第3章:サウルの苦悩と王権神授の打破
シナイ山の乾いた風が止むと、光の書物はさらに激しくページをめくった。次に現れたのは、広大なイスラエルの大地と、その中心で初代国王として君臨しながらも、神の預言者サムエルとの確執に狂っていくサウル王の姿だった。「ふむ、いよいよ王の誕生、国家の本格的な統治が始まる時代ですか」伊藤博文は、王冠を戴きながらも神の怒りに怯えるサウルの幻影を見つめ、静かに呟いた。「しかし、この時代の王権はあまりにも危うい。神が預言者を通じて王を選び、神の意に沿わなければ容赦なくその王座を奪う。これでは王は神の傀儡に過ぎず、国家の主権がどこにあるのか分からぬ」織田信長は、鼻で笑ってマントを翻した。「神が王を選ぶだと? 片腹痛いわ。王とは、己の実力と天下への意志によってのみ、その座を掴み取るものだ。神の気まぐれで据えられた王など、最初から泥の城に座っているようなもの。伊藤、この『王権神授』の欺瞞、余の目の前で叩き潰してくれよう」「同感です、信長公」伊藤は万年筆を構え、近代日本の立憲君主制を打ち立てた「明治憲法」の記憶を呼び覚ました。「王の権力は、神という目に見えぬ不条理な存在から与えられるものではない。それは、国家という枠組みと、そこに生きる民との『契約』によって成立すべきです。王もまた、法の下にある存在でなければなりません」元の聖書では、サウル王が神の命令(アマレク人の完全な滅ぼし)を完全に実行しなかった、すなわち「家畜の良きものを残した」という理由で、神から見捨てられる残酷な描写がなされていた。「家畜を惜しんで残しただけで、王の資格を剥奪し、一族もろとも滅ぼすとはな」信長が冷徹な眼光を放つ。「資源を有効に活用するのは、統治者として当然の智恵だ。それを『神への絶対服従を破った』として罪にする。これでは、国を豊かにする有能な者が排斥され、ただ盲従するだけの無能が上に立つことになる」「その通りです。ここを書き換えましょう」伊藤の万年筆から、青い光の文字が紡ぎ出され、サウルを糾弾する預言者サムエルの言葉を侵食していった。『預言者は言った。「神の言葉を聞け」と。しかし王サウルは答えた。「私は神の奴隷ではない。この国を預かる統治者として、民の利となる道を選ぶ。家畜の命を残したのは、我が軍の糧食とし、民の飢えを癒すためである。統治の正当性は、神の託宣ではなく、民をいかに豊かにし、国をいかに安んじるかによって証明されるのだ」』「良いぞ、伊藤!」信長が声を上げて笑った。「それでこそ王だ。神の言葉を伝えるだけの預言者ごときに、国の命運を左右されてたまるか」伊藤の改訂によって、聖書の文字が完全に書き換わった瞬間、虚無の空間に劇的な変化が起きた。狂気に陥るはずだったサウル王の瞳に、確固たる理性の光が戻った。彼は預言者の権威に屈することなく、自らの統治責任を全うすべく、胸を張って王座に座り直した。『サウルは神の呪いによって狂うことなく、国家の最高責任者として法を整備し、民の生活を安定させた。王の権力は天から降るものではなく、国家の法秩序によって規定されるものとなったのである』「これで、宗教が政治を支配する中世の暗黒を、最初から未然に防いだわけだな」伊藤は額の汗をぬぐいながら、満足げに微笑んだ。「さあ、信長公。サウルの次は、あの有名な『ダビデ王』の登場です。彼がこの新しい法の中で、どのようにして偉大な国を築くのか。見届けようではありませんか」「ふん、ダビデか。羊飼いから成り上がった男と聞く。余と同じく、実力で乱世を生き抜いた男のようだ。だが、その物語に甘さがあれば、余が容赦なく赤ペンを入れてやるわ」光の書物はさらに輝きを増し、竪琴を持つ若きダビデの幻影を映し出しながら、次のチャプターへと進んでいった。




