第7話:では、君が淹れてみろ
翌朝、戸を叩く音は三度だった。
この街の人は二度叩く。三度叩くのは王都の作法だ。
「アルテンフェルト嬢でいらっしゃいますか」
先頭の男が名乗った。フーゴ・レーマン。ドラクロワ侯爵家の家令補佐だという。外套の裾に雪の染みひとつない。宿から店まで、部下に道を掃かせて来たらしかった。
「お茶をお出しできます」
「結構です」
即答だった。
「長旅でお疲れでしょう」
「結構です。用件のみ申し上げます」
フーゴは卓の上に、革の筒を置いた。
「先代調茶師イレーネ・アルテンフェルトの帳面を、王家へお返しいただきたい」
私は筒を見た。中身は空だろう。持ち帰るための筒だ。
用意のいい話だと思った。彼らは断られる想定をしていない。断られない想定で北へ十日かけて来る人間は、たいてい、断られたときの言葉を持っていない。
「あれは母の私物です」
「王家の茶の配合が記されております。ならば王家の財です」
「記されているのは母の手順です。王家の茶は、私が五年かけて作り変えました。母の帳面のとおりに淹れても、あの茶にはなりません」
フーゴの目が、初めてまともに私を見た。
「……つまり、貴女の頭の中にある、と」
「そうなります」
「では、書き出していただきたい」
「お断りします」
「貴女は、王家に仕えた身でしょう」
「解かれました。壇上で、大勢の前で」
「それは……殿下のご判断です」
「はい。ですので、私はもう王家の調茶師ではありません。王家の財を預かる立場でもありません」
フーゴは息を吸い、言い方を変えた。
「では、理由を伺っても」
「書けないからです」
私は湯を火にかけた。かけながら、続けた。
「配合は数字ではありません。その日の葉と、その日の湿りと、飲む方の状態で変わります。書き写せるものであれば、五年も要りません」
フーゴが薄く笑った。笑いの形だけが丁寧だった。
「ミレーユ様は、こう仰せです。あの茶は、手順にすぎない、と」
私は何も言わなかった。
同じ意味の言葉を、私は断罪の壇上で一度聞いている。あのとき私は何も返さなかった。返さなかったことを、この一月あまり、一度も後悔していない。
ただ、今日は少しだけ違った。あのときは私ひとりの仕事の話だった。今は、この店の奥で葉を分けている子の仕事の話でもある。
ニナが匙を持つ手を止めて、こちらを見ていた。
「もし手順にすぎないのでしたら」
私は湯の面を見たまま言った。
「なぜ、わざわざ北まで取りにいらしたのですか」
フーゴの笑いが止まった。
戸が開いたのは、そのときだった。
雪を肩に積んだレオハルト様が、いつもの時刻に、いつもの座り方で卓についた。フーゴが振り返り、外套の紋を見て、わずかに姿勢を直した。
「これは、ヴァイスバルト辺境伯閣下でいらっしゃいますか。王都からまいりました——」
「聞いていた」
「は」
「戸の外から、全部だ」
レオハルト様は外套も脱がずに、私のほうへ顎を向けた。
「一杯くれ」
「かしこまりました」
「うわ、また高いやつ淹れてる」
壁際でニナが言った。誰に向けた声でもなかったが、フーゴの部下がぎょっとしてそちらを見た。
八十度で止める。匙で三度。六十数える。私が数えているあいだ、店の中の誰も口をきかなかった。ニナだけが壁際で、匙の柄を握ったまま、この男たちを順番に睨んでいた。
出した。彼は飲んだ。飲み込んで——止まった。
長かった。前より、あきらかに長かった。
「……熱い石だ」
低い声だった。
「日向に置いた石を、割った。中はまだ冷たい。そこの匂いだ。……乾いた草も、少し」
フーゴの顔から、丁寧さが剥がれ落ちた。
王都でも知られている。ヴァイスバルト辺境伯は三年前の毒で、何も感じない。舌も、鼻も。使者としてここへ来る前に、必ず耳に入れてきた話のはずだった。
「……閣下。今、なんと」
「石だと言った」
レオハルト様は器を置いた。丁寧に置いた。
それから、フーゴを見た。
「手順にすぎないのだろう。では、君が淹れてみろ」
フーゴは、断らなかった。
断れなかったのだと思う。彼は懐から折り畳んだ紙を出した。広げたそれには、湯の温度と、葉の匙数と、待つ数が書いてあった。私の手順だった。誰かが王城の調茶室の外から、五年かけて盗み見たものだ。
「……お借りします」
彼は鍋を火にかけた。手つきは悪くなかった。八十度で止めた。匙で三度。六十数えた。
そこまでは、私と同じだった。
そこから先が、書いていなかった。
