死んだのに、名前が変わっていた
最初に感じたのは土の匂いだった。
湿っていた。
黒田総一郎は目を開けないまま眉をひそめた。
(病院か?)
違った。
病院で土の匂いがするはずがなかった。
耳元を風がかすめた。
木の葉が擦れ合う音。
遠くから聞こえる鳥の鳴き声。
そして、異様なほど冷たい空気。
黒田はゆっくりと目を開けた。
空が見えた。
高く青い空。
その下を木の枝が覆っていた。
「……何だ」
声が出た。
黒田はそのまま固まった。
おかしかった。
あまりにもおかしかった。
自分の声ではなかった。
かすれて低かった64歳の声ではなかった。
若かった。
黒田は急いで上半身を起こした。
瞬間、頭がくらついた。
「うっ」
手で地面をついた。
そして再び止まった。
手。
皺がなかった。
シミもなかった。
手の甲に浮き出ていた血管も薄かった。
指が長く滑らかだった。
「……」
黒田は自分の手をひっくり返してみた。
手のひら。
手の甲。
また手のひら。
どう見ても自分の手ではなかった。
心臓が速くなった。
彼は急いで顔を触った。
顎。
頬。
額。
肌が張っていた。
首の下を触った。
たるんでいた肉がなかった。
「待て」
黒田は立ち上がろうとした。
ふらっ。
足に力が入らなかった。
再び片膝を地面についた。
体は若いようなのに、妙に力が入らなかった。
その時、最後の記憶が蘇った。
地下駐車場。
タバコ。
古びたジャンパーを着た男。
閃いた刃。
熱かった腹。
赤くなった手。
『うちの子を返せ』
黒田の顔から血の気が引いた。
彼は慌てて腹を触った。
傷がなかった。
血もなかった。
服も違った。
黒いスーツでもなかった。
質の悪い布で作られた灰色のシャツ。
古びたズボン。
革紐で結んだ靴。
黒田は息を止めた。
「俺……死んだじゃないか」
言葉に出すと、さらにはっきりした。
確かに死んだ。
少なくとも生き残れるような状態ではなかった。
刃が腹を2度も刺した。
その後、意識も途切れた。
なのに。
生きていた。
それも、全く違う体で。
「夢か?」
黒田は自分の頬を強くつねった。
「痛っ」
痛かった。
馬鹿げたことだった。
夢の中でも痛みを感じるという話は聞いたことがあった。
彼は周囲を見回した。
森だった。
正確には、かなり深い森。
木々が異様なほど大きかった。
東京近郊の山で見かけるような木ではなかった。
幹一本を二人で抱えても足りないほどだった。
葉の間から差し込む日差しは明るかったが、森の下は暗かった。
黒田はポケットを探った。
何もなかった。
携帯電話。
財布。
車の鍵。
名刺。
何もない。
「勘弁してくれ」
彼は長く息を吐いた。
その時だった。
視界の端で何かが光った。
黒田が顔を向けた。
何もなかった。
「……?」
もう一度前を見ると、今度ははっきりした。
半透明の何かが目の前に浮かび上がった。
黒田は本能的に後ずさった。
するとそれも一緒についてきた。
「……何だ、これは」
青白い光を帯びた四角い窓。
文字があった。
黒田は数秒、ぼんやりと眺めた。
確かに初めて見る文字だった。
なのに、読めた。
ごく自然に。
【ステータス情報が有効化されます。】
黒田は目を細めた。
「ステータス……何?」
画面が切り替わった。
【個人ステータス】
名前:カイル・ベルトラン
種族:人間
年齢:24
Lv.1
黒田の目が名前で止まった。
「カイル……ベルトラン?」
初めて聞く名前だった。
口に出してもう一度読んでみた。
「カイル・ベルトラン」
妙な気分だった。
自分の名前とは思えなかった。
当然だった。
自分の名前は黒田総一郎だった。
衆議院議員、黒田総一郎。
元経済産業大臣、黒田総一郎。
数日前まで総裁候補だった、黒田総一郎。
「誰だ、これは」
当然、答えはなかった。
黒田はステータス画面を手で押しのけようとした。
指がそのまま画面を通り抜けた。
すると文字がさらに下に現れた。
【基礎能力】
筋力:7
体力:8
敏捷:9
感覚:11
魔力:0
黒田の眉がぴくりと動いた。
「魔力?」
彼はもう一度読んだ。
魔力。
「まさか」
初めて頭の中で、とんでもない可能性が一つ浮かんだ。
ファンタジー。
異世界。
転生。
転生。
そういう言葉たち。
黒田はこういうものが好きな人間ではなかった。
若い頃も漫画をほとんど読んだことがなかった。
政界で生きてきてからは、なおさらだった。
それでも、知ってはいた。
世の中にそういう小説やゲームがあるという程度は。
黒田はしばらくステータス画面を見つめてから、ふっと笑った。
「どうかしてるな」
死んだ。
別の体で目を覚ました。
魔力という能力値がある。
なのに自分の魔力は0だ。
