味方に殺された
記者会見が終わってから10分。
黒田総一郎の携帯電話には、不在着信が37件表示されていた。
15分後には53件。
30分後には、画面上の数字を数えること自体が意味をなさなくなっていた。
「先生、党の最高顧問からお電話です」
「出ない」
「幹事長からも連絡が続いています」
「出ないと言っている」
黒田はソファに座ったまま、テレビ画面だけを見つめていた。
ニュースのテロップは休みなく変わり続けていた。
【藤堂修一・前秘書室長、黒田候補の違法政治資金疑惑を暴露】
【名義口座の資料を公開…検察の捜査は不可避】
【公認をめぐる金品授受疑惑も】
【黒田陣営「事実関係を確認中」】
つい先ほどまで彼の圧倒的優勢を語っていた放送局が、今では彼の政治生命が終わる可能性を分析していた。
黒田は鼻で笑った。
「もう葬式か」
誰も答えなかった。
会議室には、少し前まで20人を超える人間がいた。
今はわずか12人だった。
何人かは電話をすると言って外に出たまま戻らなかった。
何人かはそれぞれのメディア対応をすると言って別の部屋に移動した。
黒田はその理由を知っていた。
逃げているのだ。
政治とはもともとそういうものだった。
船が傾き始めると、誰よりも早く船長のそばにいた者たちが救命ボートを探す。
黒田は腹が立たなかった。
少なくとも、まだ。
むしろ頭は冷たく冴えていた。
「藤堂の資料の原本は確認できたか?」
政策室長が首を振った。
「まだです」
「あいつ一人で持っていたはずがないだろう」
「テレビ局3社と新聞社2社に、すでに一部の資料が渡っているそうです」
「検察は?」
「公式な立場はまだありません」
黒田が舌打ちした。
「公式な立場がないってことは、もう見てるってことだ」
政策室長は口をつぐんだ。
その言葉は正しかった。
黒田はテーブルの上の水のボトルを手に取った。
手は震えていなかった。
まだ止められる。
政治において重要なのは真実より時間だった。
どれほど大きな疑惑でも、選挙前に確定しなければそれでいい。
9日。
長いといえば長く、短いといえば短かった。
「反論文を出せ」
広報担当が尋ねた。
「どの方向で行きますか」
「政治工作だ」
「藤堂室長は19年の側近ですから、説得力が…」
「それがむしろいい」
黒田は広報担当を見た。
「近くにいたからこそ、より危険なんだ。個人的な恨みで資料を捏造したことにしろ」
「資料が実際に確認されれば…」
「それはその時考える」
広報担当はしばらく躊躇った。
黒田の声が低くなった。
「今我々がやるべきは真実を探すことじゃない」
部屋にいた人間たちが彼を見た。
「時間を稼ぐことだ」
沈黙。
黒田が水のボトルの蓋を閉めた。
「9日だけ耐えればいい」
その言葉が出た瞬間、何人かの表情が強張った。
黒田はそれを見ても気にしなかった。
むしろ不思議だった。
なぜあんな顔をする?
政治とはもともとこういうものだ。
選挙に勝ってから捜査を受ければいい。
総理大臣になれば状況は変わる。
今は無条件で耐えるしかなかった。
「支持率調査チームを呼べ」
「はい」
「メディア各社ごとに接触可能な人間を全部整理しろ。向井会長のほうにも連絡を入れろ」
政策室長が慎重に言った。
「先生、向井会長のほうから先に連絡がありました」
黒田が視線を向けた。
「何だって?」
「本日の懇談会への出席を取りやめると…」
黒田はしばらく黙った。
1時間前まで直接出席すると言っていた人間だった。
「理由は?」
「海外出張だそうです」
黒田が乾いた笑いを漏らした。
「海外は何が海外だ」
誰よりも早く権力の匂いを嗅ぎ分ける人間は、匂いが消える瞬間も誰よりも早く気づく。
黒田はその事実を誰よりもよく知っていた。
だからこそ、余計に気分が悪かった。
夜9時20分。
最初の録音が公開された。
黒田がある企業経営者と電話している内容だった。
――今度の工場はそちらの地域に持っていく絵がいいですよ。
――先生、代わりにお願いしていた件は…
――分かってます。公認審査は私が見ますから、心配しないで。
短い録音だった。
文脈を切り取れば、いくらでも違う解釈ができる。
黒田はそう思った。
「これは問題ない」
広報担当は何も言わなかった。
「なぜだ」
「先生、あの通話の後、実際にその企業の系列会社の役員が比例代表の公認を受けています」
「それが何の関係がある」
「メディアは関連付けて見るでしょう」
黒田はいらだたしげにソファの肘掛けを叩いた。
