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第一章:虚無の玉座と天の書物

光もなく、影もない、ただ無限の灰色だけが広がる空間。そこは時間の概念が崩壊し、過去も未来もすべてが等価に凍結された、宇宙の「外側」であった。織田信長は、自らの胸に手を当てた。本能寺の炎の熱さは、すでに遠い記憶の彼方に消え去っていた。煤の匂いも、木々の爆ぜる音も、森蘭丸の悲痛な叫びも、ここには届かない。身に纏っているのは、生前最後に羽織っていた南蛮仕立ての漆黒のマントである。しかし、その布地からは繊維の感触が消え失せ、まるで凝固した闇そのものを羽織っているかのようだった。「ここが、果てか」信長の声は、空気のないはずの空間に驚くほど明瞭に響いた。彼が足を踏み出すと、足元から同心円状に淡い白光が広がり、すぐに灰色の虚無へと吸い込まれていった。天下布武の半ばで斃れた覇王の眼眸は、未だ衰えぬ野心と、己を陥れた運命への苛立ちで燃えていた。「天下を目前にして、神仏の悪戯に嵌められたかと思えば、このような奇妙な場所に引きずり出されるとはな。神という奴は、どれほど余を恐れているのだ」信長が自嘲気味に笑ったその時、数歩先の虚無から、一人の男が染み出すようにして姿を現した。その男は、信長とは全く異なる異様な風体。白髪を交えた髭を蓄え、立派な黒いフロックコートを着用し、胸元には見慣れぬ勲章がいくつも鈍い光を放っている。男は自らの腹部をさすっていた。そこには、ハルビンの駅舎で放たれた銃弾の、目に見えぬ傷跡がまだ生々しく残っているようだった。「おや……。ここは、どこだ。私は確かに、安重根に……」男――初代内閣総理大臣、伊藤博文は、困惑の表情を浮かべて周囲を見回した。そして、目の前に立つ、時代錯誤でありながら圧倒的な威圧感を放つ男の姿に目を留めた。南蛮マント、鋭い眼光、そして腰に差した二振りの刀。「これは……、夢か。それとも、歴史の幻影か。貴方は……まさか、織田右大臣殿か」伊藤は近代政治家としての冷静さを取り戻そうと、眼鏡の奥の目を細めた。信長は鼻で笑った。「右大臣などという、朝廷から与えられた古臭い肩書で余を呼ぶな。余は信長だ。お前は誰だ。その妙な衣服、そして余の国を、余の死後どれほど変えた後の人間だ」「やはり、織田信長公か……」伊藤は深く息を吐き、自らの帽子を軽く直した。「私の名は伊藤博文。貴方が本能寺で斃れてから、およそ三百年後の日本で、国の舵取りをしていた者です。内閣総理大臣という、言わば、現代の天下人ですな」「三百年後か」信長はその言葉を反芻し、楽しげに目を細めた。「面白い。余が作ろうとした新しい世の、遥か先を生きた男というわけか。その総理大臣とやらが、なぜ余と同じ場所にくすぶっている」二人が対峙する空間の、ちょうど中間の虚空が、突如として裂けた。まばゆい黄金の光が溢れ出し、そこから一冊の巨大な書物が厳かに浮上してきた。表紙は古びた羊皮紙のようでありながら、星々の輝きを内包した未知の鉱物で装飾されている。その書物が開かれると、数千、数万の言語が、文字の形をした光の群れとなって周囲の虚無を埋め尽くした。「これは……聖書か? いや、それ以上のものだ」伊藤は、かつてヨーロッパ留学時代に目にしたキリスト教の聖典を思い出した。しかし、この書物から放たれる圧倒的な「意志」は、人間が作った宗教の枠を完全に超えていた。書物のページから、声なき声が二人の脳裏に直接響き渡った。『時を超えし日本の指導者たちよ。汝らに、全人類の歴史の根底をなす「旧約聖書」の改訂を命じる。これまでの歴史は、神の独裁と人間の盲信によって血塗られてきた。汝らの冷徹なる意志と、近代の知性をもって、この書物を書き換え、新たなる人類の設計図を作れ。さすれば、汝らに再び現世での生と、望むがままの権力を与えん』信長と伊藤は、顔を見合わせた。「神の書物を書き換えるだと?」信長が不敵に笑う。「神仏を恐れぬ余に、ふさわしい仕事ではないか。比叡山を焼き、一向一揆を滅ぼした余が、今度は天の法そのものを焼き直すというわけだ」「お待ちくだされ、信長公」伊藤がそれを制した。「これは恐るべき罠、あるいは歴史の改変による破滅の引き金になりかねん。聖書は単なる宗教書ではない。西欧文明の根幹であり、世界の法と秩序の源泉だ。これを軽率にいじれば、人類そのものが消滅するかもしれない」「消滅するなら、それまでのこと」信長は迷うことなく、浮かび上がる光の書物へと歩みを進めた。「伊藤とやら、お前は近代の知性を持っていると言ったな。ならば余の力となれ。神の独裁を終わらせ、人が己の足で立つ歴史を、ここから創るのだ」こうして、戦国の覇王と近代の元勲による、前代未聞の「神の歴史」の改訂作業が始まった。