「転生までさせておいて魔力0か?」
呆れを通り越して腹が立った。
黒田はさらに下を見た。
【戦闘適性】
剣術:F
槍術:F
弓術:F
格闘:F
魔法:F
黒田はしばらく言葉を失った。
そしてゆっくりと顔を上げた。
「……冗談だろう」
森は静かだった。
「何か一つくらい寄越すべきだろう」
当然、答えはなかった。
黒田は再びステータス画面を睨みつけた。
剣術F。
魔法F。
格闘F。
まともなものすらなく、全部最下級のように見えた。
黒田は舌打ちした。
「24歳の体だからって何になる」
政治家時代も運動を楽しむ人間ではなかった。
それでもゴルフはしていたし、健康診断の結果を管理するために個人トレーナーもつけていた。
なのにこの体は、若いだけで強そうには見えなかった。
さっき立ち上がろうとしてふらついた理由があった。
黒田はステータス画面を下にスクロールした。
そして止まった。
【特殊能力】
政治力:99
数秒間、何も言葉が出てこなかった。
黒田は数字をもう一度見た。
「……」
見間違いかと思って目をこすった。
そのままだった。
政治力:99。
黒田が虚しく笑った。
「これはまた、何でこんなに高いんだ」
笑いがもう少し大きくなった。
「死んでまで政治をやれということか」
呆れた。
一生それのために生きてきて。
それのために頂点に上り詰めて。
それのために転落した。
そして結局、それのせいで死んだと思っていた。
なのに、新しい人生で与えられる能力が政治力だった。
それも99。
「100じゃないのはなぜだ」
言ってから自分でも呆れて笑った。
だが笑いは長くは続かなかった。
ステータス画面の下に、また別の文字が現れた。
【保有スキル】
【観察 Lv.1】
黒田は目を細めた。
「観察?」
指を触れると説明が表示された。
【観察 Lv.1】
対象の基礎的な情報を確認できます。
情報の範囲は使用者の熟練度と対象のレベルによって変わります。
黒田は何度か読み返した。
「これだけか?」
答えはなかった。
政治力99。
剣術F。
魔法F。
そしてスキルは観察一つ。
黒田は地面にどさりと座り込んだ。
「大したものだな」
言葉ではそう言ったが、表情は全く感心した顔ではなかった。
これが現実だとしたら。
本当に自分が奇妙な世界に落ちたのだとしたら。
政治力が99だということに、何の意味があるのか。
政治には人が必要だ。
組織が必要だ。
金が必要だ。
少なくとも、話を聞いてくれる人間が必要だ。
今の自分には、何もなかった。
服一着。
着の身着のまま。
奇妙な森。
そして、名前も知らない若い肉体。
黒田はもう一度自分の名前を見た。
カイル・ベルトラン。
「……これが今の自分だっていうのか」
自分でも知らずに出た言葉だった。
返事の代わりに風が吹いた。
木の葉が揺れた。
黒田は立ち上がった。
今度はゆっくりと。
体のバランスを取ると、何とか立つことができた。
数歩歩いてみた。
若い体は確かに軽かった。
膝も痛くなかった。
腰も問題なかった。
息も切れなかった。
それはよかった。
「そうだな」
黒田は独り言を言った。
「死んだよりはマシだ」
死んだのに生き返った。
それだけでも儲けものだった。
総裁選は台無しになった。
政治人生も終わった。
なのに、人生そのものが新しく生まれた。
24歳。
全く違う世界。
誰も黒田総一郎を知らない場所。
ふと笑いが漏れた。
「悪くはないな」
過去がない。
検察もいない。
記者もいない。
藤堂修一もいない。
自分を刺した被害者もいない。
最初からやり直せる。
黒田は大きく息を吸い込んだ。
空気が澄んでいた。
東京では嗅いだことのない匂いだった。
土。
木。
草。
どこか遠くで水の流れる音も聞こえた。
黒田はゆっくりと周囲を見回した。
「まず人を探さないとな」
政治だろうと何だろうと。
人に会わなければならなかった。
食べ物も必要だった。
飲み水も必要だった。
今夜眠る場所も必要だった。
黒田は周囲にある小道のように見える場所へ向かって歩いた。
数歩も行かないうちに立ち止まった。
腹が鳴った。
ぐう。
「……」
黒田が腹を見下ろした。
また鳴った。
ぐう。
彼は顔をしかめた。
「政治力99が何になる」
腹はまた鳴いた。
「飯一食もないのに」
黒田。
いや。
カイル・ベルトランはまだ知らなかった。
この世界で、飢えよりも先に自分を訪れるものが何なのかを。
森のどこかで。
枝が折れる音がした。
ポキッ。
カイルが顔を上げた。
もう一度。
ポキッ。
今度は少し近かった。
そして、低く荒い息遣い。
フーーッ。
カイルの表情が強張った。
「……人ではなさそうだな」
茂みの向こう。
何かの影がゆっくりと動いた。




