第9話:故郷の味を思い出せない兵
月の初めは、国境の守備が入れ替わる。
砦にひと月籠もった隊が下りてきて、次の隊が上がっていく。その日は街の通りに人が増え、宿の窓が全部開き、橋のあたりが一日中うるさいのだと、ヘルタさんが教えてくれた。
その朝、レオハルト様はいつもより早く来た。
「今日は忙しい」
「では、すぐにお出しします」
湯はもう沸いていた。冷めるのを待つあいだ、彼は指で卓を二度叩いた。急かしているのではない。この人は待つとき、必ず二度叩いて、それきり動かない。
出した一杯を、彼は立ったまま飲んだ。飲んで、器を持ったまま少し止まった。
「……昨日より近い」
「はい。霧が晴れましたので」
「昨日は霧のせいだと言ったな」
「申しました」
「では、俺のせいではなかったのか」
問いの形をしていたが、答えを求めている声ではなかった。私は湯を足しながら、そうです、とだけ言った。
この人は三年のあいだ、何かが感じられないたびに、それを自分のせいにしてきたのだと思う。医者が七人、そう言って帰ったからだ。
彼は器を置いて出ていった。戸の外で、部下らしい声が二つ三つ、閣下、と呼ぶのが聞こえた。
「ねえ」
ニナが窓の下から顔を出した。さっきから外を見ていたらしい。
「辺境伯サマ、名前で呼んでる。全員」
「そのようですね」
「あたし、三人までしか覚えらんない。あ、四人目からは味で覚えてる」
「味で」
「肉屋のおっさんは血の味。パン屋のばあさんは灰の味」
覚え方としてはひどいが、外れてはいないのだろうと思った。
その日の午後、戸が開いて、若い兵が三人、押し合うようにして入ってきた。
正しくは、二人が一人を押していた。押された一人は肩の雪も払わないまま、卓の手前で止まってしまった。
「あの。……茶を、頼めますか」
「どうぞ、おかけください」
「いえ、俺は、その」
後ろの二人がにやにやしている。ニナが隅から冷たい目でそれを見て、腕を組んだ。
「なにこれ。罰当番?」
「ちがいます!」
「じゃあ座れば」
若い兵は、観念したように腰を下ろした。名をヨナスといい、十九だという。手が大きい。指の節がどれも太くて、まだ体のほうが手に追いついていない年頃だった。
私は湯を火にかけ、彼が喋り出すのを待った。待つのは仕事のうちだった。
「……ここ、味が分かるようになるって、聞いて」
「そういう店ではありません」
「ですよね」
「ですが、お話は伺います」
ヨナスさんは、しばらく卓の木目を見ていた。それから、ひどく小さな声で言った。
「思い出せないんです。母さんの、煮込みの味が」
外で仲間の二人が肘をつつき合うのをやめた。
「顔は覚えてます。声も。冬にどんな厚着してたかも。手紙も来ます、字は下手ですけど。……味だけ、抜けてて」
「いつからでしょう」
「三年、ここに来てるんで。たぶんそのあいだに、じわじわ」
「最後に召し上がったのは」
「三年前です」
私は火から鍋を下ろした。八十度まで落ちるのを、目で測った。
「ヨナスさん。人は味を思い出しているつもりで、たいてい匂いを思い出しております」
「匂い」
「舌が分かるのは、甘い、酸っぱい、しょっぱい、苦い。それくらいのものです。あとは全部、鼻の仕事です」
「じゃあ、俺、鼻が悪くなったんですか」
「いいえ。手がかりを失くしただけです」
私は彼の前に湯呑みを置き、まだ空のまま、指で縁をなぞった。
「煮込みそのものを思い出そうとなさっても、出てまいりません。出てくるのは、その周りにあったものです。——その台所には、何がありましたか」
ヨナスさんは、目を細めた。
「……鍋。竈。あと、母さんが薪を割ってました。外で」
「薪は何の木でしょう」
「知らないです。ただ、煙たかった。目が痛くて」
「窓は開いていましたか」
「開けてました。煙が出るんで。冬でも」
「では、寒かったでしょう」
「寒かったです。すごく。足の指が痛くて」
