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総裁選投開票まで9日だった

挿絵(By みてみん)


第1話 総裁選投開票まで9日だった


自民党総裁選投開票まで、あと9日。

黒田総一郎は、次の総裁になるはずだった。

少なくとも、その日の午後6時までは。


「先生、出ました」

秘書がタブレットをテーブルの上に滑らせた。

画面には、たった今発表された党員・議員支持率調査の結果が映っていた。


黒田総一郎 47.8パーセント。

高梨誠一郎 39.1パーセント。

差は8.7ポイント。

誤差の範囲を論じる必要すらない数字だった。


黒田はソファに深く体を沈めたまま、画面を見下ろした。

驚きもしなかった。

口角だけが、ほんの少し上がった。


「前回より?」

「1.4ポイント上がりました」

「相手は?」

「0.6ポイント下がっています」


黒田はうなずいた。

予想どおりだった。


対立候補の高梨誠一郎は、テレビ討論で失言をした。

経済対策の数字を説明する際に間違え、その場面は一日中ニュースとネットを埋め尽くした。

黒田陣営はそれを見逃さなかった。

失言そのものは大したことではない。

重要なのは、人々にそれをどう受け取らせるかだった。


『準備不足の候補』


その言葉をメディアと支持者に繰り返し流した。

SNSには切り取られた映像が拡散した。

新聞の社説にも似たような表現が登場した。

2日で高梨の支持率は落ち込んだ。


政治とは、もともとそういうものだった。

事実より、印象が重要だった。


「東北は?」

「差はさらに広がりました」

「関西は」

「僅差ですが、こちらが上です」

「首都圏は?」

「東京で6.2ポイントのリードです」


黒田はそこでようやく笑みを浮かべた。

「終わったな」


会議室にいた者たちの表情が、一斉に明るくなった。

誰かが拍手をした。

すぐに他の者たちも続いた。


「おめでとうございます、先生」

「まだ選挙は終わっていない」


そう口では言いながら、黒田は手を振って制することさえ、まともにしなかった。

むしろゆっくりとネクタイを緩めた。


今日だけで、もう3回目の支持率調査だった。

すべてでリード。

地域別の調査も良く、無党派層も自分に傾いていた。

大きな不祥事さえなければ、この総裁選は事実上終わったも同然だった。


そして投開票まで9日というこの時点で、総裁候補に飛び出すような『大きな不祥事』というのは、たいてい既に身体検査の段階で出てくるはずのものだった。


黒田は、そうした不祥事を何十年も管理してきた。

今年で64。

衆議院議員当選4回。

元経済産業大臣。

党の国会対策委員長を務め、党内最大派閥を築き上げ、数え切れないほどの政治家の公認と落選に関与してきた。


初めて議員バッジをつけてから、もう20年前になる。

その間に、生き残れなかった政治家は数えきれないほどいた。

金で消えた者。

女性問題で消えた者。

失言で消えた者。

味方を見誤って消えた者。


黒田は、その全員を見てきた。

そして自分は生き残った。

生き残っただけではない。

ついにここまで上り詰めた。


総理大臣。

日本の政治家が到達できる、最も高い地位。

今はもう、手を伸ばせば届くところにあった。


「今夜の予定は?」

「中小企業経営者との懇談会のあと、テレビ出演があります」

「財界のほうの出席者リスト、もう一度確認しておいてくれ」

「はい」

「向井会長は?」

「来られます」

「さっきは来ないと言っていたろう」


秘書が笑った。

「たった今、直接連絡がありました」


黒田も笑った。

「現金な人だな」


先月まで、向井会長はどちらの候補を支持するか態度を決めていなかった。

大企業の会長らしく、両陣営に人を送っていた。

だが支持率の差が開き始めると、態度が変わった。

昨日は秘書室長から連絡があった。

今日は本人から直接電話が来た。

明日あたりには、食事に誘ってくるだろう。


黒田は、こうした変化に慣れていた。

権力はまだ手に入っていないのに、匂いだけは先に漂う。

そして人々は、その匂いを実に敏感に嗅ぎ分ける。


電話が鳴った。