第二章:創世記の破壊と再構築光の書物が提示したのは、すべての始まりである『創世記』のページだった。そこには、混沌から光が生まれ、神が六日間で世界を創り、七日目に休息したという記述が、生きた文字となって蠢いていた。「まずはここからだ」信長は太刀の柄に手をかけた。「神が世界を創ったという前提が気に入らん。なぜ世界は神のものでなければならぬ。世界は、それを切り拓く者のものだ」「信長公、創世記をすべて否定しては、我々が存在する大地そのものが消えてしまいます」伊藤は懐から万年筆を取り出し、インクのないそれを光のページに向けて構えた。「神の創造という枠組みは残しつつ、人間の『主体性』を最初から組み込むべきです。たとえば、エデンの園の物語を書き換えましょう」ページがめくれ、知恵の樹の実(禁断の果実)を前にしたアダムとエバの姿が、光の絵画のように浮かび上がった。蛇が女を惑わし、果実を食べさせ、結果として人間が楽園を追放される原罪の場面である。「神は、人間に知恵を持たせたくなかったのだ」信長が吐き捨てるように言った。「知恵を持たぬ民を羊のように飼い、己を崇めさせる。それは余が最も嫌った、旧き仏教勢力のやり口と同じだ。蛇の唆しなどいらぬ。人間は、自らの意志でその果実を喰らうべきだ」「同感ですな」伊藤の目が、政治家としての鋭さを帯びていく。「知恵を悪と定義するから、中世の暗黒時代が生まれた。知恵の獲得は、罪ではなく、人類の『独立宣言』であるべきです。信長公、ここを書き換えますぞ」伊藤が万年筆の先を光の文字に触れさせると、驚くべきことに、その近代の筆記具から青い光の文字が紡ぎ出され、元の聖書の記述を侵食し始めた。『神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べてよい。ただ、善悪を知る木からは取って食べるな。食べると死ぬからである」』という一節が、伊藤の筆によって書き換えられていく。『人間は、自らの内に秘められた理性に従い、神の制止を越えて善悪の木の果実を手に取った。それは神への反逆ではなく、人間が自立した個としての歩みを始めるための、最初の義務であった。神はこれを見て、人間の覚悟を認め、彼らを広大な荒野へと送り出した』「ふん、生ぬるい」信長が横から口を出した。「神が認めるなどという描写は不要だ。人間は神の楽園を『自ら捨てて出た』と書け。神に追放されたのではない。こちらから三行半を突きつけたのだと」「なるほど、主権がどちらにあるかを明確にするわけですな。面白い、そのように修正しましょう」伊藤が文言を改訂した瞬間、書物から激しい雷鳴のような音が響き渡り、エデンの園の幻影が崩壊した。追放され、涙を流していたアダムとエバの表情から絶望が消え、そこには自らの足で未知の荒野へと歩み出す、力強い人間の顔があった。「よし、次はカインとアベルだ」信長がページをめくった。兄カインが、神に自分の捧げ物が認められなかったことを妬み、弟アベルを殺害する、人類最初の殺人の物語である。「神の依怙贔屓えこひいきが原因で起きた兄弟喧嘩か。くだらん」信長は不快そうに顔を歪めた。「神が一方の供物を好み、他方を無視する。これこそが、地上のあらゆる不和と戦乱の元凶だ。神が不平等であるから、人間が争う。伊藤、ここを直せ。神はすべての供物を平等に受け取るか、あるいは、供物などという見返りを求める行為そのものを禁止しろ」「それは一理あります、信長公。しかし、人間の競争心や嫉妬を完全に消し去ることは、歴史のダイナミズムを失わせることにも繋がります」伊藤は顎を撫でながら、近代国家の法秩序を思い浮かべた。「カインの罪は、神の不条理によって引き起こされた。ならば、神の側を修正すべきです。『神は個人の優劣をつけず、各々の労苦を等しく尊んだ。しかし、カインは己の限界を他人のせいにし、暴力を振るった』と。つまり、罪の責任を神の気まぐれではなく、個人の法規範の逸脱に帰結させるのです」「ふむ、罪を個人のものとするか。信賞必罰の基本だな」信長は納得したように頷いた。「だが、カインがアベルを殺した後、神がカインに付けた『復讐を免れるための刻印』は外せ。罪を犯した者が保護されるなど、法が成り立たん。罪人は地を這い、自らの罪を雪ぐまで戦い続けねばならぬと書け」伊藤は信長の苛烈な実力主義に圧倒されつつも、それが近代法思想における「自己責任論」と「法の下の平等」に奇妙に合致していることに気づいた。伊藤は万年筆を走らせ、カインとアベルの物語を、神の不条理劇から「人間の法と道徳の始まり」の物語へと書き換えていった。