第10章:アハブ王の迷走と近代的信教の自由
イスラエル連邦共和国が外交の危機を脱し、経済的な繁栄を謳歌する中で、国内には新たな精神の亀裂が生じつつあった。光の書物が次に映し出したのは、北の主要都市を統治するアハブ王と、シドンから嫁いだその妃イゼベルの、贅を尽くした宮殿の幻影であった。元の聖書において、アハブ王は妃イゼベルに唆され、イスラエルの伝統的な神を捨ててカナンの豊穣神「バアル」を熱狂的に崇拝した。イゼベルは王権の力を笠に着て、本来の神の預言者たちを次々と弾圧し、虐殺していく。これに激怒した神は、大預言者エリヤを遣わし、イスラエルの地に三年にわたる凄惨な大干ばつをもたらす。これが、神の怒りによる凄まじい宗教破滅劇の全貌であった。「宮廷の私欲のために、特定の宗教を優遇し、他者を容赦なく弾圧するか」織田信長は、バアルの祭壇の前で狂信的な儀式に耽るアハブとイゼベルの幻影を冷徹に見下ろした。「実につまらぬ。余が比叡山や一向宗を討ったのは、彼らが天下の法を無視し、自らを神聖化して国を乱したからだ。しかし、彼らが信じる教えそのものを根絶やしにする気はなかった。安土城のふもとには、キリシタンの寺も、仏教の諸宗派も、互いに競い合うようにして置かせた。民が何を信じるかは、国の法を乱さぬ限りにおいて自由だ。王たる者が一つの神に狂い、国家の力で他の信徒を虐殺するなど、統治者として最も愚かな『内乱の種』を蒔いているに等しい」「全くもって同感です、信長公」伊藤博文もまた、宮廷の専横に激しい怒りを覚えていた。彼の脳裏には、明治維新直後、キリスト教の解禁をめぐって欧米列強から激しい圧力を受け、国家の近代化のために「精神の自由」をいかに法制化するかに苦心した記憶が鮮明に蘇っていた。大日本帝国憲法第28条に「信教の自由」を盛り込んだのは、国家の安寧を保つための不可欠な英断であった。「宗教の不条理な対立が、国家の機能を停止させ、干ばつという天災(実際には気候変動や治水の失敗)を招くまでの混乱を引き起こしている。これを救うには、王の個人的な改宗を迫るのではなく、国家の最高法典に『個人の精神の自立』を保障する条文を刻むしかありません。アハブの暴走を止め、預言者エリヤの狂信的な復讐劇をも未然に防ぐ、新たな法を打ち立てましょう」伊藤は万年筆を抜き、光のページに向けて青い理性のインクを力強く迸らせた。明治の先達たちが、欧米の近代思想を血肉化し、国民の権利を守るために創り出した二つの決定的な言葉が、今、古代の聖典の記述を完全に塗り替えていく。――「権利」(けんり)――「義務」(ぎむ)これらの近代法学の精髄が、神の呪いと宗教虐殺のページを侵食し、新たな歴史の骨組みを形作っていった。『王妃イゼベルがバアルの宗教を強制し、旧来の信徒を弾圧しようとした時、大預言者エリヤは山に籠って呪いをかけるのではなく、民の代表として王宮へと堂々と進み出た。エリヤはアハブ王に向かって、連邦の基本法を掲げて激しく弾劾した。「王よ、我が連邦の憲法を見忘れたか。すべての臣民は、国家の安寧秩序を乱さず、かつ臣民たるの義務を怠らない限りにおいて、自らが信じる神を拝む権利を等しく有する。王といえども、個人の信仰を理由に、民の生命や財産を脅かすことは断じて許されない」』伊藤の万年筆が最後の文を綴ると、聖書のページから血塗られた虐殺の幻影が急速に薄れていった。アハブ王は、エリヤが提示した「法と権利」の論理に圧倒され、己の宮廷が犯していた重大な憲法違反を認めざるを得なかった。イゼベルによる宗教警察は解体され、バアルの信徒も、本来の神の信徒も、互いの宗教的領分を守りながら共存する道を選んだ。さらに、元の歴史で三年間続いたとされる大干ばつの描写も、次のように書き換えられていった。『宗教的な対立が法によって解消されたため、国力を浪費する内戦は回避された。アハブ王とエリヤは協力し、干ばつに備えるための近代的な「大規模治水事業」と「備蓄制度」を連邦全土に導入した。天の雨を待って祈るのではなく、人間の知恵とインフラによって天災の被害を最小限に抑えたのである』書き換えが完了した瞬間、虚無の空間に心地よい涼風が吹き抜けた。幻影の中のイスラエル連邦共和国は、宗教的な熱狂から脱却し、多様な思想を包摂する「近代的な市民社会」の第一歩を踏み出していた。神の奇跡や呪いに右往左往する古代人の姿はそこになく、自らの権利と義務を自覚した自立的な人間たちの営みが、豊かに広がっていた。「素晴らしい」信長は腕を組み、豪快に笑った。「神を消すのではなく、神を民の懐に収めさせたわけだな。これで宗教の力は、国を滅ぼす牙から、民の心を豊かにする道具へと飼い慣らされた」「はい。信教の自由と、法の下の義務の確立。これこそが、近代国家が到達した最高の知恵の一つです」伊藤は万年筆を収め、眼鏡を拭きながら前方を鋭く見つめた。「しかし、国内の精神を安定させたのも束の間、歴史の書物はさらなる激動を用意しています。次なる頁には、あのバビロンの影――国家そのものが地球上から消滅しかねない、最大の悲劇『バビロン捕囚』の足音が聞こえてきます」光の書物は、地響きのような重低音を響かせながら、漆黒の煙を上げる巨大帝国の幻影を映し出し、次なるチャプターの頁を静かにめくり始めた。




