第5話:見習いは、舌が良すぎる
翌朝、ニナはパンを食べなかった。
正確には、一口だけ食べた。食べて、噛んで、しばらく口を動かして、それから水を飲んで、残りを卓に置いた。
「いらない」
「お口に合いませんでしたか」
「合わない」
私は自分の分をひと切れ食べてみた。麦の味と、少しの塩気。硬いが、街のパンとしてはまともなほうだ。
「どのあたりが」
「粉が古い。あと、焼いた鉄板に前の日の脂が残ってる。それと」
ニナはそこで言葉を切って、私の顔を見た。
「……いい。言ってもしょうがない」
「言ってください」
「言うと嫌がられる」
「私は嫌がりません」
ニナはしばらく黙っていた。それから、卓の下で足を組み替えるような音がした。
「粉の袋に、鼠が入ってた。たぶん先週」
私はパンを置いた。置いてから、置いたことがこの子に何と映るかを考えて、もう一度手に取って食べた。
「……食べるんだ」
「食べます。鼠は入っていません」
「入ってた」
「では、入っていた袋の粉が、この一斤の中でどのくらいの割合か、ニナさんは分かりますか」
「……三分の一より少ない」
「では大丈夫です」
ニナがぽかんとした顔をした。それから、笑うのを我慢するときの顔で下を向いた。
「ニナさん。ほかに、食べられるものはありますか」
「水」
「水以外で」
「……茹でた芋。皮をむいたやつ。あと、塩」
「では、今日の昼は芋にします」
「なんで」
「一緒に食べる人がいるほうが、私も作りますので」
調茶の仕事の半分は、こういう計算でできている。良いものだけを使えるなら誰も悩まない。悪いものがどれだけ混じっているかを量って、それでも出せるかどうかを決める。この街に王都の葉が来ない以上、これから私がやるのはそちらの仕事だ。
残りのパンを、私は結局ひとりで食べた。ニナは水を三杯飲んだ。
「街では、なんて言われていましたか」
聞いてから、聞き方が悪かったと思った。ニナは気にしていない様子で、棚の埃を布で押さえながら答えた。
「気味悪い」
「そうですか」
「孤児院にいたとき、みんなと同じもの食べられなくて。腐ってるって言ったら、あたしだけ嘘つきってことになって。三日後にみんな腹壊したけど、それでもあたしが悪いことになってた」
「なるでしょうね」
「なんで分かんの」
「先に気づいた人は、たいてい嘘つきになります。あとで正しかったと分かっても、順番は直りません」
ニナが布を止めた。
「あんた、そういうの、あった?」
「ありました」
それ以上は言わなかった。言えば、この子の話が私の話にすり替わる。同情は、たいていそうやって相手の場所を奪う。
ニナはしばらく布を動かしていた。埃を拭くというより、拭く動作で間を持たせているような手つきだった。
孤児院を八つで出て、六年。この街の誰も、この子の舌を仕事だと思わなかった。腐りかけを最初に見つける人間は、いつも空腹のまま嘘つきにされる。
私は棚から布袋を三つ下ろして、卓に並べた。中身を少しずつ、紙の上に広げる。似た色の葉が三種類。素人の目には区別がつかない。
「ニナさん。この三つ、どれが一番古いですか」
「触っていい?」
「どうぞ」
ニナは触らなかった。器に鼻を近づけるときと同じ仕草で、紙の上に顔を寄せ、順番に匂いを取った。左、右、真ん中。二度目は逆から。
「真ん中。……いや、真ん中と右が同じくらい古くて、右のほうが乾かし方が下手」
私は三つとも、袋を裏返して仕入れの札を見せた。
「合っています」
「まぐれ」
「三つ並べてまぐれで当たる確率は六分の一です。逆から嗅ぎ直したのは、確かめたかったからでしょう」
ニナは口を開けて、閉じた。
「ニナさん。それは病ではありません。才能です」
「……才能って、役に立つやつのことでしょ」
「役に立てる場所がなかっただけです」
私は匙を一本、彼女の前に置いた。
「今日から、ここの葉を分けていただけますか。給金は出せません。パンは半分です」
「あたし、美味しいって分かんないんだよ。まずいのは分かる」
「充分です。この仕事で最初に要るのは、まずいと言える舌です」
ニナは匙を見た。
匙は母のものだった。木箱に三本あったうちの一本で、柄の先が使い込まれて丸くなっている。母がどの街で削らせたものかは分からない。分からないまま、私はそれを十四のときから使ってきた。
ニナは匙を掴んで、袖に入れた。
「……返さないから」
「差し上げます」