「関連付けて見てるだけで、実際に関連してるわけじゃないだろう」
広報担当の表情が少し変わった。
ごくわずかな変化だった。
だが黒田は政治家だった。
人の表情を読むことに慣れていた。
疑い。
いや。
距離を置こうとしている。
黒田はそれを見て、瞬間的に怒りがこみ上げた。
「お前も信じるのか?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ何の意味だ」
「今は国民がそう見る可能性があるという意味です」
黒田は数秒間、広報担当を睨みつけてから顔を背けた。
「国民は数日経てば忘れる」
そのときだった。
誰かが急いでドアを開けた。
「先生」
「また何だ」
「2つ目の資料が出ました」
「何だ」
「名義口座の内訳です」
会議室が再び静まり返った。
黒田は今度はすぐに画面を見なかった。
政策室長に尋ねた。
「いくらだ」
「報道によれば…3億円です」
黒田の唇が強張った。
「誰の名義だ」
「義弟の法人と、元秘書の家族名義の口座が混ざっています」
「それは選挙資金じゃない」
「今、メディアでは違法政治資金の可能性として…」
「可能性?」
黒田が声を荒げた。
「可能性だけで人を犯罪者にするのか」
誰も答えなかった。
テレビでは既にテロップが流れていた。
【黒田候補、名義口座疑惑…資金の流れを追跡】
【検察、資料の確保を検討】
黒田はリモコンを手に取り、投げつけた。
「頭のおかしい野郎が」
誰に向けた言葉なのか、本人にも分からなかった。
藤堂か。
メディアか。
検察か。
それともこの状況全体か。
そのとき携帯電話が鳴った。
最高顧問だった。
今度は出た。
「はい」
声が冷たかった。
――先生、今の状況は深刻です。
「分かっています」
――党の緊急会議が開かれました。
「それで?」
電話の向こうで沈黙。
黒田が目を細めた。
「何が言いたくて電話してきたんですか」
――まずは先生ご自身が直接説明されるべきかと。
「党が先に守るべきでしょう」
――今、党もまだ資料を見ていません。
「それで私を切り捨てると?」
――そういう意味ではありません。
黒田が嘲笑った。
「みんな同じように、そういう意味じゃないと言いながら、そういう意味で話すんですね」
最高顧問は何も言わなかった。
黒田はその沈黙がさらに苛立たしかった。
「私が支持率10パーセントでもこうしましたか」
――先生。
「47パーセントだったからここまで来られたんでしょう」
――今は感情的になっている場合ではありません。
「感情的?」
黒田の声がさらに低くなった。
「今、私が一番冷静です」
しばらくして通話が切れた。
黒田は電話を見下ろした。
最高顧問。
自分がその地位を作ってやった人間だった。
前回の党大会で黒田派閥が票を回さなければ、あの男は最高顧問にはなれなかった。
それなのに、今は電話の声からして違っていた。
『もう船を乗り換えるつもりか』
黒田は歯を食いしばった。
自分が総理大臣になれば。
その考えが自動的に浮かんだ。
その時にすべて片付ければいい。
まだ終わっていない。
夜11時40分。
3つ目の暴露。
今度は政治資金ではなかった。
女性だった。
黒田と長年関係を持っていたと主張する女性がテレビインタビューに登場した。
ホテルの出入り記録。
メッセージの一部。
贈り物の記録。
そして、別の女性の名前まで出てきた。
陣営の雰囲気はもはや沈黙に近かった。
黒田は画面を見ながら言った。
「合意の上での関係だった」
誰も聞いていないのに、先に言った。
「私が無理強いしたわけでもないし」
それでも誰も答えなかった。
「何だ」
黒田が周りを見回した。
「みんな、人を見るのは初めてか」
広報担当は目をそらした。
政策室長は書類だけを見ていた。
黒田はそれがさらに腹立たしかった。
「何だよ。私一人が女性と付き合ったのか?」
「先生」
「政治家の中で、こういうことがない奴が何人いると思ってるんだ」
誰かが静かに言った。
「今重要なのはそこではありません」
黒田が顔を向けた。
言ったのは若い随行秘書だった。
黒田は初めて見る人間のように彼を見つめた。
「何だと?」
随行秘書は口をつぐんだ。
黒田は乾いた笑いを漏らした。
「そうか」
少しして、また笑った。
「世の中もずいぶん正義感にあふれたな」
翌日午前。
黒田総一郎 31.4パーセント。
高梨誠一郎 48.6パーセント。
一晩で逆転していた。
黒田は支持率調査の数字を長い間見つめた。