紙には、どの葉をどれだけ混ぜるかが書かれていない。書けなかったのだと思う。調茶室の外から見ていた人間には、私が量を変えていることは見えても、何を見て変えているかまでは見えなかった。
だから彼は、いちばん高い葉を持ってきた。
王都で最も値の張る葉だ。金の縁の器に似合う葉。渋みが立ち、香りが厚く、濃く出るほど良いとされる葉。この北の水で、六十数えて出せば、こうなる。
高い葉ほど良いというのは、王都でだけ通じる話だった。ここの水は柔らかく、空気は冷えていて、湯の落ち方が違う。同じ手順を同じようになぞるほど、遠ざかる。
器が卓に並んだ。四つ。
誰も、手を伸ばさなかった。
ニナが指先を浸けて、舌に乗せた。乗せて、すぐに顔をしかめた。
「まずい」
「……なんだと」
「渋いだけ。喉になんも残んない」
「子供の舌に何が分かる」
「あたし、まずいのだけは外さない」
「……なに?」
「美味しいのは分かんないよ。でも、まずいのは絶対に当てる。だから今のは、まずい」
フーゴは自分で一口飲んだ。飲んで、飲み込んで、何も言えなくなった。
最後にレオハルト様が器を取り、一息に飲んだ。
「湯だ」
「……ほら、ご覧なさい。閣下には」
「同じだと言いたいのか」
レオハルト様は器を置いた。
「俺には、これは湯だ。だが、さっきのは石だった」
湯気が四つ、卓の上でゆっくりと形を崩していった。誰も飲めない茶の湯気は、飲まれる茶のそれより長く残るのだと、私はこのとき初めて知った。
フーゴは紙を畳んだ。畳む手が、少し遅かった。
「……失礼いたしました。持ち帰り、ミレーユ様にご報告いたします」
「そうしろ」
フーゴは戸口で一度立ち止まって、卓の器に目をやった。
「その茶器は、王家の窯のものとお見受けします。であれば——」
「三年前から俺の屋敷にある」
レオハルト様の声が、初めて低くなった。
グレーテが荷を抱えたまま、戸口の脇から静かに言った。
「閣下は三年のあいだ、一杯も召し上がりませんでした。それでも、器だけは毎朝洗わせておいででした。使わぬのなら仕舞えと、私は何度も申し上げました」
「グレーテ」
「はい。これで最後です」
フーゴは何も言わずに出ていった。馬の音が遠ざかるまで、店の中で誰も動かなかった。
窓の高いところから入った日が、卓の上の四つの器を照らしていた。湯気はもう上がっていない。ニナが窓を開けると、冷たい空気が入ってきて、店に残っていた重い香りを外へ押し出した。
私は器を下げた。下げながら、こう言った。
「閣下。今のは、私のためになさったことでしょうか」
「違う」
彼は立ち上がって、外套の雪を払った。
「うちの領で商いをしている店に、王都から手を出された。それだけだ」
「……そうですか」
「不服か」
「いいえ。助かりました」
「そう聞こえん」
「閣下がお決めになったのなら、それでよいのです。ただ、私はいずれ、自分の代金を自分で払える店にしたいと思っておりましたので」
「なら、そうしろ」
「よろしいのですか」
「うちの領の店だ。強いほうがいい」
彼は少しだけ間を置いてから、続けた。
「預かるのはこちらの都合だ。強くなるのは、君の勝手にしろ」
「グレーテ」
「はい」
「明日、街に触れを出せ」
彼は戸を開けた。開けたまま、こちらを見ずに言った。
「この茶房は、うちの領で預かる」
雪が斜めに降り込んできて、彼の背中の向こうで通りが白く煙っていた。
触れが出れば、この店は辺境伯領の預かりになる。守られるということだ。
同時に、王都から見れば、この店は辺境伯家そのものになる。
——次に誰かが来るとき、狙われるのは私ではない。
そのことに気づいたのは、彼の足音が聞こえなくなってからだった。
お読みくださりありがとうございます。
第7話でした。
この回で使者に淹れさせたのは、意地悪をさせたかったからではありません。手順は盗めても配合は盗めない、というのを説明で書くと三行で済んでしまって、まったく面白くないからです。実際に淹れさせて、誰も飲まない器が四つ並ぶところまでやると、説明が要らなくなります。
閣下が「うちの領で商いをしている店だ」と言い張った件については、家令のグレーテさんが帳面に何と書いたのか、私は知りません。たぶん日数と一緒に書いてあります。
ブックマークは、この店の卓が一つ増えるようなものです。よろしければ、席を取っておいてください。
さて、王都へ帰った使者は、ミレーユ様に何を報告するのでしょうか。次回から第二章です。この茶房に、街の人が一人ずつ来るようになります。最初のお客は、宿の女将です。三日、眠れていません。




