第6話:王都から手紙が来ない
月に二度、王都からの荷馬車が街に入る。
その日は朝から通りが騒がしい。橇が寄せられ、子供が走り、宿の前に樽が積まれる。荷馬車は郵袋も運んでくるので、街の人は用がなくても広場へ出てくる。
「見てきてあげようか」
ニナが匙で茶葉をならしながら言った。
「何をですか」
「手紙。あんたの」
「結構です」
「ふうん」
ニナは十数えるあいだ黙って、それから立ち上がって出ていった。戻ってきたときには、手ぶらだった。
「なかった」
「そうですか」
「宿の前で袋ひっくり返してたから、全部見た。アルテンフェルトって字、一個もなかった」
「ありがとうございます」
「怒らないんだ」
「怒る相手がおりません」
「王都に、友達いないの」
「おりません」
「あんた、五年もいたんでしょ」
「五年、調茶室におりました」
「それ、答えになってる?」
「なっておりませんね」
私は湯を落としながら答えた。
この街へ来て、三十二日になる。王都を出た日から数えれば、四十二日。父からは何もない。王城からも何もない。五年、毎朝あの城の茶を作っていた人間がいなくなったのに、誰一人として、それが誰の仕事だったのかを確かめには来なかった。
来なかったということが、私の仕事が見えていなかったことの、いちばん正確な証拠だった。
私は卓の紙を見た。代金の代わりに受け取ったものを書きつけている帳面だ。卵、薪、魚、麦、また卵。三十二日ぶんの、誰かの生活が並んでいる。
その裏には、別の数字も書いてあった。この街へ来てからの日数。私は毎朝、そこに一を足していた。
足しながら、何を測っていたのだろう。戻る場所からの距離を測っていたのだと思う。測ればいつか、戻れる日が計算できる気がしていた。
計算する必要が、もうない。
昼前に、荷馬車の行商人が店に寄った。
ハンネスという、樽のような体格の男だった。彼はニナが出した椅子に座るなり、卓に肘をついて、王都の話を始めた。街の人が茶より噂を買いに来るのだと、あとで知る。
荷馬車の日の店は、その意味で郵便受けの代わりになる。手紙は届かないが、話は届く。届く話は誰の宛名も書いていないので、聞いた者の勝手だ。
「奥さん、王都から来たんだって?」
「奥さんではありません」
「そりゃ失敬。……いやね、王都は今、面白いことになってるよ」
「面白い、とは」
「城のお茶がね、変わったんだと」
私は湯の面を見ていた。細かい泡が立ち始めている。まだ早い。
「ドラクロワのお嬢様が、茶の一切を仕切ることになったらしくてね。器を全部新しくして、金の縁のやつに揃えたって話だ。あれは見物らしいよ」
「配合は」
「はい?」
「器ではなく、中身のほうです」
ハンネスは首をひねった。
「そこまでは聞かないねえ。金の縁ってのはいいもんだよ、灯を入れると茶の色まで変わって見えるらしい」
「見えるでしょうね」
「あんた、感心しないね」
「器は、飲んだあとに残ります。茶は残りません。残らないほうを直すのが、私の仕事でしたので」
ハンネスは意味が分からないという顔をして、それから声を上げて笑った。笑われるのは慣れている。王都でも、私の話は途中から誰も聞かなかった。
「……ああ、そうだ、一つ思い出した。あのお嬢様、こう仰ったそうだよ。茶なんて、誰が淹れても同じでしょう、って。城の連中の前でね」
湯が鳴った。
私は火から鍋を外し、八十度まで下がるのを待った。待っているあいだ、指先が少し冷たくなっていた。
温度が下がる速さは、その日の空気で変わる。数えていれば分かる。分かるようになるまでに、私は二年かかった。二年かけて覚えたものを、あの方は一言で片づけた。
片づけられたこと自体は、もう痛くない。痛いのは、片づけたあとの城が、まだ何も困っていないように見えることだった。
「威勢がいいだろう」
「……ええ」
「まあ、そう言うだけのことはあるんじゃないの。実際、飲んでる連中は誰も文句を言わないって話だし」
「文句は出ません」
私は器を温めながら言った。
「毎朝出るものは、気づかれません。無くなってしばらく経ってから、別の形で出ます」
「別の形?」
「殿下の目の下の色が、そのうち変わります」