理屈に合わなかった。
昨日まで自分が8.7ポイント差でリードしていた。
一晩。
たった一晩だった。
「調査サンプルの問題じゃないのか」
「3つの機関で似た結果が出ています」
「一晩で16パーセントも落ちるなんてあり得るか」
誰も答えなかった。
黒田はタブレットをテーブルに置いた。
「再調査をかけろ」
「先生…」
「かけろと言っている」
その日の午後。
党執行部は正式に黒田に候補辞退を要求した。
夕方には選対本部の委員の半数が辞任した。
夜には主要支援者たちが支援金の返還を求めた。
2日後、検察は名義口座と違法政治資金疑惑についての捜査に着手した。
3日後。
黒田総一郎は総裁候補を辞退した。
カメラの前で彼は頭を下げた。
「すべての疑惑について、法的手続きを通じて誠実に説明いたします」
フラッシュが焚かれた。
「国民の皆様にご心配をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます」
記者が叫んだ。
「容疑をお認めになるということですか」
「藤堂前室長の告発は事実ですか」
「不祥事について被害者の方々に謝罪するお気持ちはありませんか」
「違法な政治資金を受け取ったことはありますか」
黒田は顔を上げた。
その瞬間、初めて気づいた。
ほんの数日前まで自分を「総裁」と呼んでいた記者たちが、今は自分に向かって声を荒げている。
気分が悪かった。
一週間後。
黒田は自宅の書斎に一人で座っていた。
テレビはつけていなかった。
携帯電話の電源も切っていた。
数日前まで一日数百件の電話が鳴っていた機械だった。
今はつけたところで、記者と検察、弁護士からの連絡だけだった。
人々は驚くほど早く消えていった。
議員たち。
経営者たち。
学者たち。
記者たち。
何十年もの間、飯を食い、酒を飲み、ゴルフをし、家族の行事まで気にかけてくれた人間たち。
誰一人、連絡してこなかった。
黒田はグラスにウイスキーを注いだ。
そして初めて藤堂修一のことを考えた。
裏切り者。
その言葉しか浮かばなかった。
『19年も面倒を見てやったのに』
自分がどれだけ目をかけてやったか。
地元事務所の下っ端だった男を秘書官に引き上げてやり。
秘書室長にまでしてやった。
家を買うときは銀行まで紹介してやった。
子供の就職先まで世話してやった。
それなのに。
あいつが自分を終わらせた。
黒田がグラスを持ち上げた。
「この野郎」
一気に飲み干した。
そのとき、遠い記憶がひとつ蘇った。
数年前。
違法政治資金の問題が発覚しかけたことがあった。
資金の流れの末端には、黒田側と繋がる名義法人があった。
問題は、その法人の実務責任者が藤堂修一の実の弟だったことだ。
上からの指示に従って金を動かし、書類を処理した人間。
事件が検察まで上がれば、黒田側の中心人物たちが芋づる式に巻き込まれる恐れがあった。
誰かが線を切らなければならなかった。
そして黒田は、最も簡単なところで切った。
その日、藤堂は初めて黒田の前で膝をついた。
――先生。
黒田は書類から目も上げなかった。
――弟は言われた通りにしただけです。
――分かっている。
――なのになぜ、あいつが全部かぶらなきゃならないんですか。
――誰かが責任を取らなきゃならないからだ。
藤堂の顔が強張った。
――先生、弟の人生が終わります。
黒田はそこでようやく顔を上げた。
――数年だけ我慢しろと言え。
――先生。
――後で私が面倒を見てやる。
藤堂はしばらく何も言わなかった。
結局、弟はすべての責任を被った。
実刑を受けた。
それで終わりではなかった。
拘束と同時に勤めていた会社を解雇された。
出所したときには借金だけが残っていた。
妻との関係も壊れた。
結局、離婚したという報告を聞いたような気がした。
子供たちは学校を転校した。
しばらくの間、藤堂が甥や姪の学費と生活費まで代わりに払っていたという話も聞いた。
黒田はその事実を正確には覚えていなかった。
あの頃は処理すべきことが多すぎた。
大臣人事の問題。
党内の予備選挙。
企業の支援。
地元選挙区の予算。
弟一人の人生がどうなったかまで、ずっと記憶しておく余裕はなかった。
そして自分も約束を忘れた。
面倒を見てやるという約束。
記憶からすっかり消えていた。
黒田はグラスを置いた。
「それが原因だったのか」
少し考えた。
それから首を振った。
「だとしても」
その一件のために。
総裁選を台無しにするのか。
19年を共にした人間を?