私は頷いて、葉を量った。
いつもの配合から渋みを抜き、代わりに、燻して乾かした葉をほんのひとつまみ落とす。湯は八十度ではなく、もう少し低く。湯気が高く立つように、器は浅くて薄いものを選んだ。冷たい手で持てば、すぐ冷える器だ。
湯を回し入れると、最初に立つのは葉の匂いではなかった。焦げの手前の、木が燃え尽きる少し前の匂い。それが薄い膜のように上がって、すぐに散る。散ったあとに、湿った土と、土の下で冬を越した根の甘さが残る。強くはない。強くしてはいけない。
匂いというものは、正面から差し出されると人は身構える。斜めから、通り過ぎるくらいの量で置いたときにだけ、記憶のほうが勝手に手を伸ばす。
冷たい手と、煙と、温い湯気。
その三つがそろえば、あとは本人がやる。私がやるのは、そこまでだった。
「どうぞ」
ヨナスさんは器を受け取り、両手で持って、顔を近づけた。
湯気が、彼の頬に当たった。
しばらく、彼は動かなかった。それから息を吸い、飲み、飲み込んで——器を卓に置いて、袖で顔をひと拭いした。
「……人参が、入ってた」
「はい」
「思い出した。人参と、あと、名前の分からない根っこ。母さん、あれを最後に入れるんです。もう火を止めたあとに」
彼はもう一度、袖で顔を拭った。仲間の二人は、そっぽを向いていた。
戸が開いたのは、そのときだった。
「ヨナス」
三人が同時に立ち上がって、椅子が派手な音を立てた。
「第三隊だな。母親は南の谷の織り手だ」
ヨナスさんの口が、半分開いたまま止まった。
「二年前、休暇の願いを出しただろう。雪で戻れなかった」
「……はい」
「今年は雪が早い。上げるなら来月だ。書け」
レオハルト様はそれだけ言って、卓に近づき、置いてあった器を一つ手に取った。ヨナスさんの飲みかけではなく、私が味を見るために置いた小さいほうだった。
彼は一口飲んで、置いた。
「俺には分からん」
ヨナスさんの顔から、血の気が引いた。
「か、閣下、あの」
「隠す事でもない。三年、何も感じん」
彼は淡々と言った。困っているのは言われた側だけで、言った本人はもう外套の裾を払っている。
「この店のものだけ、たまに分かる。今日のは分からん。俺のためのものではないからだろう」
そう言って、彼は出ていった。
兵たちが帰るとき、ヨナスさんは戸口で一度振り返った。
「あの。ひとつ、いいですか」
「はい」
「閣下は、俺たちの前では一度も『分からない』って言わないんです」
彼は言葉を選ぶように、少し黙った。
「道も、天気も、敵の数も。分からないときは、分からないなりに決めて、こっちだと言うんです。三年、ずっとそうでした」
「そうですか」
「今日、初めて聞きました」
戸が閉まって、雪が舞い込んで、床の上ですぐに消えた。
外の通りでは、まだ交代の隊が行き来していた。上がっていく者は荷が重く、下りてきた者は足が軽い。同じ道を、同じ人数が、反対向きに歩いている。それを一人ずつ名前で数えている人がいるのだと思うと、この土地の冬は少しだけ違って見えた。
ニナが黙って卓を拭き始めた。この子は、泣いた客が出ていったあとだけ、何も言わずに拭く。
卓には、空の器が二つ残っていた。ひとつはヨナスさんの。もうひとつは、この土地でいちばん分からないと言わない人が、分からない、と言って置いていったものだった。
明日の朝も、あの人はここへ来る。
来て、また言うだろうか。
お読みくださりありがとうございます。
今回のお客は、故郷の味を思い出せない兵です。
味覚が感じ取っているのは甘い・酸っぱい・しょっぱい・苦いくらいのもので、私たちが「味」と呼んでいるものの大半は匂いだ、という話は本当です。ですのでユーフェミアは煮込みを再現していません。彼女が再現したのは、煮込みの周りにあった台所のほうです。
次回、王都から茶葉の荷が届きます。ニナが一舐めして、こう言います——これ、舌が痺れる。




