第4話:お代は結構です、と言えない事情
木箱の底に、硬貨が七枚あった。
昨日は九枚だった。数えるまでもなく分かっているのに、私は毎朝これを数える。数えれば減り方が分かる。減り方が分かれば、底をつく日も分かる。
——十四日。
パンと薪と油を今までどおり買った場合の話だ。茶葉は勘定に入れていない。入れると、七日になる。
戸が開いて、グレーテが藁の包みを提げて立っていた。
「卵です。三つ」
「……グレーテさん」
「昨日の分の代金だと、肉屋のヴィムが」
おとといは薪が一束届いた。その前は塩漬けの魚が二尾。硬貨は、この十日で一枚も来ていない。
「この土地では、みなさまこうなのでしょうか」
「こうです」
グレーテは包みを卓に置いた。
「銀貨が動くのは年に二度です。市の日と、税の日だけ」
「ふだんは」
「卵です」
「……卵では、茶葉が買えません」
「買えませんね」
「卵は、いくつまで貯められますか」
「三日で悪くなります」
「では、貯まりませんね」
「貯まりません」
グレーテは表情を変えずにそう言って、それから、ほんの少しだけ声を落とした。
「閣下に、申し上げましょうか」
「いいえ」
即答してしまってから、自分の声が硬かったことに気づいた。
「閣下は、代金を払うと仰ってくださっています。私が受け取っていないだけです」
「なぜ受け取らないのです」
理由はあった。ただ、うまく言葉にならなかった。
三年ぶりに何かを感じ取った一杯に、値をつけたくなかった。値をつけてしまえば、何も感じなかった日の一杯が、不良品になる。
「……値のつけ方が、まだ分からないのです」
グレーテは何も言わずに出ていった。
卓の上には卵が三つ。棚には昨日の薪と、一昨日の魚。私は紙を一枚出して、受け取ったものと日付を書き出した。値をつけられないのなら、せめて数だけは残しておく。
王都では、こういう帳面をつけたことがなかった。城の調茶室には葉が黙って届き、使った分は黙って補われた。あの補充を誰がやっていたのかを、私は五年のあいだ、一度も考えなかった。
考えずに済んでいた側の人間が、いま卵を数えている。
その日、彼は来た。来て、三杯飲んで、帰った。三杯とも、何も起きなかった。
「今日は、湯だ」
「はい」
「昨日と同じにやったのか」
「同じにやりました。温度も、待つ数も」
彼は器の底を覗き込むようにしてから、静かに置いた。置き方が丁寧だった。この十日、乱暴に置いたことが一度もない。
「出ない日があるのか」
「あります」
「なぜだ」
「存じません」
慰めを混ぜたくなかったので、そのまま言った。
「その日の閣下のお体と、その日の茶葉と、私の手には、合う日と合わない日があります。合わない日に無理をして濃くすると、次の日も出なくなります」
「では、無理はするな」
「閣下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」
「言え」
「出ない日も、代金はいただくことになります」
「当たり前だ」
「……よろしいのですか」
「出た日にだけ高く取られるほうが困る」
彼は立ち上がった。
「明日も、道の途中だ」
十日、同じ言葉で帰っていく。街の見回りに、この店の前を通らねばならない道順など、たぶん一つもない。
戸を閉めて、私は箒を持った。
店の奥はまだ手つかずだった。前の住人が残していった棚が壁に沿って並び、その裏に埃が層になっている。棚を一つずつ引き出しては床を掃き、掃きながら床板の匂いを嗅いだ。古い茶葉の匂いは、奥へ行くほど濃くなる。
棚の板は厚く、良い木だった。庇が落ちているのは手入れをやめたからで、作りそのものは丁寧だ。棚の高さも、腰で葉を広げる人間に合っている。
誰かがここで、長く仕事をしていた。
三つ目の棚を動かしたとき、背中で声がした。
「うわ、また高いやつ淹れてる」
振り返ると、戸口に子供が立っていた。
十四か、そこらだろうか。継ぎの当たった外套に細い首。頬に煤がついている。手には何も持っていないのに、鼻先だけがまっすぐこちらを向いていた。
「淹れておりませんが」
「淹れたでしょ、さっき。三杯」
「……なぜ分かるのですか」
「匂いで」
その子は、当たり前のことを言う顔で言った。
「表の道まで来てる。あんた、朝から三回やった。二回目が一番いい葉。三回目でちょっとケチった」
私は箒を持ったまま、しばらく動けなかった。
三杯目は、確かに葉を減らした。残りの量を考えたからだ。それを、表の道で。
「お名前は」
「ニナ」
「ニナさん。ここへは何のご用でしょう」
「掃除。手伝う。パンくれるなら」
「あいにく、今日のパンは半分しかありません」
