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政治力99は飯を食わせてくれない

ポキッ。


枝が折れた。


カイルは動かなかった。


正確には、動けなかった。


つい先ほどまでは腹が減っていた。


どこで水を手に入れればいいか。


どちらへ進めば人に会えるか。


そんなことを考えていた。


だが今は違った。


茂みの向こうから聞こえる荒い息遣い。


フーーッ。


フー。


人間のものではなかった。


(獣か?)


カイルは唾を飲み込んだ。


初めて目覚めた森だった。


どんな動物が住んでいるかも分からない。


猪くらいなら?


いや。


猪でも問題だった。


今の体では素手で戦えない。


虎ならなおさらだった。


カイルの目が周囲を素早く走った。


石。


木の枝。


逃げられそうな方向。


隠れられそうな木。


頭の中で選択肢が素早く整理された。


政界で危機が起きた時と似ていた。


事故が起きればまず状況を把握する。


次に被害規模を計算する。


戦うか。


切り捨てるか。


隠すか。


それを決める。


問題は。


今の相手が記者でも、検察でも、党内の政敵でもないということだった。


茂みが揺れた。


カイルはゆっくりと一歩後ろに下がった。


まさにその瞬間。


それが姿を現した。


「……」


カイルの口が開いた。


背丈は自分の腰くらい。


皮膚はくすんだ緑色だった。


体は痩せているのに腹だけ奇妙に膨らみ、細長い耳が両側に突き出ていた。


手には錆びた刃物のようなものを持っていた。


鼻は潰れていて、唇の間から黄ばんだ牙が突き出ていた。


カイルの頭に浮かんだ言葉は一つだった。


(ゴブリン?)


そんなものが実在するはずがなかった。


なのに目の前にいた。


思っていたよりずっと汚かった。


ずっと醜かった。


そして臭いもひどかった。


カイルは思わず顔をしかめた。


「本当にろくでもないな」


ゴブリンが首を傾げた。


「グルッ?」


互いの目が合った。


カイルは動かなかった。


ゴブリンも一瞬、動かなかった。


奇妙な対峙だった。


カイルはふと、先ほど得た能力を思い出した。


観察。


(こういう時に使うんだろう)


