答えだった。
正体を説明する方法がなければ、記憶喪失が一番簡単だ。
前世だったら絶対に通用しなかった、ずさんな言い訳だった。
記者なら三言も聞けば穴を見つけただろう。
だがここは、カイルが何者かを確認できる住民登録も、携帯電話も、インターネットもない世界だった。
デリックが疑わしげな表情を浮かべた。
「名前は?」
これには答えられた。
カイルはほんの一瞬ためらった。
黒田総一郎。
その名前が先に浮かんだ。
だがステータス画面に記された名前は別だった。
カイル・ベルトラン。
「カイル」
言ってみると変な感じがした。
口に馴染んでいなかった。
彼は少し遅れて付け加えた。
「カイル・ベルトランです」
ヘルンがうなずいた。
「ベルトラン?」
しばらく考える表情。
「この辺りの姓じゃないな」
カイルは答えなかった。
デリックが再び尋ねた。
「武器は?」
「ありません」
「荷物は?」
「ありません」
「仲間は?」
「いません」
三回目の答えあたりから、デリックの表情がだんだんおかしくなっていった。
「金は?」
カイルは沈黙した。
デリックが呆れ笑いを漏らした。
「それもないのか?」
「……はい」
ヘルンも呆れたようにカイルを見た。
「一体何を持ってるんだ」
カイルも聞きたかった。
政治力99。
そんなことを言えば頭がおかしいと思われるに決まっていた。
「体はあります」
ヘルンがカイルを一度見回した。
裂けたシャツ。
血のついた脇腹。
土まみれの顔。
まだ息も整っていない状態。
「その体も、あまり調子が良さそうには見えないが」
カイルは反論できなかった。
事実だった。
デリックがゴブリンの死体をつま先でひっくり返した。
「単独個体のようだが」
ヘルンが尋ねた。
「問題あるのか?」
「最近、森の奥でこいつらが少しずつ見かけられるって話はあった」
「ここまではあまり下りてこないだろう」
「だから妙だって言ってるんだ」
デリックが森を見つめた。
しばらく警戒するように周囲を見回した。
「当分一人で入るなよ」
ヘルンが肩をすくめた。
「そんな馬鹿な真似するか」
二人はごく自然に会話を交わしていた。
だがカイルは今出た言葉を頭に留めておいた。
最近。
森の奥。
少しずつ増えているゴブリン。
まだその情報が何を意味するのかはわからなかった。
それでも習慣だった。
情報はとりあえず記憶する。
必要かどうかは後で決めればいい。
黒田総一郎の頃もそうだった。
たいしたことのない地方紙の記事一つが、数ヶ月後に対立候補を倒す刃になることもあった。
デリックが弓を背中に掛けた。
「これを持って衛兵隊に行ってみよう」
「ゴブリン一匹で?」
「ここまで出てきたんだぞ」
デリックがカイルを一度見た。
「こいつも連れて行くか?」
カイルの耳が反応した。
衛兵隊。
初めて聞く組織名だった。
行くべきか。
状況を把握するには人と組織がいる場所に入っていく方がいい。
だがヘルンが先に言った。
「この状態で?」
カイルを指差した。
「まず飯を食わせないと」
カイルがヘルンを見た。
「え?」
「さっきから腹の音が聞こえてたぞ」
カイルの顔が強張った。
まさか。
ぐう。
見事なタイミングで腹が鳴った。
デリックが笑い出した。
「それは森でも聞こえるだろうな」
カイルは何も言わなかった。
64年生きてきて、数多くの屈辱を経験してきた。
国政調査で野党議員に怒鳴られたこともあった。
大臣の指名聴聞会でプライベートな質問を受けたこともあった。
総裁選の討論で面と向かって嘘つき呼ばわりされたこともあった。
なのに、腹が減っていることを知られたのがなぜこんなに気分が悪いのかわからなかった。
ヘルンが熊手を肩に担いだ。
「ついてこい」
「どこにですか?」
「俺の家だ」
カイルは動かなかった。
ヘルンが数歩歩いてから振り返った。
「どうした?」
「なぜ俺を家に連れて行くんですか」
ヘルンがおかしな質問を聞いたような顔で見た。
「飯を食わせるためだ」
「なぜそんなことをするんですか」
今度はヘルンがしばらく言葉に詰まった。
デリックもカイルを見た。
カイルは真剣だった。
見返りのない好意は存在しない。
黒田総一郎はそうやって生きてきた。
最初はあったのかもしれない。
だが少なくとも自分が知っていた政界にはなかった。
誰かが飯を奢れば頼み事があった。
金を渡せば見返りがあった。
選挙を手伝えばポストを望んだ。
企業が後援すれば政策を望んだ。
メディアが好意的なら情報を望んだ。
誕生日プレゼント一つにさえ理由があった。
この世に無料のものなどなかった。
特に見知らぬ人間への無料の施しなど。
なおさらだった。
カイルが尋ねた。
「何が望みですか」
ヘルンの目が細くなった。
「何?」
「金はありません」
「知ってる」
「仕事をさせるつもりなら先に条件を……」
「おい」
ヘルンが言葉を遮った。
カイルが口を閉じた。
ヘルンがため息をついた。
「お前、今腹が減ってるだろう」
「……」
「怪我もしてる」
カイルが何も言わずにいると、ヘルンが付け加えた。
「だから飯を食おうって言ってるんだ」
「それが理由ですか」
「それ以外にどんな理由がいるんだ」
カイルは答えられなかった。
ヘルンはこれ以上説明する気がないらしく体を返した。
「食いたくないなら勝手にしろ」
そして畑の向こうにある小さな家へ向かって歩いた。
デリックが笑いながらカイルの肩を一度叩いた。
「行けよ」
「……」
「ヘルンの飯は美味くはないが、死にはしない」
遠ざかっていたヘルンが振り返って叫んだ。
「聞こえてるぞ!」
デリックが笑った。
カイルは二人を交互に見つめた。
理解できなかった。
本当に。
何も要求しないというのか?
初めて会う人間に?
カイルはしばらく立っていた。
そこでまた腹から音がした。
ぐう。
彼はため息をついた。
「政治力99」
ゆっくりとヘルンの後を追った。
「本当に飯は買えないんだな」
数歩後ろ。
カイルはふと森を振り返った。
さっきまで自分を殺そうとしていたゴブリンは、もう動かなくなっていた。
言葉も通じなかった。
取引も成立しなかった。
脅しも懐柔も無意味だった。
カイルは眉をひそめた。
「やっぱりな」
小さくつぶやいた。
「話の通じない奴が一番御免だ」
その時はまだ知らなかった。
その言葉が。
この世界で数え切れないほど繰り返されることになるとは。