「半分でいい。あと、卵あるでしょ」
「なぜ分かるのですか」
「藁の匂いがする。三つ」
「……焼きましょうか」
「焼いたのは食べない」
「お嫌いですか」
「焼くと、殻の匂いが移る」
「では、茹でます」
「茹でたのも移る」
「では、生で」
「それは無理」
ニナは断りもせず入ってきて、私が動かせなかった棚を、私より上手に動かした。慣れた手つきだった。
「あんた、王都から来たんだって」
「ええ」
「なんで来たの」
「私の仕事は誰がやっても同じだと言われましたので、違うところを探しに」
ニナは棚の裏を覗き込んだまま、鼻を鳴らした。
「ふうん。……ここ、前も茶屋だったんじゃない」
「なぜ」
「壁が匂う。奥のほうが濃い」
私は箒を止めた。この子は、私が三日かけて確かめたことを、入ってきて十数える間に言った。
「ニナさんは、いつからこの街に」
「知らない。物心ついたときにはいた」
「ご家族は」
「いない。孤児院は八つで出た。あそこ、飯が」
そこでニナは口を閉じた。閉じ方が、言い慣れた閉じ方だった。途中でやめることを何度も繰り返してきた人の、そういう止め方だ。
「飯が、なんでしょう」
「……なんでもない」
私はそれ以上聞かなかった。聞かないほうがいい種類の口の閉じ方というものがある。
日が傾くまでに、店の奥までは掃き終わった。ニナは埃を吸ってもむせなかったのに、私が油の壺を開けた瞬間だけ、両手で口を押さえて表へ出ていった。
日が落ちてから、雪を踏む音がした。
戸口に立っていたのはグレーテと、その後ろのレオハルト様だった。彼は無言で卓まで来ると、一枚の紙を置いた。角に領主の印が押されている。
「代金だ」
読んだ。この建物と、裏の土地の譲渡について書いてあった。読んでからもう一度読んだ。
「……十日ぶんの茶の代金としては、多すぎます」
「三年ぶんだ」
私は紙から目を上げられなかった。
「十日で、三年ぶんにはなりません」
「なった」
「……何が、でしょう」
「三年、俺は誰にも何も出さなかった。出す相手がいなかったからだ」
「閣下。私は治しておりません」
「治せとは言っていない」
彼は外套の雪を払った。
「毎朝あそこを通る理由が要る。理由がなくなると、家令がうるさい」
「私は一度も、道順のことを申し上げた覚えはございません」
「うるさいのはそこではない」
「では、どこでしょう」
グレーテは答えなかった。答える代わりに、卓の卵を三つ、棚の火から遠い側へ移した。この人は口では何ひとつ教えないのに、手のほうが全部教えてくる。
それから、聞こえるように息を吐いた。
「ユーフェミア様。ひとつ申し上げます」
「はい」
「閣下は三年のあいだ、屋敷の茶器を一つも下げさせませんでした。使わぬのなら仕舞えと私が申しましても」
レオハルト様が、初めてグレーテのほうを見た。それは見るというより、止めようとして間に合わなかった目だった。
「グレーテ」
「はい」
「行くぞ」
二人が出ていってから、私は卓の紙を見ていた。
背後でニナが、奥の壁を拳で叩いていた。とん、とん、と乾いた音が続いて、四度目だけ、音が違った。
「ここ、うしろ空いてる」
板を外すのに、二人がかりで半刻かかった。
釘ではなく、木栓で留めてあった。抜いても跡が残らない留め方だ。隠すために塞いだ壁ではない。しばらく開けないつもりで、いつでも開けられるように閉じた壁だった。
出てきたのは、階段の下の低い空間と、そこに押し込まれた木の櫃だった。
私の膝ほどの高さで、角に金具が打ってある。運ぶことを前提に作られた櫃だ。この家に据え置くための箱ではなく、どこかへ持っていくための箱だった。
埃を払うと、蓋の合わせ目に蝋が垂らしてある。封をした人がいる、ということだ。
ニナが櫃の上に屈み込んで、鼻先を蓋に寄せた。
「開ける?」
「いいえ。今日はもう暗いので」
「ふうん」
それから、ニナはもう一度だけ蓋に鼻を寄せた。
「……これ、変な匂いする」
お読みくださりありがとうございます。
この回で書きたかったのは「お金が回らない土地」です。辺境で商売を始める話は世に多いのですが、貨幣経済がそもそも薄い土地では、代金が卵や薪でやってきます。それ自体は親切なのに、茶葉は買えない。親切と生活が噛み合わないところに、この店は開かれます。
ちなみに、閣下が代金として建物を出したのは太っ腹だからではありません。あの人は「毎朝通る理由」を制度にしただけです。本人はそれを口説き文句だと思っていない。ここが一番厄介なところです。
そして、掃除を手伝いに来た子は名前より先に鼻を出してきました。次回、ニナは自分がなぜ街で気味悪がられてきたのかを話します。