ハンネスは笑って、それから笑い方を少しだけ変えた。
「……あんた、そういや、変なこと言うね。実は宿の連中が言ってたんだけど、王都じゃ最近、眠れないって医者にかかる人が増えてるらしいよ。春先だからだって」
「春先ではありません」
言ってから、口を閉じた。
これ以上は私が言うことではない。少なくとも、まだ。
母の帳面には、鎮静に関わる頁が何枚かある。私はその配合を、五年かけて少しずつ薄くしてきた。薄くしていることは誰にも言わなかったし、誰にも気づかれなかった。
気づかれないまま止まったものが、どういう順番で表に出てくるか。私はその順番を、たぶんこの国で一人だけ知っている。
ハンネスは茶を二杯飲んで、代金に麦の袋を置いていった。
「奥さん、うまいね、これ」
「奥さんではありません」
「そりゃ失敬。……いや、本当にうまい。あんた、こんなとこで何やってんの」
私は答えなかった。答えの代わりに、二杯目を淹れた。
その日も、レオハルト様は来た。
ニナが茶葉の袋を抱えて奥へ逃げ、逃げた先から顔だけ出しているのが視界の端に見えた。
「今日は寒い」
「はい。昨日より三度ほど」
「三度、分かるのか」
「湯の下がり方で分かります」
彼は座った。私は葉を三度、匙で入れて、六十数えて出した。
飲んだ。飲み込んで、少し止まった。
「……青い」
「青、でございますか」
「刈ったばかりの草だ。日が当たっている側の。雨は降っていない。……いや、降ったあとではないな、これは。乾いている。乾いた草の、根に近いほうの匂いだ」
私は手を止めて聞いていた。
この人は、必要なことは三語で済ませる。ところが茶のことになると、こうして誰にも頼まれていない精度で喋る。しかも本人はそれを、まったく自覚していない。
「ずいぶん長く続きましたね」
「そうか」
「はい。二十ほど数えました」
「数えていたのか」
「数えます。それが私の仕事ですので」
「君は、いつも数えているな」
「はい」
「何を数えている」
「今日は、閣下が草の匂いを掴んでいらした長さを」
「……ほかには」
「申し上げません」
「なぜだ」
「数えているものを人に言うと、増えなくなりますので」
彼は器を置いた。丁寧に置いた。
戸口でグレーテが荷を下ろしながら、独り言のように言った。
「三十一日」
「え」
「閣下がこちらに寄られるようになって、三十一日です」
「グレーテ」
「帳面をつけております。屋敷の出入りはすべて」
レオハルト様は何も言わずに立ち上がり、何も言わずに出ていった。雪を踏む音が、いつもより速かった。
私は空の器を三つ、並べたまま眺めていた。
三十二日と、三十一日。
私はこの街に来てからの日数を数え、グレーテはあの人がここへ寄った日数を数えていた。同じ時間が、二人の帳面で別のものになっている。
私が測っていたのは、戻る場所からの距離だ。測っていればいつか、戻れる日が計算できる気がしていた。
紙を裏返して、その行に線を引いた。線を引いてから、余白に新しい列を作った。
その列に、何を数えるのかは、まだ書かなかった。書かなくても、明日また一が増えることは分かっていた。
日が傾いてから、通りの雪が固い音を立てた。
馬だった。三頭。街の橇馬とは足の運びが違う。窓から見ると、外套の背に紋章を入れた男たちが、宿の前で馬を降りているところだった。
ニナが私の横に並んで、鼻先を窓に寄せた。
「うわ、また高いやつ着てる」
紋には見覚えがあった。
扇を握った手の紋。ドラクロワ侯爵家のものだった。
お読みくださりありがとうございます。
第6話でした。この回は「何も届かない回」です。物語で一番書きにくいのは、事件が起きないことそのものを事件にする回だと思っています。届かない手紙は、届く手紙より雄弁なので。
さて、閣下ですが、寒さの話はひとことで終わらせて、草の匂いの話は七十文字ほど喋っていきました。本人にその自覚はありません。家令のグレーテさんは全部帳面につけています。この屋敷でいちばん強いのは、たぶんあの人です。
次回、宿に泊まった三人が、朝いちばんにこの店の戸を叩きます。彼らは王都から、頼みごとを一つ持ってきています。