書物の文字が青く書き換わるたびに、虚無の空間に確固たる「法」の気配が満ちていく。神の絶対的な気まぐれによって支配されていた世界が、人間の理性と法秩序によって統治される世界へと、その根底から変質し始めていた。第三章:バベルの塔と国家の誕生物語は進み、ノアの洪水を経て、人類がひとつの言語を持ち、天に届くほどの巨大な塔を築こうとした『バベルの塔』の場面に至った。元の聖書では、神は人間の高慢ヒュブリスを恐れ、その言語を混乱させて互いの言葉が通じないようにし、人々を世界各地に散らして塔の建設を断念させたとされている。「ここが最大の難所だな」伊藤博文は、そのページを見て深くため息をついた。近代日本を国際社会へと導き、外交の苦難を嫌というほど味わった彼にとって、言語の壁と民族の分断は、最も身近で深刻な問題だった。「神は、人間が団結して自らの領域に迫るのを恐れたのだ」信長は冷笑した。「どこまでも器の小さい神だ。人間が力を合わせ、天を突く城を築く。これほどの壮挙を、己の都合でへし折るとはな。余なら、バベルの塔を完成させる。そして、天の神を地上に引きずり落としてくれるわ」「信長公、熱くなられるな」伊藤は苦笑しながら、眼鏡を指で押し上げた。「しかし、言語をバラバラにして人類を分断した神の行為は、近代における『民族紛争』や『帝国主義の戦争』の直接の引き金となっています。もし、ここで人類の言語が統一されたままであったなら、世界はどれほど平和だったか」「いや、それは違うぞ、伊藤」信長は鋭い目で伊藤を睨みつけた。「言葉がひとつで、皆が同じ考えを持つ世界など、淀んだ水と同じだ。競い合う相手がいてこそ、技術は進歩し、国は豊かになる。天下布武とは、多様な国々を余の圧倒的な実力と新しい秩序によって一つにまとめるからこそ意味があったのだ。最初から一つであれば、そこには進歩も覇気もない」伊藤は目を見張った。戦国の覇王が、単なる破壊者ではなく、多様性の中における統一の価値を理解していることに驚いたのだ。「確かに、貴方のおっしゃる通りかもしれない」伊藤は自らの内閣総理大臣としての経験を振り返った。「すべての人間が同じ言語を話し、同じ文化を持っていれば、それは国家という概念の喪失を意味する。国家なき人類は、個人のアイデンティティを失い、巨大な全体主義の奴隷となるでしょう。神が言語を分けたのは悪意だったかもしれませんが、結果としてそれが『国家』と『民族の個性』を生み出した」「ならば、どう書き換える」信長が腕を組んだ。「神の呪いによって言葉が通じなくなった、という悲劇の文脈を消します」伊藤の万年筆が、光のページの上で踊るように動き始めた。『人間たちは、天に届く塔を築く中で気づいた。ひとつの目的のために盲目的に従うことは、自らの個性を殺すことであると。そこで彼らは、自らの意志で異なる言語を作り、異なる文化を携えて、世界の四方へと旅立った。それは神による分断ではなく、人類が多様な「国家」を形成し、互いに切磋琢磨して文明を豊かにするための、大いなる門出であった』「ほう、自ら旅立ったとするか」信長は満足そうに笑った。「そして、旅立った国々が互いに競い合い、いつか再び、真の実力を持った者がそれらを統治する秩序を作る。悪くない。バベルの塔は、挫折の象徴ではなく、人類の『拡散と発展の出発点』というわけだ」改訂が完了した瞬間、書物から凄まじい光の波動が放たれ、二人の身体を揺るがした。世界各地の異なる言語の文字が、互いに激しく衝突しながらも、美しいモザイク画のように調和していく。それは、神が与えた罰としての分断ではなく、人間が自ら選んだ豊饒なる多様性の証明であった。「信長公、我々は大変なことをしているのかもしれません」伊藤は、万年筆を持つ手が微かに震えているのに気づいた。「歴史の根源が、今、完全に書き換わっている。この先に待つ、モーセの十戒や、ダビデの王統がどう変化するか、予測がつきません」「恐れるな、総理大臣とやら」信長はマントを翻し、次のページを強く指差した。「神の作った歴史が血塗られていたのなら、余とお前の手で、これ以上ないほど強固で、合理的で、人間が自慢できる歴史にしてやればよい。次はどこだ? 奴隷の解放か? それとも、神の法を授かる場面か? どちらにせよ、余の天下布武の前に、書き換えられぬ文字など存在せぬ」二人の前で、旧約聖書はさらに激しく光を放ち、次なる預言者たちの時代へとページをめくり始めた。虚無の空間に、かすかに地上の風の音が響き始めていた。それは、書き換えられた新たな世界が、誕生の産声をあげようとしている予兆であった。(第一部・完)

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