第三話 記憶
子猫のアレクサンダーは、長椅子の上に座ったティアラの持った玩具に夢中だった。
長い棒の先に紐で付けられている小さな布製の魚は、メイドのリルのお手製で、ヒラヒラとした布が尾に付けられている。それをティアラが振り回すと、アレクサンダーはエメラルド色の目をキラキラと輝かせ、フーフー興奮して追いかけ回す。懸命に小さな魚を追いかけるアレクサンダーの様子が本当に可愛らしくて、ティアラもまた頬を赤くして猫のために小さな布製の魚を振り回していた。
まったく飽きることなく遊ぶことが出来る。
ティアラが少し疲れると、メイド達が「お代わりします!!」「今度は私がお代わりします!!」と進んで玩具の魚のついた棒を手にしてくれるのである。アレクサンダーは遊び相手には事欠かなかった。
今度もまたティアラがその玩具の小さな魚を、絨毯の上で引きずったところ、アレクサンダーはその小さな魚に向かって尻尾をピンと立たせて突進する。ところが、そのときアレクサンダーは勢い余って長椅子の木製の足部分に頭頂から突っ込んでいったのだった。
「!!」
驚いたティアラとメイド達が、長椅子の下で目を回している小さな黒猫のもとに行くと、黒猫はクタリと絨毯の上で頭を柱にぶつけた姿のまま気を失っており、それを見たティアラは真っ青な顔になって「アレクサンダーが死んじゃったわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と絶叫したような声を上げて大泣きしたのだった。
その声に驚いた父親のエルダー卿も駆け付けると、ティアラは涙で顔をくしゃくしゃにしたまま泣き続けている。慌てて医師が呼ばれた。医師から黒猫は頭をぶつけて昏倒しているだけだと言われた。周囲の人々に宥められ、それでも泣き続けているティアラは、アレクサンダーが目を覚ますまで絶対にそばから離れないと言い張っていたのだった。
柔らかな布の敷き詰められた、小さな籠の中に入れられたアレクサンダーは、特に薬を処方されることもなく、大人しく目を瞑って横になっている。力なくグッタリとしたアレクサンダーは、人形のようだった。その日は、ティアラも大泣きして興奮してしまったのか、早々に寝台に横になった。そしてアレクサンダーの入った籠も彼女のベットの上に置かれ、いつ黒猫が目を覚ましても、ティアラは自分がそれにすぐに気が付いてあげられるようにしていた。
その深夜、黒猫は突然目をカッと大きく開いた。
暗闇の中、エメラルドの瞳がキラキラと輝いている。
その黒猫は、頭を上げて、部屋の中を、周囲を見回す。
天蓋のついた大きな寝台、一人の子供のために用意された部屋とは思えぬほど大きな居室、立派な調度が壁際に並べられており、屋敷の中で一番陽の光が入る大きな窓からは、この侯爵家のよく手入れされた大きな庭園が見下ろせることを、猫は“猫の過去の記憶”から知っていた。
猫は自分の身体を見下ろした。
手触りの良い滑らかな毛並みは、飼い主のティアラとメイド達が毎日ブラッシングしている賜物だった。ツヤツヤと輝いている。
(見まごうことはない。猫だ)
そう。猫である。執事のウィルキンソンの家で生まれた子猫の一匹。やんちゃで健康で、侯爵家の令嬢に“猫かわいがり”されている猫である。
(約束は守られたようだな)
子猫は自分の小さな肉球の手をじっと見つめる。そしてワキワキと動かして、ニュッと小さな爪を出したりしてみる。
これまで子猫のアレクサンダーは、猫としての自我しかなかった。
しかし、長椅子の足に頭から激突した衝撃で、彼は“前世の記憶”を思い出したのだった。
(俺は、“勇者”だった)
それも、六つの世界の苦難を救ってきた“勇者の中の勇者”といえる存在。
そんな勇者の願いを神は聞き入れて、彼は今世の転生では、一匹の猫に転生した。
猫は籠の中からニュッと頭を覗かせて、寝台の上で横になっているティアラを見つめた。
侯爵令嬢のティアラ。子猫の飼い主である。
しばらくじっと小さな飼い主を見つめた後、子猫のアレクサンダーは独り言めいた。
「ニャムゥニャー……(まぁ、悪くないか)」
ティアラは子猫を溺愛している。ちょっと溺愛の度が激しすぎると思わないこともないが(どこへ行くにも一緒であり、贅沢にも子猫の首に宝石をぶら下げたり、飾り立てる)、悪くない飼い主である。
とりあえずもうひと眠りしようと、子猫は籠の中で丸くなった。
翌朝、目を覚ました子猫のアレクサンダーを見て、再び「良かった、アレクサンダーが目を覚ましたわぁぁぁぁぁ」と絶叫するような声を上げて、ティアラは喜び泣きをするのだった。