黒田が画面を確認した。

最高顧問の城之内忠だった。

すぐに出た。


「はい、顧問」

――先生、調査を見ましたよ。

「見ました」

「雰囲気がいいですな。今日は他の重鎮たちも、皆同じことを言っていました」

「最後まで油断はできません」

――ふふ、先生の口からそんな言葉が出ると、かえって安心しますな。


黒田は笑いながら、二言三言を交わした。

電話を切るとすぐ、また電話が鳴った。

今度は元官房長官。

その次は金融グループの会長。

地方紙の社長。

現職議員。

大学の学長。


誰もがお祝いの言葉を口にした。

そのうちの半分は、当選したら何を頼むか、すでに頭の中で計算しているはずだった。

黒田もそれを分かっていた。

だから不快ではなかった。

むしろ気楽だった。


欲しいものがはっきりしている人間は、扱いやすい。

金が欲しい人間に、名誉を与える必要はない。

地位が欲しい人間に、金を与える必要もない。

人を動かすのは、思ったより単純だった。

その人間が何を望んでいるかさえ分かれば、それでよかった。


黒田は窓の外を見た。

永田町のビル群が、夕日に赤く染まっていた。


29歳で初めて政界に入った。

44歳で衆議院議員になった。

初めてバッジをつけたときは、本当に世の中を少しでも変えてみせようと思っていた気がする。

選挙区の古びた商店街を歩き回り、商人たちの話に耳を傾け、夜遅くまで陳情書を抱えていた時期もあった。

そんな時期があったということだけが、うっすらと記憶に残っていた。

いつから変わったのかは、覚えていなかった。

2期目のときか。

大臣になった後か。

それとも派閥を作り始めたときか。


大して重要なことではなかった。

結果として、彼はここまで来た。

政治とは、結果で語られるものだった。


携帯電話がまた鳴った。

今度は出なかった。


「誰だ」

「桜庭美咲議員です」

「あとでかけ直すと言っておいてくれ」

「はい」


黒田は席を立った。

「修一は」


一瞬、秘書室の職員の返事が遅れた。

黒田が振り返った。

「藤堂修一」

「あ……今日の午後から連絡が取れません」


黒田の眉が、ほんのわずかに動いた。

「連絡が取れない?」

「電話の電源が切れています」

「どこに行った」

「随行チームも把握していないそうです」


おかしかった。

藤堂修一は、連絡を絶つような人間ではなかった。

20年近く、黒田のそばにいた人間だ。

黒田が初当選のころから、ともに歩んできた。

選挙区事務所の床で一緒にカップ麺をすすり、朝の3時まで選挙戦略を練り、大臣の国会答弁の資料も一緒に作った。

黒田のスケジュールは、黒田本人よりも藤堂のほうが正確に把握しているほどだった。

何かが起きない限り、携帯の電源を切っておく理由がなかった。


「自宅は」

「確認します」

「家族にも連絡してみてくれ」

「はい」


黒田は再び腰を下ろした。

たいしたことではないと思った。

体調が悪いか、急な家庭の事情かもしれない。

一人と連絡が取れないくらいで、総裁選が覆るわけがない。


「先生」


陣営の広報担当が、慌ただしく会議室に入ってきた。

普段は落ち着いた人間だった。

だが、表情が強張っていた。


「何だ」

「少し、妙なことがあります」


黒田が広報担当を見た。

「言え」

「テレビ局の記者たちが、急に陣営のコメントを求めてきています」

「何のコメントだ」

「それが……」


広報担当が唇を一度舐めた。

黒田が苛立たしげな表情を見せた。

「言わんか」

「藤堂室長のことです」


会議室が静まり返った。

黒田の表情も変わらなかった。

「修一がどうした」

「今、国会内の記者会見場にいるという話があります」

「何?」


黒田が初めて、体を前に乗り出した。

「確認しました。記者たちにもメールが回っています」

「何の記者会見だ」


広報担当は、簡単には答えられなかった。

その表情を見て、黒田の内側で不快な感覚が湧き上がった。

長く政界を生きてきた人間だけが感じる感覚だった。

正確な理由は分からないが、流れが狂い始めているという感覚。


「テレビをつけろ」


壁にかけられた大型モニターがついた。

ニュースチャンネル。