その日の午前、ニナは葉を分けた。私が三つに分けろと言った山を、この子は五つに分けた。理由を聞くと、乾かした日の違いだと言った。数えたわけでもないのに、五つの山の重さはほとんど同じだった。
昼過ぎに、雪を踏む音がした。
ニナが顔を上げて、それから壁のほうへ二歩ばかり下がった。
「辺境伯サマ、今日も来てる。無言で。こわ」
「こわくありません」
「無言なのはこわいでしょ」
レオハルト様は戸口でその会話を全部聞いていた。聞いていたのに、何の反応もせずに卓に座った。ニナの読みは、その意味では正しかった。
レオハルト様が座ると、店の中の音が減る。この人は無駄な動きをしないので、衣ずれも、椅子の軋みも起こさない。三年、人に何も期待しない座り方を続けてきた体の使い方だと思う。
湯を落とし、八十度で止めて、六十数える。ニナが数えるのを口の中でなぞっているのが分かった。
数え終えたところで、壁際から声がした。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
「一番いいものをお出ししております」
「だと思った」
「どうぞ」
彼は器を持ち、飲み、飲み込んだ。
そして、動きが止まった。前と同じところで止まった。
「……石だ」
「石」
「乾いた石を、割ったときの。日の当たっていたほうの面の」
そこで彼の眉が寄った。掴んだものが手の中で溶けていく人の顔だった。
「消えた」
「はい」
「短くなっていないか。前より」
「短くなっています」
私は隠さなかった。
「その日の閣下によって、長さが変わります。長くする方法は、まだ分かりません」
彼はうなずいて、器を丁寧に置いた。それから、壁際のニナを初めて見た。
「その子は」
「ニナさんです。ここで葉を分けていただきます」
「舌がいいのか」
「良すぎるほどです」
「名は」
「……ニナ」
壁際から本人が答えた。答えてから、答えてしまった自分に驚いた顔をした。
「ニナ。飯は食えているか」
「食える。食えるけど、食べない」
「なぜだ」
「食べると、いろいろ分かるから」
レオハルト様は少しのあいだ黙っていた。
「……俺の逆だな」
そう言って、彼は立ち上がった。外套を直しながら、ニナのほうを見もせずに言った。
「腹が減ったら屋敷へ来い。グレーテに言っておく」
戸が閉まってから、ニナが小声で言った。
「なんであの人、あたしのこと聞いたの」
「さあ」
「ふうん」
ニナは匙の入った袖を、無意識に押さえていた。
その夜、私たちは階段下の櫃を開けた。
灯を近くに寄せてから、私は少し手を止めた。開ければ、この家に誰がいたのかが分かってしまうかもしれない。分かってしまえば、分からないままにしておく選択はもうできない。
ニナが横から灯を持ち上げた。
「開けないの」
「……開けます」
蝋の封は、火で温めた匙を当てるとすぐに剥がれた。蓋を上げると、内側に紙が張ってある。文字はない。ただ、その下に葉が半分ほど残っていた。
古い。それは私にも分かった。分かったが、それだけではなかった。
一種類ではない。少なくとも四種が混ぜてある。しかも、混ぜたあとに寝かせてある。売るために混ぜたのではなく、混ぜてからどう変わるかを見るために寝かせた櫃だ。
これは仕事の途中だ。誰かがこの家で、途中まで進めて、蓋をして出ていった。
「ニナさん。少しだけ」
ニナは指先に一つまみ取って、鼻先で回してから、舌に乗せた。噛まずに、長く置いていた。
「これ、古い。三年は寝てる」
「三年」
「うん。三年」
「間違いありませんか」
「間違えない。こういうのだけは」
私は自分の指先の葉を見た。
三年。この街で、その数字を私はもう一度聞いている。
お読みくださりありがとうございます。
味を感じる仕組みには個人差があって、同じものを食べても、人によって届く情報の量がまるで違うそうです。多すぎる側に生まれると、食事は情報の洪水になります。腐りかけを真っ先に検出できる代わりに、みんなで同じ鍋を囲めない。ニナはそちら側の子です。
こういう子を「実は才能でした」と持ち上げるのは簡単なのですが、大事なのは持ち上げる人が実務でそれを使うことだと思っています。ユーフェミアが最初に渡したのは励ましではなく、匙でした。
そして閣下は、この回で一度も名前を呼ばずに、あの子の飯の心配だけしていきました。次回、王都から荷馬車が来ます。ユーフェミア宛の手紙は、一通もありません。




