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第8話:眠れない女将の、二杯目

朝の一杯は、決まった時刻に出る。


レオハルト様は日の出から一刻ののちに来る。外套の雪を払い、卓の同じ場所に座り、何も言わずに待つ。私はそのあいだに湯を沸かす。沸いてから、二百数える。


「今日は、少し変えました」


「どう変えた」


「葉を減らしました」


「減らすのか」


「はい。減らします」


彼は器を受け取って、飲んだ。飲み込んでから、いつものように、喉の奥のどこかを探す顔をした。


「……遠いな」


「遠い、とは」


「昨日は、もう少し近かった」


それ以上はうまく言えないらしく、彼は眉を寄せた。この人は茶の話になると言葉を探す。探して見つからないと不機嫌になる。不機嫌になるというのは、そこに何かがある証拠だった。


「濃さの話ではありません。今日は霧が出ております。霧の日は、香りが遠くなります」


「霧のせいか」


「半分は。もう半分は、閣下が昨日より眠っていらっしゃるからです」


「……なぜ分かる」


「目の下の色です」


流しのほうで、ニナが盛大に鼻を鳴らした。


「うわ、また高いやつ淹れてる」


「高くはありません。葉は半分です」


「じゃあ半分うまいの」


「倍おいしいはずです」


ニナは器を持ち上げ、鼻先で一度くるりと回してから口をつけた。つけて、妙な顔をした。


「……なんで薄いのに濃いの」


「それが答えです」


「答えになってない」


レオハルト様が低く息を吐いた。それが笑いなのだと分かるまでに、私はまだ少しかかる。


彼は空になった器を卓の中央に戻していく。三年のあいだ、誰の茶も断り続けてきた人の手つきだった。断ってきた人の手は、器を大事にする。



戸に札を掛けてから、七日が経っていた。


最初の三日は、誰も入ってこなかった。戸を細く開けて、湯気だけ見て、そのまま閉めていく。四日目に、そのうちの一人が入ってきた。荷馬車の御者だった。卓の端に座り、黙って一杯飲み、銅貨を一枚置いて出ていった。五日目には二人になった。


辺境の人は、噂を口では確かめない。足で確かめる。私はそれを、湯を沸かしながら覚えていった。


昼過ぎ、霧が上がった頃に、戸が開いた。


「ごめんくださいよ。ここが噂の茶屋かい」


背の高い女の人だった。腕まくりをしていて、手の甲に古い火傷の痕がある。台所に立つ人の手だった。


「橋の手前で宿をやってる。ヘルタってんだ」


「ユーフェミアと申します。おかけください」


近づくと、匂いで分かる事がある。この人からは三つの匂いがした。粉と、煙と、それから細い酸の匂い。粉は小麦、煙は竈。三つ目は、人が長く眠れずにいるときに立つ匂いだった。汗とは違う。乾いた紙を握り続けたあとの手のような、薄くて尖った匂い。


「あんた、王都から来たんだって」


「はい」


「じゃあ効くもんを持ってるだろ。眠れないんだよ」


私は湯を火にかけた。かけながら、彼女の顔を見た。白目が濁っている。まぶたが重い。それなのに、指先だけがせわしなく卓を叩いていた。


「いつからでしょう」


「二十日……いや、もっとかね。ひと月かも」


「お薬は」


「隣町の薬師に粉を貰った。効きゃしないよ。飲んだ日は朝まで頭が重くて、仕込みの手が止まる」


「朝は何時にお起きになります」


「四つ前。パンを仕込むからね」


「お休みになるのは」


「客が引けてから。夜半すぎさ」


「そのあいだ、何を召し上がりますか」


ヘルタさんは、少し考えてから答えた。


「茶だね。昼過ぎに濃いのを三杯。それで持たせてる。夜は酒を少し。眠るために」


私は湯の面を見ていた。細かい泡が底から立ち始めている。まだ早い。


昼に濃く淹れた一杯は、日が落ちてもまだ体の中に残っている。残っているのに、本人はとうに忘れている。忘れた頃がいちばん効いているというのが、この手のものの厄介なところだった。


そこへ夜の酒が蓋をする。蓋をされた眠りは深そうに見えて、実は浅い。夜半に一度浮かび上がって、それきり朝まで沈み直せない。ヘルタさんの目の下の色は、ちょうどその形をしていた。