ステータス画面を開いた時と似た感覚で、目の前のゴブリンに集中した。


しばらくして。


半透明の窓が現れた。


【ゴブリン】


種族:魔物


Lv.3


筋力:12


体力:11


敏捷:14


魔力:2


状態:空腹/興奮


カイルの表情がこわばった。


自分のステータスを思い出した。


筋力7。


体力8。


敏捷9。


そして。


レベル1。


カイルは再びゴブリンを見た。


「……お前、俺より強いのか?」


ゴブリンは当然、答えなかった。


代わりに口を大きく開けた。


「キイイィィク!」


カイルの肩がびくりと動いた。


怯えたからではない。


少なくとも、本人はそう思っていた。


急に大きな音がしたから驚いただけだった。


カイルはゆっくりと両手を挙げた。


「まあ」


ゴブリンが少しためらった。


「落ち着いて」


「グルッ?」


「別に戦う必要はないだろう」


言葉を口にしてから、カイル自身も少し変だと思った。


だが癖だった。


問題が起きたらまず話す。


話が通じなければ取引する。


取引が通じなければ圧をかける。


それでも駄目なら相手の内部を割る。


それが黒田総一郎が何十年も問題を処理してきたやり方だった。


「俺はお前の縄張りだとも知らずに入り込んだ」


カイルはできるだけ落ち着いて言った。


「お前のものを奪うつもりも特にない」


ゴブリンが刃物を持った手を振った。


「キイク!」


「ああ。腹が立つのは分かる」


カイルは再び奴のステータスを見た。


【空腹】


その言葉で視線が止まった。


腹が減っている。


つまり欲しいものがあるということだ。


欲しいものがあれば取引ができる。


カイルは無意識にポケットに手を入れた。


そして止まった。


空のポケット。


金はない。


食べ物もない。


「……」


ゴブリンが一歩近づいた。


カイルが一歩後ろに下がった。


「待て」


ゴブリンがまた近づいた。


「食べ物が要るんだろう?」


「グルッ」


「俺もない」


「キイク!」


「だからって俺を食っちゃいけないだろう」


言いながらも妙だった。


今、自分はゴブリンと交渉していた。


いや。


一方的に交渉を試みていた。


黒田総一郎時代なら、最低でも相手が欲しがるポストの一つくらいは投げてやれたはずだ。


企業なら事業権。


議員なら公認。


官僚ならポスト。


メディアなら情報。


人にはどんなものにも値段があった。


だが今は、与えられるものが何もなかった。


カイルは初めて、極めて単純な事実に気づいた。


政治にも資産が必要だった。


自分には今。


何もなかった。


「政治力99が何になる」


カイルがつぶやいた。


ゴブリンが刃物を振り上げた。


「資産がゼロなのに」


奴が地を蹴った。


「キイイィィク!」


「くそっ!」


カイルは横に身を投げた。


ヒュッ!


錆びた刃がすぐ目の前を通り過ぎた。


風が頬をかすめた。


カイルは地面を転がった。


「うっ!」


肩が岩にぶつかった。


痛みが走った。


だが痛がって寝ている場合ではなかった。


ゴブリンが体を回した。


思ったより速かった。


カイルは反射的に地面に落ちていた太い枝を掴んだ。


両手で握りしめた。


(それでも二十四歳だしな)


相手は自分の腰の高さしかない。


一発まともに当てれば何とかなるかもしれない。


カイルは歯を食いしばった。


ゴブリンが駆けてきた。


「うおっ!」


カイルは枝を大きく振り回した。


ゴンッ!


当たった。


正確に脇腹を打った。


カイルの目が見開いた。


「よし!」


ゴブリンがよろめいた。


そして。


顔を向けた。


「……」


カイルの表情が徐々にこわばった。


ゴブリンが歯をむき出した。


少し腹を立てているようだった。


それだけだった。


「この程度か?」


ゴブリンの刃物が動いた。


カイルは体を後ろに引いた。


遅かった。


シュッ!


シャツの片側が裂けた。


脇腹に熱い感覚が走った。


「うっ!」


カイルは数歩後ろに下がった。


手で脇腹を触った。


血がついた。


深くはなかった。


だが確かに切られていた。


カイルは血のついた手をしばらく見つめた。


死ぬこともあり得る。


その事実が急に鮮明に迫ってきた。


さっきまではどこか現実感がなかった。


死んで別の世界に来た。


若返った体。


ステータス画面。


ゴブリン。


あり得ないことが立て続けに起きて、むしろ夢のように感じていた。


だが血は本物だった。


痛みも本物だった。


ここで喉を切られれば。


また死ぬ。


(もう一度転生させてくれる保証もないしな)