黒田には理解できなかった。
いや。
理解したくなかった。
結局、裏切りは裏切りだった。
自分が何をしたかより。
藤堂が自分に何をしたかのほうが、はるかに重要だった。
そう考えるほうが楽だった。
1か月後。
黒田は検察の取り調べを終えて出てくるところだった。
取材陣を避けて地下駐車場のほうへ抜けた。
弁護士が横で言った。
「車がもうすぐ来ます」
「煙草を一本くれ」
「やめられたのでは?」
「今日だけだ」
弁護士はしばらく躊躇ってから煙草を差し出した。
黒田が火をつけた。
最初の一服を深く吸い込んだ。
「これも記事になるだろうな」
弁護士は笑わなかった。
黒田は苦く笑った。
そのとき誰かが近づいてきた。
50代くらいに見える男だった。
古びたジャンパー。
やつれた顔。
警備員が制止しようとしたが、男が叫んだ。
「黒田!」
黒田が振り返った。
初めて見る顔だった。
「誰だ」
男は答えなかった。
代わりに、数歩さらに近づいた。
弁護士が前に出た。
「あの、今近づかれては困ります」
男の目は黒田に固定されていた。
怒り。
いや。
それよりもっと深い何かだった。
黒田はその表情を知っていた。
政治をやってきて、数え切れないほど見た顔だった。
無念な人間の顔。
黒田は眉をひそめた。
「私はあんたを知っているか」
男が笑った。
奇妙な笑いだった。
「知らないだろうな」
黒田は煙草を指の間に挟んだまま男を見つめた。
「誰なんだ」
男が言った。
「あんたのせいで俺たちの家がどうなったかも知らないだろうな」
弁護士が再び止めようとした。
その瞬間、男の手がジャンパーの中に入った。
あまりに速かった。
警備員が動いた。
弁護士が叫んだ。
「止めろ!」
閃光。
黒田は最初、自分が刺されたことにも気づかなかった。
ただ腹が熱かった。
男が再び腕を動かした。
今度は痛みがはっきりした。
黒田が後ろによろめいた。
誰かが男に飛びかかった。
悲鳴。
罵声。
足音。
すべてが入り混じった。
黒田は地面に座り込んだ。
手で腹を押さえた。
手のひらが赤かった。
「先生!」
まだ自分を先生と呼ぶ人間がいた。
おかしかった。
総裁候補はすでに1か月以上前に終わっていた。
黒田は顔を上げた。
先ほど自分を刺した男が、警備員に押さえつけられながら泣いていた。
「うちの子を返せ!」
男が叫んだ。
「うちの子を返せと言ってるんだ!」
黒田には何のことか分からなかった。
数えきれない陳情。
数えきれない事業。
数えきれない人間。
誰の話なのか思い出せなかった。
男が泣きながら笑った。
「あんたは覚えてすらいないんだろう」
黒田の視界がかすんだ。
「あんたがサインを一つした、それだけでうちの家族は終わったんだ」
サイン。
何のサインだ。
黒田は思い出そうとした。
思い出せなかった。
男が最後に叫んだ。
「今度はあんたの番だ」
視界が揺れた。
天井が遠ざかっていく。
黒田は地面に横たわったまま考えた。
本当に死ぬのか。
こんな風に?
総理大臣になるはずだった自分が?
その瞬間にも、最初に浮かんだのは後悔ではなかった。
理不尽さだった。
『なぜ自分だけが』
自分が特別に悪いことをしたとは思っていなかった。
企業から金を受け取った政治家が自分だけか。
人事を頼まれた政治家が自分だけか。
女性と付き合った政治家が自分だけか。
人を切り捨てた政治家が自分だけか。
みんな、そうやって生きてきたはずだった。
自分はただ。
運が悪かっただけだ。
黒田の目が閉じた。
そして最後に、ひとつの考えが浮かんだ。
『藤堂修一』
あいつさえいなければ。
自分は今頃、総理大臣になっていたはずだった。
それが。
黒田総一郎の最後の考えだった。