「では、お薬はお出ししません」


「なんだい。あんたも駄目かい」


「時刻を変えていただきます」


私は指を三本立てた。


「ひとつ。昼の三杯を、お起きになってすぐの一杯に移してください。同じ量を、朝に。日が高くなってから飲んだものは、夜まで残ります」


「三杯を朝にかい。腹に来るよ」


「二杯で結構です。ふたつ。日が落ちてからは、湯だけになさってください。葉は入れません」


「味気ないねえ」


「みっつ。お休みになる前に、器に湯を注いで、葉を落として、飲まずに鼻先で三度お吸いください」


ヘルタさんは、私が冗談を言ったと思ったらしい。


「飲まないのかい」


「飲みません。嗅ぐだけです」


「そんなので眠れるもんかね」


「眠らせるのは私ではありません」


私は火から鍋を下ろした。


「毎晩、同じ香りを同じ時刻に嗅いでいますと、十日ほどで体のほうが先に覚えます。ああ、この匂いのあとは休むのだ、と。——薬より遅うございますが、こちらは効かなくなりません」


ヘルタさんは、しばらく黙って私を見ていた。それから、笑った。


「あんた、思ったより喋るね」


「香りの話だけです」



帰り際、私は小さな紙包みを渡した。中身は寝る前の三度のための葉で、量は指の先ほどしかない。ヘルタさんは包みの軽さに露骨な顔をしたが、何も言わずに袖へ入れた。



六日後の夕方、ヘルタさんはまた来た。


日の落ちるのが早い季節で、その時刻の茶房には赤い光が斜めに入る。卓の木目が浮き上がり、湯気だけが白く見える。ニナはその光が嫌いで、いつも背を向けて豆を選っていた。


戸を開けるなり、ヘルタさんは卓に銅貨を並べて、それから腰を下ろした。腰を下ろす動きが、前より深かった。


「四日目からだよ。ころっと落ちた」


「よろしゅうございました」


「あの湯気を吸ってるとね、こう、肩から先に落ちてくんだ。妙な感じさ」


「二杯目をお出ししましょうか」


「くれるのかい。ここ、まだ値段がないって聞いたけど」


「昨日、決めました」


ニナが横から口を出した。


「決めてないよ」


「決めました。今日から決まりました」


ヘルタさんが声を上げて笑った。宿の女将の笑い方だった。よく通って、店の隅まで届く。


二杯目を出した。夜に近い時刻なので、葉は入れず、湯だけにすると言ったら、それでいいと返ってきた。それでも器の底には、昼のうちに煎じておいた薄い色が沈めてある。香りだけが立って、体には残らない。私が持っている手のうちで、いちばん静かなものだった。


彼女は両手で器を包んで、湯気の上に少しだけ顔を伏せた。教えた通りに、三度吸ってから飲んだ。


「……あんた、ほんとに王都の人かい」


「そうです」


「大した所に生まれたもんだ。うちの人が生きてたら見せてやりたかったよ、こんな茶」


私は返事の代わりに、湯を足した。


ヘルタさんは器を置き、戸の外を一度うかがってから、声を落とした。閣下がいないのを確かめる目つきだった。


「……あんたね、閣下に毎朝出してるんだって」


「はい」


「あの方の事、街の連中は大事に思ってるよ。三年前の事があるからね」


「三年前」


「倒れなさっただろう。国境の砦で。あれもね、隣国の仕業だって話だったよ。うちの店にも兵隊がわんさか来て、隣国が、隣国が、って」


「王都でも、そう申しておりました」


「だろうね。誰もが言ってた。今でも言ってる」


ヘルタさんは銅貨をもう一枚置いて、立ち上がった。


「まあ、誰の仕業でも、あの方の舌は戻らないさ。……戻らないと思ってたよ、昨日までは」


戸が閉まった。外はもう暗く、雪を踏む音が橋のほうへ遠ざかっていった。その音が消えてからも、私はしばらく卓の前に立っていた。


隣国、と私は口の中で言ってみた。


言ってみて、それが自分の口によく馴染む事に気がついた。五年のあいだ、王都でも誰かがその言葉を言うたび、私は疑いもせずに頷いていたのだ。北の国境で辺境伯が倒れた。だから隣国。話はそこで終わり、次の話題に移った。誰も、その先を尋ねなかった。


三年前の春。あの頃、私は王都にいた。毎朝、決まった時刻に、決まった配合の茶を淹れていた。それだけの事だ。


それだけの事のはずなのに、私はその晩、母の帳面の春の頁を開いて、しばらく閉じられなかった。

お読みくださりありがとうございます。


第8話でした。ここから茶房に、少しずつお客が来ます。


この物語のユーフェミアは、悩みを解決しません。彼女がやるのは、その人がすでに持っているものの置き場所を変える事だけです。ヘルタさんの眠りを奪っていたのは、彼女が眠るために飲んでいた物のほうでした。


次回、国境から降りてきた若い兵が茶房に入ってきます。彼が思い出せないのは、故郷の煮込みの味です。

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