カイルの呼吸が荒くなった。


ゴブリンが再び刃物を構えた。


今度は笑っているように見えた。


「キイク。キイク」


カイルの顔が歪んだ。


「この野郎が」


腹が立った。


たかがこんなものに。


大統領になる寸前まで行った自分が。


経済産業大臣まで務めた自分が。


衆議院議員を四回務めた自分が。


ゴブリン一匹に殺されそうな状況だった。


「俺を誰だと思って」


カイルは言いかけて止まった。


自分でも呆れた。


ゴブリンが知るはずがなかった。


いや。


知っていても何の意味もなかった。


ここは日本ではない。


衆議院議員という肩書きも。


大臣という役職も。


総裁候補という経歴も。


何の力も持たなかった。


カイルは初めて、過去の自分がどれほど多くのものに囲まれていたかを悟った。


護衛。


秘書。


側近。


運転手。


党組織。


メディア。


金。


権力。


黒田総一郎が一言発すれば動く人間が数百人いた。


時には数千人いた。


自分が強いからだと思っていた。


違った。


自分を取り巻くものが強かったのだ。


それを全部剥ぎ取った黒田総一郎は。


いや。


カイル・ベルトランは。


筋力7のレベル1の人間に過ぎなかった。


ゴブリンが駆けてきた。


カイルは今度は立ち向かわなかった。


体を反転させた。


そして走った。


「くそっ!」


背後で鋭い鳴き声が上がった。


「キイイィィク!」


カイルは死に物狂いで走った。


木の枝が顔を打った。


根に足を取られそうになった。


息が急速に上がった。


二十四歳の体でも長く走る体力はなかった。


ステータスの体力8は伊達についていた数字ではなかった。


振り返った。


ゴブリンが追ってきていた。


「なぜ追ってくる!」


当然、答えはなかった。


「他にも食べ物はあるだろう!」


「キイク!」


「俺を食っても肉もないぞ!」


ゴブリンは説得されなかった。


カイルは歯を食いしばって走った。


政治家生活数十年。


これほど全力で走ったのがいつだったか記憶にもなかった。


選挙運動中も走るふりをするだけだった。


カメラが消えれば車に乗った。


だが今は。


走らなければ死ぬ。


足を止められなかった。


カイルは木々の間に体をねじ込んだ。


ゴブリンが追ってきた。


距離。


十歩。


いや。


七歩。


じりじりと縮まっていた。


カイルの頭が高速で回転した。


(戦えば負ける)


逃げても捕まる。


なら別の方法が必要だった。


周囲を見た。


丘。


岩。


木。


枯れた蔓。


何でも利用しなければならなかった。


その瞬間、前方に太い木の根が見えた。


カイルはわざとそちらへ走った。


そして直前で大きく跳び越えた。


背後で音がした。


「キイク!」


ドサッ!


カイルが振り返った。


ゴブリンが根に引っかかって転んでいた。


刃物が手から落ちた。


「……!」


好機だった。


カイルは一瞬迷った。


あの刃物を奪って殺すか?


相手は倒れている。


今なら可能かもしれない。


カイルが一歩近づいた。


ゴブリンが顔を上げた。


目が合った。


カイルは止まった。


奴の筋力12。


自分は7。


転んでも相手の方が強い。


そして何より。


自分は刃物をまともに握ったことすらなかった。


ステータス画面の文字が頭の中で閃いた。


【剣術:F】


黒田総一郎は生涯、自分の得意分野で戦ってきた。


相手の得意分野で正面からぶつかるのは愚か者のすることだった。


カイルはすぐに背を向けた。


「やめだ」


そして再び走った。


背後でゴブリンが怒りの鳴き声を上げた。


「キアアアッ!」


「なぜ怒る!」


カイルは走った。


どれくらい走っただろうか。


息が喉の奥まで詰まった。


胸が張り裂けそうだった。


足が重くなった。


視界が少しずつ揺れた。


(駄目だ)


止まれば捕まる。


カイルは歯を食いしばった。


死にたくなかった。


一度死んだ。


二度と経験したくなかった。


少なくとも。


これが何なのかも分からないまま死ぬわけにはいかなかった。


(総理大臣にもなれなかったのに)


なぜそんな考えが浮かんだのか自分でも分からなかった。


乾いた笑いが漏れそうになった。


その時、木々の間から光が見えた。


森が終わるようだった。


カイルの目つきが変わった。


「よし」


人がいるかもしれない。


道があるかもしれない。


何であれ今よりはましだった。


カイルは残った力を全て振り絞った。


背後でゴブリンの足音が近づいた。


一歩。


また一歩。


カイルは森の端に向かって走った。


そして茂みを突き抜けた。


日差しが目を打った。


カイルは手で目を覆いながらよろめいた。


広い野原だった。


遠くに畑が見えた。


柵。


小さな小屋。


そして。


人。


カイルの顔が初めて明るくなった。


「人がいる」


本当に人だった。


野原の一角で誰かが鍬を持っていた。


カイルはそちらへ手を振った。


「ここです!」


男が顔を上げた。


「助けてください!」


まさにその瞬間。


背後で鋭い鳴き声が上がった。


「キイイィィク!」


カイルが振り返った。


ゴブリンが森から飛び出してきていた。


錆びた刃を高く掲げたまま。


カイルとの距離はわずか数歩。


カイルの顔がこわばった。


政治力99。


元経済産業大臣。


衆議院議員四回。


総裁候補。


その経歴の全てのうち。


今すぐ自分の命を救えるものは何一つなかった。

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