第2章:シナイ山の誓いと天の憲法
虚無の空間に、突如として荒々しい砂嵐の音が響き渡った。光の書物が次に開いたページには、見渡す限りの荒野と、天を突くようにそびえ立つ峻険な岩山――シナイ山が浮かび上がっていた。山頂は黒い雲に覆われ、激しい雷光が岩肌を白く炙り出している。「ふむ、次はモーセの十戒か」伊藤博文は、吹き付ける幻影の砂風を手で遮りながら、光の文字を凝視した。そこには、預言者モーセが神から十の絶対的な戒律を授かり、民を律しようとする歴史の転換点が描かれていた。「神が人間に与えた、最初の成文法というわけだな」織田信長はマントを翻し、雷鳴が轟く山頂の幻影を睨みつけた。「だが、気に入らぬ。最初の三つの戒律が、すべて『私以外の神を立ててはならない』『偶像を作ってはならない』『神の名をみだりに唱えてはならない』とはな。これでは法ではなく、ただの独裁者の自己満足だ。民を縛り、盲従させるための鎖に過ぎん」「おっしゃる通りです、信長公」伊藤は万年筆を握り直し、近代法治国家の基礎を築いた政治家としての血をたぎらせた。「法とは、支配者が己の権力を誇示するためのものではありません。民の権利を守り、社会の秩序を維持するためにこそ存在するべきです。神への絶対服従を強いる法など、近代国家の憲法には不要です」「ならば、すべて書き換えるぞ、伊藤」信長が不敵に笑う。「第一の戒律は、神への服従ではない。人間の『自由』の証明だ」伊藤の万年筆から、青い光の文字がシナイ山の岩肌に刻まれるようにして、聖書の記述を塗り替えていった。元の『わたしはあなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』という一節が、激しく明滅し、崩壊していく。『第一条。すべての人間は、生まれながらに自由であり、自らの意志によって生きる権利を有する。いかなる神、いかなる権力といえども、不当に人間の尊厳と自由を奪うことはできない』「よし!」信長が満足そうに頷いた。「次は、偶像崇拝の禁止とやらか。神の姿を形にして拝むなというが、余はむしろ、形あるものを重んじる。南蛮の地球儀も、鉄砲も、優れた技で作られたものはすべて美しい。人間が自らの手で創り出した価値を、神の嫉妬で禁じるなど言語道断だ」「では、そこは『所有権の確立』と『経済活動の自由』へと昇華させましょう」伊藤の筆がさらに加速する。『第二条。人間が自らの労働と知恵によって得た財産、および創り出した成果物は、個人の神聖なる権利として保護される。国家や他者は、これを不当に侵してはならない』「面白い。これで民は、神への供物ではなく、己の富のために働けるようになるな」信長は腕を組み、さらにページを進めさせた。後半の戒律には、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならないといった、人間社会の普遍的な道徳が並んでいる。「このあたりは、地上で人が生きていくための最低限の決まり事だ。生ぬるいが、残しておかねば国が乱れる。だが、ただ『~するな』と禁止するだけでは芸がない。法を破った者への裁きは、神の天罰ではなく、人間自身の法廷に委ねるべきだ」「さすがは信長公、裁判制度の分離(司法の独立)ですな」伊藤は微笑み、後半の戒律を現代的な刑法と民法の原則へと翻訳していった。神が直接人間を裁く不条理な世界から、人間が構築した「法の支配」によって秩序が保たれる世界へ。『第七条。何人も、法に基づかない手続きによって罪に問われ、罰せられることはない。罪の成否は、神の託宣ではなく、客観的な事実と公正なる裁きによってのみ決定される』最後の文字が書き込まれた瞬間、シナイ山を覆っていた暗雲が嘘のように晴れ渡った。山頂から降りてきたモーセの手にある石版は、神の文字ではなく、人間の理性が刻まれた「世界最初の憲法」へと変貌していた。それを見上げる民の目からも、神の怒りを恐れる怯えが消え、自らの手で社会を築くという強い覚悟の光が宿っていた。「これでまた一歩、歴史が人間のもとに近づいたな」信長は、腰の刀の柄を軽く叩きながら、満足げに虚空を見上げた。「次は、いよいよ王たちの時代か。人間どもが地上で国を奪い合う、余の得意な分野だな」「ええ、しかし油断は禁物です」伊藤は万年筆のキャップを締め、静かに告げた。「人間の自由を認めすぎた歴史が、どのような凄惨な戦争を引き起こすか。私はそれを知っています。次からは、人間の『欲望』をいかに制御するかの戦いになりますぞ」二人の前に、光の書物はさらに巨大な輝きを放ちながら、新たな頁をめくっていった。




