第五話 神の遣い(上)
侯爵令嬢ティアラの可愛がっている黒猫のアレクサンダーは、日中はティアラのそばで過ごし(ティアラと召使達と遊んでやっている)、夜のなるとムクリとティアラの枕元に置かれている籠の中から身を起こし、夜の散歩に出かける。
かつて、勇者であったときの記憶を持つ黒猫のアレクサンダーは、神に、猫に転生してさせてもらうことを願った一方、神からはその代償とばかりに、この世界での仕事を依頼されていた。
それは、この世界の神に願った人々の、その願いを、神に代わって叶えるという仕事だった。
勇者であることをやめ、猫の身になった今も、いまだ神の依頼を、人々の願いを叶えなければならないのかと、アレクサンダーはため息をつく。けれど、アレクサンダーとて分かっていた。
持てる者は持てぬ者を守らなければならない。
それは義務なのだ。
アレクサンダーは、ティアラの眠る部屋の扉をそっと開けて、屋敷の廊下に出る。絨毯の敷きつめられている長い廊下を、足音もさせずに歩いていく。眠るときには、ティアラはアレクサンダーの首からリボンを外してくれるから良かった。時々、そのリボンには小さな鈴が付けられる。歩く度にチリンチリンと音を立てるそれは、正直煩わしかった。ましてや、こっそりと屋敷を抜け出そうとしている中では、邪魔でしかない。
廊下に置かれているサイドテーブルの上の、立派な大きな花器の横にジャンプし、それからアレクサンダーは上方の窓に飛んだ。窓がうすく開いていて、子猫のアレクサンダーならスルリと抜け出すことが出来るのだ。
アレクサンダーは、うすく開いた窓を通り抜け、地面に飛び降りる。
猫の体は本当に軽く、飛び降りたことによる衝撃もない。
そして誰の注意も惹くことはない。
それでもアレクサンダーは屋敷から少し離れた場所から、魔法の力で“転移”した。
神からは、国で一番大きな神殿の、一番偉い人物に会うように言われていた。
この国で最も大きな神殿は、王都にある、大地の女神ウルスィーを奉るウルシアン神殿だった。屋敷の人々の会話の中で、国に神殿が幾つもあることはわかっていたし、夜になって一匹で都を徘徊するようになれば、一番大きな神殿のある場所もわかっていた。
都の路地の一つに、突如として姿を現わした黒い子猫は、ウルシアン神殿を目指してまっすぐに進んでいく。そして裏手から、そっと神殿の中へと忍び込んで、神官長のいるという部屋へと向かったのだった。
神官長のいるらしき部屋の前には、見張りもなく、アレクサンダーは内心ホッとしていた。
神殿に入ってからも、夜ということで神殿に仕える者達とすれ違うことはなかった。
おそらくここが、この神殿で一番偉い人物がいる部屋じゃないかと当たりをつけたアレクサンダーは、扉のノブを、魔法の力を使って回して、そしてその扉を、頭で押し開けた。
部屋の奥の椅子に座っていた人物が「誰ですか」と声を上げるのを聞いた。
アレクサンダーは「二ャア」と声をあげて、部屋の中に入った。
奥の椅子に座っていたのは、二十代半ばほどの、線の細い若者だった。顔立ちは整っている。淡い金髪の髪に、珍しい紫色の瞳をしている。アレクサンダーは内心(女みたいに綺麗な男だな)と思いながら、奥の椅子の方に近づいた。
部屋の中には、その男以外の姿は見えない。
「猫?」
おそらくこいつがこの神殿の神官長なんじゃないかと思いつつも、もし外れたら嫌だなとアレクサンダーは内心思っていた。
何故なら、今から自分は……
その神殿の神官長らしき男の前で、ちょこんと前足を揃えて座った黒猫は、薄暗い中でも綺麗に光るエメラルドの瞳を輝かせながら、男の声で言った。
「お前が、この神殿の一番偉い奴か。俺は、ウルスィーの遣いでやってきた」
と黒猫は口を開いて語り、綺麗な神官の男は、ガタンと椅子の音を立てて立ち上がり、後ろによろけていたのだった。