ちょうど国会内の記者会見場を生中継していた。

画面の下にテロップが出ていた。


【総裁選候補の最側近、緊急記者会見へ】


黒田は何も言わなかった。

カメラの前には、まだ誰もいなかった。

数十人の記者が席を埋めていた。

ざわめきがスピーカーから漏れ聞こえてきた。


広報担当が慌てて携帯を操作した。

「室長に電話をかけ続けています」

「やめろ」

「先生?」

「やめろと言っている」


黒田は画面から目を離さなかった。

電話に出るような状況なら、そもそもこんなことにはなっていない。


やがて記者たちがざわついた。

カメラのフラッシュが焚かれた。

一人の男が記者会見場に入ってきた。

見慣れた顔だった。

藤堂修一。


黒田の顔から、初めて笑みが完全に消えた。


藤堂は黒いスーツを着ていた。

いつも黒田の数歩後ろを歩いていたのと、同じ姿だった。

ただ一つだけ違う点があった。

今日は、黒田がいなかった。


藤堂は一人で壇上に立った。

机の上に、分厚い書類のファイルを何冊か置いた。


記者たちの質問が飛んだ。

「藤堂室長! 会見の理由は何ですか」

「黒田候補に関することですか」

「陣営と調整済みなんですか」


藤堂は答えなかった。

マイクの高さを調整した。

その姿を見ながら、黒田は不思議なほど冷静だった。

まだ、その時点までは。


藤堂が口を開いた。

「皆さん、こんにちは」


記者会見場が静まった。


「私は、この19年間、黒田総一郎候補を支えてきた藤堂修一です」


黒田の隣で、誰かが息をのんだ。


藤堂は用意してきた原稿を一度見下ろした。

そして再びカメラを見た。


「私は本日、非常に重い気持ちでこの場に立っています」


黒田が鼻で笑った。

「笑わせるな」


そして誰も一緒に笑わなかった。


藤堂が続けた。

「私は長い間、黒田候補の政治活動を最も近い場所で見てきました」


カメラのフラッシュが連続して焚かれた。


「その過程で、私はしてはならないことを見てきましたし」


黒田の指が、ソファの肘掛けをゆっくりと叩き始めた。


「してはならないことに手を貸してきましたし」


指が止まった。


「時には、その仕事を直接処理したこともあります」


会議室の中で、誰かが悪態をついた。

黒田は、それでも画面だけを見つめていた。


藤堂が横に置いた書類ファイルに手を置いた。

「本日私が公開する資料には、企業との不適切な取引、違法な政治資金、公認をめぐる金品のやり取り、名義を偽った口座、および人事に関する口利きの内容が含まれています」


会議室全体が凍りついた。

「何だと」

誰かがつぶやいた。


黒田は何も言わなかった。

だが頭の中では、すでに何十通りもの計算が同時に回り始めていた。

資料の範囲。

藤堂が持っている原本。

誰が一緒に動いていたか。

検察。

メディア。

党。

対立候補。

守るべき場所と、切り捨てるべき人間。


そして藤堂が、次の一文を口にした。

「また、これまで外部に知られていなかった、黒田候補の私的な問題に関する資料も、あわせて公開いたします」


黒田の表情が、初めて強張った。

私的な問題。

その言葉が何を意味するか、彼には分かっていた。


会議室にいる全員が、黒田を見つめた。

彼はその視線を無視した。


画面の中の藤堂は、しばらく沈黙した。

そして言った。

「私は長い間、この人が総理大臣になることを支えたいと思っていました」


藤堂がカメラをまっすぐ見つめた。

まるで画面の向こうにいる黒田を、直接見ているかのように。


「しかし、もう申し上げなければならないと思います」


黒田の携帯電話が鳴り始めた。

1台。

2台。

3台。

陣営の人間たちの携帯電話も、一斉に鳴り出した。

ニュース速報が画面の下を流れていった。

だが、その部屋にいる誰も、電話を手に取ろうとはしなかった。


藤堂の最後の一言のせいだった。


「黒田総一郎候補は」


一瞬の沈黙。


「総理大臣になってはならない人間です」


黒田は、その言葉を聞きながら、何の返答もしなかった。


総裁選投開票まで。

残り9日の夜だった。

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